チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「「下り坂」繁盛記」

2017-06-05 14:29:27 | 独学

 139.  「下り坂」繁盛記   (嵐山光三郎著 2009年9月)

 私が以前に書きました「チャンスと選択肢と投資について」の中で、人生を15年間ずつ区分し、七つの期に分類しました。

 近年は、平均年齢で八十歳を超えてますので、私のように七十歳であれば、八十歳を超えて、生きることを考えなくてはなりません。(平均の中には若くして亡くなられた人を含めた平均なので、すでに七十歳以上の人の平均は、それを越えることになります)

 幼年・少年期 0~14歳、青年期 15~29歳、成年期 30~44歳、壮年期 45~59歳、熟年期 60~74歳、老年期 75~89歳、終末期 90~104歳 としてみました。

 人によって異なるとおもいますが、熟年期の後半から、「下り坂」に差し掛かりますが、登ったり、下ったりと決して平たんではないと思われます。

 本書にあるように「下り坂」を繁盛させ、充実したものにして、楽しい人生を送るためのヒントがあるのではと考えて紹介致します。


 『 僭越ながら白状しますと、私は下り龍である。下り龍とは、天から地へ下ろうとする龍であって、登り龍ではない。絶頂期はとうの昔にすぎた。やりたいと思ったことはやりつくした。

 だからいつ死んでもいい、というわけではなく、ほうっておいても死ぬときは死ぬのである。下り龍というのは厄介な化物で、と自分でいうのもおこがましいが、下りながら好きほうだいに暴れるのである。

 金はない。少しはあるけど、あんまりない。体力も落ちて、そこいらじゅうにガタがきている。中古品を通りこして骨董品である。それも値のつく古道具ではなく二束三文のガラクタである。

 ろくなもんではない。けれど生きている。平気で生きている。下り坂を降りることはなんと気持ちのいいことなのか、と思いつつ生きている。

 「下らない」とは、つまらない、とるに足らないという意味である。ということは「下る」ことじたいに価値がある。生きていく喜びや楽しみは下り坂にあるのだ。

 若い人は上昇志向がある。「上を見ろ!」と自分をはげまして生きてきた。「いまのままで十分」と考えるのは停滞だ、と自戒してきた。

 満足してしまったらそこで終わりだから、右脳の命じるまま、直感によって生きている。しゃにむに働き、いくら苦しくても我慢をして坂を登ってきた。つまり上り龍であった。

 けれど、登りに登っても、そのさきの上はどこにあるのだろうか。山の頂上の上には雲がある。青雲の志とは高位、高官をめざすこころざしである。

 では青雲の上にはなにがあるか。月があり、星がある。星の上にはなにがあるのか。宇宙がある。宇宙の上にはなにがあるか。上は無限で、どこまでいっても辿りつく定点がない。それと気がついたとき、天才は行き場を失い、自殺する。こういった天才は百万人にひとりぐらいだから、特別である 』


 『 私の世代は、天国と地獄を体験しえただけでも運がよかった。過ぎてしまえば、敗戦直後の悲惨な日々もなつかしい思い出となり、焼け跡にマンマルの太陽が沈んでいく恍惚はいまも胸の内に燻っている。

 二十二歳で出版社に就職すると、予想していた以上の激務が待っていた。三十歳のころは、一日の睡眠が四時間という日々であったが、さほど苦にはならなかったのは、それなりに登り龍であったからだ。

 三十八歳で勤めていた出版社を退職した。会社の経営がいきづまり、希望退職者を募集したので、それに応じたのだった。会社が希望退職者の条件としたのは「四十五歳以上の社員」だった。

 それにより、四十五歳からは下り坂なのだな、とわかった。私が退職した一九八〇年は経営不振のため希望退職を募る会社が続出し、どこの会社も、申しあわせたように、「四十五歳以上」という条件をつけた。

 四十五歳定年は、体力の落ちた企業が自力更生するための手段だった。経営者の立場に立てば、仕事ができないのに高給を取る社員は不用である。人件費を減らして効率のいい経営をしたい。それを経営者は次のように説明した。

 六十歳定年で会社をやめた人は、そのあとの仕事をみつけにくい。四十五歳で退職すれば、第二の人生が開ける。実力のある人材を、社は飼い殺しにしたくない。そのため四十五歳でやめる人には退職金を割増しして支払う。

 会社はあと十五年もつ保証はどこにもないが、人生は長い。四十五歳で割増し退職金を得て、新天地へむかう人を社は歓迎し、支援する。

 私は社をやめるとき、雑誌編集長であったから、それなりに登り坂ににいる、と自認していた。体力にも自信があったし、まだまだやれるという気力があったが、四十五歳までにはあと七年しかない。さてどうしようか、と迷った。

 迷ったあげく、自分で自分をリストトラしたのだった。頭の中に「下り坂を生きる」という直感が走った。それで、三十八歳で、希望退職の仲間入りをした。 』


 『 しばらくは失業保険の給付を受けて生活しようとしたが、そのころの職安は、なにかと難癖をつけて、金を支払わない。職安の担当者が指示した会社へ行って面接を受け、その結果を持ち帰ってこいといわれた。

 職安が提示した会社は、老人用ベットの、セールス会社だった。職安の担当者が、私の「高給」に腹をたて、「今どき、そんなに高い給料を払う会社はありませんよ」と嫌味をいった。

 ここに至って、それまで勤めていた会社が、どれほど高遇してくれていたかに恩義を感じたが、引き返すわけにはいかない。この世の現実を思い知らされた。

 しばらくぶらぶらしているうち、たちまち貯金が底をついた。私は、中学校のころから西行や芭蕉にあこがれ、放浪生活願望があった。専攻したのは中世隠者文学で、卒論は鴨長明であった。

 長明は神官としての栄達をねがったが、果たせずに隠遁した。挫折によって遁世の生涯をおくった。学生のころは、隠者の過酷さは頭だけでわかったつもりでいた。それが現実の課題として自分の身にふりかかった。

 鴨長明は、山中に隠れてからも都の栄華が忘れられず、たびたび都に出かけ再就職を試みた。長明の隠遁は怨恨によるもので、出家してからは、怨恨の思いを浄化することにつとめ、その格闘が「方丈記」となった。下り坂で繁盛した人である。

 「北面の武士」として鳥羽院に仕えた西行は、出家するときに、とりすがる四歳の娘を縁の下に蹴とばした。かわいい娘を蹴とばすとはとんでもない父親だが、失業して野に下るときはそれぐらいの覚悟が必要だ。

 失業した私は、友人と小さな出版社をたちあげた。木造スーパーの八百屋の二階倉庫を改造したボロ社屋で、そこは貧しいながらも、鴨長明の庵を連想させる風雅な隠れ家であった。

 やけっぱちで野に下ったのに、それがかえって評判をよび、なんだかんだと繁盛してしまった。たちまち「下り坂は商売になると気がついた。日本人は、下り坂が好きなのである。 』


 『 友人に五十歳会社をやめ、田舎でペンション経営をした人がいるが、あまりの過労のため二年後に頓死してしまった。体力屈強な山男であった。この世に第二の人生なんてものは存在しない。

 人生は山あり谷ありのなだらかな一本線で、ずっと連がっている。頓死した友人は、風雅を求めても、貧乏な生活は断ちきれなかった。ペンション経営などせず、山小屋で貧乏暮らしをすればよかったのである。

 歳をとったら町に住め。隠居するのは町が一番である。近くに居酒屋、コンビニ、銭湯、病院があり、人間がいっぱいいるほうが目立たない。友がいるし書店や図書館や映画館があって新聞も宅配される。

 だれもが自分が死につつあるということを自覚したいるわけではない。死は意識の彼方に蜃気楼のようにぼんやりとあるもので、生きているときは、死なんて忘れている。

 大切なことは死に至る過程で、これが下り坂を生きる極意といっていいだろう。私はワープロを使わない。パソコンも持ってないし、インターネットにも興味がない。原稿はすべて手書きである。

 忘れた漢字は、辞書をひいて調べ、一字一字原稿用紙に書きつけていく。思考するときは文字を書く。パソコンを使うと思考が蒸発してしまい、蓄積されない。文字を書いて思考する。

 「時流から取り残される」とは、なんと素晴らしいことだろうか。取り残されてこそ自分があって、生きてきた甲斐があった。いまの時代は時流がいっぱいあって、中高年世代には取り残される条件がそろっている。

 それなのに、インターネットにはまりこんで時流にとりこまれるのは、とんでもないことである。

 私が「下り坂の極意」を体感したのは、五十五歳のときの自転車旅行からだ。自転車で、芭蕉の「奥の細道」を走破した。いっぱいある仕事をうっちゃって、ダラダラと自転車旅行をして、芭蕉の呼吸を追体験した。

 登り坂がきつかった。五十歳をすぎると、若いころの体力はなく、たいした坂でもないのに、自転車から降りて引いていく仕末だ。国道はトラックやバスの大型車輌が多く、追いこされるときは風圧でふっとばされ、命がけの旅であった。

 ぜいぜいと息を切れして登るときは、周囲の風景が目に入らない。ひろい国道をさけて町のなかの細い道に入ると、そこは抜け道になっていて、地元の自家用車が猛スピードで走り、はね飛ばされそうになった。

 登り坂は苦しいだけで。周囲が見えず、余裕が生まれない。どうにか坂を登りきると、つぎは下り坂になる。風が顔にあたり、樹々や草や土の香りがふんわりと飛んできて気持ちがいい。

 ペダルをこがないから気分爽快だ。そのとき、「楽しみは下り坂にあり」と気づいた。 』


 『 どうして、こんなに離婚が多いんだろうか。知人の半分以上が離婚経験者で、離婚してない夫婦の方が珍しい。優秀な企業戦士に限って妻とうまくいってない。

 某社の部長は「妻とは五年間口をきいてない」というし、某学校の教授は、離婚した妻が家を出ていかない。その理由は「妻が住む家がないから」で、小さな一軒家で別れた妻と同居している。

 妻にいわせれば「あんたこそ家を出てきなさいよ」ということになるが、夫にしたところで、ほかに住む家がなく、愛人がいるわけでもないし、自分が買った家に住んでいる。

 世間からは良妻と見られている妻が、家庭内ではとんでもない悪妻であるケースも多い。悪妻が夫を成功させる、といわれるけれど、とんでもない俗説であって、「悪妻でありながらも、夫はそのハンディをのりこえて、自分の力でのしあがった」のである。

 離婚裁判で最高裁までいった知人がいる。凄絶な罵り合いとなり、お互いに相手の人格を否定し、その精神的な傷ははかりしれない。ズタズタになって人間不信におちいり、裁判判決後に没してしまった。

 離婚に要する体力は結婚の数倍かかる。また、離婚は当人どうしだけでなく、その夫婦をとりまく人間関係をこわしてしまう。

 熟年離婚は文明社会特有の現象で、テレビドラマにもなって、「時代に遅れちゃいけない」と目覚めた人妻が駆け込み離婚する。協議離婚が成立すれば、財産分与があり、夫の年金分割も入るため、妻が路頭に迷うことはない。

 企業戦士は、家庭ではたえず浮いた不安定なところにいる。会社では汗水垂らして働き、七人を敵にまわし、揺れ動く自分を制御しなければならない。畳の下には地雷が埋まっている。

 家庭には職場のシステムを持ち込むことができない。とくに専業主婦は要注意である。家庭という閉ざされた圏内で行動するため、価値観が固定され、唯我独尊となる。

 困ったことに、妻には人事異動ができない。妻には「会社の理論」は通用せず、会社人間ほど妻に手をやくことになる。さあ、どうしたらいいんでしょうか。仕事をとるか妻をとるか。

 という問題にたちむかって「妻との修復」を書いた。ひとつわかったのは、いちいち妻のいうことをきいている男のほうが、離婚をいい渡されることが多い。人妻の増長は無制限で、夫がつくせばつくすほど図に乗り、子どもと同じで手加減がない。

 いまの御時世では、良妻賢母という発想はなく、金のかかった女、見ばえのする女が人気で、連れ歩くときにうらやましがられれば、男の力が誇示できる。

 けれど、六本木ヒルズに住むモデルやタレントたちがいい妻といえるだろうか。ヒルズ族のセレブ夫婦の開く鍋パーティは寒い。と書いたら、六本木ヒルズに住むT君から電話があって「それは、きみのひがみだよ」といわれた。

 T君は自動車修理工場を経営している。十一年間つれそった妻(高校の同級生)と離婚したのが九年前で、その後新宿区役所通りにあったスナックのママと再婚して、昨年離婚した。

 四月四日に、三度目の結婚をするから、結婚式に出席してスピーチをしてくれと頼まれたが、あいにこスケジュールがあわない。大安だというから、”三度目もまた大安のよき日かな” と祝電を打っておいた。 』


 『 趣味はハイセンである。というと、配線ですかと訊かれる。電線をつなげて時限爆弾かなにかこしらえてんの。爆弾テロだろ。それとも敗戦ですかい。戦争に負けたことを反省分析して、時代を見つめなおすんですな。

 あ、わかった廃船でしょう。浜に打ちあげられた廃船でキャンプしたりして。違うの。廃線です。廃止された鉄道の跡を、列車がわりにゴットンタラタラと歩いておるのだ。

 わが旅も行きつくところまで行きつき、廃線跡を犬のように嗅ぎまわる日々になった。もともとローカル線が好きで、「日本一周ローカル線温泉旅」 「日本全国ローカル線おいしい旅」 を書いたが、そういったローカル線が、片っ端から廃線に追い込まれていく。

 敗戦になるのは、ひなびて味のあるローカル線ばかりである。地面がずり落ちたような海沿いのローカル線は、いとおしい日本の風景である。特急に乗れば一時間で行けるところを三時間かけて旅していた。地元の人々に密着していた生活路線である。

 どれほど風雅な地でも、あわただしく過ぎればただの絵葉書にすぎない。古びた駅で降り、貧相な山の湯の宿に泊まり、古障子の破れ穴より差し込む光を見てきた。これぞ下り坂趣味の快感である。

 旅に出る前は虫封じのまじないをし、名所旧跡を避け、おんぼろローカル線のシートに身をしずめ、ゴットンゴットンと下ってきた。

 ところがどうだ。そういった哀愁の路線に限って廃線となる。高速道路ができて、山奥や岬のすみずみまでクルマで行ける。するとローカル線は赤字になり、廃線に追い込まれる。

 廃線ときまると、どっと客が集まる。電車は「さよならナントカ号」の花輪をつけて、全国からやってきた鉄道ファンに見送られて走り、新聞やテレビに報道されるが、そのあとは、ひたすら朽ちていく。

 鉄道は、焼いて、墓場に埋めるわけにはいかない。ホームも線路も標識も踏切も、風雪いさらされる。ホームのコンクリートはひび割れ、駅のベンチには蔦がからまり、雑草が繁り、レールは錆びてゆく。

 壁板がはがれ、駅の屋根は崩れ、雨樋が折れ、プラットホーム一面に枯れすすき。木造電柱からつながる蜘蛛の巣をぼーっと見て、時間をすごす。風と雑草が駅舎を食い荒らし、「雨月物語」に出てくる化物屋敷みたい。

 こういった廃駅はいずれ壊されサラ地になってしまうんだろうが、朽ちていくいま、を見定める。いまのうちに見ておかなきゃもったいない、と「小説宝石」のイソ坊とダンゴロウーと一緒に、廃線紀行をはじめた。

 風化する時間の実物を体感するのは、西行、芭蕉よりつづく日本人の伝統である。これぞ、廃線文化のはじまりである。という構想を抱いて各地の廃線をめぐっているうち、廃線の成熟度がわかってきた。

 ① 見ごろは廃線になって三年後である。 ② 無残なる廃駅の面影は五年後ぐらい。 ③ コテコテの無常は七年め。 これは廃線度七五三現象という。

 昔から廃墟願望があった。無人となった西洋館豪邸跡、倒産した温泉ホテル、廃業した工場、閉鎖された木造小学校、朝顔が咲く川沿いの番小屋、住人のいない市営住宅……、かって人間の営みがあった地が、すたれて、荒れていくのがいいんですね。 』


 『 向島百花園にタイモン・スクリーチ氏(ロンドン大学教授)とエイドリアン・J・ピニグトン氏(早稲田大学教授)をお迎えして、英日親善句会を行った。おふたりとも日本語ペラペラの文人である。

 対する日本の文人系は、南伸坊、長曾我部友親(トノ)、テレコムスタッフ岡部憲治(車窓)、同ディレクター氏家力(日借)、K談社より四名の編集者(曲亭・朱蘭・一本・玲留)、S英社編集長(蛙・遅れて参加)、浅生ハルミン(春眠)、石田千(金町)、嵐山オフイスのモチ子姐さん(トンボ)、嵐山(世話人)、坂崎重盛(露骨=宗匠)である。

 兼題は月、唐辛子。あとは当日の投句で、夕暮れの百景園を歩いての吟行となる。百景園は久保田万太郎はじめ、多くの俳人が句会興行をした名園だが、十一月の末だから、ほとんど花は枯れ、枯れ葉がハラハラと散っていた。

 たちまち、「シャンソンを歌って落ち葉かな」の句を得て、ミチ子姐さんに「一句五百円で売るよ」というと「いりません」と断られた。

 ミチ子姐さんの句は、 「名月や 峠のわが家 囲炉裏酒」 (トンボ) で一票入った。月見をしながら峠の家で燗酒を飲むシーンが浮かんでくる。

 「残菊の 花粉で一度 くしゃみする」 (一本) 藤田一本は、剣道の達人だからイッポンの号があるが、はたしてこれが俳句といえるかどうか。ただし剣術遣いがハックションとくしゃみをして一票はめでたい。

 二票句は、 「猫を追う 母子を見ている 老柘榴」 (トノ) トノは慈悲ぶかい目で百景園の野良猫を見ておられたのだ。とすると。老柘榴は長曾我部家十七当主である自分のことらしい。

 「枯枝に 頬つつかれて 萩の道」 (露骨) 百景園は萩のトンネルが名物で、その萩が枯れて頬をつつく。露骨は二票が不満で「宗匠に一点もなき句会かな」だな、と文句をいう。「頬つつかれて」がなかなかの手並みだが、やっぱり、つつかれると痛いから点が入らない。

 三票の問題作はタイモン教授で、 「旅立ちの わが足かたし 唐辛子」 歩いて旅すると、自分の足が唐辛子のように赤くなる、という詠嘆である。 「わが足は 唐辛子なり 旅へ立つ」 と添削しようとしたが、ロンドン大学教授だからね、遠慮した。

 タイモン教授は翌日日光まで徒歩で旅するのだという。健脚の一句。大学の授業で遅れてきたエイドリアン教授は、選句にまにあわなかったが、 「秋の日の 暑さ集めて 唐辛子」 と自句を披露した。「暑さ集めて」に観察力がある。

 校了のため同じく遅れてきたS英社の蛙親分は、 「唐辛子 蹴散らして行く 通学路」 乱暴ですな。長身白髪の蛙親分は武闘派で銀座のママさんに圧倒的人気がある。両氏とも投句時間にまにあえば高得点であったかもしれない。 』


 『 「美事なり 赤と緑の 唐辛子」 (伸坊) あのね、伸坊。どのように美事(みごと)なのかを詠むのが俳句なんですよ。と注意すると「だって美事なんだからしょうがないだろう」と口をとがらせた。こういう句に三票も入ることが、句会のレベルの低さを示している。

 「甘酒や 茶碗ひとつの 老夫婦」 (曲亭) 百花園の茶店で、一杯の甘酒を分けあっている老夫婦がいた。曲亭翁はそのシーンをつかまえた。だけど、甘酒ぐらい一人一杯飲みゃいいじゃないのと激論になり、伸坊が「マアマア」と仲裁した。

 「隅田川 遠くに聞こゆ 小春かな」 (車窓) 車窓は長寿番組「世界の車窓から」のプロデューサー。近くに隅田川が流れていて、この地は荷風「濹東奇談」の背景になった。隅田川沿いのマンションを隠れ家としている車窓ならではの吟。

 「源氏より 千年照らす 今日の月」 (車窓) も三票で、車窓はこの日は好調である。

 「犯人は いずこホームズ 月を見る」 (嵐山) シャーロック・ホームズを出したから、タイモン教授の句と思って票を入れた人がいる。タイモン教授は「月並みな句だ」とブツブツいっている。

 「寒々と 天を切り割き 月に雁」 (朱蘭) 朱蘭は「酒乱の編集長」としておそれられたことがあるからこの号がある。「月に雁」という細長い記念切手があり、切手少年の思い出。

 「唐辛子 阿修羅の指に 染まりおり」 (日借) 日借はテレビディレクターで、先日、奈良の古寺で阿修羅像の撮影をしたときの印象。阿修羅の指が唐辛子みたいに赤くなっていたんだって。

 「癇癪を おこしてちぎる 唐辛子」 (春眠) ハルミンさんは美貌のイラストレーター兼エッセイストで、猫と一緒に暮らしている。新刊の著書「私は猫ストーカー」が映画化された。天才脳科学者を陰で操る魔法猫の正体を追う話らしい。五票句もハルミンさん。

 「ふたりいて 歩きたりない 月夜かな」 (春眠) 月夜に恋人と歩きまわるところに、猫の習性がのりうつっている。

 六票句は、「亡きひとの 湯呑茶碗の 小菊かな」 (金町) 亡き人とは、没したおばあちゃんのことだろうか。この日の茶店で甘酒を飲んだときに、金町嬢はおばあちゃんを思い出した。

 「満月や 夜空に穴の あいたよう」 (露骨) 満月を夜空の穴と見たてての着想で、てっきり女性の句だと考えて、私は一票を入れてしまった。露骨の句と知っていればやめといたのに、と悔やんだがあとのまつり

 「キッチンの 一隅灯す 唐辛子」 (露骨) キッチンの上にぶらさがっている唐辛子が、そこだけ赤く照らしている、という絵画的な句。「キッチン」とあるからタイモン教授の句と思ってこれにも一票いれてしまった。露骨は二句に六票が入った。

 最高点(天)の七票句は、「走る月 臥して眺むる 夜の汽車」 (玲留) 玲留ことK談社の京子さんは鉄道大好き麗人だからレールの号。五泊六日でイタリアの夜行列車に乗りにいってきた。寝台列車に寝転がって、空に走る月を見る、という情景。

 天はもう一句、「池底の 冬見とどける 芒かな」 (嵐山) 百花園に古池があって、水辺に枯れ芒があった。もうすぐ冬がやってくるのだなあ、と芒が池の底をのぞきこんでいる。

 この句に七票入るとは句会のレベルは高いな。フフフフと含み笑いをすると、宗匠の露骨が「天の句に名句のあったためしなし」と、ぶつくさいっているのでした。 』


 嵐山光三郎流の遊びの話でしたが、遊ぶのもそう簡単ではなく、工夫を凝らし多くの仲間を巻き込んで、楽しんでいます。私も主体的に工夫を凝らして、全力で七十の坂を転ばないように気をつけて、下っていこうと思います。(第138回)


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