行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

ネット時代の軽薄を「犬儒」と皮肉る中国の学生

2017-01-09 07:24:46 | 日記
今の若いものは読書をしないと言われる。同じことを自分が学生だったときも聞いたような気がする。娯楽が増え、メディアとの接し方が多様化するにつれ、活字から遠ざかるのは必然だろう。若者の怠慢ではないのだから、いくら彼ら彼女らを責めても、言葉は届かない。社会がそうさせているとの認識がないと先に議論が進まない。せいぜい年寄りの愚痴で終わってしまうのがおちだ。

一学期が終了し、手紙をくれた学生が二人いた。携帯で、メールでと、形式は異なるが、真心を感じるには十分だ。手書きでないと気持ちが伝わらないというのは単なる個人の思い込みでしかない。無断欠席をしたことを詫びる言葉や、縁遠い存在だった教師を身近に感じられた喜び、将来の進路を一緒に考えてくれたことへの感謝などがいっぱいつづられていた。こんな文章もあった。

「先生は授業で日本の茶道の『一期一会』を話してくれたけれど、中国にも『天下没有不散的筵席』(この世に終わりのない宴席はない)ということわざがあります。別れる時がきても、悲しむ必要はないと慰めるための言葉です。先生に出会えたことは幸せでした」

一緒に山登りをしましょうと誘ってくれたグループがいた。男子学生とはビールを飲みながら、女子学生とはお茶を飲みながら人生の価値観を語り合った。お酒が好きだと話したことを覚えていて、元旦の朝、宿舎まで来てウイスキーグラスをプレゼントしてくれた学生がいた。みなが可愛く思える。一人も単位を落とすことなく学期を終えられたことをうれしく思う。

明るい表情の裏で、社会を見る目は覚めている。未熟ながら、大人たちが思うほど幼稚ではない。身近な小社会から大社会の軽薄さ、虚偽、欺瞞、功利主義、ご都合主義、形式主義をかぎとっている。それに憤慨しながらも、自分が無力である自覚もある。まだ自分を探しあぐねている苛立たしさ、もどかしさが、不公正と不公平に満ちた社会への反発を生む。

メディアを学ぶ学生たちだけに、インターネットを自在にこなし、当たり前のようにファイヤーウォールを乗り越えて海外のサイトを閲覧する。携帯をひと時も身みから離すことができない依存症にかかっているが、ネット空間が偽りと偽善にあふれていることも知っている。希望と期待、そして不安と不信の中で暮らしているのだ。

「権威を否定し、権力から身を置くようにみえ、その実は徹底した自己主義者で、機を見るに敏で、あるいは、唯々諾々として負け犬のようにしかふるまうことのできない凡庸な人々--それこそが犬儒(シニシズム)だ。今の世の中は犬儒の勝利である。だれもが言いたいこと、言うべきことに口をふさぎ、コピーのように決まり文句を繰り返しているだけではないのか。個人の価値はどこへいってしまったのか」

最後に期末課題の文章を提出した学生は、「犬儒の勝利」と題する分で切々と訴えてきた。彼は李白の詩「夢に天姥に遊ぶの吟 留別」の一節「安能摧眉折腰事權貴事權貴」(眉を伏せ、腰をかがめて、権勢にこびへつらうなどできるものか)を引用した。かつての文人はこんな気骨を持っていた。だがその後は、何が起きても黙して耐え忍ぶ老牛のような精神しか残っていない、という。今の社会はどう答えてあげればよいのか。

世間行樂亦如此   世間の行楽 亦(ま)た此(かく)の如し
古來萬事東流水   古来万事 東流の水
別君去兮何時還   君に別れて去らば 何れの時にか還らん
且放白鹿青崖間   且(しばら)く白鹿を放つ 青崖の間
須行即騎訪名山   須(すべか)らく行くべくんば 即ち騎して名山を(と)訪わん
安能摧眉折腰事權貴 安(いずく)んぞ能く 眉を摧(くだ)き腰を折って権貴に事(つか)え
使我不得開心顏   我をして心顏を開くを得ざらしめんや

世間の楽しみとは、この夢のようにはかないものだ、昔から万事は東流の水のように、ひとたび去れば戻ってこない。君と別れてしまえば、いつまた会えるかもしれない。ひとまずは白鹿を谷の間に放ち、時が来たらそれに乗って名山を訪ねよう。眉を伏せ、腰をかがめて、権勢にこびへつらい、自分を偽ることなど、どうしてこの私にできるだろうか。

若者の声を殺すような教育をしてはならない。それを見殺しにするような社会であってはならない。今の若者は読書をしないと批判する大人たちは、まず彼らの心の声をしっかりと受け止めるべきだ。