kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

酒田から象潟へ、マンネリについて。

2014-02-06 22:15:41 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅 (2/5着信)

○現在地  酒田に到着しました。

○次の目的地  象潟

○次の目的地までの距離  35.2km

○次の目的地までの歩数  47,014歩で達成です。

 酒田の章では句が二句載せられています。そのうちの「暑き日を」について

長谷川さんもかなり語っておられますが、もう一つは紹介しているだけです。

それは、

   あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ

ですが、この句についてkaeruの覚えのために書いておきます。

 復本一郎さん(国文学者・俳人・神奈川大学名誉教授)の書かれた『芭蕉俳

句16のキーワード』という本(NHKブックス・1992/11)にこの句に触れた章

が二か所あります。

 第9章「本意・本情ーー伝統美意識と、それへの挑戦」では、芭蕉の句

  藤の実は俳諧にせん花の跡    

古来からの和歌などを通じて「藤は、覚束なき心、鬱陶しき心」を記すもの、それ

を藤の「本意」とか「本情」とか呼ばれるものですが、この句はその「本意 ・本情」

に挑戦したものとして紹介しています。

 復本さんの言。

≪「本意」とか「本情」が、和歌・連歌・俳諧等の短詩型文学においては、作品

におけるイメージの膨らみ、という点において、プラスに作用したことは、言う

までもないことである。が、ややもすると、自らの目で対象を見て、何かを発見

するということを放棄してしまって、安易にその対象の「本意・本情」に凭れ掛っ

てしまう危険性もあったのである。そうなると、必然的に、マンネリズムに陥る

ことになる。≫と指摘し、芭蕉もこの危険性を、いやというほど感じていたと思

われると述べています。

 そのあと、宗祇が〈関こえてここは藤しろみさか哉〉の句で、白い「藤の花」を

見ての句でありながら地名を入れたことによって、思いきって俳諧的にしたこと

に芭蕉が共感したものと論じています。

 ここの部分は復本さんの書かれているものを「思いきって」略していますので、

なんでここに宗祇の句が出てくるのかとお思いでしょう、宗祇の句に対する芭蕉

の共感の部分などは結論だけです。

 

 そして復本さんは  

 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ

 (暑い日には風に吹かれてに夕涼みが一番。さて、この吹浦から温海(あつみ)

山が見えるや否や)

 について、芭蕉自らも地名を入れての句作りは得意としていたこと、それもあっ

て宗祇の句が「藤の花」の「本意 ・本情」に対し、俳諧的視点から地名を入れる

ことによって挑戦したものとして評価したのであろう、と結論しています。

 

 もうひとつの章、第14 章 での句の紹介は明日に。

 今日の結論=俳諧も俳句も「本来在るべき姿」にとらわれていると「本来ある姿」

が見えなくなりマンネリになるという芭蕉からの指摘です。お前のブログも同じこと

だよという声です。

 

 


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
酒田の芭蕉は... (屋根裏人です)
2014-02-07 13:01:01
確か 曽良がいくつも詠んでいた??? 確かではありません
先日斜め読みした書籍から..ただこの句の「本意」とか

「本情」とか言われますと...私の頭ではついて行かれません
でも 外国語にできない 大宇宙..ということは想像つきます
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本意、本情。 (kaeru)
2014-02-07 17:58:59
 これについての事典的解説。
         (三省堂・『現代俳句大事典』による)
 「本意 ・本情」=書く季語が持っている意味と情感を
「本意 ・本情」と呼ぶ。「春雨」は強く降ることはなく、し
としとと柔らかく降ることを「本意」とし、心になごむよう
な情感があることを「本情」とする。

 小生は季語についての「感覚的常識」と考えていま
す。常識ですからそれで「世間(俳句の世界)」に通ず
るのです。

 曽良が幾つか詠んだのは「象潟」の章で紹介されて
います。



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