行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

魯迅作『藤野先生』の初稿で「吾師藤野」が消されたわけは?

2016-06-21 22:12:11 | 日記
旧知の福山市日中友好協会会長、佐藤明久氏から本が届いた。上海魯迅記念館編の『中国現代作家手稿及文献国際学術研討会論文集』(上海文化出版社)。2014年8月に行われた学術シンポジウムをまとめたものだ。主として魯迅の直筆原稿を通じた魯迅研究の成果である。





佐藤氏は上海の内山書店で働いていた児島亨氏の三男で、上海魯迅記念館研究員の肩書も持つ。その主要な実績が同文集に含まれている。魯迅が、仙台で医学を学んだ恩師の思い出を振り返った随筆『藤野先生』を書いた際、原稿用紙にはタイトルの部分が黒く塗りつぶされ、「藤野先生」と書かれていた。削られた文字が「吾師藤野」であることを突き止め2011年9月25日、発表したのが佐藤氏だ。



この作業にはもう一人、重要な人物がいる。特殊な撮影方法で解析に協力した魯迅博物館(北京)の専属カメラマン、田中政道氏。田中氏は、魯迅の息子、周海嬰氏の長女、周寧氏を妻に持つ。私は佐藤、田中両氏とも懇意にしているせいもあり、『藤野先生』タイトル問題については奇縁を感じている。

同論文で佐藤氏が指摘しているが、タイトル塗りつぶしについて、日本では当初、ほとんど注目されなかった。中国で反響があり、それがネットで日本に返ってきた、ということだ。興味深い日中情報伝達の現状である。魯迅は中国では何といっても近現代を代表する作家であり、もともと文字を非常に重んじる国でもあるので、大きな反響にはうなづける。内山完造をはじめ日本人との交遊も深いので、それが海を越えた土台にあるのだろう。

「吾師藤野」だけのタイトルはあり得ないので、オリジナルは「吾師藤野先生」だった可能性が高い。ではなぜ変わったのか。新たな資料が見つからない限り、真相を知ることは難しいが、同作品に新たな光が当てられること自体は好ましい。魯迅の対日観、対日本人観に大きな影響を与えたのが、仙台医学専門学校で解剖学を学んだ藤野厳九郎教授であることは間違いない。

外見に無頓着で、周樹人(魯迅の本名)のノートを細かく添削し、抜け落ちている個所を加筆し、文法の誤りまで直してあった。だが、授業の合間に見た記録映像が魯迅の人生を一変させる。ロシアのスパイをしたとして中国人が日本の兵士に銃殺されるシーだったが、物見遊山で見守る中国人が「万歳!」と歓声を上げるのを見て、魯迅は「あぁ、何も考えられない!(无法可想)」と嘆き、身体ではなく精神の改造へと転向する。

別れを告げに来た周樹人に藤野先生は、裏に「惜別」と書いた自分の写真を贈る。




藤野先生は魯迅に便りを送るよう言いつけるが、魯迅はその後、伝えるべき境遇がないと思っているうちに、とうとう消息が絶えた。だが、藤野先生の面影は忘れがたく魯迅の脳裏に焼き付いていた。同作品には、拙訳で恐縮だが、こう書かれている。

「私が師と認める人物の中で、彼は最も私を感動させ、私を励ましてくれた一人だ。折に触れ私はいつも思う。彼の私に対する熱意ある希望やたゆまぬ教えは、小さく言えば中国のため、つまり中国に新たな医学が生まれるよう望むからであり、大きく言えば、学術のため、つまり新たな医学が中国に伝わるように望むからだ。彼の性格は、私の目の中で心の中で偉大である。彼の名は多くの人が知らないけれども」

魯迅は藤野先生の写真を大切に持っていた。

「毎晩、疲れて、休憩したいと思うときは、電灯の下で、黒く痩せた彼の表情をちらっと眼を向けると、今にも抑揚のある口ぶりで話しかけそうに見える。すると私はたちまち良心を発見し、勇気を与えられるのだ」

『藤野先生』を書いたのは1926年10月12日。1902年から09年までの日本留学を終え、北京大学などで教鞭をとりながら新思潮をリードする文学者として注目されていた。ちょうどアモイ大学教授として赴任した直後である。

日本は侵略姿勢をむき出しにし、中国各地で抗日運動が広がっていた。恩師の母国から届く知らせに胸を痛めながら、師への思慕は暗い電灯の中でより深く心のひだを満たしたに違いない。外国人に技術を教えられる立場から、祖国の青年に精神を教える立場に変わり、改めて音信の途絶えた「師」の胸中を思ったことだろう。最高の敬意を示す「吾師」への思いは、題から外し、むしろ行間に満々と投影させることを選んだのではないか。それがよりふさわしい恩師への便りだったということだ。

佐藤氏の論文を読み、改めて『藤野先生』を読み返したら、そう感じられた。

【独立記者論㉒】「不作為の罪は作為の罪と同様、自由を侵害する」

2016-06-21 15:54:49 | 独立記者論
英紙『ザ・タイムズ』の元編集長、ウイッカム・スティード氏の『THE PRESS』(邦訳『理想の新聞』浅井泰範訳、みすず書房)が書かれたのは1938年、ドイツにはヒットラー、イタリアにはムッソリーニの全体主義体制が台頭し、ソ連ではスターリンによる独裁体制が敷かれていた。ヒットラーが英国政府に対し、英国メディアのナチス批判を統制するよう要請し、多くの英国メディアが沈黙した。同書には、新聞の自由を信奉するスティード氏の怒りと危機感が貫かれている。同氏は、広告主の横暴を許容する新聞を「商業ジャーナリズム」として非難する。

彼は「不作為の罪は、作為の罪と同様、自由を侵害する」と、利益の奴隷となった事なかれ主義が自由を侵食している現状へのいらだちを表明した。

「もしも私たちが自由でありつづけたいというのなら、寛容を許さない動きに対してけっして寛容であってはならない、ということである。(中略)寛容という態度は、およそ政治的にも社会的にも、唯一絶対の真理なるものは存在しない、ということを認めることからはじまる」

彼が理想とする新聞は、平和を希求するが、教科書にあるような平和主義ではなく、「国民に対して、もしもほかに道がなければ、擁護のためには死を賭してもとことん戦わねばならない死活的な価値を明確に描き出す」ようなものである。安易な妥協を許さない信念がある。

スティード氏は、尊敬する英紙『ウェストミンスター・ガゼット』の元編集長、ジョン・アルフレッド・スペンダー氏の言葉を引用すする。
 
「新聞の地位は、政府の性格をとらえる基本的なテストのひとつと言ってよい。きわめて多くの国で新聞の地位が低下させられている事実を、私たちすべて、そして対外問題に責任を持つ政府や大臣たちは十分考えなくてはならない。ヨーロッパの半分の国の人々は、自己の考えを自由に表現する術を持たない。だから、もしも為政者が決心したら、それらの人々は、かんたんに隣国との道徳的、知的、政治的交流を断たれてしまう」

「ジャーナリストがこの仕事においてほかの職種の人たちよりも尊敬と厚遇を享受できるのは、新聞は世論の偉大な体現者であり、国際問題の扱いについても恐れずに独自の批判を加える存在だ、という一般的な考えにもとづいている。だから、もしこの姿勢がいささかなりとも守られなければ、ジャーナリストがほかの一般の職種の人たちより高い地位に置かれるべき理由はなにもない」

スティード氏はこの言葉を受け、「専制国家の人々が外国での思想、言論、行動を知りえない状況に置かれているとするならば、それは同時に、もっとも明敏な新聞読者層をのぞいて、自由国家のほとんどすべての人々が専制国家における人々の状況を理解できないことを意味している」と、国際関係におけるメディアの自由の意義を語る。一国の問題にとどまらない、ある特定の時代には限定されない、普遍的な重要性を持っているのだ。印象に残ったスティード氏の言葉をさらに引用する。

「全体主義国家の政府は、往々にして、新聞や世論が比較的自由な国々との和平、友好を望むという意志を表明する。そのうえで、外国からの批判とか、好ましからざる事実の公表は『友好を損ない、和平を危機に陥れる』ことになる、と遺憾の意を表明するわけだ。それだけではない。自由国家で、独立した消息筋の筆者が全体主義国家の行ったことに対して、自分の信念にもとづいた意見を発表すると、全体主義国家の大使や外交官がただちに新聞社の社主や編集幹部に連絡を入れて、そのような筆者の文章を紙面に載せることは、指導者の感情を『いらだたせるもの』であり、危険であると通告する」

日本がかつて、中国に対し「抗日言論の取り締まり」を要請した歴史を思い出させる。

正しい情報の流通は、正しい判断を助け、個人の自由、独立を支える土台となる。国境のないインターネットで、時にデマや過剰な言論が流布する時代にあって、メディアの役割はさらに高まっているが、実態はその期待通りにはなっていない。日本語だけの言論市場だと思っていても、たちどころに翻訳され他国に伝わるのがネット空間である。狭隘な視点の壁を取り払わなければ、自滅の道しか残されていない。