*『死の淵を見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。38回目の紹介
『死の淵を見た男』著者 門田隆将
「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」
それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)
吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。
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**『死の淵を見た男』著書の紹介
第13章 1号機、爆発
中操内での写真撮影 P226~
1号機建屋の爆発は、1、2号機の中操に大きな変化をもたらした。
緊対室の復旧班が必死になって海水注入への作業を進めていた3月12日夕方、伊沢がついに若い運転員たちに免震棟への退避を指示したのだ。
(これ以上、若い連中をここにとどまらせているわけにはいかない)
伊沢は、そう考えていた。
爆発まで起こってしまった以上、線量の増加以外にも、いつ不足の事態が起こるかもしれなかった。20名ほどの若き運転員たちが、1、2号機の中操から去って行った。
「中操にいる時は、私が責任者でしたから、(若い人を)退避させられた時は、ほっとしました。ずっと苦しかったです」
伊沢はそう打ち明ける。
それまで40名近くいた中操は、主任以上の人間を除いてはほとんどいなくなった。平野が言う”年寄り”ばかりになってしまったのである。残った人間を数えると「17名」だった。
AO弁のベントの再チャレンジに向かった吉田一弘も、この17名のなかの一人だった。彼らには、時間の感覚がまるでない。真っ暗な中層に居続けているために、陽光を浴びることもなければ、満天の星空を見上げることもない。ただ、中操で、計器をバッテリーにつなげ、データをとりつづけるのが彼らの仕事となったのだ。
シーンとなった中操で、みんなに元気を出させようと吉田が声を上げたのは、夜が更けてきてからである。
「最後だから、写真を撮りましょう」
吉田一弘は、ことさら大きな声でそう言った。疲れ切っている面々には、反応がない。だが、
「最後だから」
という吉田の言葉に、高校の先輩でもある伊沢だけが反応した。
「縁起でもないから、やめろ」
しかし、吉田は”先輩”の言葉にかまわず、それぞれの写真を撮り始めた。
中操には、さまざまな局面で状況を写真に収めておくためにデジタルカメラが常備されている。そのカメラを手に、吉田がパチパチと写真を撮っていくと、手を上げたり、親指を立てたり、ピースをする人間も出てきた。
頭にはヘルメットをかぶり、全面マスクをかけ、青や白のタイベック、あるいはB服と呼ばれる保護衣を着た面々が、暗雲の中でフラッシュによって照らし出された。事故発生以来、一睡もしていないが、たしかにこれが、人生”最後”の写真になるかもしれない。どんな思いで、それぞれが吉田の向けたレンズに反応を示したのか、想像もつかない。
「私たちは主に格納容器の圧力と原子炉水位計のデータを取るのが仕事でした。5分とか10分ごとに、これを読んで、緊対室に伝えていました。そいういうなかで、いつが”最後”になるかもわからないので、私はみんなの写真を撮っていったんです」
次の爆発がいつあるかわからない。そんな時間が止まったような空間で、中操内のようすを伝える貴重な写真は、こうして吉田一弘の手によって撮影されたのである。
伊沢たちが、中操での勤務を交代制に切り替え、ついに免震重要棟に引き揚げたのは、その翌日の3月13日夕刻のことだ。
(「中操内での写真撮影」は、次回に続く)
※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、
2016/4/6(水)22:00に投稿予定です。
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