行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

左遷の地・潮汕の人々が崇める韓愈

2017-12-09 07:28:46 | 日記
潮州、汕頭を合わせた広東省の潮汕地区の方言は、中原からまずは福建に流れ着いた人々に由来することは、前回のブログで述べた。一方、潮汕には政治家が流刑される左遷の地として、中央の文化に触れるもう一つの顔がある。代表的な人物は、唐代の文人としても名高い韓愈(768―824)である。形式に流れる現代文を批判し、自由な古文にならうことを提唱した。

長安で高位に就いたが、直言がもとで二度にわたり広東省に左遷される。憂患意識を持った中国知識人の典型だ。現代社会において得難い人物であることが残念である。二度目の左遷は、仏教の隆盛に対し、儒教思想の人の道=仁義を重んじる立場から、当時の憲宗皇帝に対し、仏骨への信仰を諫めたことが逆鱗に触れた。流された潮州で、善政を行い、人々に崇められた。当地には彼の諡号である「文公」にちなんで、壮大な韓文公祠が建てられ、信仰の対象となっている。





当時、広東は文化の圏外にある、いわゆる島流しの地であった。韓愈は左遷される際、「左遷」による別れを惜しむ家族に以下の詩を呼んでいる。

一封(いっぷう) 朝に奏す 九重の天、
夕に潮州に貶(へん)せらる 路八千。
聖明の爲に弊事を除かんと欲し、
肯(あへ)て衰朽を將(もっ)て残年を惜しまんや。
雲は秦嶺に横たわって 家何(いづ)くにか在る、
雪は藍関(らんかん)を擁して 馬は前(すす)まず。
知る 汝が遠く来る 応(まさ)に意有るべし、
好く吾が骨を收めよ 瘴江(しょうこう)の辺(ほとり)。
(松枝茂夫編『中国名詞選』)

朝、役所に行って皇帝に仏骨を崇めることを諫める書を提出したところ、夕べには嶺南の地、潮州に島流しとなった。もっぱら天下のために行ったことである。このすでに衰えた身を惜しんで、余生を楽しもうなどとは思わない。雲は、北方の僻地を隔てる嶺南(終南山)にたなびいている。さて、我が家はどこにあるのだろうか。もはや見ることはできない。長安の南東にある関所の藍田関は大雪で、馬も前に進めないほどだ。お前がはるばる見送りにきた以上、私の覚悟はわかっているはずだ。私が死んだ後は、私の骨を疫病に侵された川のほとりにでも埋めてくれればよい。

瘴とは、熱帯にはやる疫病の意だ。潮州から汕頭に注ぐ川はかつて瘴江と呼ばれた。文化から閉ざされ、衛生状態も悪い亜熱帯の地は、生命の保障もない。だが所詮は詩の創作に用いられた比喩だった。韓愈は赴任後、ワニが住むとして地元住民から「鰐渓」と呼ばれ恐れられていた川からワニを退治した。その功績によって偉人となった。川はそれから韓江と名を変え、現在に至っている。

かつて化外と呼ばれた地で、日本文化と通底する古代の痕跡を探索するのも悪くない。