探訪・日本の心と精神世界

日本文化とそのルーツ、精神世界を探る旅
深層心理学・精神世界・政治経済分野の書評
クイズで学ぶ歴史、英語の名言‥‥‥

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すべては宇宙の采配

2015-05-11 21:36:53 | 書評:科学と心と精神世界
◆『すべては宇宙の采配

著者が、無農薬・無肥料でリンゴ栽培を成功させるまでの苦しみとその後の劇的な展開が興味尽きない。

自分のやり方でまったく成果がでず、収入もなく追い詰められて自殺を決意するところまでいく。ロープをもって岩木山に登っていき、ある木にロープをひっかけようとするがうまくとまらない。飛んでいったロープを取りにいくと、ちょうどロープが落ちたところに野生のリンゴが3本あった。その根元がふかふかで、ほのかな土の香りがした。自分のリンゴ畑の固い土との差に驚く。「そうだ、畑の土を自然な状態にすればよいのだ」と、家に戻った。それ以来、農薬のかわりのにんにくや牛乳もまかず、下草も生えるにまかせた。すると多種多様な雑草が生え、野うさぎ、野ねずみ、テン、イタチがやってくるようになり、害虫の蛾を食べるカエルも大発生した。大ミミズも増えて土を豊かにし、野生の王国の食物連鎖が始まったのだ。そして、自殺を思って入った山で偶然見つけた野生のリンゴの木(実際はリンゴではなかったようだ)の下のふかふかの土と同じになり、ついに無農薬・無肥料のリンゴ栽培に成功するのだ。

福岡正信の『自然農法 わら一本の革命』を読んだことが、彼のその後の人生を変える。著者の農法も自然農法の一種といってよいかも知れないが、福岡正信の農法と違い、一切を自然に任せてしまうわけではない。ともあれ、リンゴの果樹園に、自然のバランスを取り戻すことで無農薬・無肥料のリンゴ栽培ができるようになったという事実に強く引かれる。人為によって分断されない自然の連鎖の中に真の豊かさがある。

この本には他に、著者のUFO体験や臨死体験などがストレートに語られている。少し無防備に語りすぎるのではないかと心配になるほどだが、そのバカ正直さこそがこの人の魅力なのであろう。著者の体験が面白いのは、たとえばUFO体験で一緒だった人が、その後テレビ番組に出ているのを見て、自分の共通の体験を語るなど、なにかしらの裏づけになるような体験が続くことだ。それでも信じられない人は多いだろうが。

いずれにせよ、私の中の自然農法への昔からの関心をよみがえらせてくれた本だ。
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存在することのシンプルな感覚

2015-05-11 20:06:46 | 書評:心理学
◆『存在することのシンプルな感覚

トランスパーソナル心理学の代表的な理論家ケン・ウィルバーの膨大な著作のなかから、そのエッセンスを選び、テーマ毎に配列した本だ。ウィルバーの理論の核心的な部分が、ウィルバー自身の言葉で簡潔に紹介されており、ウィルバー思想へのよき入門書となるだろう。私自身、ウィルバーの思想の核心をもう一度確認するのに役立っている。

訳者も触れているように、ウィルバーの言葉は理論的な部分よりも、直接「スピリット」について語り、「スピリット」を指し示すときにもっとも輝く。本書は、そのような言葉が多く集められている。魂に直接訴えかけてくるような言葉が多いということだ。

たとえば以下は、いずれも『ワン・テイスト』からの引用だ。

「もしあなたが、この『自己』ないし『スピリット』を理解できないと感じられたら、その理解できないということに落ち着かれるとよい。それが『スピリット』なのである。」

「エゴというのは単なる事象ではなく、微妙な『努力』(何らかの目的を達成するための目標)なのであり、努力して切り捨てることはできない。それでは、あなたは一つの努力のかわりに二つの努力をもつことになってしまう。エゴそれ自体が神性の完全な顕現なのであって、それは切り捨てようとするかわりに、ただ自由のなかに安らいでいることがエゴに対処する一番良い方法である。」

この本を読んであらためて思ったことがある。魂の成長や覚醒、さらにひろく精神世界に関心のあるものにとって、ウィルバーの思想はきわめて貴重な全体的な見取り図の役割を果たしているし、これからも果たし続けるだろうと。もちろんこの見取り図をそのまま信じる必要はない。しかし、これまでここまで包括的な見取り図は存在しなかった以上、まずはこれをもって自らが旅に出ればよい。その上でもし見取り図に修正すべきところを感じだら、自分で修正すればよい。

ともあれほとんど地図らしきものがなかったところへ、きわめて広範で精度の高い地図が与えられたのだ。これまでは、こうした地図すらないところを手探りで進まなければならなかったのである。しかし、今はこの見取り図がある。その意味は、はかり知れず大きい。
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生きる意味の探求

2015-05-11 19:39:47 | 書評:科学と心と精神世界
◆『生きる意味の探究―退行催眠が解明した人生の仕組み

これまでに読んだ退行催眠による過去生の探求や、いわゆる「前世療法」を扱った本に比べると、実証的な姿勢がある点がよい。クライエントが語った過去生の記憶を実証的に確認した結果をある程度語っているのだ。ただ全訳ではないので、もっと実証的な部分は翻訳では省略されているかも知れない。少なくとも、いくつか挙げられた事例から判断して、実証的に確認できる事例を、著者がかなり持ってい るようだということは分かる。

一例を挙げよう。アメリカ人である女性が、アレックス・ヘンドリーという男性として19世紀後半のスコットランドに暮らしていた人生を語った。アレックスは、肉体的なハンディキャップを克服し、エディンバラ大学で医学を修めた。その生き生きとした大学生活の描写は、証明可能な二つの事実を含んでい た。

ひとつは家族がハンプシャーに住んでいたこと。もうひとつは、彼が1878年に医学校を卒業したことだった。こうした100年以上前のスコットランドの一無名人の情報を、クライエントが入手できたはずはないが、勉強のたいへんさや、家族からのプレッシャーを語る彼女の描写は真実味が溢れていたという。

著者はその後、エディンバラ大学に問い合わせて返事を受け取った。「アレクサンダー・ヘンドリー。スコットランド、バンプシャー郡カラン出身。1878年、医学士過程及び修士課程終了。」

この本でも改めて確認したのは、クライエントが過去生で死ぬ場面を語る描写が、臨死体験者の報告とほとんど同じだということだ。これは驚嘆に値する。体外離脱、上から自分の肉体を見る、愛を発散する光に包まれる等々。これも具体例を示そう。

「自分の遺体が見えます。自分の体を、見下ろしているんです。暴徒たちは、その遺体に覆いかぶさるように立っています。ひとりの男が、足で私の遺体をひっくり返して、何かぶつぶつほかの人たちに話しかけています。遺体を運び去ろうとしているんです。もう、自分の肉体にとどまりたいとは思いません。自由になったんです。そして光が‥‥‥とっても感じのいい光です。安らかな気持ちにさせてくれ ます‥‥‥恐怖も苦痛も消えました。私は自由になったんです。」

もちろんこれは退行催眠で過去生での死とそれに続く場面を思い出しているのだが、臨死体験についてある程度知る人なら誰でも、両者の驚くほどの類似性を認めるだろう。

著者は言う、「退行したクライアントがどんな宗教を信じていようと、過去生での死の体験は、みな驚くほどそっくりである。死とは移行の瞬間であり、平和と美と自由の瞬間である。着古してくたびれた衣装を脱ぎ捨てて、新しくもあり、またふるさとのように馴染みある世界へと、踏み込んでいく瞬間なのである。」

多くのクライアントが繰り返し語る死の特徴は、「身の軽さ、浮遊感、自由さ」だというが、これはまた、多くの臨死体験者が繰り返し語る特徴でもあるのだ。

臨死体験の報告と一つだけ相違する部分があるとすれば、退行催眠ではトンネル体験を語るものは、ほとんどいないらしいということだ。

それにしてもきわめて高い共通性があるのは確かで、今後しっかりとした統計的な比較研究をする必要があると思う。これほど臨死体験が知れ渡っている以上、ほとんどのクライエントはその内容を知っているだろうから、たんに共通性が高いだけでは、あまり意味をなさない。細部に渡る比較研究のなかで、この共通性が積極的な主張につながるかどうかを検討しなければならない。

クライエントが語る「中間生」、時空のない世界の描写にも、臨死体験の報告と高い共通性がある。「宇宙を満たす感触、すべての生物を包み込む感触、見えるものも見えないものも含めたすべてのものの真髄に触れる感触、あらゆる知識に同化して文化の制限を超えた真実に目覚める感触、それが、中間生である。」

悟りにも似た精神変容を遂げる臨死体験者も、同様の世界に触れた体験を語ることは臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証』の読者なら、容易に理解してくれるだろう。

中間生の描写は、別項で取り上げた『魂との対話』での「魂」のあり方とも非常によく似ている。「魂」は、それ自体、時間による制限を受けず、時間の外側に存在している。「魂」の視野は広大で、その知覚はパーソナリティー(個々の人生を生きる自己)のもつ限界を超越している。パーソナリティーは、愛や明晰さ、理解、思いやりなどに自身を同調させることで「魂」に近づく。

退行催眠は、クライアントが療法家の世界観の影響を無意識に受けやすいという面があるかも知れない。そうした点に充分慎重である必要はあるが、著者が豊富な臨床例から解明した「人生の仕組み」を参考にして見る価値は充分にあると思った。人生という名の学校で、私たちは、繰り返し学び続けているのだという「仕組み」 を。
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「甘え」の構造

2015-05-10 22:49:14 | 書評:日本人と日本文化
◆『「甘え」の構造 [増補普及版]

1971年に出版されて以来「日本人論」「日本文化論」の代表的な著作のひとつとなった本である。

甘えは、本来人間に共通な心理でありながら、「甘え」という語は日本語に特有で、欧米語にはそれにあたる語がない。ということは、この心理が日本人や日本の社会にとってはとくに重要な意味を持ち、それだけ注目されるということだろう。

著者は、日本で理想的な人間関係とみなされるのは親子関係であり、それ以外の人間関係はすべてこの物指しではかる傾向があるのではないかという。ある人間関係の性質が親子関係のようにこまやかになればなるほど関係は深まり、そうならなければ関係は薄いとされる。著者はとくに明言しているわけではないが、この理想とみなされる親子関係は、もっとも理想的な形では母子関係が想定されているのではないだろうか。

親子関係だけは無条件に他人ではなく、それ以外の関係は親子関係から遠ざかるにしたがって他人の程度を増す。この事実は「甘える」という言葉の用法とも合致していると土井は指摘する。つまり親子の間に甘えが存在するのは当然である。しかも甘えは、母子関係の中にこそ、その原形がある。これは、幼児と母親の関係を思い出せば誰もが納得するはずだ。とすれば日本人はやはり、無意識のうちにも母子関係のような利害が入り込まない一体性を人間関係の理想と見ているのである。

だからこそ、「甘え」という言葉が日本語の中で頻繁に使われる。それだけではなく甘えの心理を表現する言葉が他にも多数存在していて、それらを分析すると日本人の心理構造がはっきりと浮かび上がってくるというのである。その分析が説得力があったため、以後「甘え」の語は、日本人の心理を語るうえで欠かせないキーワードとなった。

たとえば「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」はいずれも甘えられない心理に関係するという。すねるのは素直に甘えられないからであり、しかし実際はすねることで甘えているともいえる。「ふてくされる」「やけくそになる」は、いずれもすねが高じ、なお甘えられない結果である。ひがむのは、甘えたいのに自分だけが甘えられないと曲解することである。ひねくれるのは、甘えないでかえって相手に背を向けることだが、どこかに甘えの感情があるからそうなるのだ。

ある欧米の研究者は、日本語の「甘え」にあたる心理を「受身的対象愛」という用語で表現し、研究していたが、それに相当する日常語が日本語のなかにあることを聞いて驚いたという。さらに甘えが挫折した結果として起こる特殊な敵意を表す「うらむ」という語もあることを知って、いたく感激したという。

著者は、この他「たのむ」「とりいる」「こだわる」「気がね」「わだかまり」「てれる」など日本人に馴染みの感情を甘えの心理との関係で分析していくが、ここでは省略する。ここでは最後にひとつだけ「遠慮」という言葉と甘えとの関係を取り上げよう。

「遠慮」という日本語は、現代では人間関係の尺度を測る意味合いで使われるようである。たとえば親子の間には遠慮がないが、それは親子が他人ではなく、その関係が甘えにどっぷりと浸かっているからである。この場合、親も子供もたがいに遠慮がない。親子関係以外の関係では、親しみが強いほど遠慮は少なく、親しみが薄くなるほど遠慮は増す。親友同士は遠慮がないが、遠慮を感じる友人もいる。要するに日本人は、できれば遠慮のない関係がいいと感じ、遠慮し合う関係をあまり好ましいとは思っていない。これも、日本人がもともと親子関係、とくに母子関係に典型的な一体感をもっとも望ましいものとして理想化しているからだろう。
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タテ社会の人間関係

2015-05-10 22:44:41 | 書評:日本人と日本文化
◆『タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

代表的な「日本人論」「日本文化論」とひとつとだろう。1967年初版発行だから『甘えの構造』よりは4年早い。『甘えの構造』の中でも、甘えとの関係でこの本について言及している。

甘えは本来人間に共通の心理現象でありながら、日本語の「甘え」に当たる言葉は欧米語には見られない。この事実は、甘えの心理が日本人にとって身近であるばかりでなく、甘えを許容するような社会構造が日本には存在することを物語る。「甘え」という言葉は、日本の社会構造を理解するためのキー概念ともなるのではないか、日本社会で甘えが重要な働きをすることは、『タテ社会の人間関係』でいうタテの社会構造と一体をなしているいるのではないかと土井は指摘する。

甘えとタテ社会とは、どのようにつながるのだろうか。日本がタテ社会だというのは、タテの人間関係つまり上下関係が厳しいということだという誤解があるかもしれない。しかしこれは俗説であり、欧米の会社での管理者と労働者との上下差の方がはるかに大きく、厳しいという面もある。

タテ社会とは、ヨコ社会と対をなす概念である。日本人は、外(他人)に対して自分を社会的に位置付ける場合、資格よりも場を優先する。自分を記者、エンジニア、運転手などと紹介するよりも、「A社のものです」「B社の誰々です」という方が普通だ。これは、場すなわち会社・大学などの枠が社会的な集団認識や集団構成に大きな役割を果たしているということである。すなわち記者、エンジニアなどの資格によるヨコのつながりよりも、会社や大学などの枠(場)の中でのつながり(タテの序列的な構成になっている)の方がはるかに重要な意味をもっているということである。

日本の労働組合が、企業という枠を超えた職種によるヨコの組織になっておらず、職種の違いに関係なく企業単位の組合になっていることは、場や枠を重視する日本のタテ社会の特徴をみごとに現している。

「タテ社会」日本の基本的な社会構造が、企業別、学校別のような縦断的な層化によって成り立っているのに対し、「ヨコ社会」は、たとえばインドのカースト制度や西欧などの階級社会のように横断的な層化をなしている。「ヨコ社会」では、たとえば職種別労働組合のように資格によって大集団が構成され、個人の生活や仕事の場にかかわらず、空間的な距離を超えて集団のネットワークが形成される可能性がある。

日本人にとって「会社」は、個人が一定の契約関係を結ぶ相手(対象・客体)としての企業体というより、「私の会社」「ウチの会社」として主体的に認識されていた。それは自己の社会的存在や命のすべてであり、よりどころであるというようなエモーショナルな要素が濃厚に含まれていた。つまり、自分がよりかかる家族のようなものだったのである。もちろん現在このような傾向は、終身雇用制の崩壊や派遣労働の増加などで、かなり失われつつある。しかし、それに替わってヨコ社会が形成されはじめたわけではなく、依然として日本の社会は基本的にタテ社会である。

終身雇用制が崩壊していなかったころは、会社の従業員は家族の一員であり、従業員の家族さえその一員として意識された。今でもその傾向はある程度残っているだろう。日本社会に特徴的な集団は、家族や「イエ」のあり方をモデルとする「家族的」な集団でなのである。そして家族が親と子の関係を中心とするのと同様の意味で、集団内のタテの関係が重視される。そこでは、家族的な一体感や甘えの心理が重要な意味をもってくるのは当然である。
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自我が揺らぐとき

2015-04-07 21:46:18 | 書評:科学と心と精神世界
◆『自我が揺らぐとき―脳はいかにして自己を創りだすのか』(トッド・ファインバーグ、岩波書店、2002年)

★脳研究の中心的な課題
《まとめ》自己の維持にはたくさんの脳の領域がかかわっていて、まとまりのある自己が存在するほうが奇跡としか思えない。さらに両半球が分断されても心の統合が維持れている不思議。
 
脳は神経解剖学的にきわめて多様であるにもかかわらず、統合された「わたし」を生み出す。しかも、自己を形成する主観的な体験に対応する統合された均質な実体は見当たらない。脳の構造がこれほど多様なのに、それぞれの「内なる」視点には、主観的な意識が統合されたひとつのものとして映るのか。

この疑問の回答を求めることが現在の脳研究の中心的な課題となっている。(P165~P167)

★「目的論」的な視点
ということで、この課題に対する興味深いのはファインバーグの答だ。統合さてた〈わたし〉が生み出される不思議については、茂木の論述と比較すると興味深い。近日中に『脳内現象』の方でまとめる予定だ。

茂木よりも、意識の問題の根源性を深く理解した上で議論を進めている面もある。たとえば、茂木がほとんど評価しない「創発」とう考え方を、その理論の中に充分活かしている。さらに、私がその必要性を指摘した「目的論」的な視点からの考察も行っている。

では、ファインバーグが意識の独立性を認めているのかどうかとなると、非常に微妙なのだが、ともあれ少し彼の理論を追うことで、茂木を批判する視点も鮮明になるかも知れない。

★機械の中の幽霊
《まとめ》私が、腕を上げようと思って腕を上げる。そのとき「内なる私」が行動を発する場所として体験されている。その「私」が、意識的に意志を遂行して腕を上げる。

そして神経内科医が、その「意志」の源泉を私の脳のなかに探し求める。だが行動の源である中心地、統合と統一の物理的な所在地はどこにも見つからない。命令をくだす「私」という「最高司令官」神経細胞は脳にはない。運動システムには、ギルバート・ライルの有名な言葉で言えば「機械のかなの幽霊」は存在しない。統一的な意志の源泉となる場や階層構造のトップは存在しない。

運動の階層と同じように知覚の階層でも、物質的な「最上部」はないようだ。自己という観点から見ると、私は「いま・この」私のなかにある統合された人間として自分を体験している。神経科学は「機械の中の幽霊」を発見できない。ホムンクルスも、内なる統合された「生物的な魂」も見つからない。(『自我が揺らぐとき』P181~P185)

★「わたし」の痛み
一切の知覚は、「自己」という統一的な場において経験される。痛みは、私の痛みとして「自己」という場において経験される。それは、誰の痛みでもなく、紛れもない「私」の痛みだ。痛みという知覚は「自己」という場に統一されている。一切の知覚を統合し、統一する場がなければ、痛みもかゆみも、寒さも暑さも、うまさもまずさも、美しい音楽も耐え難い騒音も、私の経験とはなりえない。にもかかわらず、入力される一切の情報を統合する「最上部」はないというのだ。だとすれば、入力も出力もいったいどこで統合されて、「私」の知覚や運動になるのか。

茂木は、『脳内現象』のなかでこの問題に果敢に挑戦している。ニューロンの関係性のネットワークにその答えがあるという。しかし、その論証が成功しているとはいないようだ。この点は、『脳内現象』のまとめで追って検討する。

★創発
《まとめ》心のエッセンス、意識と自意識は、物質的な脳の「部分の総和」を越えている。これは、非物質的な心が物質的な脳の多くの部分から「創発」するを意味する。生物における創発とは、階層的に編成されたシステム(有機体)において、複雑なそれぞれのレベルが下位のレベルとは違った真に新しい特性を生み出すときに起こる。創発はまた、予測不可能であり、階層構造の下位レベルについて完璧な知識をもっていても、高位レベルでどんな特性が創発されるかを予測できない。その意味で、創発された特性は「部分の総和よりも大きい」。

創発理論のもう一つの重要概念は「制約」である。人体の各器官は、細胞を制約して酵素を分泌させ、人体は消化器や呼吸器を制約して、生命維持に必要な機能を行わせる。この関係は相互的な場合が多く、例えば肺が呼吸しなければミトコンドリアの細胞呼吸を制約しているが、ミトコンドリアは、酸素からエネルギーをつくることで、肺呼吸に寄与している。

次に重要な概念は、非還元性、つまり創発システムによって創られた総体は、単純に構成要素の特質によって説明することも、構成要素に還元することも出来ないということだ。(『自我が揺らぐとき』P187~P190)

★創発理論は科学ではない?
以上の、一般的な創発理論を踏まえて、心とは脳の創発的特性であると言えるかどうかを検討していくことになる。

創発理論が高位レベルと低位レベルとの間に見る関係は、アーサーケストラーのホロン理論を思い起こさせる。生物の進化の過程においては、確かに「創発」が生起していると思われるが、しかし、これは還元主義的な科学の考え方とは相容れない。

ある種の実体が別種の実体にほかならない、椅子は分子の集合にほかならないという「存在論的還元」は、科学の歴史上重要な考え方でである。物質は、一般に分子の集合にほかならず、また身体の運動は、神経の筋の生理学に還元されるのである。この考え方からすれば、心が脳の創発であるという創発理論は、科学ではないとされるであろう。

★非物質的な心の創発
分離脳の研究者ロジャー・スペリーは、心は物質的な脳から生じる創発的な現象であると主張した。心は物質的な脳の「部分の総和以上」のものであり、脳の肉体的な限界を超えている。統合された「わたし」は脳全体の神経の階層構造の頂点にあり、それゆれ心は脳には還元できないし、脳のような物質的な存在ではない。一方、心は物質ではないが、脳に物質的現象を引き起こすことができる。したがって非物質的な心は物質的な脳との因果関係をもっていて、脳を制約するとスペリーは言う。

ファインバーグは、これに対して「脳や自己の物質的な頂点は存在しない。心が脳の頂点に現われるという考え方には何の根拠もない」と言う。脳の活動のすべてが物理的に「ひとつになる」ような場所は脳には存在しないからだ。脳が物質で心が非物質なら、非物質である心はどのようにして物質である脳をコントロールするのか。(P193~P196)

★肉体/エーテル体接触面
こうしてファインバーグは、「分割可能な脳と統合された総体としての自己という内的な感覚との矛盾」を解き明かすほかの方法を探究する。話はいよいよ面白くなってくるわけだ。はたしてファインバーグの解答は満足のいくものだろうか。
 
ところで、「脳が物質で心が非物質なら、非物質である心はどのようにして物質である脳をコントロールするのか」という問いに対しては、『バイブレーショナル・メディスン』のリチャード・ガーバーが全く違う答え方のヒントを出しているような気がする。それが、「肉体/エーテル体接触面」の存在という仮説で、この仮説は間接的にはかなり証明できるものと思われる。

しかし、この仮説が脳の問題についてどれだけ適用できるかどうかは、ガーバーは一切論じていない。後ほど、といってもかなり後になると思うが、この点を検討することになるだろう。
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脳内現象:批判的考察⑤

2015-04-07 18:44:56 | 書評:科学と心と精神世界
◆『脳内現象 (NHKブックス)』茂木健一郎(2004年)

★無限後退
《まとめ》以下でいよいよ、ホムンクルスについての茂木の考えがのべられていく。今後数回に分けてその議論をまとめた上で、彼の主張がどれだけ妥当かを検討していきたい。

私たちが通常の「認知」プロセスを問題にするとき、認知の主体と客体は分離している。その上で主体が客体を認知する。脳内に各領域の神経活動を観察している「ホムンクルス」がいるという考え方は、このよう認知の主体と客体が分離している場合は、認知の主体の座が無限後退していくという「ホムンクする」の誤謬を招く。だからこそ、脳科学は、脳の各領域を自分とは独立の客体として認知するホムンクルスの存在を否定していきたのである。

茂木はむしろ、このような無限後退を招かないような形で、ホムンクルスを再構成するモデルと考えなければならないという。そしてそのプロセスは、主体と客体が 分離されいる通常の認知とは異なるものでなければならない。(190)

★メタ認知的ホムンクルス
《まとめ》目の前のコップを見ている時、そのコップの表象は、自己の一部である神経細胞の活動を、感覚的クオリアとして感じた結果、生じたものだ。外部の客体を観察しているようでも、実際には自己の内側にあるものを認知することしかできない。すべては脳内現象だ。私たちの世界には、実は自分自身の内部をあたかも「外」にあるかのように見渡す、メタ認知しか存在しない。

脳の中に仮想的に構築されるホムンクルスは、各領域の神経細胞の活動について、それを自己の外部にある客体として観察しているのではない。自己の内なるものの関係性を、「外」にあるかのごとく認識するというメタ認知のプロセスを通して、ホムンクルスの「小さな神の視点」は生み出される。すなわち、「メタ認知的ホムンクルス」とでも言うべきモデルに到達するのである。(193)

★どこが新しいのか
これは、物質過程である脳が、こころ=主観性を生み出すことを説明するための、何か画期的なモデルであるのだろうか。これがこの本の到達した結論なのだとすれば、かなり肩透かしをくった感じである。私が、茂木の本に魅力を感じたのは、脳という物質的な過程にあくまでも即しながら、そこから意識が生まれることの不思議さ、説明の困難性をとことん見据えて、それでも追求していこうとする姿勢であった。それを続けていくことが、この課題を解くことの難しさをますます際立たせる方向に向かっていた。

もし、「メタ認知的ホムンクルス」モデルなるもので、何か根本的に問題が解けそうな期待を抱いているのなら、それは大いなる幻想というものだろう。現に、このモデルでどのように仮想ホムンクルスが生じるのか、具体的な説明は何もなされていない。

★神経細胞の関係性が意識を生む
《まとめ》クオリアは神経細胞の活動から生み出される。その関係性が関係性として認識されるためには、脳の中で様々な領域を見渡し、「小さな神の視点」を獲得する、擬似的なホムンクルスの存在が不可欠である。そのようなホムンクルスを構成するためには、人間の脳の前頭前頭野を中心とするシステムで実現しているような、ある程度の複雑さを持った主観性の枠組みが必要である。

神経細胞の活動の間の関係性が主観性の枠組み(ホムンクルス)をつくり、ホムンクルスを生み出す神経細胞の活動と前クオリアを生み出す神経細胞の活動が相互作用することによって、「〈私〉が感じるクオリア」」が生み出される。このような、関係と関係の間の相互作用を通して生まれるさらなる関係性が、人間の意識をささえ、人間の意識のあらゆるところに現われるメタ認知を支えている。(194~195)

★原理的な溝
以上が、この本のいちばん根本の考え方のようである。つまり、神経細胞の複雑な関係性が意識を生むということ。しかし、これは〈私〉という意識がもっている不思議さが神経細胞の活動と関係性からどう生まれるのかを何も説明したことにはならないだろう。神経細胞がいくら複雑な関係性を成立させたとことで、主観性の不思議との間には、やはり原理的に超えられそうもない深い溝がある。

以前にホムンクルスの無限後退の「誤謬」ということが論議されていたが、むしろ無限後退するところにこそ、意識の原理的な特質があるのではないか。対象化して考え始めれば、それはすでに主観性ではない。それを対象化している主観〈私〉は、それを捕まえようとする手をするりと潜り抜けてしまう。クオリアを感じている〈私〉をどんなに捉えようとしも、つねに対象化された「もの」を超えて「主観」であり続けている。

やはり私には、神経細胞という物質の活動、あるいはそれらの関係によっては説明しきれない何ものかであることを、原理的に明らかにすることこそが必要なように思われる。

★科学からの独立宣言
《まとめ》今日の脳科学の知見に基づいて考えれば、意識は、脳内の1000億の神経細胞がつくるシステム内部の相互作用を、その内部に立ち上がるメタ認知的ホムンクルスの視点から見渡した時に生み出される。そのようなメタ認知的な意味において、意識は存在論とは独立した認識論に属する。

従来の科学は、相互作用するAとBにおいて、AからBがどのように見えるかを問わない。神経細胞ネットワークのある部分から別部分がどのように見えるかも問わない。認識する意識が、そこに生まれるかどうかは、科学的方法論の関知するところではない。神経細胞ネットワーク中に意識が生まれるか否かは科学とは独立の問題だ。しかし現に意識がある以上、世界は意識を生み出すものだという前提から考えざるを得ない。

本書は、「意識がメタ認知的ホムンクルスのメカニズムを通して生み出される脳内現象である」というモデルに達した。このモデルは、意識が生み出される第一原理を解決するものではないが、意識問題の科学からの独立宣言ではある。225~226

★クオリアと志向性
志向性とは、考える、信じる、見る、など「動詞」表現される心の働きのことであった。もともと「物理現象」と区別して「心理現象」を特徴づけるメルクマールだったのである。心理現象は、それぞれのうちに対象性をもつ。つまり、つねに「~について」の意識であるということだ。それを「志向性」という。心理現象は、何らかの対象に向けられながら、その対象との物理的接触を必ずしも前提としない作用である。そこに物理作用との違いがある。

茂木自身が、「私たちが主観的に体験する心的状態は、全てクオリアだ」というという立場をとる以上、クオリアとは上で言う意識の志向性と同じである。つまりクオリアという概念のもとに意識と脳の問題を探求しようとする以上、そこですでに従来の科学では説明できない視点を導入したことは自明だったはずである。

クオリアの問題を脳科学の延長線上で考えていこうとすれば、何度もいうように科学そのものあり方が問題とならざるを得ないのである。
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脳内現象:批判的考察④

2015-04-07 18:22:06 | 書評:科学と心と精神世界
◆『脳内現象 (NHKブックス)』茂木健一郎(2004年)

★認識論モデル
《まとめ》意識の中で感じられる世界は、〈私〉に中心化されている。物質の質量は、視点を特定することなくその存在を論じることができる絶対的な存在だが、クオリアは、それを感じる〈私〉という視点に相対的にしか成立しない。すなわちマッハの原理からクオリアに満ちた意識が生み出されるモデルは、存在論的というよりは認識論的でなければならない。

オリジナルのマッハの原理では、各粒子の関係性からそれぞれの質量が決定される際、ある特定の視点を仮定する必要はなかつた。どんな立場から見ても質量は質量であるような、「公共性」を帯びたものであった。

一方、クオリアに満ちた意識が生み出される過程には、このような公共性がない。〈私〉が感じる赤のクオリアは、あくまでも〈私〉という主観にとって赤のクオリアなのであり、第三者にとってはそうではない。〈私〉の脳内の神経細胞の活動は、〈私〉だけに様々なクオリアをもたらすのであつて、脳の外からそれを客観的に観察している第三者にとっては、そこにクオリアは存在しない。あくまでも、〈私〉という脳の神経細胞の活動を見渡す「小さな神の視点」に特化した私秘的なもの、すなわち、存在論的ではなく、認識論的なものとして成り立っているのである。

★ホムンクルスの必然性
《まとめ》 問題の本質が認識論的だとことは、神経細胞の相互関係性からクオリアが生み出されるにしても、その関係性を見渡すのは誰かという問題が生じるというこということである。神経細胞の活動の関係性が把握され、獲得されるプロセスは何か? という問題が生じるということである。ここに、マッハの原理から意識の起源を説明する筋道において、ホムンクルスの成立を議論しなければならない論理的必然が生じる。

何かがある形で存在しているという「存在論」と、何かが認識されるという「認識論」の関係をどのように考えるかは、掛け値なしに難しい問題である。
(187から188)

★存在論と認識論
もし、「存在論的」と「認識論的」という用語を使うなら、「存在論」で「認識論」を説明し尽くすことの原理的な難しさがここで問題にされていることになる。物理・化学的な過程をいくら分析しても「主観性」を前提とした認識問題について何も語ったことにはならないだろうし、何も解決はしないだろう。従来の科学の方法で物質過程を分析することで、主観性そのもの、ホムンクルスそのものを説明することは原理的に不可能なのだ。

「存在論」と、「認識論」の関係をどのように考えるかは、難しい問題であるだけなく、すでに科学の領域を踏み出し、哲学の領域に踏み込んでいる。従来の物質主義的な世界観に留まるかぎり、この関係を語る道はありえない。科学そのものが、自己理解を新ためて変貌していかないかぎり、科学の側からこの問題を解決することは不可能であろう。茂木の試みは、この不可能を可能にしていると言えるのだろうか。さらに茂木の論議を追いたい。
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脳内現象:批判的考察③

2015-04-07 18:07:09 | 書評:科学と心と精神世界
◆『脳内現象 (NHKブックス)』茂木健一郎(2004年)

★学的ゾンビの可能性
《まとめ》私たちの意識体験の実相に即して考えるなら、そこに現れるのは、〈私〉という核に中心化された形で各領域の神経細胞の活動を見渡している「小さな神の視点」であり、その主体としてのホムンクルスだ。このような意識が成立していることは否定できない。

しかし、〈私〉たるホムンクルスが脳内活動を「見渡している」という認識論のメタファーを用いている限り、つまり従来の存在論と認識論の枠組みの中で考えている限り、「それと全く同じ物質過程が、何らかの意識体験もともなわない、単なる哲学的ゾンビとして起こってもよかったのではないか、なぜそうなっていないのか」という問いに答えられない。

意識のなぞを解決するためには、「小さな神の視点」を事実として認めた上で、従来の存在論と認識論の枠組みを超えた議論の方向性を提示する必要がある。(110)

★認識論と存在論
ここで茂木は、認識論と存在論という言葉で語っているが、これは主観性と客観性という区分に対応するだろう。体験の主体としての〈私〉の存在を認めざるを得ないとした上で、「それと全く同じ物質過程が、何らかの意識体験もともなわない、単なる哲学的ゾンビとして起こってもよかったのではないか、なぜそうなっていないのか」という問題に言及する。

つまり、体験の主体、認識の核たる主観という不思議を認めた上で、主観性など必要なく、すべては客観的な物質過程でこと足りたはずだ(哲学的ゾンビ)という科学からの問題提起を受けて立とうと言っているのだ。

科学が科学である以上、すべてを客観的な物質過程で説明し尽くそうとするだろう。繰り返すが、主観性などというやっかいなものを説明する原理を、そもそも科学はもっていない。それを意識的に排除することで科学は成立したからだ。

では、存在論と認識論の枠組みを超えた議論の方向性は、どのように提示されるのだろうか。もし、それが説得力のある形でなされるなら、それは従来の科学のあり方への重大な挑戦となるであろう。

★クオリアの集合としての〈私〉?
《まとめ》1997年刊行の『脳とクオリア』で茂木が考えていたのは、およそ次のようなことだった。意識のなかで「これ」と把握されるものは、すべてクオリアである。すなわち意識のなかで把握されるものの単位がクオリアである。それゆれ、私たちの意識はクオリアのかたまりとして捉えることができる。脳内で1000億の神経細胞が活動し、それぞれがシナプス結合を解して一万の神経細胞と様々な関係を結ぶことによって、マッハの原理(関係性に基づいて属性が生まれるという考え方)に基づきクオリアが生み出され、そのようなクオリアの集合として、〈私〉の意識が成り立つ。つまり〈私〉とは、その時々に生み出されているクオリアの集合である。それを図式化すると次のようになる。

神経細胞の関係→クオリア→(クオリアの集合としての)〈私〉

★クオリアと〈私〉
茂木が、このモデルの欠陥に気づいたのは、「両眼視野闘争」という現象を観察してからだという。今、その説明は省くが、要は「何もないところにまずクオリアが生み出され、そのようなクオリアの集合が〈私〉を定義するのではなく、そもそもクオリアはそれを感じる〈私〉とセットになっているということである」。ある特定のクオリアを生み出すような神経細胞の関係性がたとえ生じたとしても、それが〈私〉に見える形で接続しなければ、〈私〉はそれを感じることはできない、ということである。(180から182)

★私がクオリアを‥‥

「クオリアの集合が〈私〉を定義するのではなく、そもそもクオリアはそれを感じる〈私〉とセットになっているということである」という茂木の認識はまさしくそのとおりだと思う。

『心を生み出す脳のシステム』へのコメントでも書いたが、クオリアとは、結局、主観にどう感じられるかという問題なのだ。主観を前提としないクオリアなどありえない。

だから『心を生み出す脳のシステム』で茂木が、『「私」とは、「私」の心の中に生まれては消えるクオリアの塊のことだとも言える』と表現したが、これは言い方として正確ではない。まさしく、これは『脳内現象』で茂木が乗り越えようとしている図式そのものだ。「私」という主観性がなければ、クオリアはそもそも感じられないのだ。

クオリアの問題の難しさは、脳という物理的・化学的な過程になぜ主観性が出現するのか、という問題の難しさと等価だ。

では、このような認識の上にたって、茂木はどのような解決案を提案するつもりなのだろうか。さらに追ってみよう。
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脳内現象:批判的考察②

2015-04-07 17:07:01 | 書評:科学と心と精神世界
◆『脳内現象 (NHKブックス)』茂木健一郎(2004年)

★脳内の小さな神の視点:『脳内現象』茂木健一郎3
《まとめ》主観的な空間体験は、大脳皮質の視覚野を中心とする神経細胞によってつくり出されている。そのような神経細胞の活動を「見渡す」ことができる形で、〈私〉という脳内現象が立ち上がることこそが驚異なのだ。

〈私〉が、意識の中で様々なクオリアを感じるということは、すなわち、自分の脳内の神経活動を〈私〉が見渡し、観察しているということだ。〈私〉がバラのクオリアを感じるためには、1000億の細胞がそれぞれ一万通りの組み合わせで結びあう、その無限ともいえる数の活動を「何か」が一瞬にして見渡せなければならない。

〈私〉は、神経細胞の活動を自ら見渡す「小さな神の視点」として成立しているのだ。それを一体「誰が」、「どのような主体が」見渡すのか。この「小さな神の視点」がどのように成立するのかは、とつもない難問題であり、もちろん現時点では未解明である。

★乗り越えは可能か
ここに〈私〉という体験主体の不思議さが根源的な形で語られている。神経細胞の活動を自ら見渡す「小さな神の視点」を特定の神経細胞やそれらのネットワークに還元して説明することはできない。茂木は、少なくとも今のところはできていないと考えている。

しかし、「小さな神の視点」と脳の無数の神経細胞の活動との間には、乗り越え不可能な原理的な違い、次元の違いがあるのではないか。その原理的な差異を明確にすることこそが、まず第一に求められることだ。

茂木のように、〈私〉を脳内の神経細胞の活動とその関係によって説明しようとする野心を持ち続けるにしても、茂木のいう「驚異」がどのような差異に基づいてのことなのか、それを明らかにすることは非常に大切なことである。それを明らかにすることで問題の本質が見えてくるからだ。

『脳内現象』では、次の第2章を「ホムンクルスを取り戻せ」とし、〈私〉の視点の大切さをさらに強調している。それを見ながら、私も考えていきたい。

★脳の中の小人、ホムンクルスの復権
《まとめ》〈私〉があるクオリアを感じている時、そこで起こっていることは、〈私〉と仮に名づける何らかのプロセスが、そのクオリアを生み出す神経細胞の活動の関係性を見渡している、ということである。クオリアを感じる主体的体験のありようを素直に脳にあてはめれば、脳の各領域を観察するホムンクルスを想定することは、自然な発想である。実際に私たちは、ホムンクルスがいるかのごとき意識の体験をしていることは否定できない。

もちろん、今日、脳のどこにもホムンクルスが隠れていると信じるものはいない。脳の中に特別な領域があって、そこが他の領域の活動をモニターしているわけではない。では、どのようにして、様々なクオリアを同時並列的に感じている〈私〉という意識が生まれるか。ホムンクルスがいるかのごとき意識体験は、いかに生じるのか。(54・55)

意識を生み出すのは、脳内の神経細胞の関係性意外にありえない。1000億の神経細胞の相互関係から、あたかもホムンクルスが「小さな神の視点」をもって脳内を見渡しているかのような意識が生み出される、そのメカニズムを解き明かすことが、脳のシステム論の究極の目的である。(67)

★差異の認識
以上からも分かるように、茂木はあくまでも神経細胞の相互作用から〈私〉という意識が生み出されるメカニズムを解き明かすという野心を捨てていない。

しかし、神経細胞の関係性は、いくら精緻に関係性のネットワークを解明したにせよ、所詮はニューロン相互の物質的な過程にすぎない。そこから〈私〉の主体的な体験を説明するには、どこかで原理的な飛躍をする必要がある。

モニターのメカニズムをいくら解明したところで、それを見ているホムンクルスの「見る」という体験を説明したことにはならない。モニターのメカニズムと、モニターを「見る」行為との間には、その説明原理に根本的な差異がある。その違いをまずは認識してこそ、その溝を乗り越えるための、あるいは乗り越えないで他の方法をまさぐるための、本当に意味のある努力がはじまるはずだ。
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脳内現象:批判的考察①

2015-04-07 16:51:50 | 書評:科学と心と精神世界

◆『脳内現象 (NHKブックス)』茂木健一郎(2004年)

《まとめ》物質的過程である脳内の活動から、いかにして主観的・唯我論的な意識が生まれてくるのか。唯我論的発想と従来の科学的発想の限界をふまえ、この難問を解くための新理論を探る。素朴な唯我論にも陥らず、数量化できるものだけで構成された客観的な科学的世界観に安住することもなく、暗黙の前提を徹底的に考え直すことで、物質である脳に意識が宿る不思議さを解き明かしたい。12~15

こうした問題意識をもって進むとすれば、従来の物質科学の枠組みそのものを切り崩していくほかないだろう。「新理論」は、従来の科学の領域のなかのものではなく、その前提を切り崩したとことにしか生まれないだろう。著者は、そこまで突き進む覚悟ができたのだろうか。

《まとめ》心と脳の関係を問うのが難しいのは、問題の本質が、通常の科学が前提にしている「事実それ自体」(説明される必要のない事実)に属するからだ。私たちが、世界を空間として体験するのは当たり前のことだが、その当たり前を問うことによってしか意識のなぞは解明できない。近代科学は、多くのことについて懐疑的な態度をとりながら、〈私〉という不思議を無視してきた。客観的な世界を解明する科学の根本に、〈私〉という主観性がブラックボックスのまま隠されている。意識の科学は、この隠蔽された〈私〉の起源を問うこと、近代科学の出自を問い直すことである。(37・38)

◆科学の前提を問う
晩年のフッサールは、『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』(1936)において、科学的世界の根底にある生きられる世界を探求し、学の真の意味での基礎付けを試みようとした。

この生きられた世界、生活世界こそが、茂木のいうクオリアの世界、〈私〉という主観性が体験するなまなましい世界なのである。科学によって隠蔽された生活世界に立ち返ることことで科学の起源を明らかにすることがフッサールの課題だったとすれば、それは、ここで茂木が提出している問いと何と似ていることだろうか。

もちろん茂木は、科学の出自・起源を問うと同時に、〈私〉の起源を問うているのである。むしろ、そちらがメインであろう。フッサールの用語でいれば「生活世界」は、いかにして成立するかを、科学の側から説明できないかと問うているのである。ここにフッサールとの違いがある。

しかし、茂木も気づいているように、〈私〉は、科学が科学として自立するためにこそ、故意に忘れ去ったものである。だからこそ、それを問うためには、科学そのものの前提を問い直さなければならないのである。
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心を生み出す脳のシステム:再考⑥

2015-04-07 16:36:05 | 書評:科学と心と精神世界
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』より


《まとめ》本書では、私たちが主観的に体験する心的状態は、全てクオリアだという立場をとる。こうした概念の拡張は、意識という現象を統一的に説明する上で意義がある。

クオリアには、感覚的クオリアと、志向的クオリアがある。

感覚的クオリアとは、たとえば「赤い色の質感」のクオリアであり、視覚で言えば、色、透明感、金属光沢など、外界の性質が鮮明で具体的な形で感じられるときの質感である。「薔薇」をそれと認識する前の、視野の中に拡がる色やテクスチャ(きめ)などであり、言語化される以前の原始的な質感のことだ。

一方、視野の中の「薔薇」を構成する感覚的クオリアを、「ああ、これは薔薇だ」と認識する時に心の中に立ち上がる質感が志向的クオリアである。換言すれば、言語的、社会的文脈の下におかれた質感ということになる。

私たちの心の持つ、「何かに向けられている」という基本的な性質を「志向性」と呼ぶ。「私が○○を感じる」という主観性の構造は、まさに、私たちの心のもつ志向性そのものである。そして、志向的クオリアは、「私」という主観性の本質と密接な関係を持っている。(46~49)

◆根源的な志向性
まずここで問題を感じるのは、意識という現象を統一的に説明するのにクオリアという概念が適切かどうかだ。

一方で、感覚的クオリアと志向的クオリアを分けているが、志向性は、すべての意識現象に当てはまる根源的な性質であり、「言語化される以前の原始的な質感」も、志向的な現象であることに変わりない。だから、こうした区別は誤解を招きやすいということ。

志向性が根源的な性質であるのは、人間を含めた生物が生きるという目的をもって世界に向かっているからである。生物が生きるという目的をもって行動しているからこそ、外的な環境は生物によって価値づけられ一定の意味を付与される。生物が、外的な環境に自らを差し出し、それらを価値付け意味づけることこそが、志向性と呼ばれる生物的な機能である。

われわれは、世界内に存在して生命のもつこの志向性によって世界に向かっていくことを止めない。それによって「われわれは意味への宿命づけられている」(メルロ=ポンティ)。

この根源的な志向性によって、人間が知覚するものは、つねに一定の「意図ないし志向」を帯び、一定の「狙い」をもつ。この時に志向され、意図されているものが「意味」である。

茂木が、感覚的クオリアと、志向的クオリアとに分けたものは、どちらもこの根源的な志向性を基盤として成り立っている。だから「意識という現象を統一的に説明する」ことを意図するなら、クオリアという元来狭い概念を使用するのではなく、志向性や意味の概念を用いた方がよいと思う。

ともあれ、志向性という概念の根本には、生物が自らを生命を維持しようとする目的という観点が含まれているのだ。そして脳の物理・化学的な過程をいくら解明したところで、生物の目的論的な機能は、説明できない。それと同じ理由で、志向性という主観性の根本的な特性を説明することもできない。

しかし以上は、物理・化学的な過程によって主観性の根本的な特性を説明することができないことの理由としては、副次的なものにすぎない。より根源的な理由を明確にできるはずなのだが、それは、もう少し茂木の議論を追いながら、考えていきたい。
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心と脳の正体に迫る

2015-04-06 10:05:22 | 書評:科学と心と精神世界
◆『心と脳の正体に迫る 成長・進化する意識、遍在する知性』天外伺朗・瀬名秀明(PHP、2005年)

ロボット・AIBOの開拓責任者であり、『宇宙の根っこにつながる生き方』などの著者がある天外伺朗と『パラサイド・イブ』『BRAIN VALLY』などホラー・SF小説で著名な瀬名秀明との対談。主な章のタイトルを見ると、「意識は進化・成長する」「神秘体験と意識の変容」「意識の成長・進化と瞑想」「臨死体験と精神変容」など、私の関心領域とぴったりと重なる部分も多い。とくに「臨死体験と精神の変容」は、『臨死体験研究読本』のテーマそのものである。

で、読んでの感想は、私自身の関心がこうしたやや理論的な探求よりも求道や修行そのものに移ってしまっているので、以前ほどに興味は湧かない。天外の説で非常に共鳴できる部分もあったが、「臨死体験と精神の変容」の部分などは、どちらかというと脳内現象説派であり、納得できない部分も多い。とくに瀬名は、上記の私の本も読んでおり本人のサイトにコメントも入れているが、なぜ臨死体験者が精神の変容を起こすのかについて、私が上の本で展開した議論に応え得るような議論はしていない。

しかし、全体としては、科学が「心・脳・意識」そして精神世界の問題に接触していくぎりぎりの領域を、広い視野から論じており、興味深い。

天外の考え方で共感できるのは、「あの世」を時間・空間が定義できない世界だとする点である。死んではじめて「あの世」に行くという考え方は間違いで、生きているときにも「あの世」に存在しているという捉え方である。「この世」と「あの世」は同時に存在している。私たちが、「自我」に執着して生きている限り、時間・空間の世界にどっぷりと浸かって生きている。執着がなくなると、たとえ死なずともそこに「あの世」つまり、「永遠の世界」が出現する。それは、時間がずっと続く世界ではなく、時空を超えた世界である。般若心経の中の不生不滅、不増不減とは、そういう世界のことを指す。それは、まさに悟りの世界であろう。

上のような考え方は、最近私にとってほとんど確信に近くなっている。悟ったからではない。相変わらず「自我」には執着しているが、「自我」に関係する一切を失ったとき、そこに何か開けるのかは、分かるような気がする。不生不滅の世界が私たちの存在に背後に開けている、ということが分かるような気がする。

臨死体験者の多くが、体験後に精神的な変容を遂げるのは、「永遠の世界」に触れるからである。光の存在やその他のヴィジョンは、何かしらこの「永遠の世界」に関係する。

にもかかわらず天外は、「結論として臨死体験は幻覚の可能性が高いと思う」と言う。死ぬ時の自己防衛本能である種の「脳内麻薬」が分泌され、LSDと同じような幻覚作用を起こすのだという。結局、天下は、「あの世」を時空を超えた世界と捉えながら、臨死体験における「悟り」と、時空を超えた「あの世」観とを、本質的な意味で結びつけるという発想には至っていないようだ。

しかし、この本を読んで私も再び、臨死体験と精神変容の問題への関心が高まった。臨死体験の本を書いた頃よりは、また少し深い視点から、考えることができしそうな気もする。
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心を生みだす脳のシステム:再考⑤

2015-04-06 09:47:37 | 書評:科学と心と精神世界
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』より;脳の中のホムンクルス(小人)

《まとめ》「私」という視点が成立するメカニズムの、もっともナイーヴなモデルは、脳の中に小人(ホムンクルス)がいて、脳の中のニューロン活動をモニターしているというものである。現在では、脳の中にホムンクルスがいると信じる脳科学者はいない。

しかし、脳のある特定の領域に「自我」の中枢があり、他の脳の領域の活動がここに伝播されると「私」にそれが感じられるというようなモデルがあるとすれば、それは、暗黙のうちにホムンルクスの存在を仮定するといえよう。

そのような説明で脳全体に宿る主観性の構造を説明したとしても、今度は、脳の特定の領域のニューロン活動によって支えられるであろうホムンクルスの主観性自体がどのようにして生まれたのか、その起源を明らかにするという新たな問題が生じる。つまりホムンクルスに基づくモデルは、無限後退に陥ってしまう。(46)

◆非物質的なホムンクルス?
「ニューロンを一つ一集め、ある関係性を持たせるとなぜそこに心が宿るのか、その第一原理さえ皆目検討がつかない」という茂木の率直な告白から、一歩進めて、ニューロンの物理・化学的な過程から主観性を説明することは、原理的に不可能なのだと認めたらどうなるだろうか。

それは非物質的なホムンルクスの存在を認めることになる。「脳のある特定の領域に「自我」の中枢がある」ともせず、したがって、その中枢を特定することもしない。

とすれば、ホムンルクスを、脳の特定の領域のニューロン活動として説明する必要はなくなるから、「無限後退」に陥る必然性はなくなる。

つまり、まったく別の説明原理を導入すると、脳と主観性に関する難問は、違った照明の下で、違った姿で見え始める。クオリア、主観性、心という問題には、物理・化学的な原理では説明し尽くされない次元が含まれるということを勇気をもって認めるということだ。

しかし、そのためには、物理・化学的な過程によって主観性の根本的な特性を説明することができないということを、原理として説明する必要がある。
 
今の私の考えでは、主観性を根本的な特性を説明するためには、目的論的な説明原理を持ち込まなければならないはずで、物理・化学的な説明原理からは、目的論的な説明原理を導き出せないということが、しっかりと論証できればよいのではないか。

基本的に「主観性」とは、世界を、生命維持という「目的」のために、意味的な統一として把握する機能だからである。

ところで、ホムンクルスについては、茂木の他の著書『脳内現象 (NHKブックス)』では若干違った解釈、違った視野のもとで論じられている。これもいずれ触れることになるだろう。
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心を生み出す脳のシステム:再考④

2015-04-06 09:43:11 | 書評:科学と心と精神世界
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』より

《まとめ》
クオリア問題は、意識や心を問題にするうえで本質的であるが、では意識の問題は、クオリアの問題に尽きるのか。

例えば「自己意識」の問題は? 世界の中に「私」という視点があり、私が私であると感じられ、私が、他の誰でもない、まさにこの「私」であることの不思議さは、クオリアとどのようにかかわるのか。

クオリアは、客観的に存在する物質のように、それ自体としてあるのではなく、必ず「私が○○のクオリアを感じる」という形で表象される。「赤のクオリア」が単独に存在するのではなく、「私が赤のクオリアを感じる」というように、「私」という視点と対になって成立する。

つまり、クオリアが、脳の中のニューロン活動からどのようにして生まれるかを説明する理論は、必ず「私が○○を感じる」という自己の成立の構造をも説明する理論でなくてはならない。このように考えることは、脳をシステムとして考察する方向につながる。実際、脳のシステム論とは、脳の中で進行している様々な感覚情報、運動情報の処理のプロセスがいかにして「私」という形で統合されるか、という問題だとも言える。(43~45)

◆痛みと主観性
ここで私は、「自己意識」、「私」意識の問題と、主観性の問題とを区別して論じる必要があると思う。例えば痛みとは主観的なものである。ある主観がそれを感じた限りで「痛み」となる。生理的な痛みにつながるニューロンのどのような活動を解明したからと言って、感じる主観がなければ痛みはない。失恋を失恋と感じる主観がなければ、「失恋の痛み」もないのと同じである。ただし失恋の痛みの場合は、失恋した私という「自己意識」が伴う。

逆に言えば、肉体の「痛み」は、失恋と違い「自己意識」を伴う必要はない。私たちは、犬や猫も「痛み」を感じていることが分かる。しかし「痛み」は、必ず「誰か」(人)や、「何か」(生物)にとっての「痛み」であり、それを感じる主観性がなけれは、そもそも「痛み」は成立しない。痛みも、主観に感じとられるクオリアなのだが、必ずしも「自己意識」を伴う必要はないのである。

だから、「クオリアが、脳の中のニューロン活動からどのようにして生まれるかを説明する理論」は、「自己の成立の構造をも説明する理論」である以前に主観性の成立構造を説明する理論でなければならない。

「痛み」は、いかにしてニューロン相互の物理・化学的過程であることを超えて「主観」に感じ取られる「痛み」になるのか。

そして「痛み」その他いっさいのクオリアを感じる中心としての「主観」は、客観的な過程のなかにそもそも位置づけることが出来るのか。それが問われるべき大前提なのである。
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