行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「独を慎む」という境地を忘れた人々が犯す過ち

2017-01-02 23:24:05 | 日記
ある事件の話を聞いて考えた。人間はどうしてこうも愚かで、浅ましい、醜いことを行いうるのだろう。思い浮かんだのは次の言葉だ。

「君子はその独を慎む」

独は「どく」と読んでも、「ひとり」と読み下すこともできる。儒教の書『大学』『中庸』にこの言葉がある。『中庸』は冒頭に出てくるキーワードだ。朱子が『大学』を解説した『大学章句』には、この言葉の後に、有名な「小人閑居して不善をなす(凡人は暇になるとよくないことをする)」の一節が続く。

よくある解釈は、「徳のある人は、たとえ人が見ていなくても、言動を慎むものだ。自分をごまかしてはいけない」だ。徳のないものは真実をごまかして、自分の落ち度を取り繕い、権力にこびへつらう奴隷根性を発揮し、片時も心の休まることがない。そして人目がなくなった途端、悪事の限りを尽くす。『大学』は「人々がその悪事を見抜くことは、その肺や肝臓を見通すほど鋭い」といい、『中庸』は「隠れているものほどわかりやすいものはなく、些細なことほど露見しやすい」といっている。

しょせんは「天網恢恢疎にして漏らさず」、いずれ真理と正義は明らかになるのが天の定めなのだ。

恥を捨て、惧れを忘れたものには必ず天罰が下される。よこしまな心をもって人を貶め、人を欺き、人を侮ったものは、逃れることのできない責めを負うことになる。これは時空を超えて問われる人の徳だ。

「君子はその独を慎む」

「慎独(しんどく)」ともいわれる人のあり方について、私は別の解釈をしたい。「慎其独(その独を慎む)」とは、「独=ひとり」において「慎む=沈思黙考する」ことだと読み取る。沈黙の時間、空白の空間の中で、孤独と向き合い、思考の糸を手繰り寄せる。それは道徳の世界からも解き放たれた、人間本来の姿ではないのか。あるのは善悪でも、是非でもない。行き着く先には、思考をも不要とする美の境地がある。

陶淵明が『帰去来の辞』で詠んでいる。

善萬物之得時 万物の時を得たるを善(よ)みして、
感吾生之行休 吾が生の行くゆく休するを感ず。

万物は自然の移ろいにしたがってふさわしい美を誇る。それを感じる喜びのなかに自分の生涯も融和していく。最後は、

樂夫天命復奚疑 夫の天命を楽しみて 復た奚(なに)をか疑わん。

と終わる。無一物のまま天命を楽しむ境地に至れば、何も疑いや雑念の入り込む余地はない。あるがままの「独を慎む」がここに現れる。美こそごまかしのきかない真実を映し出す。審美の根を持たない徳はもろい。不道徳な行いの裏には必ず、醜い心が横たわっているに違いないからだ。