探訪・日本の心と精神世界

日本文化とそのルーツ、精神世界を探る旅
深層心理学・精神世界・政治経済分野の書評
クイズで学ぶ歴史、英語の名言‥‥‥

日本の希望は周辺領域の集合知にある:日本文化の論点(4)

2017-03-31 14:00:11 | 書評:日本人と日本文化

■『日本文化の論点 (ちくま新書)


著者によれば、現代の情報社会では一人の天才の仕事よりも、100人の凡才の部分的な才能を集約化した仕事の方が精度が高く、クリエイティブなものを残しやすくなっているという(集合知)。その代表が初音ミクやニコニコ動画であり、その象徴がAKB48である。とすれば、前回見たような日本社会の特質、「権威や権力を尊重せず、知的エリートにコントロールされることを嫌う平均的に知的レベルの高い巨大な大衆が存在する社会」は、情報社会がもっている潜在的な創造性を、より大きく開花させることのできる社会なのかもしれない。

現に著者は、政治や経済といった昼の世界に対し、陽の当たることのない夜の世界、すなわち、日本のインターネット環境やサブカルチャーの世界に、今後の日本の可能性を見ている。ここ数十年、この陽の当たらない世界では、異様なまでの生成・進化が絶え間なくなく起こってきた。誰も発想しなかったような多様で数奇なアイディアと創造性が渦巻いていた。それは、日本社会の片隅、周辺領域にすぎないが、この夜の世界にこそ日本の希望がある。そこで生まれてきたアイディアや技術が、この国を変えていく手がかりになる可能性がある。

マスメディアは、中心から周辺へ情報を一方的に発信し、一点に関心を集めることで個と社会を結び付けてきた。しかし複雑化し多様化した社会は、そのようなマスメディアの回路では対応しきれなくなった。したがって21世紀は、ポストマスメディアすなわちソーシャルメディア的なものに支えられた社会を考えなければならない。テレビなどのマスメディアによって成立した国民的娯楽の象徴がプロ野球だったとするなら、ポストマスメディアの時代のそれに当たるのは何か。著者は、それに当たるもっとも近い例としてAKB48が考えられるという。

これまで国民的興行は、マスメディアを通じてしか形成できなかったが、AKB48はマスメディアに依存せず、現場+ソーシャルメディアで国民的な興行をなしえた最初の文化現象だ。他にコミックマーケットやニコニコ動画が、やはりマスメディアとは切り離された世界で巨大な動員力をもつ。

当初、AKB48の選抜メンバーは秋元康が専制的に選抜メンバーを選んでいたということだが、やがて「運営側が一方的に選抜メンバーを決定するのはおかしい」、「もっとフェアに」という声がファンに広がり、その声を抑えきれなくなって、今の選抜総選挙という形が生まれたという。

ここでは、未完成のものを応援することでレベルを上げていくという、ファン参加型のゲームが成立している。これは、最初から完成されたものを受け取るだけの文化とは決定的に違う。たとえば西洋のプロフェッショナルリズムをアジアががんばって輸入し学んで、完成度の高いものを送り出すというシステムとは、楽しみ方の大元が違う。初めから完成度の高いものが登場してしまったら、ファンは楽しめないのだ。

現在AKB48は、JKT48、SNH48を結成し、アジア諸国への進出を試みる。アジア諸国では、はたして未完成なものに消費者が参加し、手を加えることで楽しみを生み出す参加型(ゲーム型)の文化運動はどこまで受容されるか。すでに述べたようにこの本での著者の主張は、「日本的想像力はソフトウェアを輸出するだけでは世界に拡大しない。ハードウェアを輸出し、日本的な楽しみ方、消費環境を定着させることではじめて輸出できる」というものであった。そして、AKB48の海外展開は、まさに日本的想像力の普遍性を問うものになる。21世紀の日本文化のゆくえを象徴する論点がここに存在するという。

ここでいう日本文化のゆくえへの問いは、著者が本の最初に提示した、現代の日本的想像力が21世紀のスタンダードな「原理」になり得るかどうかとという問いに関係している。

著者は、これから先の世界では、「日本のような」国が増えていく、すなわちキリスト教的な文化基盤もなければ、西欧的な市民社会の伝統もない、にもかかわらず民主主義を実現させ消費社会を謳歌する「日本のような」社会がアジアを中心に拡大するから、日本的想像力が世界に広がっていくと考えているようだ。

しかし、「日本のような」国は、一面で日本のようでありながら、多面で日本のようではありえない。私が、「日本的想像力」が成り立つ空間がどのような日本的伝統に根ざして形成されたかを強調したのは、アジア諸国の、「日本のよう」でありながら「日本のようではありえない」側面を際立たせたかったからだ。確かにキリスト教的、西欧的な伝統をもたなくとも、民族相互の闘争や西洋による植民地化を経験してきた国も多い。宗教的なものの束縛や格差も、日本よりかなり大きな国が多い。「日本的想像力」空間が生まれるのに、日本文化のユニークさ8項目が、多かれ少なかれすべて関係しているとすれば、現代の日本的想像力が、21世紀のスタンダードな「原理」になることはそれほど容易なこととは思えない。

ただし、西欧とはまったく異質な歴史と伝統をもつ日本が、西欧的な近代文明の原理をいち早く学んで近代化を成し遂げることが出来たように、「日本的想像力」が他国に受け入れられていくことは、まったくあり得ないことではない。おそらくそれは「日本的想像力」が、学んで受け入れたいと思わせるだけの強い輝きを放っているかどうかにかかっているだろう。



日本の大衆は知的で知的格差が少ない:日本文化の論点(3)

2017-03-30 11:56:40 | 書評:日本人と日本文化

 ここまで『日本文化の論点 (ちくま新書)』に沿って「日本的想像力の可能性」というテーマを考えてきた。今回は、この本の内容には直接は関係ない話題に少し触れて、次回また本に沿ったテーマに戻すつもりである。

前回、広い意味で「日本的コミュニケーション空間」の基盤をなす日本社会のあり方を以下のように私なりにまとめてみた。それは日本独特の風土と地理的条件、歴史の中で育まれた平等で細やかなコミュニケーション空間であり、それが現代のサブカルチャー空間にも受け継がれているのではないかと指摘した。

①知的エリートにコントロールされない巨大で平等性の高い大衆層が存在する。
②その各自が、現場でどんな仕事をするにせよ、自分たちがそれを作っている、世に送り出している、社会の一角を支えているという「当事者意識」(責任感)を持っている。
③だからこそ、互いの仕事を信頼でき、相互に協力し合いながら、共通の仕事を成し遂げたり、社会全体の質を保っていくことができる。

今回とくに触れたいと思ったのは、上のなかのとくに①に関連して興味深い調査結果が報道されたからである。すでに様々なメディアが報じているので目にした人も多いだろう。たとえば以下のような記事である。

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成人力「1位」欠ける独創性を鍛えたい

経済協力開発機構(OECD)が16~65歳を対象に初めて行った、「国際成人力調査」の読解力などの分野で、日本が1位という結果が出た。

教育水準も平均的な学力も高いという日本社会の特質が表れた形だ。だが、思考力や創造力をどう育てるか、才能をいかに伸ばすか、日本の課題は少なくない。「1位」に慢心することなく、世界で競える力を育てなければならない。

学力は経済力や国力に反映するとの観点から行われた調査には、先進国の集まりであるOECDなどの24カ国・地域が参加した。

調査は、日常生活で使う知識の応用に重点が置かれた。文章や資料を読んで答える「読解力」と数や図形を扱う「数的思考力」で、日本はOECD平均を大きく上回る1位の成績だった。

特徴的なのは、下位の割合が低く平均点が高いことだ。中卒層の成績が米国やドイツの高卒層を上回るなど、義務教育段階のレベルの高さが示された。就職後の社内教育や生涯学習の成果が発揮されたとの指摘もある。(以下略)

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この調査結果については、「ITを活用した問題解決能力」では19カ国中で10位と、それほど高くない、日本成人の「読解力」スキルのレベルの高さは必ずしも賃金の高さに反映されていないなど、いくつかの問題も指摘されている。しかし、日本の成人が世界的にみて学力がトップクラスであるという調査結果は否定できず、上の記事でも指摘されているように、成績下位の割合が低く、他国に比べ学力の面でも格差が少ないこともデータ上否定できない。つまり日本には、

①知的エリートにコントロールされない巨大で平等性の高い大衆層が存在する。

のうち、巨大で(知的にも)平等性の高い大衆が存在することが、データで裏付けられたのである。

では上の文章の前半「知的エリートにコントロールされない」についてはどうだろうか。これについても面白いデータがある。

日本に「強いリーダー」がいないのは、だれも望んでいないからです

リンク先のデータを見れば明らかなように、この調査項目で日本人の意識は世界の中でも例外中の例外に属する。この調査は、1980年代から世界80ヶ国以上のひとびとを対象に、政治や宗教、仕事、教育、家族観などについて訊く「世界価値観調査」の一項目ということだ。かなり大規模な意識調査のようだが、その2005年調査の全82問のなかのひとつで、日本人が他の国々と比べて圧倒的に異なっているのだ。

近い将来、「権威や権力がより尊重される」社会が訪れたとすると、あなたの意見は「良いこと」「悪いこと」「気にしない」のどれでしょうか、という質問項目である。

社会を運営するためには権威や権力は尊重されるべきだと考えている人の割合が、フランス人84.9%、イギリス人76.1%、オランダ人70.9%、アメリカ人59.2%、中国人43.4%。それに対して日本人は、「権威や権力を尊重するのは良いこと」と答えたのはわずか3.2%%しかいなかった。逆に80.3%が「悪いこと」と回答している。権威や権力への信頼度が2番目に低い香港でも22.6%が「良いこと」と回答しているのだから、この結果は驚くべきものである。

権威や権力を尊重したり信頼したりしないという意識をもった人が多い社会が、そのまま「知的エリートにコントロールされない」人々が多い社会とは限らないだろう。しかし、日本人が、社会的なリーダーといわれる人々、政治家や学者や評論家をそれほど信頼していないのは確かなようで、信頼していなければコントロールされにくいと言えよう。

以上二つの調査結果からも、日本の大衆が平均的に知的であり、しかも知的な格差が少なく、一部の権威や知的エリートをそれほど尊重も信頼もしていないということは事実だろう。そして、強力で優秀なリーダーは出にくいが、知的レベルの高い優秀な「平凡人」が多く存在し、そういう大衆が社会を支えていることに日本の底力があるのも確かだろう。同時にそれが「日本的想像力」の基盤でもある。

 


大衆が生み出すことの強み:日本文化の論点(2)

2017-03-30 10:50:36 | 書評:日本人と日本文化

■『日本文化の論点 (ちくま新書)

日本のオタク系文化の歴史は、コミックマーケットからニコニコ動画に至る二次創作空間のコミュニティの歴史だと著者はいう。二次創作することで、ときにオリジナルと異なった人生をキャラクターに歩ませ、あるいは自分が作った歌を歌わせることでキャラクターへの愛着を増す。

初音ミクの「擬人化」とその成功に、二次創作の魅力の本質がよく現れている。初音ミクは、とりわけ消費者たちの二次創作的な欲望(キャラクターへの愛)を呼覚ます。その創作の舞台となっているのがニコニコ動画だ。初音ミクは、その中で巨大な存在感をもつ一大ジャンルに成長した。そこでユーザーは、創作者でもあり消費者でもある。どちらかに明確に区別することはできない。この曖昧な「中間の空間」こそが、現代日本の二次創作的な文化空間だと、著者はとらえる。

《関連記事》
日本発ポップカルチャーの魅力01:初音ミク
日本発ポップカルチャーの魅力02:初音ミク(続き)

こうした二次創作的な消費文化なくして、現代日本のサブカルチャーの本当の快楽を味わうことは難しいという。二次創作的な消費をすることで、その快楽の本質にたどり着けるような表現様式こそが、現代日本のサブカルチャーの中核をなしているからだ。作品(ソフトウェア)だけ輸出しても現代日本のサブカルチャーの本質は伝わらない。消費環境とコミュニケーション様式(ハードウェア)が輸出されてこそ、その全体が伝わる。

初音ミクだけ見ていても、楽しみは半分でしかない。ニコニコ動画で二次創作を表現できる環境も丸ごと輸出されることで、その本当の面白みが伝わる。大切なのは、日本産のアニメが世界中で見られることよりも、日本的なアニメの「楽しみ方」がグローバルスタンダードになり、世界中のオタクたちが、それぞれのコミックマーケットに集まることではないか。これが、この本での著者の主張のポイントだろう。

話を少し広げれば、戦後の日本が輸出に成功し、グローバル市場を牽引した多くが、コミュニケーション様式の輸出だったのではないか。たとえばトヨタの「カイゼン・カンバン方式」。とくに「カイゼン(改善)」は、主に製造業の現場の作業者が生産現場のいろいろな問題をボトムアップ方式で改善していく方式で、日本的な集団主義を利用した集合知的なシステムともいえよう。通信カラオケもまた、録音された伴奏に合わせて自分で歌う二次創作的なゲームだともいえる。

ともあれ、欧米から輸入されたものを、日本的なコミュニケーション空間で運用している間に、いつの間にか日本独自のものに変えてしまう。日本車、ジャパニメーション、ニコニコ動画‥‥世界に輸出されるべき日本的想像力の核には、この独特のコミュニケーション様式にあると著者は考えている。これは、先に考えた、日本文化の「造り変える力」とも関係が深い。以下の記事を参照されたい。

日本の秘密「造り変える力」(1)
日本の秘密「造り変える力」(2)
日本の秘密「造り変える力」(3)

さて、このブログでの私の関心は、著者のいう「日本的なコミュニケーション空間」がどのように作られて来たかということである。それは日本文化の伝統とどのようにかかわるのか。具体的には、このブログで追求している「日本文化のユニークさ8項目」とどうかかわるのか。もちろんすべての項目が多かれ少なかれ関係しているであろうが、ここでは「日本的なコミュニケーション空間」とは何かを考えながら、いくつかの項目を取り上げてみたい。

「初音ミク」現象に典型的に見られるような「日本的なコミュニケーション空間」とは何だろうか。

①まず特徴的なのは、多くの人々の協働作業、集合知による創作活動であるということ。
②それが上位に立つ指導者のもとに行われるのではなく、参加者の対等意識、平等意識の上に成り立っているということ。
③参加者一人一人の「自分たちの創作」いう当事者意識が、作品への愛着を増しますます完成度を上げていくこと。

そして、これらの特徴が成り立つ前提には、民族や言語、階級などによって分断さず、宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想と表現と相対主義的な価値観を共有する、巨大で知的な庶民の存在がある。

日本は、かつて「一億総中流」といわれたような、巨大な中間層があったからこそ、マスとしてのマンガ市場が出来、そこにいろいろな表現が芽生えてきたと言われる。今は日本も格差が広がったといわれるが、それでも日本の社会は、階層性のきわめて少ない、巨大な中間層が中心をなす社会だ。

さらに言えば、世界中のほとんどどの国にも大衆をがっちり支配する知的エリート階級が存在する。しかし日本ではそのようなエリート階級は、元来大きな力をもたず、近年はますますその存在感を失っている。実は、そのような傾向は江戸時代からあった。江戸の庶民文化が花開いたのは、武士が、権力、富、栄誉などを独占せず、それらが各階級にうまく配分されたからだ。江戸時代の庶民中心の安定した社会は世界に類をみない。歌舞伎も浄瑠璃も浮世絵も落語もみな、そんな庶民が生み育てた庶民のための文化である。庶民は自らの文化を育て楽しみ、それが江戸文化の中心になっていった。

庶民は、どんな仕事をするにせよ、自分たちがそれを作っている、世に送り出している、社会の一角を支えているという「当事者意識」(責任感)を持つことができる。自分の仕事に誇りや、情熱を持つことができる。近代以前に、庶民中心の豊かな文化をもった社会が育まれていたから、植民地にもならず、西洋から学んで急速に近代化することができたのである。

このような日本社会のあり方が、上に述べた現代の「日本的コミュニケーション空間」の形成に影響しているのは確かだろう。

階級によって分断された社会では、下層階級の人々はどこかに強力な被差別意識があり、自分たちの仕事に誇りをもつという意識は生まれにくい。奴隷は、とくにそういう意識を持つことができない。日本文化のユニークさのひとつは、奴隷制を持たなかったことであった。奴隷制の記憶が残り、下層階級が上層階級に虐げられていたという記憶が残る社会では、労働は押し付けられたものであり、そこに誇りをもつことは難しいだろう。自分たちの協働作業に当事者意識と責任感をもって取り組んだり、ましてやそれを楽しんだりいう社会風土は育ちにくいのである。

逆に日本には、

①知的エリートにコントロールされない巨大で平等性の高い大衆層が存在する。
②その各自が、現場でどんな仕事をするにせよ、自分たちがそれを作っている、世に送り出している、社会の一角を支えているという「当事者意識」(責任感)を持っている。
③だからこそ、互いの仕事を信頼でき、相互に協力し合いながら、共通の仕事を成し遂げたり、社会全体の質を保っていくことができる。

これが広い意味で「日本的コミュニケーション空間」の基盤をなすもので、日本独特の風土と地理的条件、歴史の中で育まれてきたものである。そして、そのような信頼に基づく、平等で細やかなコミュニケーション空間が、現代のサブカルチャーにも受け継がれている。

これらを日本文化のユニークさ8項目との関連でいえば、次の二つに関係が深いだろう。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

(5)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが、日本人のもっとも基本的な価値感となり、そういう信頼を前提とした庶民文化が江戸時代に花開き、現代に引き継がれたのである。

また、異民族に制圧されたり征服されたりした国は、征服された民族が奴隷となったり下層階級を形成したりして、強固な階級社会が形成される傾向がある。たとえばイギリスは、日本と同じ島国でありながら、大陸との海峡がそれほどの防御壁とならなかったためか、アングロ・サクソンの侵入からノルマン王朝の成立いたる征服の歴史がある。それがイギリスの現代にまで続く階級社会のもとになっている。日本にそのような異民族による制圧の歴史がなかったことが、日本を階級によって完全に分断されない相対的に平等な国にした。武士などの一部のエリートに権力や富や栄誉のすべてが集中するのではない社会にした。

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《関連図書》
★『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること
★『格差社会論はウソである
★『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
★『日本の曖昧力 (PHP新書)

 


日本文化の論点(1)

2017-03-29 23:46:58 | 書評:日本人と日本文化

◆『日本文化の論点 (ちくま新書)


「現代」の「日本文化」は、これからの世の中を考える手がかりや人間存在への洞察を書き換える豊かな想像力が渦巻いていると著者・宇野常寛氏はいう。「失われた20年」と呼ばれた世紀の変わり目に、戦後的なものの呪縛から解き放たれたもうひとつの日本が生まれ、育ってきているというのだ。それは、サブカルチャーやインターネットといった、新しい領域の世界であり、〈昼の世界〉に比べ、陽の当たらない〈夜の世界〉だともいえる。

この〈夜の世界〉が生み出すあたらしい原理のキーワードは、「日本的想像力」と「情報社会」だ。ソーシャルメディア、動画共有サイト、匿名掲示板、アニメ、アイドル‥‥。これらの文化は、日本で近年、独自のガラパゴス的な発展を遂げ、それゆえ世界的にもユニークで、高い評価を受けて注目されているものも多い。そして著者は、今は「ガラパゴス」的だと言われるこうした現代の日本的想像力こそが、21世紀のスタンダードな「原理」になり得ると考えている。

なぜそれらが21世紀の「原理」になり得るのか。それは、これから先の世界では、「日本のような」国が増えていくからだ。キリスト教的な文化基盤もなければ、西欧的な市民社会の伝統もない。にもかかわらず民主主義を実現させ消費社会を謳歌する「日本のような」社会がアジアを中心に拡大するのが、21世紀前半の世界だ。日本の現在と未来は、これから世界の人口の半分が直面する未来かもしれないと、著者は考える。だからこそ、日本の〈夜の世界〉を考えることが重要なのだという。

このような視点から、AKB48などを中心に日本のサブカルチャーを分析するこの本は示唆に富んでいるが、その内容に触れる前にこの視点そのものを少し検討したい。

かつて私は、内田樹氏の『日本辺境論 (新潮新書)』を取り上げ、氏の論の前提となっている日本人の「辺境人」意識から、現代の若い日本の世代はすでに脱しているのではないかと疑問を投げかけたことがある。

島国日本は、弥生時代以来、異民族による侵略という脅威なしに文化の受け入れを続けてきた。そのような形での異文化を受け入れ続けることができた幸運は、世界史上でもまれなことである。海の向こうの圧倒的に優れた文明を、平和的に吸収し続けた日本人は、自分をつねに「辺境人」の立場において、中心文明の優れた文物をひたすら取り入れる姿勢を、あたかも自分の「アイデンティティ」であるかのように思い込むようになった。そういう「辺境人」根性は日本人の血肉化しており、逃れようがない。だったらその根性に居座って、むしろ積極的にそれを活かそうというのが内田氏の主張であった。

しかし日本人は、内田氏が言うような意味での「辺境人」の性癖から脱しつつある。日本は今、そのような大きな時代変化の中にあり、その変化の大きさは、かつての圧倒的な唐文明の影響から脱して、自分たちに独自の文化を築いていった時代の変化に匹敵する、というのが私の考えであった。詳しくは以下を参照されたい。

『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
『日本辺境論』をこえて(2)『ニッポン若者論』
『日本辺境論』をこえて(3)『欲しがらない若者たち』
『日本辺境論』をこえて(4)歴史的な変化が
『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら
『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力
『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力
『日本辺境論』をこえて(8)日本史上初めて
『日本辺境論』をこえて(9)現代のジャポニズム

宇野氏の『日本文化の論点』は、「『日本辺境論』をこえて」で私が論じたような、現代日本の大きな歴史的変化を主にサブカルチャーの面から具体的に論じたものだとも言える。

内田氏が語る「辺境」の意味は、「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない」ということであった。日本人に世界標準の制定力がなく、文明の「保証人」を外部の上位者に求めてしまう。それこそが「辺境人」の発想であるが、私は上の一連の文章で、「保証人」を外部に求める日本人の根強い傾向が若者を中心になくなりつつあることを論じた。ふらふらきょろきょろして外ばかり見ていた「辺境人」根性の「呪縛」から解放された世代の文化が育ち始めていることを、若い世代への意識調査などの結果から探った。

おそらくそうした若い世代の意識変化と、若い世代が作り出すサブカルチャーとは密接に関係している。ガラパゴスと言われながらも、それだけユニークで世界のどこにもない若者文化が育っているということは、明治以来の日本がひたすら憧れ、学んできた欧米発の「世界標準」から、若者文化が解き放たれはじめたということでもある。「世界標準」の枠組みに、もはやほとんど関心がないから、それに囚われない自由で独自の文化が生まれ育つのである。

ところで宇野氏は、現代のサブカルチャーに見られる日本的想像力こそが、21世紀のスタンダードな「原理」になり得ると言う。つまり今後日本が、「辺境」どころか新たな「世界標準」の発信源になる可能性があるというのだ。しかし、これについては充分に留意すべき点がある。

その前に内田氏のいう「世界標準」とは何だったのかを確認しよう。それはまずは、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教など、それ以降の文明の基礎を築くことになった普遍宗教であろう。そして、それらの普遍宗教に基づいて生まれた文明の原理であろう。たとえばヨーロッパ文明は、キリスト教をひとつの基礎としながら、また一面ではそれと対抗しながら、近代の各種原理を生み出していった。「自由」「民主主義」「人権」「合理主義」「科学「進歩」「自由主義経済」などがそれにあたる。そして、それらが現代のもっとも強力な「世界標準」になっていったのである。

宇野氏がいう21世紀のスタンダードな「原理」は、上のような意味での「世界標準」ではないはずだ。「世界標準」の普遍宗教は、激しい闘争の中で民族宗教の違いを克服することによって生まれたも言える。それもあって、それぞれの普遍宗教を背景にもつ「世界標準」自体は、お互いに相容れない傾向がある。自分こそ「世界標準」だと言い張って互いに争うのである。現在までのところ、その勝者が近代ヨーロッパだったわけだ。それを全面的に受け入れた世界は、ヨーロッパ的な「世界標準」に何らかの意味で「呪縛」されて、その分自由な発想が制限されるであろう。

ところが日本人は、そうした「世界標準」の原理原則にこだわらずに、自分たちに合わせて自由にいくつもの「世界標準」を学び吸収してきた。神道を残したまま儒教も仏教も西欧文明も受けれ、併存させたのである。それが日本文化に豊かさと発想の自由さを与えた。現代日本のサブカルチャーの豊かさも、そういう日本の伝統なくしてはあり得なかっただろう。そういう日本人が近代ヨーロッパが生んだと同じ性質の「世界標準」を生み出すはずがないことは明らかだ。

そして逆説的なことだが、ひとつの「世界標準」にこだわらず自由に学び吸収しつづけたからこそ、そこから生まれた独自の文化が、今後の世界にとって新たなモデルになる可能性を秘めているのではないか。それはどのようなモデルなのか。宇野氏は、現代日本のサブカルチャーのあり方の中にそのヒントを読み取ろうとしているのかもしれない。

《関連図書》
☆『ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)
☆『希望論―2010年代の文化と社会 (NHKブックス No.1171)
☆『日本的想像力の未来~クール・ジャパノロジーの可能性 (NHKブックス)





いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力③

2017-03-29 23:12:06 | 書評:日本人と日本文化

馬淵睦夫氏の『いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力』に刺激され、氏のいう日本文化の「造り変える力」の源泉がどこにあるのかを探る気になった。このブログでは、日本文化のユニークさを8項目の視点から考え続けているが、結局、日本文化の「造り変える力」の大元もここにありそうな気がする。以下8項目に沿いながら「造り変える力」の源泉を追う。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。
(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

これらに関しては前回すでに書いたが、(1)に関して少し付け足しておきたい。現代日本人に縄文人の心性が地下水脈のようにして受け継がれている。その事実がどうして日本人の「造り変える力」に関係があるのか。

たとえばケータイにストラップをつけるのは、日本以外ではあまりない。海外では、ケータイは単なる機械だという。しかし日本人は、そこに自分の気持ちを入れる、命を与える。現代の若者はケータイにストラップをつけることを、ただそうしたいから、そうしないと何となく物足りないと感じるからやっているのだろう。しかし、そこに日本人の伝統的な心が働いている。

そういう傾向が、今すこしずつ復活している。ネイルアートも「痛車」も「初音ミク」もそういう傾向の表れかもしれない。ヴォーカロイド「初音ミク」とCGによるこだわりのコラボは、コンピューターのプログラムによってまさに命を吹き込む作業で、かつての職人の心、もっとさかのぼれば縄文人の心が、現代の最先端によみがえっているのかもしれない。

菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』で著者アン・アリスンも次のように言う。日本人はケータイに、ブランド、ファッション、アクセサリーとして多大な関心を払い、ストラップにも凝ったりする。そうしたナウい消費者アイテムにも、親しみ深いいのちを感じてしまうのが日本人のアニミズムだ。このように機械と生命と人間の境界があいまいで、それらが新たに自由に組み立て直されていく、日本のファンタジー世界の美学を著者は「テクノ-アニミズム」と呼ぶ。日本では、伝統的な精神性、霊性と、デジタル/バーチャル・メディアという現代が混合され、そこに新たな魅力が生み出されているのだ。

世界が絶賛する「メイド・バイ・ジャパン」 (ソフトバンク新書)』の基本コンセプトは、オタク文化と製造業の融合だったが、それを一言でいうならまさに「テクノ-アニミズム」ということになるだろう。かつての「たまごっち」というサイバー・ペットの世界的な流行も、日本的な「テクノ-アニミズム」が世界に受け入れられていく先駆けだったといえなくもない。

以上のいくつかの例が示しているのは、現代の最先端のテクノロジーと農耕文明以前の、人類の最古層の心性との、他国ではありえない驚くべき結びつきである。その意外な組み合わせから、世界から見て思いもよらぬアイディアや製品が生まれてくるのだ。農耕文明以前の文化の記憶は、ユーラシア大陸ではほとんど失われてしまっている。ヨーロッパも中国も、お隣の朝鮮半島でさえその例外ではない。だからこうした組み合わせによる発想自体が、日本以外では生まれようがないのだ。そこに日本人の「造り変える力」の一つの秘密がある。

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

ユーラシア大陸に比し、日本列島に生きた人々が古来、本格的な牧畜を知らなかったことは、日本文化のユニークさを特徴づける大きな要素になっていると思う。縄文人が牧畜を取り込まなかったのか、弥生人が牧畜を持ち込まなかったのか。いずれにせよ牧畜が持ち込まれなかったために豊かな森が家畜に荒らされずに保たれた。豊かな森と海に恵まれた縄文人の漁撈・採集文化は、弥生人の稲作・魚介文化に、ある面で連続的につながることができた。豊かな森が保たれたからこそ、母性原理に根ざした縄文文化が、弥生時代以降の日本列島に引き継がれていったとも言えるだろう。

一方、ユーラシア大陸の、チグリス・ユーフラテス、ナイル、インダスなどの、大河流域には農耕民が生活していたが、気候の乾燥化によって遊牧民が移動して農耕民と融合し、文明を生み出していったという。遊牧民は、移動を繰り返しさまざまな民族に接するので、民族宗教を超えた普遍的な統合原理を求める傾向がが強くなる。

さらに彼らのリーダーは、最初は家畜の群れを統率する存在であったが、それが人の群れを統率する王の出現につながっていく。また、移動中につねに敵に襲われる危険性があるから、金属の武器を作る必要に迫れれた。こうした要素が、農耕民の社会と融合することによって、古代文明が発展していったという。これはまた、母性原理の社会から父性原理の社会へと移行していく過程でもあった。

牧畜を行う地域では、人間と家畜との間に明確な区別を行うことで、家畜を育て、やがて解体してそれを食糧にするという事実の合理化を行う傾向がある。人間と、他の生物・無生物との境界を強化するところでは、縄文人がもっていたようなアニミズム的な心性は存続できないのだ。

牧畜を行わず、稲作・魚介型の文明を育んできた日本は、ユーラシアの文明に対し次のような特徴を持った。

①牧畜による森林破壊を免れ、森に根ざす母性原理の文化が存続したこと。
②宦官の制度や奴隷制度が成立しなかったこと。
③遊牧や牧畜と密接にかかわる宗教であるキリスト教がほとんど浸透しなかったこと。
④遊牧や牧畜を背景にした、人間と他生物の峻別を原理とした文化とは違う、動物も人間も同じ命と見る文化を育んだ。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。
(5)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

次に異民族の侵略、征服を免れた日本という側面から、日本の「造り変える力」を探ってみよう。日本が大陸から適度に離れた島国であることは、日本文化に二つの特徴を与えた。

ひとつ目、日本は大陸の文化を侵略などによって押し付けられたことがなく、自分たちの必要に応じて「いいとこどり」(堺屋太一)することができたことだ。日本人は中国の文明も、間接的にインドの文明も、下っては西欧の文明も、抵抗なくむしろ憧れをもって自由に選んで受け入れていった。そして、他文明の原理原則にこだわらないから、さまざまな文明の要素をくったくなく併存させていったのである。おそらくそれは自分たちの縄文的心性を犯さない限りにおいてであった。だからあれほど熱心に西欧文明から学び取りながら、一神教そのものはほとんど拒否したのである。

自文化のアイティティを根底から脅かすものはほとんど無意識に拒否するという強固な傾向により、一神教だけではなく、奴隷制も宦官も科挙も日本には入ってこなかった。しかし、一度取り入れたものは、その背景にある原理原則にこだわらず自由に組み合わせて、そこから独自のものを生み出すことができた。それぞれの文化の背景にある宗教やイデオロギーに縛られずに、さまざまな要素を融合させてしまう柔軟さは、現代のポップカルチャーにもいかんなく発揮されている。例を挙げればきりがないが、たとえば宮崎駿のアニメ作品のなかにどれだけ神道的な要素や古代中国的な要素や西欧的な要素が融合しているかを見ればよい。

さて、日本が島国であることからくる二つ目の特徴は、日本が異民族による侵略がほとんどない平和で安定した社会だったというこである。異民族に制圧されたり征服されたりした国は、征服された民族が奴隷となったり下層階級を形成したりして、強固な階級社会が形成される傾向がある。たとえばイギリスは、日本と同じ島国でありながら、大陸との海峡がそれほどの防御壁とならなかったためか、アングロ・サクソンの侵入からノルマン王朝の成立いたる征服の歴史がある。それがイギリスの現代にまで続く階級社会のもとになっている。

異民族に制圧されなかったことが、日本を相対的に平等な国にした。異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが、日本人のもっとも基本的な価値感となり、そういう信頼を前提とした庶民文化が江戸時代に花開いたのだ。

江戸の庶民文化が花開いたのは、武士が、権力、富、栄誉などを独占せず、それらが各階級にうまく配分されたからだ。江戸時代の庶民中心の安定した社会は世界に類をみない。歌舞伎も浄瑠璃も浮世絵も落語も、みな庶民が生み育てた庶民のための文化である。近代以前に、庶民中心の豊かな文化をもった社会が育まれていたから、植民地にもならず、西洋から学んで急速に近代化することができたのである。(中谷巌『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること』)

幕末から明治初期にかけてヨーロッパとくにフランスを中心としてジャポニズムと呼ばれる現象が巻き起こった。これもまた、江戸時代の豊かな庶民文化が背景にあり、庶民の生活から生み出された浮世絵や工芸品だったからこそ、当時のヨーロッパ市民階級の共感を呼ぶものがあったのである。

現代の日本も、江戸時代の庶民文化のあり方を引き継いでいる。近年、貧富の格差が拡大したとはいえ、世界の他地域に比べるとまだまだ階級差の少ない社会を形成している。とくに知的エリートと大衆との間の格差が少なく、教養の高い圧倒的多数の大衆が日本の社会を支え、また日本人の創造性の基盤となっている。「初音ミク」が新たな潮流になりつつあるのも、プロではない無数の人々が作曲し、CGを作り、協力しあいながら作品を作り上げていくからだろう。大衆相互の切磋琢磨が、日本人の「造り変えて新たなものを生み出す力」のひとつの源泉となっている。

ここまでの議論をまとめよう。まず日本人の縄文的な古層と現代の最先端のテクノロジーという類を見ない組み合わせが、創造性のひとつの源泉となっている。しかし、それだけではなく、その古層の上に、中国文明やインド文明や西欧文明のさまざまな要素が自由に融合されていった。そして、それらを学びとり、消化し、そこから自由な発想で新しいものを生み出すことのできる層の厚い大衆がいた。これらの特徴は、現代にまで引き継がれ、複合的に働くことで現代日本人の文化的な活力を形づくっている。

(6)森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。
(7)以上のいくつかの理由から、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。
(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。

以上の3項目については、合わせてかんたんに触れておきたい。

日本では、国内に戦乱はあったにせよ、規模も世界史レベルからすれば小さく、長年培ってきた文化や生活が断絶してしまうこともなかった。異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが、日本人のもっとも基本的な価値感となったし、文化の活力となった。

一方で自然災害による人命の喪失は何度も繰り返された。しかし、相手が自然であれば諦めるほかなく、後に残されたか弱き人間同士は力を合わせ協力して生きていくほかない。東北大震災の直後に見せた日本人の行動が、驚きと賞賛をもって世界に報道された。危機に面しても混乱せず、秩序を保って協力し合う日本人、それは日本の歴史の中で何度も繰り返されてきた日本人の姿であった。地震を筆頭に 日本の自然は不安定であり、 いつも自然の脅威にさらされてきた。それが日本人独特の 「天然の無常観」(寺田寅彦)を生んだ。その無常観が、絶対的なイデオロギーを信じない、日本人の相対主義を強めたのかもしれない。

日本は、異民族との激しい闘争をほとんど経験してこなかったために、儒教であれれキリスト教であれ、宗教による強力な一元的支配を必要としなかった。イデオロギーなしに自然発生的な村とか共同体に安住することができた。強力な宗教やイデオロギーによる社会の再構築を経ず、村的な共同体から逸脱しないで、それをかなり洗練させる形で、大きくしかも安定した、高度な産業社会を作り上げてしまった。ここに日本のユニークさと創造性のひとつの源泉がある。

西洋人は、そしてユーラシア大陸の多くの民族も、宗教やイデオロギーのような原理・原則の方が優れていると思っている。ところが日本人は、イデオロギー的な宗教支配なくして、とくにキリスト教なくして、キリスト教から派生したはずの近代国家を形成した。農耕文明以前の、自然崇拝的な精神を基盤としたまま高度産業社会を発展させた。

この事実は、文明史的な観点からいってもきわめて特異なことだろう。その特異さは、文化的な観点からいってもきわだっている。宗教などによる一元的な価値観の支配なくして高度に現代的な社会を営み、しかも世界のあらゆる文化的アイテムを相対化して自由に使いこなしながら、相対主義的な価値観にたった作品を次々の生み出してく。

一元的な宗教を基盤とし、多少なりともハードな統合性をもった文化から見ると、日本のポップカルチャーはどこか無原則的に見えだろう。しかし、その何でもありの柔軟性や融合性の中から思いがけない発想の作品が生まれてくる秘密があるのだ。堅固な宗教的基盤を背景にする国々は、日本のアニメやマンガに接すると、自分たちがよって立つ文明原理を根底から揺さぶり動かされるような衝撃と、同時に魅力を感じるのかもしれない。

マンガ・アニメの創造性と相対主義的な価値観との関係は次の記事を参照されたい。

マンガ・アニメの発信力と日本文化(3)相対主義
マンガ・アニメの発信力と日本文化(4)相対主義(続き)
ジャパナメリカ02


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《関連図書》
★『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること
★『格差社会論はウソである
★『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
★『日本の曖昧力 (PHP新書)
★『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力
★『世界が絶賛する「メイド・バイ・ジャパン」 (ソフトバンク新書)
★『日本型ヒーローが世界を救う!
★『世界カワイイ革命 (PHP新書)


いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力②

2017-03-29 23:06:46 | 書評:日本人と日本文化

◆『いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力

引き続きこの本に触れながら日本文化の「造り変える力」の秘密を追ってみたい。著者は、日本が太古の昔から積み重ねてきた文明は、伝統的価値観である「和」の原理と「共生」の思想を核とするといい、そこに「造り変える力」の源泉を見る。この二つの価値観が外国の文物を取り入れる取捨選択の規準となるというのだ。これらの価値観に合わないものは、たとえ日本に導入されたとしても根づくことはない。または日本の実情に合ったものへと造り変えられてしまうのだ。とすれば「造り変える力」とは正確に言えば、海外から取り入れたものを自分たちの社会や文化に合うように変形する力だといえるだろう。

著者は、日本人は古来、国外から移入したものが日本の社会に合うかどうかを判断する「本能的感覚」をもっているという。日本の根本原理に合わないものは、不自然なものとして排除や造り変えが行なわれる。日本という社会の根底を揺るがす事態に直面したとき、この「皮膚感覚」が働いて、日本という国を守ってきたいうのだ。

私もこの見方に心から同意する。私たちの「皮膚感覚」が健在であるかぎり、日本が何らかの危機に陥っても、再びもとの日本へと戻ることが出来るのではないだろうか。たとえばグローバリズムやTPPなどによって極端な市場原理主義や新自由主義の経済が蔓延したとしても、これは「和」と「共生」の原理に合わないと「皮膚感覚」で感じるかぎり、再び排除するか、日本人の肌に合った共生の資本主義へと変えていく可能性があると思う。もちろん最初からそれらに侵されないに越したことはないが。私たちの「本能的感覚」がまだ生きていて働いてくれるかどうかだ。

さて、「本能的感覚」や「皮膚感覚」という形で日本人が無意識のうちにもっている根本原理とは何なのか。「和」や「共生」といってもいいが、少し漠然としすぎている。そこで、これまでこのブログで追求してきた、日本文化のユニークさ8項目に沿って検討しよう。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

日本人が、自分たちの文化の根本原理に合うかどうかを本能的に嗅ぎ分ける規準は、おそらく縄文時代以来受け継いできた深層の記憶だ。本格的な農業を伴わない新石器文化という、世界的にも特異な縄文文化を、私たちの祖先は1万年以上生きてきた。新石器時代の人類としては類を見ない、本格的農耕を伴わない「自然との共生」を、世界の他地域よりも驚くほど長期にわたって保ち続けていたのである。その体験の記憶が、私たちの価値観の根底に生きていたとしても不思議ではない。

今に至るまで生き続ける縄文時代の記憶。そのひとつは、豊かな「自然との共生」を基盤とする宗教的な心性である。たとえば、現代の日本人がもっている「人為」と「無為」についての感じ方をみよう。日本人は傾向として、意識的・作為的に何かを「する」ことよりも、計らいはよくない、自然のまま、あるがままの方がよい、という価値観をかなり普遍的に共有していないだろうか。私たちの美意識の中にもそういう傾向が色濃く残っていて、けばけばしい作為的、人工的な美よりも、自然にかぎりなく近い、計らいのない美しさにひかれる。

こうした傾向は、老荘思想や仏教の影響から来ているともいえなくもないが、それ以前の私たちの祖先の生活がつよく影響しているのではないか。農耕という、ある意味で作為的な営みよりもはるかに長く、自然と「共生」する生き方を続けていた縄文人の記憶が、弥生時代以降も残り続け、それが老荘思想や仏教思想と共鳴し、現代人の心の中にまで連綿と受継がれてきたのではないか。

ふたつには、農耕の発達にともなう階級の形成や、巨大権力による統治を知らない平等な社会が1万数千年も続いたことから来る強い平等意識である。縄文時代は、素朴で平和な共同体を営み、支配・被支配の関係がほとんどない平等社会だった。たしかに縄文中期以降は、階級差を示唆する遺跡も存在するが、巨大権力は生まれなかった。それは、先に見たように縄文社会が妻問婚に基づく女系社会だったことによるのかもしれない。自然に恵まれ山海の幸が豊かだったため、穀物農業をあえて受容せずに済んだからかもしれない。穀物は貯蓄が容易なため貧富や階級差が生まれやすいのだ。いずれにせよ、階級差の少ない長い平和な時代の体験が、その後の日本に何らかの影響を与えていったのは確かであろう。

縄文時代の記憶が、のちの時代に生き残っていった理由は次のようなものだろう。第一に、縄文時代から弥生時代への移行が、弥生人による縄文人の征服、縄文文化の圧殺という形で行われたのではなく、両者の融合というかたちで進んだこと。そのため縄文文化が濃厚に引き継がれたのである。第二に、日本列島は、国土の大半が山林地帯だったこと。日本の水田稲作の特徴は、狭小な平野や山間の盆地などで、ほぼ村人たちの独力で、つまり国家の力に頼らずに、灌漑設備や溜池などを整備してきたことだ。つまり巨大な権力やその維持のための強力なイデオロギーは必要なく、そのため縄文時代以来のアニミズム的心性や平等主義の文化が圧殺されにくかったのである。

こうして、縄文人の一万数千年の記憶が日本人の心の中の生き続けた。またそれが無自覚の規準となって、その基準に合わないものは排除したり、変形したりしようとする原動力となったのであろう。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

縄文時代の母性原理の社会という特徴は、つい最近も論じたばかりなのでここでは繰り返さない。「自然との共生」とは、「母なる自然」の懐に抱かれて生きるという意味である。縄文以来の母性原理を基盤にした文化は、現代に至るまで私たちの心の中に連綿と続いている。そしてこれもまた私たちの内面で強烈なフィルターとなっていて、あまりに父性原理的な制度や文化には、拒否反応を示す。キリスト教が日本でほとんど広まらないのは、その強烈な父性原理のためだともいえよう。

さて、8項目のうち残りの(3)~(8)ついては、次回に回すことにしたい。

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現代人の心に生きる縄文02縄文語の心
平等社会の根は縄文か:現代人の心に生きる縄文03
縄文の蛇は今も生きる:現代人の心に生きる縄文04

《関連図書》
文明の環境史観 (中公叢書)
対論 文明の原理を問う
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)
環境考古学事始―日本列島2万年の自然環境史 (洋泉社MC新書)
蛇と十字架


いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力①

2017-03-29 22:23:08 | 書評:日本人と日本文化

◆『いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力

著者は、ウクライナ兼モルドバ大使をはじめ、イギリス、インド、イスラエル、タイ、キューバでの勤務経験をもつ外交官である。その豊富な外国経験から、多くの発展途上国が共通に、日本から是非とも学び取りたいと思っていることがあるのを知ったという。それは、日本がどのようにして近代化と文化のアイデンティティを両立させながら経済的繁栄を成し遂げたがということである。世界、とくに発展途上国から見ると、日本が日本らしさを失わずに近代社会を築いたことが奇跡と見えるらしい。生活水準は向上させたいが、伝統的な人間関係や共同体も失いたくない。日本はどのようにしてこの二つを両立させることができたのか。

その秘密を著者は、日本が古くからもっている「造り変える力」にあるとみる。それは西欧文明に代表される「破壊する力」に対比される。「破壊する力」は、一神教の対立的世界観に基づく権力政治の論理であり、西洋の植民地主義にみられる弱肉強食の論理である。16世紀のスペインによるラテン・アメリカの征服が、いかに残虐な「破壊する力」を行使したか、いまさら語るまでもないだろう。

こうした西欧の「破壊する力」に対し、日本人の「造り変える力」は、能動的な破壊力や攻撃力ではなく、一見消極的で受け身にみえる。しかし結果としてとてつもない力を発揮する。それは、外来の文物を受け入れながら、そのまま導入するのではなく、日本の伝統にあった形に変えて受け入れていく力である。しかも多くの場合、元の物より優れたものに改良してしまうのである。

たとえば中国文明を受容するにしても、そのままではなく独特の「造り変え」を行った。漢字という文字の体系をそのまま受け入れるのではなく、訓読したり仮名文字を発明したりして、あくまでも日本語の体系の中で使いこなしていった。長安の都市構造を真似ながら長安にあった強固な城壁は省略した。儒教を学びながら科挙は受け入れなかった。宦官も纏足も受け入れなかった。仏教を受け入れる際も、本地垂迹説や神仏習合思想によって神道と共存する形に「造り変え」を行った。

明治以降は、あれほど熱心に物心両面にわたって西欧文明を受け入れながら、その中核をなすキリスト教の信者は、総人口の1パーセントを大きく超えることはなかった。いわゆる「和魂洋才」だが、もちろん洋魂を無視したわけではない。洋魂も洋才も日本の伝統や習慣に馴染むように「造り変えた」のである。

(なお、本ブログでも、日本でキリスト教が広まらなかった理由を何度も考察してきた。その代表的なのは以下のものである。参照されたい。→キリスト教を拒否した理由:キリスト教が広まらない日本01

この「造り変える力」はどこから来たのか。著者はフランスの駐日大使だったポール・クローデルの言葉をかり、日本は太古の昔から文明を積み重ねてきたからこそ、欧米文化を導入しても発展することができたのだという。つまり、明治初期の日本文化の水準が欧米文化を吸収して自分なりに消化できるレベルに達していた。さらに、日本文明がすでに高度な文明だったからこそ、欧米文化に一方的に圧倒されることなく、それを上手に独自な形で摂取し、発展させることができたというのである。

確かにその通りだろうが、これだけではもう一つ大切な要素が抜け落ちていると私は思う。実はこれについても本ブログでずいぶんと考察してきた。たとえば以下の考察である。

『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
『日本辺境論』をこえて(2)『ニッポン若者論』
『日本辺境論』をこえて(3)『欲しがらない若者たち』
『日本辺境論』をこえて(4)歴史的な変化が
『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら
『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力
『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力
『日本辺境論』をこえて(8)日本史上初めて
『日本辺境論』をこえて(9)現代のジャポニズム

日本は「辺境」の島国であったために、これまで「世界標準」や「普遍的な文明」を生み出すことはなかった。大陸で生まれた「世界標準」をひたすら吸収してきた。そうやって形成された日本の文化は、「受容性」を特徴としていた。それは、もっぱら「師」から学ぶ姿勢で吸収し続けることである。そうやって中国文明を吸収し、それを自分たちの伝統に添う形で洗練させ、高度に発展させてきた。異民族に侵略・征服された経験をもたない日本は、海の向こうから来るものには一種の憧れをもって接した。そして外来の優れた文物(自分たちにとってプラスになるという意味で)だけをいいとこ取りして、利用することができた。西欧諸国による侵略を免れた日本は、かつて中国文明に接したときと似たような態度で、西欧文明に憧れ、その優れたところだけ(自分たちに必要なところだけ)を吸収することができたのである。

これに対して中国やインドはどうであったか。それらはいずれも「辺境」ではなく、かつて「世界標準」を発信した誇り高き文明であった。しかも近代、西欧文明の「破壊する力」の犠牲となり、その負の面をも実感として嫌というほど知っていた。だから「辺境日本」の如き、純粋な少年が崇拝する師に憧れ、夢中で師から学び取ろうとするような姿勢は取りえなかった。師を仰ぎみる純粋な少年と、その「破壊する力」にかつての栄光を粉々に打ち砕かれた年配者とでは、その吸収力に雲泥の差があったとしても不思議ではない。

もう一度、最初の問いに戻ろう。日本人が、外来の科学や文化を日本の伝統や習慣に合わせて「造り変える力」はどこから来るのか。実は、この問いヘの答えは、本ブログが、日本文化のユニークさを8項目の視点として論じてきた、ほとんどすべての項目に関係していると思う。次回は、この8項目との関連で、日本人の「造り変える力」の秘密をさらに詳しく追ってみたい。

《参考文献》
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)

 


縄文思想が世界を変える

2017-03-29 22:09:34 | 書評:日本人と日本文化
■『縄文思想が世界を変える―呉善花が見た日本のミステリアスな力 (麗沢「知の泉」シリーズ)

◆日本人の侘び、寂びという美意識はわかりにくい。しかしその美意識は現代の若者の中にも息づいている。たとえば秋に感じる日本人の情緒は、秋そのものが、秋が象徴する衰えた生命そのものが感動の対象となる。そのような情緒が庶民の美意識にまでなっているのは日本だけだ。日本人のこうした美意識は、仏教的な無常観から生じたのではなく、元来日本にあった美意識が仏教と結びついて「もののあわれ」となり、人々の愛だに広く根をおろしたに違いない。P65

☆『宗教と日本人』の中で「天然の無常」という寺田虎彦の言葉が紹介されている。大思想によって学んだのではなく、日本の自然的・地理的条件によって、天然に生まれた無常観。それが仏教の無常観と結びついていった。それが「高貴な無神論」「淡白な無私の精神」の基調をなしていた。呉善花は、これを美意識と結びつけて日本文化の特徴を語っている。逆に言えば、美意識となったが故に、無常の意識が真に徹底されて宗教的に深い次元を開くということが少なかったのかもしれない。

◆西洋近代に発する市民社会の基本には、自立した諸個人がそれぞれのプライバシーを重んじながら、同時に社会的な約束事を遵守し合うという社会契約的な考えがある。それに対して日本的な自己主張の弱さは、その人がたとえひとつの普遍的な観点を持っていても、それを他人に押しつけないという利点を持っている。そうしてこそ、主義・主張が異なろうとも、多元的な人間関係を横に広げていくことが可能になるのではないか。日本人の社会にも西欧に源をもつ普遍的な精度があるが、日本の社会秩序はそれによって保たれている部分より、生活する人々の間での自然な調整作用の働きで「自動的に」保たれている部分のほうが多いのではないか。

☆これは鋭く日本の社会の本質をえぐった洞察だと感じる。『目覚めよ仏教!』の中で、日本人の自立性のなさを嘆く部分があるが、あの本のつまらなさのひとつは、そういう日本人や日本文化への陳腐で図式的な理解にあるのだと思う。


すべては宇宙の采配

2015-05-11 21:36:53 | 書評:科学と心と精神世界
◆『すべては宇宙の采配

著者が、無農薬・無肥料でリンゴ栽培を成功させるまでの苦しみとその後の劇的な展開が興味尽きない。

自分のやり方でまったく成果がでず、収入もなく追い詰められて自殺を決意するところまでいく。ロープをもって岩木山に登っていき、ある木にロープをひっかけようとするがうまくとまらない。飛んでいったロープを取りにいくと、ちょうどロープが落ちたところに野生のリンゴが3本あった。その根元がふかふかで、ほのかな土の香りがした。自分のリンゴ畑の固い土との差に驚く。「そうだ、畑の土を自然な状態にすればよいのだ」と、家に戻った。それ以来、農薬のかわりのにんにくや牛乳もまかず、下草も生えるにまかせた。すると多種多様な雑草が生え、野うさぎ、野ねずみ、テン、イタチがやってくるようになり、害虫の蛾を食べるカエルも大発生した。大ミミズも増えて土を豊かにし、野生の王国の食物連鎖が始まったのだ。そして、自殺を思って入った山で偶然見つけた野生のリンゴの木(実際はリンゴではなかったようだ)の下のふかふかの土と同じになり、ついに無農薬・無肥料のリンゴ栽培に成功するのだ。

福岡正信の『自然農法 わら一本の革命』を読んだことが、彼のその後の人生を変える。著者の農法も自然農法の一種といってよいかも知れないが、福岡正信の農法と違い、一切を自然に任せてしまうわけではない。ともあれ、リンゴの果樹園に、自然のバランスを取り戻すことで無農薬・無肥料のリンゴ栽培ができるようになったという事実に強く引かれる。人為によって分断されない自然の連鎖の中に真の豊かさがある。

この本には他に、著者のUFO体験や臨死体験などがストレートに語られている。少し無防備に語りすぎるのではないかと心配になるほどだが、そのバカ正直さこそがこの人の魅力なのであろう。著者の体験が面白いのは、たとえばUFO体験で一緒だった人が、その後テレビ番組に出ているのを見て、自分の共通の体験を語るなど、なにかしらの裏づけになるような体験が続くことだ。それでも信じられない人は多いだろうが。

いずれにせよ、私の中の自然農法への昔からの関心をよみがえらせてくれた本だ。

存在することのシンプルな感覚

2015-05-11 20:06:46 | 書評:心理学
◆『存在することのシンプルな感覚

トランスパーソナル心理学の代表的な理論家ケン・ウィルバーの膨大な著作のなかから、そのエッセンスを選び、テーマ毎に配列した本だ。ウィルバーの理論の核心的な部分が、ウィルバー自身の言葉で簡潔に紹介されており、ウィルバー思想へのよき入門書となるだろう。私自身、ウィルバーの思想の核心をもう一度確認するのに役立っている。

訳者も触れているように、ウィルバーの言葉は理論的な部分よりも、直接「スピリット」について語り、「スピリット」を指し示すときにもっとも輝く。本書は、そのような言葉が多く集められている。魂に直接訴えかけてくるような言葉が多いということだ。

たとえば以下は、いずれも『ワン・テイスト』からの引用だ。

「もしあなたが、この『自己』ないし『スピリット』を理解できないと感じられたら、その理解できないということに落ち着かれるとよい。それが『スピリット』なのである。」

「エゴというのは単なる事象ではなく、微妙な『努力』(何らかの目的を達成するための目標)なのであり、努力して切り捨てることはできない。それでは、あなたは一つの努力のかわりに二つの努力をもつことになってしまう。エゴそれ自体が神性の完全な顕現なのであって、それは切り捨てようとするかわりに、ただ自由のなかに安らいでいることがエゴに対処する一番良い方法である。」

この本を読んであらためて思ったことがある。魂の成長や覚醒、さらにひろく精神世界に関心のあるものにとって、ウィルバーの思想はきわめて貴重な全体的な見取り図の役割を果たしているし、これからも果たし続けるだろうと。もちろんこの見取り図をそのまま信じる必要はない。しかし、これまでここまで包括的な見取り図は存在しなかった以上、まずはこれをもって自らが旅に出ればよい。その上でもし見取り図に修正すべきところを感じだら、自分で修正すればよい。

ともあれほとんど地図らしきものがなかったところへ、きわめて広範で精度の高い地図が与えられたのだ。これまでは、こうした地図すらないところを手探りで進まなければならなかったのである。しかし、今はこの見取り図がある。その意味は、はかり知れず大きい。

生きる意味の探求

2015-05-11 19:39:47 | 書評:科学と心と精神世界
◆『生きる意味の探究―退行催眠が解明した人生の仕組み

これまでに読んだ退行催眠による過去生の探求や、いわゆる「前世療法」を扱った本に比べると、実証的な姿勢がある点がよい。クライエントが語った過去生の記憶を実証的に確認した結果をある程度語っているのだ。ただ全訳ではないので、もっと実証的な部分は翻訳では省略されているかも知れない。少なくとも、いくつか挙げられた事例から判断して、実証的に確認できる事例を、著者がかなり持ってい るようだということは分かる。

一例を挙げよう。アメリカ人である女性が、アレックス・ヘンドリーという男性として19世紀後半のスコットランドに暮らしていた人生を語った。アレックスは、肉体的なハンディキャップを克服し、エディンバラ大学で医学を修めた。その生き生きとした大学生活の描写は、証明可能な二つの事実を含んでい た。

ひとつは家族がハンプシャーに住んでいたこと。もうひとつは、彼が1878年に医学校を卒業したことだった。こうした100年以上前のスコットランドの一無名人の情報を、クライエントが入手できたはずはないが、勉強のたいへんさや、家族からのプレッシャーを語る彼女の描写は真実味が溢れていたという。

著者はその後、エディンバラ大学に問い合わせて返事を受け取った。「アレクサンダー・ヘンドリー。スコットランド、バンプシャー郡カラン出身。1878年、医学士過程及び修士課程終了。」

この本でも改めて確認したのは、クライエントが過去生で死ぬ場面を語る描写が、臨死体験者の報告とほとんど同じだということだ。これは驚嘆に値する。体外離脱、上から自分の肉体を見る、愛を発散する光に包まれる等々。これも具体例を示そう。

「自分の遺体が見えます。自分の体を、見下ろしているんです。暴徒たちは、その遺体に覆いかぶさるように立っています。ひとりの男が、足で私の遺体をひっくり返して、何かぶつぶつほかの人たちに話しかけています。遺体を運び去ろうとしているんです。もう、自分の肉体にとどまりたいとは思いません。自由になったんです。そして光が‥‥‥とっても感じのいい光です。安らかな気持ちにさせてくれ ます‥‥‥恐怖も苦痛も消えました。私は自由になったんです。」

もちろんこれは退行催眠で過去生での死とそれに続く場面を思い出しているのだが、臨死体験についてある程度知る人なら誰でも、両者の驚くほどの類似性を認めるだろう。

著者は言う、「退行したクライアントがどんな宗教を信じていようと、過去生での死の体験は、みな驚くほどそっくりである。死とは移行の瞬間であり、平和と美と自由の瞬間である。着古してくたびれた衣装を脱ぎ捨てて、新しくもあり、またふるさとのように馴染みある世界へと、踏み込んでいく瞬間なのである。」

多くのクライアントが繰り返し語る死の特徴は、「身の軽さ、浮遊感、自由さ」だというが、これはまた、多くの臨死体験者が繰り返し語る特徴でもあるのだ。

臨死体験の報告と一つだけ相違する部分があるとすれば、退行催眠ではトンネル体験を語るものは、ほとんどいないらしいということだ。

それにしてもきわめて高い共通性があるのは確かで、今後しっかりとした統計的な比較研究をする必要があると思う。これほど臨死体験が知れ渡っている以上、ほとんどのクライエントはその内容を知っているだろうから、たんに共通性が高いだけでは、あまり意味をなさない。細部に渡る比較研究のなかで、この共通性が積極的な主張につながるかどうかを検討しなければならない。

クライエントが語る「中間生」、時空のない世界の描写にも、臨死体験の報告と高い共通性がある。「宇宙を満たす感触、すべての生物を包み込む感触、見えるものも見えないものも含めたすべてのものの真髄に触れる感触、あらゆる知識に同化して文化の制限を超えた真実に目覚める感触、それが、中間生である。」

悟りにも似た精神変容を遂げる臨死体験者も、同様の世界に触れた体験を語ることは臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証』の読者なら、容易に理解してくれるだろう。

中間生の描写は、別項で取り上げた『魂との対話』での「魂」のあり方とも非常によく似ている。「魂」は、それ自体、時間による制限を受けず、時間の外側に存在している。「魂」の視野は広大で、その知覚はパーソナリティー(個々の人生を生きる自己)のもつ限界を超越している。パーソナリティーは、愛や明晰さ、理解、思いやりなどに自身を同調させることで「魂」に近づく。

退行催眠は、クライアントが療法家の世界観の影響を無意識に受けやすいという面があるかも知れない。そうした点に充分慎重である必要はあるが、著者が豊富な臨床例から解明した「人生の仕組み」を参考にして見る価値は充分にあると思った。人生という名の学校で、私たちは、繰り返し学び続けているのだという「仕組み」 を。

「甘え」の構造

2015-05-10 22:49:14 | 書評:日本人と日本文化
◆『「甘え」の構造 [増補普及版]

1971年に出版されて以来「日本人論」「日本文化論」の代表的な著作のひとつとなった本である。

甘えは、本来人間に共通な心理でありながら、「甘え」という語は日本語に特有で、欧米語にはそれにあたる語がない。ということは、この心理が日本人や日本の社会にとってはとくに重要な意味を持ち、それだけ注目されるということだろう。

著者は、日本で理想的な人間関係とみなされるのは親子関係であり、それ以外の人間関係はすべてこの物指しではかる傾向があるのではないかという。ある人間関係の性質が親子関係のようにこまやかになればなるほど関係は深まり、そうならなければ関係は薄いとされる。著者はとくに明言しているわけではないが、この理想とみなされる親子関係は、もっとも理想的な形では母子関係が想定されているのではないだろうか。

親子関係だけは無条件に他人ではなく、それ以外の関係は親子関係から遠ざかるにしたがって他人の程度を増す。この事実は「甘える」という言葉の用法とも合致していると土井は指摘する。つまり親子の間に甘えが存在するのは当然である。しかも甘えは、母子関係の中にこそ、その原形がある。これは、幼児と母親の関係を思い出せば誰もが納得するはずだ。とすれば日本人はやはり、無意識のうちにも母子関係のような利害が入り込まない一体性を人間関係の理想と見ているのである。

だからこそ、「甘え」という言葉が日本語の中で頻繁に使われる。それだけではなく甘えの心理を表現する言葉が他にも多数存在していて、それらを分析すると日本人の心理構造がはっきりと浮かび上がってくるというのである。その分析が説得力があったため、以後「甘え」の語は、日本人の心理を語るうえで欠かせないキーワードとなった。

たとえば「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」はいずれも甘えられない心理に関係するという。すねるのは素直に甘えられないからであり、しかし実際はすねることで甘えているともいえる。「ふてくされる」「やけくそになる」は、いずれもすねが高じ、なお甘えられない結果である。ひがむのは、甘えたいのに自分だけが甘えられないと曲解することである。ひねくれるのは、甘えないでかえって相手に背を向けることだが、どこかに甘えの感情があるからそうなるのだ。

ある欧米の研究者は、日本語の「甘え」にあたる心理を「受身的対象愛」という用語で表現し、研究していたが、それに相当する日常語が日本語のなかにあることを聞いて驚いたという。さらに甘えが挫折した結果として起こる特殊な敵意を表す「うらむ」という語もあることを知って、いたく感激したという。

著者は、この他「たのむ」「とりいる」「こだわる」「気がね」「わだかまり」「てれる」など日本人に馴染みの感情を甘えの心理との関係で分析していくが、ここでは省略する。ここでは最後にひとつだけ「遠慮」という言葉と甘えとの関係を取り上げよう。

「遠慮」という日本語は、現代では人間関係の尺度を測る意味合いで使われるようである。たとえば親子の間には遠慮がないが、それは親子が他人ではなく、その関係が甘えにどっぷりと浸かっているからである。この場合、親も子供もたがいに遠慮がない。親子関係以外の関係では、親しみが強いほど遠慮は少なく、親しみが薄くなるほど遠慮は増す。親友同士は遠慮がないが、遠慮を感じる友人もいる。要するに日本人は、できれば遠慮のない関係がいいと感じ、遠慮し合う関係をあまり好ましいとは思っていない。これも、日本人がもともと親子関係、とくに母子関係に典型的な一体感をもっとも望ましいものとして理想化しているからだろう。

タテ社会の人間関係

2015-05-10 22:44:41 | 書評:日本人と日本文化
◆『タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

代表的な「日本人論」「日本文化論」とひとつとだろう。1967年初版発行だから『甘えの構造』よりは4年早い。『甘えの構造』の中でも、甘えとの関係でこの本について言及している。

甘えは本来人間に共通の心理現象でありながら、日本語の「甘え」に当たる言葉は欧米語には見られない。この事実は、甘えの心理が日本人にとって身近であるばかりでなく、甘えを許容するような社会構造が日本には存在することを物語る。「甘え」という言葉は、日本の社会構造を理解するためのキー概念ともなるのではないか、日本社会で甘えが重要な働きをすることは、『タテ社会の人間関係』でいうタテの社会構造と一体をなしているいるのではないかと土井は指摘する。

甘えとタテ社会とは、どのようにつながるのだろうか。日本がタテ社会だというのは、タテの人間関係つまり上下関係が厳しいということだという誤解があるかもしれない。しかしこれは俗説であり、欧米の会社での管理者と労働者との上下差の方がはるかに大きく、厳しいという面もある。

タテ社会とは、ヨコ社会と対をなす概念である。日本人は、外(他人)に対して自分を社会的に位置付ける場合、資格よりも場を優先する。自分を記者、エンジニア、運転手などと紹介するよりも、「A社のものです」「B社の誰々です」という方が普通だ。これは、場すなわち会社・大学などの枠が社会的な集団認識や集団構成に大きな役割を果たしているということである。すなわち記者、エンジニアなどの資格によるヨコのつながりよりも、会社や大学などの枠(場)の中でのつながり(タテの序列的な構成になっている)の方がはるかに重要な意味をもっているということである。

日本の労働組合が、企業という枠を超えた職種によるヨコの組織になっておらず、職種の違いに関係なく企業単位の組合になっていることは、場や枠を重視する日本のタテ社会の特徴をみごとに現している。

「タテ社会」日本の基本的な社会構造が、企業別、学校別のような縦断的な層化によって成り立っているのに対し、「ヨコ社会」は、たとえばインドのカースト制度や西欧などの階級社会のように横断的な層化をなしている。「ヨコ社会」では、たとえば職種別労働組合のように資格によって大集団が構成され、個人の生活や仕事の場にかかわらず、空間的な距離を超えて集団のネットワークが形成される可能性がある。

日本人にとって「会社」は、個人が一定の契約関係を結ぶ相手(対象・客体)としての企業体というより、「私の会社」「ウチの会社」として主体的に認識されていた。それは自己の社会的存在や命のすべてであり、よりどころであるというようなエモーショナルな要素が濃厚に含まれていた。つまり、自分がよりかかる家族のようなものだったのである。もちろん現在このような傾向は、終身雇用制の崩壊や派遣労働の増加などで、かなり失われつつある。しかし、それに替わってヨコ社会が形成されはじめたわけではなく、依然として日本の社会は基本的にタテ社会である。

終身雇用制が崩壊していなかったころは、会社の従業員は家族の一員であり、従業員の家族さえその一員として意識された。今でもその傾向はある程度残っているだろう。日本社会に特徴的な集団は、家族や「イエ」のあり方をモデルとする「家族的」な集団でなのである。そして家族が親と子の関係を中心とするのと同様の意味で、集団内のタテの関係が重視される。そこでは、家族的な一体感や甘えの心理が重要な意味をもってくるのは当然である。

自我が揺らぐとき

2015-04-07 21:46:18 | 書評:科学と心と精神世界
◆『自我が揺らぐとき―脳はいかにして自己を創りだすのか』(トッド・ファインバーグ、岩波書店、2002年)

★脳研究の中心的な課題
《まとめ》自己の維持にはたくさんの脳の領域がかかわっていて、まとまりのある自己が存在するほうが奇跡としか思えない。さらに両半球が分断されても心の統合が維持れている不思議。
 
脳は神経解剖学的にきわめて多様であるにもかかわらず、統合された「わたし」を生み出す。しかも、自己を形成する主観的な体験に対応する統合された均質な実体は見当たらない。脳の構造がこれほど多様なのに、それぞれの「内なる」視点には、主観的な意識が統合されたひとつのものとして映るのか。

この疑問の回答を求めることが現在の脳研究の中心的な課題となっている。(P165~P167)

★「目的論」的な視点
ということで、この課題に対する興味深いのはファインバーグの答だ。統合さてた〈わたし〉が生み出される不思議については、茂木の論述と比較すると興味深い。近日中に『脳内現象』の方でまとめる予定だ。

茂木よりも、意識の問題の根源性を深く理解した上で議論を進めている面もある。たとえば、茂木がほとんど評価しない「創発」とう考え方を、その理論の中に充分活かしている。さらに、私がその必要性を指摘した「目的論」的な視点からの考察も行っている。

では、ファインバーグが意識の独立性を認めているのかどうかとなると、非常に微妙なのだが、ともあれ少し彼の理論を追うことで、茂木を批判する視点も鮮明になるかも知れない。

★機械の中の幽霊
《まとめ》私が、腕を上げようと思って腕を上げる。そのとき「内なる私」が行動を発する場所として体験されている。その「私」が、意識的に意志を遂行して腕を上げる。

そして神経内科医が、その「意志」の源泉を私の脳のなかに探し求める。だが行動の源である中心地、統合と統一の物理的な所在地はどこにも見つからない。命令をくだす「私」という「最高司令官」神経細胞は脳にはない。運動システムには、ギルバート・ライルの有名な言葉で言えば「機械のかなの幽霊」は存在しない。統一的な意志の源泉となる場や階層構造のトップは存在しない。

運動の階層と同じように知覚の階層でも、物質的な「最上部」はないようだ。自己という観点から見ると、私は「いま・この」私のなかにある統合された人間として自分を体験している。神経科学は「機械の中の幽霊」を発見できない。ホムンクルスも、内なる統合された「生物的な魂」も見つからない。(『自我が揺らぐとき』P181~P185)

★「わたし」の痛み
一切の知覚は、「自己」という統一的な場において経験される。痛みは、私の痛みとして「自己」という場において経験される。それは、誰の痛みでもなく、紛れもない「私」の痛みだ。痛みという知覚は「自己」という場に統一されている。一切の知覚を統合し、統一する場がなければ、痛みもかゆみも、寒さも暑さも、うまさもまずさも、美しい音楽も耐え難い騒音も、私の経験とはなりえない。にもかかわらず、入力される一切の情報を統合する「最上部」はないというのだ。だとすれば、入力も出力もいったいどこで統合されて、「私」の知覚や運動になるのか。

茂木は、『脳内現象』のなかでこの問題に果敢に挑戦している。ニューロンの関係性のネットワークにその答えがあるという。しかし、その論証が成功しているとはいないようだ。この点は、『脳内現象』のまとめで追って検討する。

★創発
《まとめ》心のエッセンス、意識と自意識は、物質的な脳の「部分の総和」を越えている。これは、非物質的な心が物質的な脳の多くの部分から「創発」するを意味する。生物における創発とは、階層的に編成されたシステム(有機体)において、複雑なそれぞれのレベルが下位のレベルとは違った真に新しい特性を生み出すときに起こる。創発はまた、予測不可能であり、階層構造の下位レベルについて完璧な知識をもっていても、高位レベルでどんな特性が創発されるかを予測できない。その意味で、創発された特性は「部分の総和よりも大きい」。

創発理論のもう一つの重要概念は「制約」である。人体の各器官は、細胞を制約して酵素を分泌させ、人体は消化器や呼吸器を制約して、生命維持に必要な機能を行わせる。この関係は相互的な場合が多く、例えば肺が呼吸しなければミトコンドリアの細胞呼吸を制約しているが、ミトコンドリアは、酸素からエネルギーをつくることで、肺呼吸に寄与している。

次に重要な概念は、非還元性、つまり創発システムによって創られた総体は、単純に構成要素の特質によって説明することも、構成要素に還元することも出来ないということだ。(『自我が揺らぐとき』P187~P190)

★創発理論は科学ではない?
以上の、一般的な創発理論を踏まえて、心とは脳の創発的特性であると言えるかどうかを検討していくことになる。

創発理論が高位レベルと低位レベルとの間に見る関係は、アーサーケストラーのホロン理論を思い起こさせる。生物の進化の過程においては、確かに「創発」が生起していると思われるが、しかし、これは還元主義的な科学の考え方とは相容れない。

ある種の実体が別種の実体にほかならない、椅子は分子の集合にほかならないという「存在論的還元」は、科学の歴史上重要な考え方でである。物質は、一般に分子の集合にほかならず、また身体の運動は、神経の筋の生理学に還元されるのである。この考え方からすれば、心が脳の創発であるという創発理論は、科学ではないとされるであろう。

★非物質的な心の創発
分離脳の研究者ロジャー・スペリーは、心は物質的な脳から生じる創発的な現象であると主張した。心は物質的な脳の「部分の総和以上」のものであり、脳の肉体的な限界を超えている。統合された「わたし」は脳全体の神経の階層構造の頂点にあり、それゆれ心は脳には還元できないし、脳のような物質的な存在ではない。一方、心は物質ではないが、脳に物質的現象を引き起こすことができる。したがって非物質的な心は物質的な脳との因果関係をもっていて、脳を制約するとスペリーは言う。

ファインバーグは、これに対して「脳や自己の物質的な頂点は存在しない。心が脳の頂点に現われるという考え方には何の根拠もない」と言う。脳の活動のすべてが物理的に「ひとつになる」ような場所は脳には存在しないからだ。脳が物質で心が非物質なら、非物質である心はどのようにして物質である脳をコントロールするのか。(P193~P196)

★肉体/エーテル体接触面
こうしてファインバーグは、「分割可能な脳と統合された総体としての自己という内的な感覚との矛盾」を解き明かすほかの方法を探究する。話はいよいよ面白くなってくるわけだ。はたしてファインバーグの解答は満足のいくものだろうか。
 
ところで、「脳が物質で心が非物質なら、非物質である心はどのようにして物質である脳をコントロールするのか」という問いに対しては、『バイブレーショナル・メディスン』のリチャード・ガーバーが全く違う答え方のヒントを出しているような気がする。それが、「肉体/エーテル体接触面」の存在という仮説で、この仮説は間接的にはかなり証明できるものと思われる。

しかし、この仮説が脳の問題についてどれだけ適用できるかどうかは、ガーバーは一切論じていない。後ほど、といってもかなり後になると思うが、この点を検討することになるだろう。

脳内現象:批判的考察⑤

2015-04-07 18:44:56 | 書評:科学と心と精神世界
◆『脳内現象 (NHKブックス)』茂木健一郎(2004年)

★無限後退
《まとめ》以下でいよいよ、ホムンクルスについての茂木の考えがのべられていく。今後数回に分けてその議論をまとめた上で、彼の主張がどれだけ妥当かを検討していきたい。

私たちが通常の「認知」プロセスを問題にするとき、認知の主体と客体は分離している。その上で主体が客体を認知する。脳内に各領域の神経活動を観察している「ホムンクルス」がいるという考え方は、このよう認知の主体と客体が分離している場合は、認知の主体の座が無限後退していくという「ホムンクする」の誤謬を招く。だからこそ、脳科学は、脳の各領域を自分とは独立の客体として認知するホムンクルスの存在を否定していきたのである。

茂木はむしろ、このような無限後退を招かないような形で、ホムンクルスを再構成するモデルと考えなければならないという。そしてそのプロセスは、主体と客体が 分離されいる通常の認知とは異なるものでなければならない。(190)

★メタ認知的ホムンクルス
《まとめ》目の前のコップを見ている時、そのコップの表象は、自己の一部である神経細胞の活動を、感覚的クオリアとして感じた結果、生じたものだ。外部の客体を観察しているようでも、実際には自己の内側にあるものを認知することしかできない。すべては脳内現象だ。私たちの世界には、実は自分自身の内部をあたかも「外」にあるかのように見渡す、メタ認知しか存在しない。

脳の中に仮想的に構築されるホムンクルスは、各領域の神経細胞の活動について、それを自己の外部にある客体として観察しているのではない。自己の内なるものの関係性を、「外」にあるかのごとく認識するというメタ認知のプロセスを通して、ホムンクルスの「小さな神の視点」は生み出される。すなわち、「メタ認知的ホムンクルス」とでも言うべきモデルに到達するのである。(193)

★どこが新しいのか
これは、物質過程である脳が、こころ=主観性を生み出すことを説明するための、何か画期的なモデルであるのだろうか。これがこの本の到達した結論なのだとすれば、かなり肩透かしをくった感じである。私が、茂木の本に魅力を感じたのは、脳という物質的な過程にあくまでも即しながら、そこから意識が生まれることの不思議さ、説明の困難性をとことん見据えて、それでも追求していこうとする姿勢であった。それを続けていくことが、この課題を解くことの難しさをますます際立たせる方向に向かっていた。

もし、「メタ認知的ホムンクルス」モデルなるもので、何か根本的に問題が解けそうな期待を抱いているのなら、それは大いなる幻想というものだろう。現に、このモデルでどのように仮想ホムンクルスが生じるのか、具体的な説明は何もなされていない。

★神経細胞の関係性が意識を生む
《まとめ》クオリアは神経細胞の活動から生み出される。その関係性が関係性として認識されるためには、脳の中で様々な領域を見渡し、「小さな神の視点」を獲得する、擬似的なホムンクルスの存在が不可欠である。そのようなホムンクルスを構成するためには、人間の脳の前頭前頭野を中心とするシステムで実現しているような、ある程度の複雑さを持った主観性の枠組みが必要である。

神経細胞の活動の間の関係性が主観性の枠組み(ホムンクルス)をつくり、ホムンクルスを生み出す神経細胞の活動と前クオリアを生み出す神経細胞の活動が相互作用することによって、「〈私〉が感じるクオリア」」が生み出される。このような、関係と関係の間の相互作用を通して生まれるさらなる関係性が、人間の意識をささえ、人間の意識のあらゆるところに現われるメタ認知を支えている。(194~195)

★原理的な溝
以上が、この本のいちばん根本の考え方のようである。つまり、神経細胞の複雑な関係性が意識を生むということ。しかし、これは〈私〉という意識がもっている不思議さが神経細胞の活動と関係性からどう生まれるのかを何も説明したことにはならないだろう。神経細胞がいくら複雑な関係性を成立させたとことで、主観性の不思議との間には、やはり原理的に超えられそうもない深い溝がある。

以前にホムンクルスの無限後退の「誤謬」ということが論議されていたが、むしろ無限後退するところにこそ、意識の原理的な特質があるのではないか。対象化して考え始めれば、それはすでに主観性ではない。それを対象化している主観〈私〉は、それを捕まえようとする手をするりと潜り抜けてしまう。クオリアを感じている〈私〉をどんなに捉えようとしも、つねに対象化された「もの」を超えて「主観」であり続けている。

やはり私には、神経細胞という物質の活動、あるいはそれらの関係によっては説明しきれない何ものかであることを、原理的に明らかにすることこそが必要なように思われる。

★科学からの独立宣言
《まとめ》今日の脳科学の知見に基づいて考えれば、意識は、脳内の1000億の神経細胞がつくるシステム内部の相互作用を、その内部に立ち上がるメタ認知的ホムンクルスの視点から見渡した時に生み出される。そのようなメタ認知的な意味において、意識は存在論とは独立した認識論に属する。

従来の科学は、相互作用するAとBにおいて、AからBがどのように見えるかを問わない。神経細胞ネットワークのある部分から別部分がどのように見えるかも問わない。認識する意識が、そこに生まれるかどうかは、科学的方法論の関知するところではない。神経細胞ネットワーク中に意識が生まれるか否かは科学とは独立の問題だ。しかし現に意識がある以上、世界は意識を生み出すものだという前提から考えざるを得ない。

本書は、「意識がメタ認知的ホムンクルスのメカニズムを通して生み出される脳内現象である」というモデルに達した。このモデルは、意識が生み出される第一原理を解決するものではないが、意識問題の科学からの独立宣言ではある。225~226

★クオリアと志向性
志向性とは、考える、信じる、見る、など「動詞」表現される心の働きのことであった。もともと「物理現象」と区別して「心理現象」を特徴づけるメルクマールだったのである。心理現象は、それぞれのうちに対象性をもつ。つまり、つねに「~について」の意識であるということだ。それを「志向性」という。心理現象は、何らかの対象に向けられながら、その対象との物理的接触を必ずしも前提としない作用である。そこに物理作用との違いがある。

茂木自身が、「私たちが主観的に体験する心的状態は、全てクオリアだ」というという立場をとる以上、クオリアとは上で言う意識の志向性と同じである。つまりクオリアという概念のもとに意識と脳の問題を探求しようとする以上、そこですでに従来の科学では説明できない視点を導入したことは自明だったはずである。

クオリアの問題を脳科学の延長線上で考えていこうとすれば、何度もいうように科学そのものあり方が問題とならざるを得ないのである。