チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「司馬遷」

2013-08-29 15:41:37 | 独学

 49. 司馬遷 (林慎之助著 1984年発行)

 『 司馬遷はいつ、どんなふうに死んでいったのか、今それを知るてがかりはない。「史記」の完成が五十六歳のときであったことは分かっているが、それを最後に、彼の消息は途絶えている。

 おそらくは、壮大な史劇ともいえる「史記」百三十篇の歴史記録を書き終えたのち、精魂つきはてて、それからほどとおくない時期に死んでいったのであろう。(日本を代表する作家の司馬遼太郎は、「司馬遷に遼に及ばず」という意味を込めてペンネームとした)

 今からほぼ二千年ほど前に生きた、この偉大なる中国の歴史家の死について、ただひとつ、確実にいえることがある。彼の死が宦官(かんがん)の死であったということである。

 なぜ、司馬遷は、宦官になったのか。

 漢の武帝の天漢二年(紀元前九十九年)の秋。司馬遷の若き日の友人・李陵は騎都尉としてわずかに歩兵五千を率いて、敵地匈奴の奥深くまで進攻したが、まもなく、匈奴騎馬軍団の主力と遭遇し、その包囲攻撃を受けて、退路を断たれた。

 李陵は死力をふるって善戦したが、衆寡敵せず、刀折れ矢尽きて、ついに匈奴に捕らわれてしまった。

 この敗戦を聞いて、武帝は怒った。周囲の文臣は、武帝に阿諛追従(あゆついしょう)して、こぞって李陵の非を鳴らした。

 かねてより李陵に国士の風ありとみていた司馬遷は、武帝の面前で臆するところなく、李陵弁護の挙にでた。

 これが武帝の逆鱗にふれたのである。ただちに皇帝誣告(ぶこく)罪に問われて、司馬遷は獄に下され、やがて、死刑の宣告を受けている。

 このとき、死を免れるてだては、朝廷に五十万銭を差し出すか、宦官に身を落とすか、二つの道しかなかった。

 たかだか秩禄六百石の史官にすぎぬ司馬遷には、五十万銭の蓄えはなかった。友人縁者のうちだれ一人として、彼に援助の手を差し伸べる者もいなかった。

 「四面楚歌」とはこのことであった。孤立無援の司馬遷は、去勢する陰惨な刑を受けて、刑死を免れた。

 宦官に身を落としても、生きながらえる道を選んだのは、彼みずからの意志によるものであった。

 司馬遷が、生き恥をさらして生きながらえようとした最大の理由は、「史記」の完成をいまだ果たしていないことにあった。

 「史記」――「太史公書」を書きあげよとは、臨終の際に父が彼に負託した遣命であった。この大いなる父の遣命を果たさずに、「史記」の編述を中断したまま、死んでゆくことは、どうしても司馬遷にはできなかった。

 「史記」のなかで、司馬遷は幾多の金言名句を吐いているが、その一つに、「死するは難きにあらず、死に処するの難きなり」というのがある。

 死に処して生きてゆくことのほうが死ぬことよりずっと難しいのだ。というほどの意味であるが、これこそは、司馬遷ならではの実感に裏打ちされた名言であった。生きながらえる道を選んで以来、わが胸ふかく刻みつけた彼の哲学でもあった。

 司馬遷は生きた。いちどは死んだ命である。なんとしても死に処して生きた証をたてねばならぬ。その証(あかし)が、「史記」の著述である。証はこれよりほかになかった。彼は、その完成をめざして、いっときの手もゆるめなかった。

 もしこれを完成させて後世に伝えることができれば、屈辱にまみれた汚名をいつの日か挽回することができるかもしれぬ、という打ち消しがたい思いをこめて、司馬遷は「史記」の述作をいそいだ。「史記」はついに完成した。

 すでに李陵事件が発生してから八年の歳月が経過していた。かくして、司馬遷が書き上げた「史記」は、中国の最古の時代から漢王朝の時代に至るまでの壮大な歴史書であった。それは、孔子が「春秋」を著してのち、絶えて久しくだれもが手をつけなかった前人未踏の大事業であった。

 「史記」は司馬遷のすべてであった。彼は「史記」にすべてを託して、その数奇なる生涯を閉じた。現世においてむくわれることのない閉ざされた胸の思いを、この歴史記録にそそいだ。文字どおり「史記」は心血の書であった。

 にもかかわらず、司馬遷は生前に公表することをかたく拒んでいる。もちろん彼には、「史記」がいつの日にか世に表彰されて、未来に起死回生を期する熱い思いがあったが、生前、これを公表する気持ちはまったくなかった。

 それは、「史記」の歴史記録が司馬遷とふかくかかわった漢の武帝の治世にまで及んでおり、そのため筆禍が彼と家族にふりかかることを懸念したからであった。 』

 
 『 司馬遷に薫陶をあたえ、まことに大きな精神的な影響を及ぼした人物は、なんといっても、その父司馬談である。司馬談の存在なくしては、司馬遷の存在はなかった。

 これは至極当たり前のことだが、この当たり前の表現がこの父子関係ほどぴったりとくる存在は、そうざらにはなかった。

 さらに言えば、この父の薫陶と遺言なくしては、歴史家司馬遷の成長と「史記」の編述は考えられない。

 いい換えれば、史家としての司馬遷の自覚史をたずねようと試みるものは、かならず父の司馬談の存在にいきつくはずであり、司馬遷を歴史家として意識的に育成すべく、教育を施した慈母の存在が、司馬談であった。

 司馬遷は「大史公自序」のなかで、父の勉学・修業をあとづけて、きわめて簡略ではあるが、司馬談は天官を唐都に学び、易学を楊何に授かり、道論を黄子に習う、と記している。

 道論とは、道家の思想であり、易は「易経」の学である。他の一つの天官こそは、大史令の職務にもっとも深い学問で、星や雲気を観測し、春夏秋冬の自然現象と日暦編纂を勉学の対象とするものであった。

 観念と現象、抽象と具体の相違があっても、この三つの学問は、「自然」の探求という一点においてわかちがたく結びついていた。

 司馬談が天官、易、道論の勉学・修業を志したことは、「自然」の探求にとって、いずれのひとつも欠かせない学問であった。

 これは「自然」の総合的把握を果たすためには、この三つの学問の有機的な結合こそが必要であるという認識が、司馬談自身の中に存在していたからである。 』


 『 二十歳になった司馬遷は旅に出た。それも、なみの旅ではなく、天下遊歴の大旅行であった。当時の知識人の子弟は、二十歳ともなれば、仕官の途につくか、その準備のための勉学に追われているかのいずれかであった。

 それが常識的な進路であったのだ。そうした常識的な道を逸脱した破天荒の旅を司馬遷はめざした。それは、一つの賭けでもあった。

 ほんものの賭けというものは、新たなる自己発見のために行うとすれば、司馬遷にとって、その旅は青春最後の賭けであった。この機会をはずしては、絶対不可能な旅を司馬遷はやってのけたのである。

 ヨーロッパのほぼ四倍近い広大な中国の各地を巡ろうというんだから、それだけでもたいへんなのに、時代は紀元前の大昔のことなれば、ときに乗り物に馬車を使い、船の足を借りたとしても、今日では想像もつかない不便と困難があったにちがいない。

 そのうえ、丹念に歴史遺跡を探訪する大目的を実現しなければならないのだ。相当に強い意志と忍耐力が旅行者に備わっていなければ、その成功はおぼつかない。

 幸いなことに、青年司馬遷は都育ちのぼんぼんではなかった。故郷竜門の自然のなかで、牛や羊を追い、土を耕した屈強な身体をもっていた。

 そして、なによりも、だいじなことは、実地に何でも見てやろうという青年らしい覇気に富んでいたことだ。実際のところ、このような肉体的、精神的な条件に恵まれなければ遂行できぬ壮途であった。この司馬遷の覇気に火をつけたのは、父親の司馬談であったにちがいない。

 司馬遷は壮途につくまでの動機については、なにひとつ語ってはいないが、厳命に近い父の旅立ちへの誘いがなければ、これだけの大旅行の資金繰りはできなかったであろうし、あらかじめ練りあげられていたとしか思えない歴史遺跡の見聞計画もたたなかったであろう。

 この大旅行の出発にあたって、父は息子をそそのかした美しい共犯者であった。後年、「史記」が書き上げられる動機を思いめぐらしてみても、そこに司馬談の遺命が大きくはたらいていた。ことほどさように、この父と子の紐帯は意思的で、かつ親密であった。

 このとき、司馬談は太史令という官職についていた。天文観測とそれによる日暦の策定、天地の神々を祭る儀式の万端整えるのが、太史令に課せられた実際の仕事であった。

 司馬談は自分の職掌に忠実ではあったが、それだけに満足していたわけではなかった。いつも彼の胸中には、「太子公書」――つまり、中国古代から現代に至るまでの歴史の記録を書き残したいという熱い願望が去来していた。

 それこそが、本来の太子令の職責であるという自覚が鮮烈に存在しつづけていた。

 息子の司馬遷が二十歳になった時期といえば、司馬談が太子令になってから十余年を経過した紀元前126年のことである。司馬談の幻の書ともいうべき「太子公書」の構想はほぼ熟しかけていたと考えてみる。

 職掌柄、司馬談にとって宮廷に所蔵されている公式の歴史資料に目を通すことは、容易にできたはずである。しかしながら、そうして目を通した公的な歴史文書だけで、「太子公書」を書くことに、もう一つ踏みきれぬ気持ちが、司馬談には残っていた。

 歴史的事件が起こった地理的環境を実地に踏んで、はじめてつかめる臨場感が欠落していた。それは歴史上の人物についても同じことがいえた。

 その個性的な風貌と行動の軌跡を思い描くとき、公式的な記録からは、読みとれぬある種のもどかしさといらだちがあった。

 できることなら、各地に伝承されているであろう野史の類の史話を収集する必要がある――司馬談はこのように考えていたが、官職にある身では、実地踏査の旅に出る自由はなかった。

 そこで、父は二十歳になった息子に、その考えを語り、その使命を託したのだ。 』


 『 漢王朝の創業に参加した主だった人々の家を訪ね、彼らに関する興味ある逸話をたくさん聞き取ることができた。「史記」の「はん・れい・籐・灌列伝」において、司馬遷はそのときの逸話採集の模様を、自分の感想をまじえながら、こう語っている。
 
 「私は、豊・はいの地方に行き、敬老を訪ねて、嘗何・曹参・はんかい・籐公の生家を見て、彼らの平素の行状を語ってもらったが、世の伝聞とは、まったくちがっていた。彼らが刀を鳴らして犬を屠り、絹を商っていたころ、まさか高祖の驥尾に付して名を漢の宮廷に垂れ、徳沢を子孫に及ぼそうとは、夢想だにしていなかったことだろう」

 司馬遷は、漢創業の功臣に関する逸話の数々を入手して、はじめて彼らの素行がまったく世間に伝聞されていることと、ちがっていたことに驚いたのである。

 司馬遷が歴史探訪の旅に出たのは、漢王朝創業当初から、すでに一世紀を隔てていた。そのころは、すでに漢の高祖・劉邦が竜の申し子であるといった類のまがまがしい出生譚が伝聞されていたように、創業の功臣たちも、みずからの生い立ちをさまざまに粉飾して伝えていたであろう。それがいわゆる世間の伝聞であった。

 劉邦が率いた軍団も、貧しい農民や流刑囚となった兵士を革命軍に組織して蜂起した陳渉のそれとさして変わらなかった。要するに社会の底辺に生きている民衆で、現実に疎外されていた不満分子の群れであった。

 ただ、彼らがなみの民衆とちがっていたのは、不満を爆発させるだけの勇気と、現実にあらがいぬくための智慧を身につけていたことである。

 のちに、漢王朝の統治集団を形成したこれらの人間たちの生い立ちが、いずれも貧しく賎しい階級に属し、しかも統治者の立場に移った段階で、階級支配に徹していく変化の相をつかむには、司馬遷が実地探訪をして、採集した逸話と故事はまことに貴重な資料であって、公式の官府に収録されている記録書では、絶対にみつけることのできぬしろものであった。

 それとともに、呑兵衛で色好みで、学問ぎらいのやくざな性格であったが、人を見るしたたかな目と人をひきつけるに十分な魅力をあわせ持っていた劉邦、その彼と結ばれていたこれらの個性が織り上げたドラマのおもしろさに、司馬遷が格別興味をそそられ、人と人とのめぐりあわせの不思議さに驚嘆させられたのも、この若き日の旅で得た大きな成果の一つであった。

 青年司馬遷は、この困難な旅のなかから、有形無形の心の糧を得たにちがいない。旅先の至るところで、繰り広げられる生活と風俗の実態は、なによりも、彼の見識を深めたであろう。

 かくして、いろいろな場所で、司馬遷は歴史を動かし、あるいは歴史に埋もれて、たしかに現実に生きてある人間という存在の発見に否応なく迫られたにちがいない。人間の発見は、そのままが、新たなる自己発見である。

 この青春最後の放浪は、机上の学問からは、けっして学べない数多くの教訓を授けた。その意味で、旅は司馬遷にとって絶えざる自己発見の格好の舞台であったとともに、なによりもすぐれた人生の教師であった。

 のちに、「史記」を書くにあったて、司馬遷は、青春期に天下巡歴の旅で学んだ体験を大きく生かした。

 それは実地を踏んだ者でなければつかめぬ正確な地理的状況であり、そうした機会でしか収集できぬ貴重な伝承資料であったことはいうまでもないが、いつしか、この単独旅行者がながく辛い孤独との戦いのなかで、人間の生死、哀歓が複雑にからみあった歴史のドラマを構想するだけの想像力の翼を、わが身にしっかりと身につけはじめていた。

 そしてまた、途方もない困難をともなった旅に耐えぬくことができた強靭な意志と人間へのあくなき関心が、このとき、司馬遷の内部に確実につちかわれたことによって、のちの苛酷な運命との出会い、いくたびも絶望の淵に身を沈めながらも、司馬遷はよくバルザックの人間喜劇に匹敵する壮大な歴史劇の完成にこぎつけることができたのである。 』

 
 『 天下遊歴の旅を終えた司馬遷は、まもなく出仕した。任官は郎中である。郎中は天子の身辺を護衛する侍従官で、官職の系列からいえば、郎官職の最下位に位置し、俸給もわずかであったが、天子のおそば近くに仕えて、その御用をたす職務柄、天子の目にとまる機会が多かったので、将来の高官をめざす若者には、この職につくことは光栄とされていた。

 もともと、郎中は二千石以上の高官の子弟か、さもなくば、裕福な資産家の子弟でなければつけない職掌であったが、そうなると、必ずしも優秀な人材が集らない弊害がでてきた。これを改めたのが、丞相の公孫弘である。

 公孫弘が丞相となったのが、紀元前124年、大将軍の衛青が匈奴を討伐し、朔方より高蕨に陣をすすめて、大成果をおさめたのも、この年で、司馬遷は二十二歳になっていた。 』


 『 新しく誕生した西南異民族の郡県支配の実情を視察するように、武帝から命じられた。これが、「太史公自序」にいう、「使を奉じて西のかた巴蜀の南まで征き(おもむき)、南のかたキョウ・乍(サク)・昆明を略る(みまわる)」という旅であった。

 司馬遷は、郎中在任期間に、武帝の空洞山巡航に侍従し、甘粛省一帯の中国西北地区を視野におさめることができたので、これでほぼ中国全土を実地に見聞しおえたことになる。ときに、司馬遷は三十五歳であった。

 元封元年(紀元前110年)、西南少数民族地区の実情視察を終え帰ってきた司馬遷を待ち受けていたのは、父親司馬談の死であった。

 そのとき、司馬談は洛陽にいた。今の山東省にある泰山で、封禅の儀式をとりおこなおうとしていた武帝のお供をしてきたのだが、途中で病に倒れ、洛陽で床についていた。

 司馬遷は視察の旅から長安に帰ると、父の病を知って、すぐさま洛陽にかけつけた。父はすでに瀕死の状態にあり、余命いくばくもないことを自覚していた。

 太史令という職業柄、これまでに数々の祭典に参加してきた司馬談にとって、封禅の大典を目前にして病に倒れ、それに参加できないことは、まことに痛恨事であった。

 枕もとにかけつけてきた司馬遷の手をとって、自分の死後、太史令となって、父の果たせなかった「史記」の編述をなし遂げよという、遺言を残した。

 司馬談は、自分が太史令として果たしたいと願っていた「史記」の論述を、いま司馬遷に、自分に代わって果たすように負託したのだ。

 それでは、父の司馬談は、なぜ中国の歴史書「史記」を書きたいと考えていたのか。それをめぐって、司馬談の遺言はまだつづいた。

 「孔子が「春秋」の筆を絶った獲麟のときから、今まで4百余歳である。諸侯はたがいに兼併の戦に明け暮れて、史官の記録は放棄され、廃絶してしまった。

 いま、漢が興り、海内は統一され、明主賢君・忠臣義士が輩出してきた。わしは太史令となりながら、その人々を論評記述せずに終わってしまった。

 このため、天下の史文が廃絶してしまうことを、わしはもっともおそれているのだ。そなたは、このわしの心中を察して、「史記」の完成を果たしてくれ。」

 この父の切なる臨終のことばを聞いて、司馬遷は頭をたれ、涙を流して誓った。「私は不敏でありますが、父上の遺志を継ぎ、中国史の編述をやりとげてみせます。どうか、ご安心ください。」司馬談は遺言を説きおわると、まもなく死んだ。

 司馬遷はこの偉大なる遺言をしっかりと胆に銘じて、忘れまいとした。事実、彼は、「史記」完成の日まで、この遺言を片時も忘れることなく、その誓いを達成している。

 ただ、父の死の悲しみにふける時間の余裕は、そのときの彼にはなかった。使者としての報告を、まだ武帝に果たしていなかった。司馬遷は、武帝のあとを追って、泰山にかけつけ、封禅の大典に参加した。

 半年余におよぶ武帝の巡幸に随従して司馬遷の旅は、これ以降もつづくが、歴史家としての目が、その地理と風土にそそがれ、地理が風土を生み、風土が人間をつくり、人間が歴史をつむぐ。

 そのかかわりの相を司馬遷に考えさせる旅は、彼を歴史家として大きく育てていくことになる。 』


 『 司馬遷が父の遺命どおり、太史令になったのは、三十八歳のときであった。太史令は、「文史星暦をつかさどる者で、いわば占師・神主の仲間」とみなされる微賤の官であった。

 しかしながら、だれでもつとまる職掌ではない。家学の伝授がなければ、専門的な知識と技術を身につけるはできなかったはずである。司馬談がわが子に向かって、きっと武帝もまた司馬遷を、その職にあてるであろうといったのも、そのためであった。

 太史令の職に任じられた司馬遷は、父の名を汚し辱しめぬように、その職務に没頭した。司馬遷が太史令となって、もっとも顕著な業績としては、「太初暦」と呼ばれる暦法の改正を成し遂げたことである。

 この改暦は、当時の政治と文化の思想的変化に対応するかたちでおこなわれたもので、しかもなお、これ以後の漢王朝の諸制度を左右するほどの大事業であった。

 「太初暦」は、今日のいわゆる陰暦にあたるこよみである。それまでは、冬十月を元旦にした暦であったが、これを改めて春正月を歳首におく暦法にしたのが「太初暦」である。 』


 『 司馬遷が太史令となって八年たった天漢二年(紀元前九十九年)に、司馬遷の運命を大きく狂わす事件が起こった。いわゆる李陵事件である。(これは冒頭の記述を参照ください)

 司馬遷がなぜ生きようとしたのかについて、「任安に与うる書」で、こう述べている。
 「左丘明は失明し、孫子が足を斬られて、ふたたび世に立つことがかなわなくなったとき、世間から退いて著述に専念し、その憤りの気持を文章に書き表したものです。

 私もまた、菲才を顧みず、私の心に思い浮かぶところを、後世に伝えようと決心いたしました。

 天下に散逸した遺聞をことごとく集め、過去の人間の行動と事件を深く観察してその真相をきわめ、成功と失敗の原理を究明し、上は黄帝から現代に至るまで、十表・十二本紀・八書・三十世家・七十列伝、合計百三十篇を作り、天人の際を究め、古今の変に通じ、一家の言を成そうとはかりました。

 しかるに、この著述を完成しないうちに、李陵の禍あいました。このまま、未完成に終わるのはいかにも残念でしたので、極刑につきながら、怒りの色をみせませんでした。

 ほんとうに、もしこの史書が完成し、これを人に伝えて天下の大都市に流布することができたなら、そのときこそ、私の受けた恥辱は償われるのであって、たとえこの身が八つ裂きにされようとも、決して悔いることはありません。」 』


 『 司馬遷が死罪を免れるために、みずから宮刑を受けてから三年め、年号が改められて、太始元年と称するようになった。これを祝って、その年の夏、大赦令が出された。

 李陵事件についていくつかの誤認があったことに気づいた武帝は、この機会に司馬遷を獄中から釈放し、中書令の職に任じた。中書令は、正確には中書謁者令といわれる官職で、二千石の秩禄。太史令の六百石に比べると、格段の出世であった。

 中書令はたしかに重職であり、高官であったが、宦官でなければ担当できぬ職掌であった。獄中から出て、すぐさま中書令に任じられた司馬遷に、人々は羨望と侮蔑の入り交じったまなざしを投げかけた。

 司馬遷は不愉快であった。中書令となることができたのは、腐刑という汚辱の代償を支払ってのことであった。彼は生起するいっさいの事件にたいして無関心をよそおい、彼のすべては「史記」の著述であった。そのほかのすべては虚であり、無であった。

 職務の余暇は、「史記」の完成に向けて心血をそそいだ。いちど深い絶望の淵に落ちた人間には、生きてあることの証を立てる仕事は、「史記」の完成以外になにも残されていなかった。

 現世においてこうむった恥辱・汚名を、たとえそれが死後のことであろうと、いつの日にか晴らすために、司馬遷は、その志のすべてを、「史記」の著述に賭けた。

 その意味で、「史記」は絶望の書であり、名誉回復の書であった。司馬遷が太史令となって、「太初暦」の編纂をやり終えた太初元年(紀元前百四年)に、「史記」の執筆が始まったとみれば、それが完成をみるまでに、十四年の歳月を必要とした。

 さらに天下遊歴の旅に出て、歴史の資料収集と実地踏査をおこなった二十歳のときから、すでに準備されてきたとみなせば、司馬遷は、「史記」の著述に、じつに三十七年間という長大な時間をついやしたことになる。 』


 最後に、「史記」のもっとも有名な”四面楚歌――項羽と劉邦”について。

 『 「四面楚歌」とは、周囲のすべてから、非難攻撃されて、孤立無援の状態に陥ったことを指していう。「史記」「項羽本紀」にみえることばである。

 劉邦の率いる官軍に追いつめられて、今の徐州市の地に、項羽が城壁を高くしてたてこもったときのことである。

 その城壁を幾重にも包囲した漢軍の陣営から、項羽にとって、故郷であり味方であるはずの楚の歌声が聞こえてきた。

 挙兵いらい、楚の出身で、楚の子弟にささえられて、戦いつづけてきた項羽にとって、これはこたえた。

 「漢は既に楚を得たるか、是れ何ぞ楚人の多きや」。「四面楚歌」は、かく項羽を驚かし、その孤立感を深めた。状況は、すでに項羽の側にとって絶望的であった。

 その夜、項羽は陣幕のなかで、最後の酒宴を催した。その側には、これまで片時も手放したことのない愛人の虞姫と愛馬の騅(スイ)があった。項羽は歌った。

 力は山を抜き気は世を蓋う
 時に利あらず騅(スイ)逝かず
 騅逝かずして奈何すべき
 虞や虞や若を奈何せん

 追いつめられた英雄の絶望的な調べが、この即興歌にこめられている。たしかに項羽は、山を抜くほどの力をもち、広い世間を覆いつくすほどの気概に満ちた希代の英雄であった。
 
 秦の始皇帝が会稽山に巡幸した帰途、折(セツ)江を渡って、項羽の生まれ故郷の近くを通りかかったとき、叔父の項梁とともに見物した少年項羽は、今にあいつに取って代わってやるぞと口走った。

 あわて項梁は、「めったなことをいうでない。一族皆殺しにあうぞ」と、すばやく生意気な甥の口をおさえたという。ここにも、項羽の一本気で激しい性格が現れていた。

 祖父の項燕を殺した秦への憎しみが、秦の始皇帝の巡幸を目の前にして、若者の胸につきあげてきたのだ。

 「彼、取って代わるべし」のことばどおり、項羽は二十四歳のとき、項梁と挙兵の旗揚げをしていらい「力は山を抜き、気は世を蓋う」激しい気概をもって、反秦連合軍の大将軍として、つねにその陣頭に立ち、百戦連勝、獅子奮迅の活躍をしてきた。

 しかしながら、今は違う。項羽の愛馬騅(スイ)が動こうとはしない。この核(カク)下の来て駿馬の足が止まった。これは、時勢が自分に味方しなくなったせいだと、項羽は考えた。

 天がこのおれを見放してしまったのだ。かく考えた項羽はいとしい虞姫に向かって、今は無力だと訴える。項羽は、くり返し歌った。それに虞姫も和した。歌い終った項羽の頬に涙が光った。左右の者達も皆泣き、顔を上げる者はいなかった。

 その夜明け、精鋭八百騎を従え、項羽は、漢軍の包囲網を突破した。翌日、漢の大軍の追撃が執拗につづけられた。項羽は漢軍の将軍一人を屠り、百数十人の兵を斬り伏せ、江のほとりにたどり着いた。

 鳥江を渡りきれば、そこは、項羽の故郷江東であった。鳥江の亭長が岸に船をつけて待ち受けていた。亭長が項羽に告げた。

 「江東は小なりと雖も、地方千里、衆数十万人、亦た王たるに足る。願わくば、大王急ぎ渡れ、今ひとり臣のみ船有り。漢軍至るも以って渡る無からん」これを聞いて項羽はうれしかった。笑って答えた。

 「天の我を亡ぼす、我何ぞ渡ることをなさん。且つ籍(項羽)は江東の子弟八千人と、江を渡りて西す。今一人還るもの無し。たとい江東の父兄憐みて、我を王となすとも、我は何の面目ありてか、之に見えん。たとい彼言わずとも、籍独り心に愧じざらんや」

 かくいい終わると、亭長に愛馬をあたえ、みずから徒歩にて、押し寄せる漢軍にとって返し、壮絶な最期を遂げた。 』


 『 江東の父兄に面目なし。項羽は亭長の願いを拒絶した。ここに、項羽の細かい神経が読みとれるように、司馬遷は描いている。英雄の美意識が愧(ハジ)の心の動きのなかに描かれている。

 これは司馬遷の美学でもあった。みごとな拒絶の意志が愧の意識から出ていることをおさえて、美しいのだ。

 司馬遷は、英雄にふさわしい気概に激しく燃える項羽がふと垣間見せる人間のやさしさ、もろさに、英雄の破綻の美学をみて心ひかれるものがあったのであろう。

 「鴻門の会」でも、結局、劉邦を殺そうとしなかったのは、項羽であった。このとき、項羽と劉邦は同じ楚軍の反秦連合軍に属していた。

 項羽は四十万の主力軍団を率いて、北方攻略にとりかかり、劉邦は十万の別動隊を従えて、まっすぐ関中に突き進み、いずれは、両軍とも秦の都咸陽を陥れることを目標としていた。

 咸陽の都に一番乗りを果たしたのは、劉邦の軍団であった。さっそく秦王子嬰の降状を受け入れた。無血入城であった。

 劉邦は、秦の財宝には手を触れずに、宮庫に封印し、みだりに女を犯し、人を殺すことをかたく禁じた。それから、いちおう郊外の覇上に撤退し、項羽の主力軍団が到着するのを、待ち受けることにした。

 いずれも、兵力において、とうてい、項羽軍の敵ではないとみた軍師張良の献策である。生来、酒と女が好きであった劉邦なら、ごちそうを目の前にして、これではすまなかったであろう。

 劉邦に咸陽入りを一足先にこされた項羽は激怒した。劉邦が秦の財宝を一人占めにして、関中で覇権を確立しているという情報が入ったからである。

 函谷関を突破して、関中に躍りこむと、項羽は鴻門に布陣した。今の西安市の郊外である。劉邦軍を敵視しての布陣であった。

 項羽の怒りを劉邦に伝えた者がいた。叔父の項伯である。張良とは、遊侠仲間で、昔、彼に命を助けてもらった恩義があった。

 そこで、張良は劉邦にすすめて、鴻門に出頭させることにした。百騎あまりの供回りを連れただけであった。項羽には、臣下の礼をとった。酒宴となった。このとき、すでに項羽は劉邦を許していた。殺す気持はなかった。

 項羽の軍師氾増は、この機会に劉邦を除こうと考えていた。しきりに、項羽に合図を送るが、項羽はいっこうに取り合わない。氾増は項荘を宴席に送り込む。項荘は剣舞をまって、抜き払った剣で劉邦を刺し殺す算段。

 項伯はこれを見て、剣舞に加わり、敵将劉邦を項荘の剣から守る。この殺気だった模様を見てとって、張良は幕外にいた焚檜(ハンカイ)を呼び入れ、項羽に謁見させる。

 怒髪天をつくすさまじい形相の焚檜。賜った大盃で一気に酒を飲みほし、豚の肉塊を、生のまま、伏せた盾の上で切り裂いて食らい、傍若無人に項羽をののしった。これで呆っ気にとられて、剣舞は中止となり、また酒宴が始まった。

 厠に立ったまま、劉邦は、項羽の宴席にもどらず、覇上に逃げ帰った。項羽は千載一隅の機会を逸した。

 威陽に入城した項羽は劉邦とは対照的であった。秦王子嬰を血祭りにあげ、宮庫の封印をといて秦の財宝をかすめ取り、後宮の美女を犯し、宮殿に火をかけた。威陽の都は焼き尽くされた。

 これで、いっぺんに、項羽は人気を失った。激情のなすままにまかせた思い上がりに、項羽は気づいていなかった。

 もともと、項羽の家は代々楚の国の将軍をつとめた家柄であった。祖父の項燕が秦の将軍王煎に殺されるという不幸があって、叔父の項梁に育てられた。落ちぶれたとはいえ、貴公子である。

 秦にたいする報復の念には、すざましいものがあった。項梁は、少年項羽に読み書きを教え、剣を習わせたが、いっこうに上達しない。

 項梁が怒ると、「書は自分の姓名が書ければ十分です。剣は一人の敵を倒すだけのもの、学ぶ必要はありません。万人の敵を屠る術こそ学びたいのです」と、いい返している。

 兵法を学ばせると、たいへん興味をもって勉強したが、要点をつかめばよしとして、あとは放り出して顧みない。要するに、項羽は何かを学び取ることがきらいであった。

 項梁の意見に耳を貸さなかったように、部下の意見を聞くことはなかった。「鴻門の会」でも、氾増の合図を無視して、自分の思いどおりに、劉邦を助けた。

 司馬遷は、真率大胆で、しかも人情にもろい破綻の英雄に好意をいだいてはいたが、項羽の弱点にも、仮借なき批判を投げかけている。

 項羽は、戦勝を誇り、古えの賢者の言、古えの歴史の事例を学ばなかったという。武力だけで天下を経営して敗滅したのに、天が自分を滅ぼしたと考えたのは、決定的な誤謬であったと指弾する。 』


 司馬遷の「史記」は、紙のない時代に、竹簡、ないし木簡あり、我々が原稿用紙の桝目を埋めてゆくのとは、桁違いである。

 「史記」は、「本紀」では、伝説時代から殷周紀、春秋戦国期を経て、秦漢王朝に及ぶすべての天子の事跡を記録し、時代推移の大筋をつかむことにした。

 これだけでは、歴史を動かした人間のエネルギーを汲み取ることはできない。そこで司馬遷が構想したのが、「列伝」と称する形式による個性史の記録である。

 すなわち、「史記」は、「本紀」を縦糸に、「列伝」を横糸にして、歴史をダイナミックで臨場感あふれるものに、織り上げ、二千年以上も昔をまるで、自分がそれらを見ているように、描いている。日本を代表した、司馬遼太郎でさえ、司馬遷に遼に及ばずと言わせているのである。(第50回) 


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