「オフレコ破り」と抗議してきた経産省の卑劣な「脅しの手口」
『政府はこうして国民を騙す』 長谷川幸洋著
内容紹介
「オフレコ」や「リーク」を自分たちの「相場観」を広めるためのツールとして使いこなす官僚たち。そんな役所側の思惑を知らず、オフレコ取材を日常的に繰り返し、リーク情報をありがたがる記者たち――。「かつて自分は財務省の忠実な下僕=ポチだった」と告白する筆者だからこそ見破ることができ、そして書くことができる驚くべき「霞が関とメディアの本当の関係」。
**上記の著書「第1章 情報操作は日常的に行われている」から、一部紹介
[2]「オフレコ破り」と抗議してきた経産省の卑劣な「脅しの手口」
「銀行は債権放棄を」という枝野幸男官房長官発言に対して、細野哲弘資源エネルギー庁長官が「いまさら、そんなことを言うなら、これまでの私たち苦労はいったい、なんだったのか」と言ったオフレコ発言を5月14日付のコラムで紹介した。
幸いにも多くの読者を得たようだ。その中の一人、経済産業省の成田達治大臣官房広報室長が私の職場に”抗議電話”をかけてきた。
霞ヶ関がマスコミ操縦に使う「脅しの手口」がよくわかるので、紹介したい。
成田は私に直接、電話してきたのではない。私の「上司(論説主幹)」に電話したのだ。
上司がすぐ私に教えてくれたので、こちらも気がついたが、私はすぐ成田に電話した。以下は、その際のやりとりである。
■弱みにつけ込んだ恫喝
長谷川 なにか私の記事の件で「上司」(やりとりでは実名、以下同じ)に電話したそうだが、どういうお話だったのか。
成田 それは「上司」に聞いてください。
長谷川 オフレコ話を書くのはけしからんとか、書いては困るといったような話と聞いたが。
成田 いや、私は書くなとは言ってませんよ。
長谷川 じゃ、どういう話なのか。
成田 懇談会の冒頭で私から「一部オフレコの部分もある」と言い、細野からも「ここはオフレコで」と言ったが、とくに反論は意見はなかった。終わった後で長谷川さんからも反論や意見はなかった。それなのにネットで書いたのは、どういう判断なのか。そちらはそういう会社なんですね。信頼関係が崩れている。とても信頼できない。これからは、そういう前提で対応を考えさせてもらう。
長谷川 対応を考えさせてもらう、というのは、どういう意味か。
成田 こちらは信頼できないと言っている。どうするかは、そちらの判断だ。
長谷川 わかりました。ありがとうございました。あなたから、そういう電話があった件もまた書かせてもらう。
成田 ちょっと待ってください。どういうつもりか。
長谷川 忙しいので、これで失礼する。
以上である。ほんの2ー3分の会話だ。
官僚はこのようにマスコミと困った事態になると、記者当人ではなく「上司」に文句を言ってくる。たいていの記者は上司から注意されると出世に響くと思って、口をつぐんでしまう。「記者もサラリーマン」という弱みにつけ込んだ「恫喝」である。
本人との直接対決はできるだけ避けようとする。直接対決すると新たな接触が、またネタになる可能性がある。「もしかすると、また書かれてしまうかもしれない」と考えて、リスクを最小化するのである。まったく卑しい手口である。
そういう事情なので、相手は初めから私とまともに議論するつもりはない。「脅せば十分」という話である。
■オフレコという情報操作の手口
ここでは問題の本質である「官僚のオフレコ話」について書いておこう。
記事について、元官僚で現在、ある大学の教授もツイッターで「私も官僚時代はよくオフレコで話をした。これは信義則違反ではないか」という「つぶやき」を記している。官僚にとって「オフレコ」というのは極めて重要なマスコミ操作の手段になっている。だから、記者のオフレコ破りは官僚にとって無視できない重要事なのだ。
官僚は記者クラブの会見などで「ここはオフレコだが」と前置きして、ちょっとした背景説明とか裏話を披露する。マスコミに書いてもらいたくないからではない。まったく逆で、実は自分の正体は明かさずに、マスコミにぜひ広めてもらいたいのだ。
背景説明とは、簡単に言えば官僚が世間に広めたい一定の「相場観や理解の仕方」と考えればいい。たとえば官僚に都合のいい解釈や政治家に対する悪口、ほめ言葉などだ。
「あの人は政治通」とか「あの人は官僚をつかいこなせていない」とかいった話がよくマスコミに出るだろう。それはたいてい、官僚の話が出所になっている。
記者のほうは、そういう話を聞くと、なにか秘密の話を聞いたような気になって、知らず知らずのうちに官僚の相場観を染み込まされていく。それがオフレコの狙いである。
だから、官僚が「ここはオフレコで」と言ったときこそ、本当は記者が官僚の狙いに気づかなければいけない。今回の例でいえば、細野長官の狙いは二つ考えられる。
まず「枝野長官の『債権放棄話』などとんでもない」という相場観を記者に染み込ませたかった。「霞ヶ関は絶対、受け入れない」という相場観である。これが一つ。もう一つは本当に枝野発言に頭に来ていて、枝野の評判を落としたかった。これが二つ目だ。私はおそらく二つ目の思惑がより大きかったと思う。枝野が邪魔になってきたのだ。
枝野発言はその限りでは「もっともな話」であり、今回は細野たち官僚の相場観と枝野の相場観と枝野を含めた世間の相場観があまりにかけ離れていた。今回のオフレコ話は、それくらい経産省という役所がダメになっている証拠でもある。
■記者は完全に官僚になめられている
では、論説懇のオフレコ破りは許されるのか。
私は基本的に大勢の記者が参加した場で「オフレコ」はありえない、と思っている。
官僚1人に対して記者数十人では、だれかがどこかで喋ったり記事にすることは十分にありうる。官僚はそんな可能性はとっくに承知していて、懇談内容が書かれることを前提に喋っている。ただし、絶対匿名で。相場観を広めることが狙いだから、自分の正体が明かされては元も子もない。
私はそんな相場操縦を狙った官僚の手伝いをする「ポチ」ではない。重要局面で官僚の立場と基本的発想、狙いを書くのは大事な仕事の一部と思っている。今回はオフレコ話に経産省・資源エネルギー庁の考え方が象徴的に出ていた。だから書いた。それだけだ。
論説懇は記者クラブでもない。役所が記者に呼びかけて開いた「政策説明会」のようなものだ。記者クラブだと、オフレコ破りした記者はしばしば、ほかのクラブの記者からつるし上げられたりするので書けなかったりする。記者クラブのもっとも悪い面である。
だからといって、私がオフレコに応じないというわけではない。基本的に1対1で、しかも十分に信頼に値する相手なら応じる場合はある。1対1でなければ、自分と情報源以外の第三者によって情報が他に漏れる可能性があるので、意味がない。
だいたい数十人もの記者を相手に、初めから「信頼関係」うんぬんを持ち出すほうがおかしい。自分たち「ここはオフレコ」と言えば、記者がみなその通り、黙って従うとでも思っているのだろうか。そうだとすれば、記者もよほど官僚になめられたものだ。
残念ながら、なめられ切ってしまったのが現状である。この件は面白いテーマなので、また続報を書くことにしよう。
(2011年5月17付)