優厳 × 赤鬼通信

社会参加活動の支援を目指す「なんちゃって社会貢献チーム」の、「優しく厳しい遊び場づくり」の迷走過程を記して行きます。

もう一人、ここに居られなくなった施設利用者が、追われるように逃げるように去らねばならない不本意さ

2008年07月31日 | Weblog
 行方不明になってる人を探すのに、すっかり慣れてしまった。今日、一緒に探しに行った人がアパートの前で、「なんだか不思議な気がしますね・・・」とかって言ったのを、「そうか? なんだか、いつも探しに来てるから、まぁ、こんなもんかなと・・・・ ただし、見つけるまで諦めないから何度も来るけどね。」と、平然と答えてしまったら、一瞬複雑な顔をされてしまった。

 人探しを終えた後、ちょっと間を空けていたが、問題処遇施設を覗きに行った・・・いつものように、いろんな話を含んで伝えるのが我々の役割である。今日は、先日の野外炊飯活動にも顔を出した青年が、注文を取る当番でレストランで働いていた。
 よう、と声を掛けて、注文を取った後、車イスに座る彼はたどたどしい言葉で言い始めた、
 「僕は、明日でここ施設が終わりになります。まだ、次のところは決ってませんので、家で少し休んでます。」
 寝耳に水、だった。
 この施設ができた当初から働いているのだと、彼は言った。
 「ご苦労様でした、頑張ったな。」 そう言った後、「悔しいな、ちくしょうが・・・」と付け加えずにはいられなかった。
 彼はここで働く障がい当事者が運んで来た御膳やコーヒーを、自分の車イスに付いている机の上に乗せて持って来る。接客が、人と関わるような仕事がしたくて選んだこの施設だった。不味い玄米を食べながら、泣きそうになる。彼らの立場に、そして自分らの無力さに。
 彼は、何人か常連のお客さんに、同じように明日で仕事を辞めることを告げていた。彼が辞める理由を、でも他の人たちは知らないだろう。
「ゆっくり休もうな、少しさ。そしたら、また次のところへ行こうや。」
 こっちはダメだったけど、あっちは大丈夫・・・似たような言葉を、また繰り返してる不様さよ。理不尽なのだが、自分が痛んでいくよりは、良い選択なのかもしれない・・・そう、思うしかない。にも関わらず、相変わらず我々は無力なものです。

 考える・・・この施設で2名、処遇が理由で辞めている、たったの1ヶ月の間に。辞めたのなら、実名を出して、事実を伝えることが可能なんじゃないか? 
 母親が言う、「でも、あんなに言ったって、結局何もしてくれないんですよね、役所の福祉課とかは。」
 そう、結果的に、そう。結局何も当たってくれないのであれば、頑張るのも無駄に思える・・というより、何よりも「見捨てられ感」だけが残ってしまう。名前を出さなければ、被害とかに対応しない・・・なんて、あまりに遅れてるだろう? 一施設で3名からも「虐待」って言われてるんだぞ? 何も手を打ってくれないから、結局は役にも立たない自分みたいな中途半端な「名ばかりソーシャルワーカー」に話すしか術がないのだ。
 守ってくれなかったところに対して、一段落した問題を持っていくほど、家庭には体力があるのだろうか・・・難しそうな気がする。自分なら、では、どうする・・・考えろ、ベストじゃなくてもいいから、この問題を寝た子にしない方法を。


 そういえば先日、うちの役員が出席した会議で、この問題処遇施設が作ってる菓子が御茶受けに出されたそうです。ひとつを家族のお土産として持ち帰った彼は、「このお菓子はな、子どもが虐待されながら作られてる菓子なんだよ。うちの職員が頑張ってる。」とか言いながら、家族に勧めたそうです。・・・ここは笑うところでしょうか? でも、こういう言い方でもしない限り、きちんと伝わらない。
 幾つかの福祉関係機関から、具体的なアクションを起こして欲しいと言われたものの、家族からの同意がないために、私はとりあえず黙ってます。世間が思ってるほど、私は好戦的じゃない。正義を振り回す気もなければ、正義の名の下に仲間を踏み台にしたりもしません。でも、伝えなければならないことは、しっかり伝えていかなければならないので、そのジレンマに挟まってます。
 だから次の一手は、得意の「変化球に見せた直球」を、元締めに投げ込んでみようと思ってます。またまた役員たちから、「難しい問題だけど、気をつけないと・・・」と言われるようなことを、仕掛ける予定です。黙ってたって、何も変わらないのなら、ちょっとキャッチボールでもしてみようかなと思うので☆

不健康な綱渡り

2008年07月29日 | Weblog
 そんなこんなで、ジョン・ウッドの本の中で、先日訪ねて来た、「日本で有数な大学院」で学ぶ学生が話してたようなことが書いてあったので、思わず笑ってしまった。「日本で有数の大学院で学ぶ学生」が、それと同様に優秀かどうかは分からないし、ついでに言えば、そーした「学のある人」たちが役に立つ人物なのかどうかも分からない。これは彼のことを言ってるわけじゃないし、何より大学院で勉強してるからって、教鞭を執っているからって優秀なわけじゃない。ついでに言えば高等教育を受けている学生だからって、優秀なわけじゃない。世界の価値観は、いつも複雑であるか、あるいは単純なものである。ただ、往々にして、当たり前のことが通じないくらい、価値観は多様化されている。グローバル・スタンダードなんて、錯覚の産物に過ぎないのだ。村上春樹が初期の小説で語ってるように、「誰とも仲良くなれない」くらい価値観は多様化してるのだ。

 時折人生は、結果だけが問われる。何をしたか、何ができるか・・・が最大の価値基準になることがある。別に進学することを否定しない。でも、力が伴わない方法で学問に励んでも、力が発揮されることのないような勉強の仕方をしても、それほど意味があるようには思えなかったりする。

 これは明らかに、嫌味と愚弄を含んでの表現として「日本で有数の大学院で学ぶ学生」という言い回しをしてるんだけど(彼について言ってるのではなく、彼が置かれている環境の総称を指しています、誤解のないよう☆)、彼が話してくれた笑い話をここで挙げてもつまらないんだけど、でも少しくらい笑ってみたいので、ジョン・ウッドが書いてたことを、ちょっとだけ引用してみましょう。
 ネパールを始めとする発展途上国に図書館や学校を作る活動を始めたジョン・ウッドは、とても優秀な学位を持っている人たちの前でプレゼンテーションをする機会があった際、活動についてスピーチした後、質問を受けた。
 「あなたの教育学の理論は?」
 「(学校を作って、そこに通っている子どもたちの)卒業後の仕事はどのように保証していますか?」
 「(学校を作って、そこに通っている)子どもたちに仕事(を確保するまで)の保証はできない、そういうことですよね?」
 「あなたの経歴によるとMBAを取得していますね。教育学の博士号を持っていないのに、このような(教育に携わるような)仕事ができるのですか?」
 ・・・かくして「資金集めのパーティー(意思を発揮する場になる活動)」は、「学術討論会」にされてしまった。
 ほら、聞いたような話だろ(笑) 「お前は、どういう資格があって、歴史を教えてるんだ? 教えるのであれば、歴史を全て分かっていなければならないだろう。」とかって言ってる「日本で有数の大学院で学ぶ学生」にさ。
 別に「高学歴」を愚弄してるわけじゃないし、「教育学」を笑ってるわけじゃない。でも、世の中には救いがある、中国の格言に「それはできないと言う人は、それをしている人を批判するべきではない」、なのだ。このウィットの効いた無駄話は、分かる人だけ分かればいい・・・というか本人が分かってればいい。大事なのは、ちゃんと機能することである。指導理論を作って語るのは自由だが、世界を救うためには、理屈だけでは手に負えない。具体的な一歩があって、二歩三歩がなければ、そんな話に価値なんてない・・・ってことである。


 何が言いたかったか・・ってのはないんだけど、よくボランティア活動とかでもなんでもいいんだけど、いろんなことをやって、特に結果が見えなかったり意義が分からなかったりすることが多々わるわけで、それは本当は、目的や意図を明確にしない主催サイドの力量に根本の問題があるのだけど(はい、私もそうです)、でも余程のことがない限り・・・きっとその行動は、ちゃんと支えになっている。具体的に、例えば数字として換算される活動であれば、もう少しその評価というものを、きちんと提示できたりするんだけど、必ずしも必要ベストなタイミングで供給されるとは限らなかったりするし、何より効果とか成果は、統計上に表れる類のものではない。そこから何を見出すかは、「関係性」から引っ張り出すしかなかったりする。「やってみたい」、「やりたい」、「やらずにはいられない」ってものが、何よりも前提条件にあるでしょう。それに乗ってみることが一番大事なことなわけで、その部分は、きっと技術論では語れない部分なわけです。
 如何せん、その言葉にしにくいところを伝えるのが我々の役割のはずなのだが、それを伝えるのが、どうも最近は難しくなっている。「受け取る側の問題だ」と言うのは簡単だけど、これは双方向に係ってくる問題である。自分の努力不足だったり、ここに向かうに当たっての魂を賭ける比率の問題だったりする。そして、話す内容が「気持ち」の向け具合についてだったりすると、おそらく「感覚」こそが全てを一瞬で把握しちゃったりすることがあるので、さらに立ち止まってしまう。
 あーいいなー、理屈や技術論を語って済んでしまう人たちは、それが根拠となっているから、目の前に問われている問題の、本質を見ずに学説をぶってられるんだろうなー。
 まだ、投げ出すほど困ってもいないけど、うまくやれるような予感もない・・・そんな感じです。ダメなのを相手にするのは得意だけど、お話にならないのを相手にするほど大らかじゃない。綱渡り、綱渡り・・・・

フローとストック

2008年07月28日 | Weblog
 再び「鰻」の話から始まる。どうも周辺にいる学生どもは、鰻という食べ物を、あまり好まないらしい。普通、「鰻、食べよう」とかって言えば、飛んで火に入る夏の虫みたいに喜ぶはずだと思うのだが、鰻はあまり食べたくないとか、鰻のタレなら好きですとか、うちは土用は中華丼を食べるとか、まったく日本古来の伝統をバカにしてるかのような言い分である。我々は、子どもの頃、近所の川に夜釣りに出て鰻を釣るのが楽しみだったし、釣った鰻を蒲焼に捌いてしまう父親の包丁捌きに尊敬の念を抱いたものである(私の中では、鰻や鱧を捌けるというのが、包丁使いの目標であったが、未だそのような機会は与えられずにいる・・・)。
 尤も食べ過ぎると体を壊すのが鰻であるから、程ほどにしなきゃならない・・・無念でものである。

  * * * * * * * * * *

 さて、ジョン・ウッドの書いた『マイクロソフトでは出会えなかった天職』って本を読んでました。面白い本ですので、暇な人は、時間があったら御一読を。暇だから本を読む・・・って、いい感じです。暇だからボランティアをする、ってのと同じくらいに素敵です。夢を探す若者も、こーいう本を読むべきだし、夢を失いつつある成人全般も、こーいう本に出会うべきですね。

 面白いもので、暇だから・・あるいは暇じゃなくても取り組んだことが、どんどん加速度的に進行して手放せなくなってくる・・・そーいうことって、あるでしょ。何でもいいんだけど、そーいう高揚感がないと、やはり人生はつまならい。
 ちょうど、考えてることと、取り組んでることと、やってることと、やらなきゃならないこと・・・それがうまく一致しないで動いてることが多い昨今なので、ついつい現実と違うことに目が行くわけです。でも、やらなきゃならないことばかり考えてたら、きっっと行き先が詰まってしまうし、現に行き詰まっている。そう、跳ぶための、何らかの追い風がどっからか吹いて来ないか・・・いつもぼんやりしながらでも夢見てないと、それが吹いてたときにも気付かなかったりするわけで、結局どこかでガツガツ飢えてなければならない☆ってなるわけです。まぁ、「現実と違うこと」に目が行ってしまってたって、どうせしっかりループ状に繋がってることばかりなので。結局は同じことを考え続けてるし、やり続けているだけなんだけどね。

 最近は、「活動の振り返り」をやらなくなった(やれなくなった)ので、イマイチ読み切れないことがあるんだけど、活動の評価は、微妙な判断を強いられることがあるのだが、参加のリピート率によって問うことができる。「もっとうまくやれる方法がある」のは分かってるので、そんな技術論をしたいわけじゃない。テクニカルな部分で話をしても構わないけど、じゃぁ、こっちの希望に応じられるだけの力量と融通性と、何よりも忍耐力があるか?となると難しいので、そこは伏せてるわけです。
 自分たちがやってることが、どんなふうに繋がって行くのか・・・を、希望を持って考えてもらえると、ちょっと嬉しい。どうせ、あまり大きな規模の活動になんかやらないので(そーいう組織的な活動は、今のところ違うところでやってもらえればOKなので)、小さいアクションの中で・・・小さい規模だからこそ、今動いてることの大枠を捉えること、個々の状況がどうなっているかを予習復習していくこと、これがしっかりやれると、どんな方向へ動いているのかが分かる。分かると、意味が変わってくる。変わってくれば、多分やってることの意義が、少なくとも自分の意識レベルでは変わってくる。・・以前はここまで強いたんだけど、今はそこまで強いないでやってる。自分の意識が低くなったとも言っちゃってもいいんだけど、それよりは「ステップの歩幅を自由に設定して良いよ」って暗黙で伝えている・・・つもりなのである。

  * * * * * * * * * *

 「夢と希望と可能性」を提示することは、実は難しい。様々な非営利団体があって(営利でも構わないが)、それらがきっと、同じように「夢と希望と可能性」を唱え続けている。でも、そんなにそれらが実感できることはない。ほら、夢と希望を語っていた非営利団体は、いつしか財政問題と人材についての嘆きを語ることに追われ続けてしまう・・という話は、未だに尽きることじゃない。挙句の果てに日本では、あれだけ騒いだNPO法人を、認定公益法人に書き換えようとするわけで、別にそれは精査するのだから悪いことじゃないんだろうけど、まぁ、淘汰されちゃうか、見切りを付けさせるって部分も多いんでしょう。きっちりした形じゃなくても、いろんなことができる可能性はあった方がいいのに、日本はやたらと枠組みがきっちりしてることを好むので、結局「力の、ある部分」を削いでしまっちゃうことがあるように思うわけです。
 ただ、思うのは、「夢と希望と可能性」のうち、どれかを持って、何かをやろうとした記憶があると、それって案外奥底に残っているもので、いつかそのアイディアを実現しようと、事有る毎にそれが甦ってくるものなわけです。
 フローとストックみたいなものです、はい。活動自体は、人が入れ替わっても全然問題ないし、活動レベルが高かろうが低かろうが、そんなに意味はない。大事なのは、それが個々レベルで構わないので記憶や体験として、しっかり蓄積されていくかどうかなので、ついでに言えば、その蓄積を元に、自分がいつかどのようなことをやり始めるか・・・こそが大きいことなわけです。
 主催者というか、「この指とまれ」で行ってる活動は、どうしても「この指とまれ」を掲げた人の声が、大体一番大きい。でもそれは、フォロワーにとって、いつも決してベストとは限らない(勿論、掛け声を掛けてる者にとってもベストとは限らない)。だから平然と「駒」とか「兵隊」と言う。今は「乗ってる」ことで十分かもしれないが、いつかそれで十分じゃなくなったら、「この指とまれ」を掲げればいい。その時、プロトタイプとしての経験や体験が、ほんの少し役に立てばいいなーって思う。


 ・・・・でも、毎日思ってることは、「組織事業は疲れるなー」ってことです。
「いま、やれる」志がある人たちと、しっかりゲリラ活動ができるのなら、多少の御幣はあるかもしれないけど、協力者の置かれている状況を踏まえて、なお、社会的にも意味のある活動と役割を、しっかり提示し、実践できる自負がある。でも世の中は、往々にして目指すものとか取り組みたいと思えるものへ最短コースで進むことを認めてはくれない。
 まぁ、空から兵隊が降ってくるのはパラシュート部隊が攻めてくる時くらいなものなので、やはり耐え難きを耐え、苦労に打ち拉がれながら、兵隊を揃えていかなきゃ、戦力は揃わないし、何よりも戦力を揃えるに値するだけの力が伴って来ない。いつもと同じことです、やはり図面を描き続け、地上戦に臨むための準備をして、「さぁ、行こう」と声を挙げる以上に、面白いことも意味のあることも、ないのだ。

写真が見つからない・・

2008年07月27日 | Weblog
 ものすごく面白い写真を撮った。・・んだけど、だらしないSDカード管理の所為で、それがどのカードに入ってるか思い出せない。最近、たまたま撮る写真がいい写真だったりするんだけど、イベントでは専属のトラッカーがきちんとカメラを持っててくれると嬉しい。もしくはのんびり自分がカメラを持てるか・・・

 仕方がないので、とりあえずこの本を紹介します(悲)




ギリギリ・・と、音を立てて

2008年07月26日 | 追加カテゴリー
 土用の鰻、である。スーパーで、この鰻の値段は一体なんなんだ・・・と思ってしまう。どーして弁当の鰻が1500円もするんだ? 700円もすりゃ、ご馳走なのに、その倍もするってのは、本当に心外なものです。これって、食品産地偽装の影響なんだろうけど、ホント迷惑な話である。
 鰻が、今まで以上に美味そうに見えるようになったのは、『セクシーボイス アンド ロボ』で、三日坊主とニコが一緒に鰻を食べてるコマを見てからである。
「国産のが美味いか知らんが、しょっちゅう食える方がいいや。」・・・そう思う。金儲けしたい気持ちは分かるが、安いけど、安全で美味い鰻を食べさせることに、どうして誇りを持てないのだろうか? 時々世の中は、いろんなボタンを掛け違える。我々も、ボタンを掛け違える。

   * * * * * * * * * *   

  自閉症の自傷行為がエスカレートして転院して来た方がいます。
  なにか・・・不足しているのか、不満なのかが誰にも分からず、
  結局放棄されていたらしいのですが、
  なるほど・・手のひらを骨が見えるほど掻き毟り、
  ゴンゴンと頭を壁にぶつけっぱなし・・・

 和歌山から届く言葉は、いつも自分の「力の無さ」を思い出させる。そこに、自分にとっての「ジョン・シルバー」がいる。


 頭を壁にぶつけてた青年が、死ねずにいたのを聞かされたのは、20歳の夏だった。今年も目の前に、20歳の若者が走り回っている。
 そのとき、自分の前にいた支援者は・・・あの人は支援そのものに人生を賭けてたので、支援者なんて括っちゃいけないんだけど・・考え方も方法論も全然自分とは違ってたけど、違ってた自分に向かって、あの人の予想を越えた「繋がり」を作れた時、すっごく不思議そうに笑ってたのを、今でも覚えている。理解し合えなくても、通じることはある。通じているからって、理解し合えているわけじゃない。だからこそ大人は、次の世代のために、しっかり壁にならなきゃ、ならない。

 今でも壁から、実際には聞いていない音・・・頭を壁にぶつけている音が聞こえるときがある。見ていない血塗れの姿も、時々見えるときがある。そこにいなくても、いろんなものが見えたりするのは、確かに「武器」ではあるのだが、見えれば見えるほど・・・それが経験に基づく類推に過ぎないにしても、それは自分の首を、時折平気で絞めてくれたりする。その所為か、今日は一日、首がギリギリと音を立てて痛んでる・・・それが単なる錯覚だとしても、無性に無力さが思い知らされるような痛み、である。

  * * * * * * * * * * 

 18、19、20、21・・・吐き気が出るくらい、毎日飢えて暮らしてた気がする。アルフォンス・デーケンの講演を聞きに行ったときにサインしてもらった本を鞄に入れていた。ひとつのことを学んだら、そっから世界が一気に拡がっていくような・・・そんなステップを踏んでいるときが、確かにあった。
 いつも言う、19、20で毎日吐きながら暮らしてないヤツなんて、話にならない・・と。できればもっともっと、潰されてしまえばいいのに(笑) どーせ、立ち上がらなきゃならないんだったら、反動が大きい方がいいんじゃないかな。観たこともないものなんて、まだまだ浴びるくらいあるんださいさ。
 そーいやー、飢えた若者を、しばらく見てない気がする。語呂合わせじゃないけど、『飛ぶ夢をしばらく見ない』を書いたのは山田太一だが、今の若者は山田太一なんて読むのだろうか? 
 ちなみに、ランディ・パウシュも言っている、
 「経験とは、求めていたものを手に入れられなかったときに、手に入るものだ。そして経験は、君が提供できる中で、たいてい最も価値のあるものだ。」 ―― と。




ギリギリ・・と、音を立てて

2008年07月25日 | Weblog
 土用の鰻、である。スーパーで、この鰻の値段は一体なんなんだ・・・と思ってしまう。どーして弁当の鰻が1500円もするんだ? 700円もすりゃ、ご馳走なのに、その倍もするってのは、本当に心外なものです。これって、食品産地偽装の影響なんだろうけど、ホント迷惑な話である。
 鰻が、今まで以上に美味そうに見えるようになったのは、『セクシーボイス アンド ロボ』で、三日坊主とニコが一緒に鰻を食べてるコマを見てからである。
「国産のが美味いか知らんが、しょっちゅう食える方がいいや。」・・・そう思う。金儲けしたい気持ちは分かるが、安いけど、安全で美味い鰻を食べさせることに、どうして誇りを持てないのだろうか? 時々世の中は、いろんなボタンを掛け違える。我々も、ボタンを掛け違える。

   * * * * * * * * * *   

  自閉症の自傷行為がエスカレートして転院して来た方がいます。
  なにか・・・不足しているのか、不満なのかが誰にも分からず、
  結局放棄されていたらしいのですが、
  なるほど・・手のひらを骨が見えるほど掻き毟り、
  ゴンゴンと頭を壁にぶつけっぱなし・・・

 和歌山から届く言葉は、いつも自分の「力の無さ」を思い出させる。そこに、自分にとっての「ジョン・シルバー」がいる。


 頭を壁にぶつけてた青年が、死ねずにいたのを聞かされたのは、20歳の夏だった。今年も目の前に、20歳の若者が走り回っている。
 そのとき、自分の前にいた支援者は・・・あの人は支援そのものに人生を賭けてたので、支援者なんて括っちゃいけないんだけど・・考え方も方法論も全然自分とは違ってたけど、違ってた自分に向かって、あの人の予想を越えた「繋がり」を作れた時、すっごく不思議そうに笑ってたのを、今でも覚えている。理解し合えなくても、通じることはある。通じているからって、理解し合えているわけじゃない。だからこそ大人は、次の世代のために、しっかり壁にならなきゃ、ならない。

 今でも壁から、実際には聞いていない音・・・頭を壁にぶつけている音が聞こえるときがある。見ていない血塗れの姿も、時々見えるときがある。そこにいなくても、いろんなものが見えたりするのは、確かに「武器」ではあるのだが、見えれば見えるほど・・・それが経験に基づく類推に過ぎないにしても、それは自分の首を、時折平気で絞めてくれたりする。その所為か、今日は一日、首がギリギリと音を立てて痛んでる・・・それが単なる錯覚だとしても、無性に無力さが思い知らされるような痛み、である。

  * * * * * * * * * * 

 18、19、20、21・・・吐き気が出るくらい、毎日飢えて暮らしてた気がする。アルフォンス・デーケンの講演を聞きに行ったときにサインしてもらった本を鞄に入れていた。ひとつのことを学んだら、そっから世界が一気に拡がっていくような・・・そんなステップを踏んでいるときが、確かにあった。
 いつも言う、19、20で毎日吐きながら暮らしてないヤツなんて、話にならない・・と。できればもっともっと、潰されてしまえばいいのに(笑) どーせ、立ち上がらなきゃならないんだったら、反動が大きい方がいいんじゃないかな。観たこともないものなんて、まだまだ浴びるくらいあるんださいさ。
 そーいやー、飢えた若者を、しばらく見てない気がする。語呂合わせじゃないけど、『飛ぶ夢をしばらく見ない』を書いたのは山田太一だが、今の若者は山田太一なんて読むのだろうか? 
 ちなみに、ランディ・パウシュも言っている、
 「経験とは、求めていたものを手に入れられなかったときに、手に入るものだ。そして経験は、君が提供できる中で、たいてい最も価値のあるものだ。」 ―― と。




Front Line  part 2 (御礼も込めて)

2008年07月24日 | Weblog
 単純に「自分たちが持っている範囲内に通常為しうること」を越えること・・・ここに臨めるかどうかが、自分にとっての、ある種の判断基準になる。

 全然関係ないんだけど、自分が揃えていたベストのメンバーでやった、かつての野外炊飯行事と、選りすぐられてるとはいえ掻き集めたようなメンバーでやってる今回の野外炊飯活動では、どれくらい差があるか・・・・ほとんど皆無である。自分の準備が周到じゃなかったくらいで、ほとんど差はない。イメージは、いつでもどのタイミングでも、その気にさえなれば具現化できる。それは、ここが自分の「主戦場」であり、相変わらず枠組み設定こそが自分の役割であるからである。良し悪しは、声を掛け終わった段階で、もう分かっている。大事なのは、スタートするために「この指とまれ」を掲げることであり、その声に応じてくれた人がいるのであれば、概ね、それは歓迎されるものになっているのだろう。参加者を集めるのに苦労する事業は、セッティングが甘いか、魅力ないプログラムであるか、主催者が汗を掻いていないことに起因する。
 あとは、中身を埋める作業は、そこに集まった人たちが無意識に、しっかりやってくれる。そりゃ、ひとつかふたつ、仕込みはするけど、中身に対して口出しする程のことはない。ランディ・パウシュも言っている、「忠誠心は双方向」だと。
 でも、思う・・・これがビジネスだったら、あっという間に破綻してる(笑)

  * * * * * * * * * *

 単純に、思う。某授産施設に通ってる車イスを利用する女性がいて、たまたま・・・本来は自分が何かをやる際には入って来ないところにいるはずの方なのだが、ちょっと気になって、今回遊びに来たんだけど、いわゆる毎日の施設に通う以外で外に出ることは、皆無だと言う。そんなに周りにいる人たちも知り合いばかりじゃないので、気後れもしたんだろうけど、それでも接点が少しでも掠っていれば、そこに糸口がある。きっかけを作る程度に過ぎない、自分ができるのは。どんなにきっかけがあっても、出てこない人は、絶対に出てこない。さて、バトンタッチした方の力量、お手並み拝見である。

 ここ半年の間、外に出た3回のうち、2回に絡んでる在宅の男性(うち1回は病院診察なので、成果としては驚嘆すべきものなのだ)。家から出ないから、車イスもパンクしたままやって来たという始末。でも、面白かろうがどうだろうが、「暇だから、行ってみっか」ってなること自体が金星なのだ。彼の母親の願いは、単純に「部屋から出ること」、ついでに「しっかり食べてほしい」である。電車を乗り継いで、夜通しパソコン使った所為で居眠りしながらとはいえ、野外炊飯やってるってんだから、大金星である。

 きちんとした就労と、現在の福祉作業所での仕事の合間で悩んでると言いに来た高次脳機能障がいの青年は、事故に遭ってから転校した養護学校在学時に一緒だった同級生を目の前に、彼ら彼女らには話し掛けないのだけど(笑)、彼ら彼女らの隣に座ってる自分に向って、目の前にいる彼らについて、「覚えてますよ、どっかで見たことあります」を連呼してる・・でも、直接話し掛けることはない(ここが、彼の障がいの特性なのだ)。
 ちなみに彼の母親は、出来が悪くて動きの鈍い学生ボランティアや、意味不明の日本語をオンリースピーキングしてるような社会人ボランティアを余所目に、ガンガン薪を焚き付けるは、包丁を裁くは、洗うは、磨くは・・の活躍ぶりだったけど、接点があるということ、自分の子どもの障がいに向き合ってた自己について語る機会を持つということは、とっても貴重なんだろうなーと、改めて思う。

 そして、どうしても親と離れて地下鉄で帰りたい・・と言い張って、母親を追い返した車イスの青年は、丸一日包丁を持って、野菜と肉を切り続けてたのである。春には包丁の上と下を気にせずに使ってたのだけど、随分の進化ですわ、はい(笑)  
 通っている施設では、やりたいなーと思うようなことができずにいるようなので、ちょっとスケジュールを動かしてもらって、ボランティアに地下鉄で一緒に帰ってもらう。小さな自己実現が、満足感と自信に繋がっていけばいいなー、って思う。ここ、ずっと包丁持って付き合ってくれたボランティアがいてくれたんだけど、本人と一緒に役割を果たしてくれた御蔭で、彼は今日一日、自分が一番働いたって自負をお土産に持って帰れます。そーいうのって、単純に素敵なことだと思うんだな。

  * * * * * * * * * *

 ボランティアは、駒であり、兵隊である。あまり好かれない表現に受け取られているが、そのうち「駒」として機能することに喜びを感じてもらえれば、私も嬉しいです。
 「『駒』って言われるのって、何だか嫌だなー」・・・そんな声が聞こえるのは、どうせ最初だけです。というか、本当に嫌な人は、最初からそんなことを言いませんし、ここにはいませんから。
 「兵隊」という表現に対して、あまり快く思われていない節があるけど、でもほら、ボランティアは社会正義のために活動している「兵士」ですからね。自分としては、その表現に最大限の敬意を表している。
 そうそう、最近も学生に言いましたよ、
 「ボランティアやってることを親にちゃんと伝えてるか? 
  何て言っていいか分からない? 
  『社会正義のためにボランティアやってるんだ』って言えばいいだろ。」
 
 いろんな言い方があって、いろんな活動があって、いろんな場所があるんだと思う。でも、「ここ」が「最前線」である。確かに、「ここ」は「私の主戦場」であって、「あなたたちの主戦場」ではないかもしれない。
 ・・・でも、「ここ」は、あなたたちにとっても「最前線」であることは、違いないだろ? あまり為にもならない・・・履歴書にも書けないし、友達にも紹介しにくい、出来の悪い人の溜まり場と言われても反論しにくい空間だけど、この最前線では、夢と希望と可能性を、ちゃんと売っている。ここに来て、あたふたと動き回ってる人に対してしか、それは売られることはない。
  最前線 = The Front Line  
  テストには出ないけど、しっかり覚えておこう。


追伸;
 なぁ、大学院に行って、主戦場がどこかを話し合ってたって、なーんにも意味なんてないのだ。お前にとっての最前線で、如何に起動するか、稼動するか、成果が残らないとしても経過を残せるか・・・なわけですよ。だからお前は、しっかり最前線で討ち死にするくらい、戦えばいいんだよ。能力やら学力やら、そんなの価値なんてないのだ。いや、在るところでは「在る」のかもしれないけど、「戦わざるもの、食うべからず」である。
  見る前に跳べ、語り続ける前に動け、止まる前に進め

Front Line

2008年07月23日 | Weblog
 野外炊飯活動の後片付けを、水曜に汗ダラダラで済ませて、さて・・・である。目の前の問題事がたくさんあるので、とりあえず風に舞うような気分で(笑)

 最近の作業のひとつに、社会起業についての勉強があります。勿論目の前、机の上は洪水のようなので、そうそう何かに手を出せるってわけじゃないが、ほら、「何をやっていても、違う『何か』をやれる可能性はある」わけです。どうせ社会人は、大抵の学生のように忙しくはない。私に向かって「忙しいんですよ」とか平然と言える彼らは、事実とは何かを認識していないか、あるいは私が本当に暇なのを知っているか、どちらかであろう(笑)

 で、「社会起業」なんだけど、まぁ、そんなに難しいことをやろうとしてるわけじゃない。いろんなところで言ってる「社会貢献活動」の一環で、それより一歩踏み出したところが社会起業だったりするのでしょう。学生、社会人の方々で、様々な形で私のところでボランティア活動に尽力してくれてる方々は、もうそれ自体が社会貢献活動なのだけど、例えば私について言えば、私が今の職場で、仕事と同様の内容の活動を続けていることは、決して社会貢献活動にはならない。いや、そんなこともないんだけど(ほら、いわゆる業務が1日8時間・週40時間がベースだとすると・・ってこと以外にも、「そんなこともない」って理由は膨大にある)、自分の領域を踏み出したところに進まない限り、どっかで仕事の範疇に留まってしまうように思えるわけで、故に「踏み越える」ってことが大きいわけです・・・「Giant steps」です。

 先日、社会貢献活動チームを稼働させようって話をする経過で、面白い対話をしました。いろいろカドが立たないように、単純に自分のセリフだけ引き出してみると、
 「現状を打破したいのなら、何かを始めるしかないんじゃないかな。成功体験もだけど、まずは達成感から・・かなと。資格取得でもいいし、明確な目標を立てて、ひとつクリアしてみたら、少しは実感があるかなと。」
 「仕事を理由に何もやれない程の、自分の職業人生に価値があるのか、仕事が大事なのか、考えてみるんだね。自分は、自分自身の人生を生きているか、とね。」
 「人生を、どこかでちゃんと自分の手に取り戻せよ。どこで後悔したらいいのかも分からなくなるぞ、今のままだと。」
 「お前自身の人生だから分からないけど、人生の分岐点のひとつは、諦めるか、諦めないか、だと思うんだな。」
 「極論したら、仕事を辞めたら(状態が)良くなるのか? 仕事を辞めて劇的に変わるんなら原因は仕事だろうけど、劇的に変わらないなら、(ダメになってる理由は)多分仕事じゃないよ。仕事が原因だと思う場合、仕事を辞めるか、大きく仕事とのスタンスを変えるかしなきゃ、ならん。後は現状を諦めて受け入れるか、です。」
 「皆が跳べるわけじゃない。ただ、食う心配をしてるうちは、致命的じゃないよ。職場から独立する人は、食う心配なんか通り越している。悪くないんだよ。いろいろあっても、過ぎ去るのを待ってれば、いつか収まる。私みたいに『次の一手』を考え続ける生き方は、あんまり平和じゃないからね。」


 さて、そんなこんなで最近やたらとアメリカの社会起業家や、あるいはコンピュータ開発者に関係する書籍を読む機会が多いのだが(妙なことだが、IT技術にも知識にも関心はないが、いわゆるコンピュータ開発に絡む人たちの自伝を読むのが好きなのだ、スティーブ・ジョブスは別格にしても、コンピュータ開発をやってる人たちの生き様は案外面白い)、いろんな場面で共通で語られるのは、「上司と部下の間に『双方向』の忠誠心を培うこと」、である。
 双方向の忠誠心! 先日は、久し振りに来たヤツが、ご丁寧に「主戦場」なんて言葉を挙げて話てったんだけど(だからといって、「主戦場」の概念が普及してるわけではない)、何かしら示唆を与えるような言葉を探してたら、「双方向の忠誠心」にぶつかって、でもこれじゃ堅いし(通じやすいように、「双方向の信頼感」と置き換えて使いましょうか)、実践はできていても理解するのは至難だよなーっとか重いながら、眺めてた先に目に入ったのが、「最前線 Front Line」であった。
 あー、物語が舞い降りて来る♪♪

雨降って、地を滑る (単なる事実です)

2008年07月22日 | Weblog
 病院へ行ってから10日も経ったし、まだ足自体には痛みが残ってるので完治はしてないけど、そろそろ大丈夫かなと、「運動」を再開。じゃないと、いつまで経っても山には入れない。一段落した15時10分・・・こんな時間に山に入っちゃいけないのは承知なんだけど、往復3時間もあれば、十分戻って来れるとのスピード勝負。山の上は曇ってるし、絶対天気悪いよなーとか思いつつ、久し振りの1,000m越えを目指して山の中に入る。
 あまり人に会わないコースを・・・と思って、急登のコースを選択したら、予想外に小学校の登山体験なのか、チビッ子が露で濡れてる粘土状の道を滑りながら降りてくるのだった・・・しかも大量に。
 とりあえず、隅っこに寄って大群の移動を眺めていたら、想像もしてないところで名前を呼ばれる・・・小学校の先生だ。
 「何やってるんですか?」
 「24時間山岳耐久レースに出るトレーニング。」
 あらあら・・・って顔をされてしまう。

 もうちょういで山頂へ至る看板が出てるところで、御丁寧に雨が降ってくる、しかも相当しっかりとした本格的な雨。ピストンで山頂に立って、樹木で雨が凌げた方が嬉しいかなと気休めな希望で、そのまま登って来た岩道を一気に降って行く。ホント、レインウェアもザックカバーも何一つ持って来ていない。着替えもタオルさえも持って来ていない。何故かライトだけ、持参。全身ずぶ濡れで滑りながら・・・岩はしっかり歩くけど、粘土質の足場で派手に滑りながら、こんなことを考える・・・病み上がりでこれだけ歩けて、しかも悪天候にトレーニングができるなんて、なんて素晴らしいことなんだろうか! これだけ雨に濡れながら歩いたのは、ちょっと久し振りである。

 しかしなー、35を過ぎて、いわゆる庶民が夕方買い物へ行くような時間に、Tシャツ泥だらけでビショビショの状態で平然とスーパーに行くのって、ちょっとヤバイ気がする。でもまぁ、他者の目なんて関係ないからねー。


 で、今日読んでた本・・・ランディ・バウシュの『最後の授業』です。


ちっちゃな跡

2008年07月21日 | Weblog
 今日も一日、ご苦労様でした。7月に2つ、大きな意図を持った行事をやれましたこと、感謝します。ここしばらく虐待と表現するに相応しい問題にガッチリと向き合っており、そこに端を発して、肢体不自由の成人をケアできるようなプログラムを続けてます。難しいことは私が考えるにして(笑)、「『楽しさ』を共有できること」を、集まってくれた皆さんと共に作れたこと、とても感謝してます。今日は参加してくれた母親も大いに張り切ってましたが、家族が安心できて託せる機会を用意できることもまた、大きいと思ってます。
 今のところ、秋には、どういった形かで、料理に専念することなく、自然の中を動き回るようなオリエンテーリング的な趣を取り入れた何かを、やれればなー・・とか考えてます。まぁ、今後は通常のボランティア活動とは別の「社会貢献活動」というウィングへの展開も含め、また力を貸していただければ幸いです。
 とりあえず、お疲れのことと思いますので、ゆっくり休んで明日を迎えてください。ありがとうございました。

  * * * * * * * * * * 

 実は、行事活動プログラムに「家族」が入ってくると、温度が微妙に変わることがある。良い方向へ作用するか、それとも、そうとも言えない方向か・・・見極めが必要になる。でもまぁ、今日なんかは、確かに母親が息子の傍から離れなかったような部分も大有りだったんだけど、別に息子も特に抵抗があった様子もないし、逆に我々が母親の火起こし・調理・片付け、全作業で勢いに相当押された・・・という面があったとしても(笑)、お母ちゃんがあんなに張り切って楽しそうだったんだから、良かったよなーと思うわけですね、単純に。
 ちなみに、その母親の息子とは、帰りにちょっと近況も含めて話をしたんだけど、事故に遭って丁度10年、私に会って6年になるんだけど、御丁寧に「あの奇跡的な出会いから、6年経ちました」とかって言われて、あらま、スゴイ言われようで恐縮しちゃいます・・・ってな感じです。

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 繋いでいくこと、実はすっっごく難しい。ちょっと時間が空いたとしても、少しずつでも繋いで行ければ、どうにかなったりする。どうなったりもしないことだとしても、それが支えに・・そんな大袈裟なものじゃなくてもいいけど、意味のあるものになってたりする。誰かの人生の片隅に、自分の役割が与えられるなんて幸運は、実はそうそうあるもんじゃない。
 でも、今日一日の我々の活動が、彼ら彼女らにとって、しばらくぶりに外に出たり、誰かに声を掛けられたり、みんなで笑ったり・・・そんなちっちゃな跡になれば、随分な幸運なことですよねー。

milestone

2008年07月20日 | Weblog
 いろんなことが起こるので、いっぱい並べようと思ったことを、どんどん忘れてしまう(笑)
 明日は、久し振りの野外炊飯活動行事です。名簿を並べてみると、随分久し振りな顔がいたりします。外に出ること自体が稀有な方もいたりしますので、そーいう意味では、小さい行事ではありますが(そんなに小さくもないけど)、大きな一歩(Giant steps)です。
 きっかけであること、お互いを繋いでいくこと、可能性を拡げていくこと・・・まぁ、格好いいことは言葉だけにして(笑)、のんびり騒いできましょう。最近、うちの移動コミュニティ・カフェは、やかましいのが取り柄でして、是非明日も元気の良いところを見せてほしいものです、はい。

 というわけで、実は「『サロン』的な活動をするスペースを提供するよ」という提案をいただきました、もちろんビジネスライクな話ではなく、可能性として提供できる・・という意味で、です。そこは、障がいのある方が今度引っ越した部屋で、日中とか開放するなりしようかな・・とか言ってくれたのですね。悪くない話なので検討するんだけど、「何かをすることができるスペース」という意味では、ちょっと狭くて難しそう。まだしばらくは、市内のコミュニティセンター等を縦横無尽に移動しながら、あちこち活動を続けて行こうと思う所存です。そーですね、しばらくは勉強しながら、可能性を探って行こうと思います。
 ・・・・面白いものです、「『楽しさ』を共有しようとする活動」には、悲壮感が無くて、とっても素敵です(笑)。どんな活動にしろ、そこに「夢」と「希望」と「可能性」があることが大事なのであって、そこにある苦労は・・・それが苦労かどうかも分からないんだけど、そんなに大層なもんじゃない。だって、少しの予算があって、人が数人いれば、一日派手に活動ができる。プランさえ立てて、あとはちょいちょいと準備をして、ひょいと手続きをすれば、あとはサポートしてくれる人(を、うまく唆して、もしくはブラックボックスの中に突っ込んでしまって・・・絶対に少数精鋭が原則!)が集まれば、当日はそんなに問題なんて起きやしない。
 大事なのは、「来たい」と思えってもらえるようなプログラムを提示できるかどうか、なのだ。そして、それに乗ってくれる人たちがいるかどうか、なのだな。

 あー、こーいうことを力説するってことは、自分がやってることは順調に行ってるんだけど、それ以外で行き詰まってるというか支障が起きてるんだろうなー(笑) でもまぁ、ボランティア活動は、確かに社会正義への一里塚なんだけど、それ以上に、ある種の自己実現に向かう道標なのだな。楽しさの先に、きっといろんなものが見えてくるはずでしょうから。



 さて、先日、昔一緒に仕事をしたことがある方が、某市の市長選へ出馬表明をしました。諸事情があって、一番の働き盛りの時期に役所を退職したのだけど、退職してからの、ある種壮絶な生き様に感銘を受けていたので、仮に当選しなかったとしても、どうか応援していたいものです。まぁ、ろくに面識があるわけでもないし、選挙権だって無いし、投票を依頼する住人もいなんだけど、尊敬に値する生き様を見せてくれる大人が少ないので、是非とも声を届かせて欲しいと願ってます。

pilotage

2008年07月18日 | Weblog
 例えばね、もしこのようなことが実際にあるのだとしたら、児童福祉法であれば、完全に「虐待」だよね。児童相談所が介入するケースでしょ。高齢者も児童も、虐待については、しっかり介入されるんだけど、どういう意味では「障がい」は、まだまだ遅れているよね。


 職場の定例会議の最中に、一本電話が入る。福祉サービス運営適正化委員会からだ。
 「今回関わっている施設の虐待について、複数の相談があったことから、当該市の担当部局へ連絡したところ、市側は「知っていた」と言うんですよ、どういうことですか? というか、市は虐待があったという報告があったにも関わらず、そのままにしてたということですよね? 有り得ないですよ、おかしですよね。うちでも諮って、何かしら動いてみようと思います。」
 ・・・だから話がループになっているって。
 市当局は、「施設に不満があるのなら、県の社会福祉協議会の福祉サービス運営適正化委員会へ言ってみたらいいんじゃないですか?」って伝えている。だから、運営適正化委員会へ不満が届いたわけですよ。それに市の機関には・・それも複数の機関、窓口や発達相談支援センター等に、何度も問題処遇について相談している。そのことは、市側もちゃんと認めている。
 だからといって、具体的に何か動いてくれるわけじゃない。だから「役に立たない」とは言わないけど、進展が無い・・・何を今更言ってるんだろう? そんなに身軽に動いてくれる人ばかりじゃ、ないんだ世の中は。
 「虐待については、被害を受けた人の実名が無くても、『その疑いがある』ということでも対応しなければならないんじゃないのですかね?」
 その不満、私があなたたちの組織に対して感じた気持ちそのものでしたよ(笑) そう憤られても、実際あなたの機関でも実名が無ければ中々動くのは難しい・・・と言ってたじゃないですか。匿名では、しかも特定の情報ルートだけでは、誰も動いてくれないのは、あなたたちでもそうだったでしょ・・と言いたいのを我慢しつつ、余程頭に来たんだろうなーと思うのであった。自分などは、「聞いてもらえるだけでも儲けモン」って感じだったから、実さえ進んでくれれば全然OKである。


 で、最初の話へと繋がって行く・・・障がいについては、問題処遇についての意識が、まだまだ遅れている。
 そして言われる、この件は、うちが相談業務として受けているのか・・・君が公益団体としての位置が取るべき距離を測りながらやってるのは分かるけども、一生懸命関われば関わるほど、「うちの団体がやっている問題だ」という認識が出てくるよね。果たしてそれがいいのか、どこまでやれるのか。気持ちは分かるのだが、気を付けないといけない・・・・こうした問題は、最終的には家族が覚悟を決めて向き合うしかないんだよね。

 自分の中では、施設を管理する某市のところへ実情を伝え、家族から直接話を聞けるようなところへ繋げられれば、それが水先案内人として為し得る最終形だと思っている。それが人権団体でも弁護士でも構わない。しっかりと、真っ当な判断をしれくれるところへ繋げることができれば、そこまでが役割であると思っている。
本当にやるべきことは、やはり「『楽しさ』を提供すること」であり、それ以上のことは、力量的にも権限的にも難しい。だから、あと一歩である。でも、その一歩は、「あくまで家族が希望する形を一番大事にする一歩」であること。
 もしそれが、社会正義的には前に進まなくても、それは構わない。戦い方も、守り方も、いろいろある。大事なものは何か、を履き違わなければ、必ず道は開けるであろうから。

 ほーんと、「危ない橋」を渡ってるんだねー、今って。まぁ、『味方』がいてくれるから、気にしないけどさ。這い蹲って地上戦をやってるうちは、絶対に足元を救われない。大事なのは、誰を守っているかを、お互いに確認し合って進むことだからね。

重い腰が、少し上がったようです

2008年07月17日 | Weblog
 <正義が、必ずしも人を幸せにしないことは、大抵の人は身に染みて実感している。だから正義であろうと思われることを為そうとする場合でも、それが正義であることを誰もが理解していたとしても、そこに向かって真っ向から進めないようなことが多々ある。
 さて、我々は、ではどうする? 「シルバー、おめぇなら、どうする?」・・である。>

  * * * * * * * * * *

 関東の名高い大学院で苦労してるヤツが立ち寄って中々面白い話をしてったので、今日はその話をしようとも思ったけど、話には常に優先順位がある。学問上の論議に終始してる「分野に細分化することが好きな高学歴な方々」の四方山話よりも、もっと大事なのはリアリティのある事実である。
 なので、「野外炊飯でパンを焼くのに夢中になってた段階で、切られたと思ってました」という君の話は、また次回に。大丈夫、お前はあの「グラウンドでキャッチボールしてる空気」を体感して、今もなお考え続けているんだろ。分野括りなんて、クソ食らえだよな(笑)
 いつも言ってる通りです、「見切っても、見捨てない」し、「追放しても、戻ってくれば、いつでも受け入れる」って♪

  * * * * * * * * * *

 ということで午後、優秀な大学院生(教育と心理を学ぶ人たちは、永遠に私から嫌味を言われるのを受け入れてください☆)と別れた後、連絡が舞い込んで来た。福祉サービス運営適正化委員会から、であった。
 どうも、ずっと追っている施設を辞めた利用者のことで、とある養護学校の進路指導担当の先生より、「施設長から虐待を受けた」旨の相談が来たので、そろそろ見逃してもいられなくなった、ようである。
 とりあえず、電話だと伝わらない可能性があるので、直接乗り込んで話をしに行く。積み上げて行く以外に、前に進む術はないのだ。
 「うちの方でも、議題に挙げてみようと思いますので・・」との言葉に重ねて、「でも調査とかが入ると、どっちに転ぶか分からないところもあるんですよね、良い方へ転べばいいんですけど・・」とかっても言われる。うーん・・・・・まぁ、ちょっとだけ進展があったかなと思いつつ、職場に戻る。


 夕方、すっげーやかましいボランティア学生が印刷機を使いこなせずに、いつまでも騒いでるのを一喝し、ちょっとした決意を持って、某市の職員名簿から市役所本庁の福祉課へ電話をする。時間外、既に19時近い。名前は言えないのですが、某区で虐待に近い問題処遇を受けている利用者から相談を受けてまして・・・
 「『○○の○』って施設ですか? 先日、A養護学校の卒業生が虐待を受けているという相談があったので、福祉サービス運営適正化委員会を紹介しましたが。」
 いや、その子ではなく、うちはB養護学校の卒業生で、1名は辞めて、1名はまだ在籍してます。問題処遇の例としては・・・と、こちらで押さえている状況、これまでの施設側の処遇、そして打つことができない理由について一通り説明する。
 で、福祉サービス運営適正化委員会からも同じことを言われたのだが、市福祉課の施設担当も「3名という数は多いので、これは何かしらの手を打たねばならない」、と。いろんな方面から、この施設での処遇が口上に上がっている。でも、明確な対応は、結局無かったというわけだ、やはり。
 「行政サイドとしては、やる以上、根拠と事実を持って当たらねばならないので、できれば名前を出してもらわなければ何をするのも難しいので、まずはどのような状況なのか、書面で提出してください。」
 名前を出して説明すれば、きちんと調査なり対応をしてくれますか? 確かに名前を挙げるリスクはあるのだけど、真っ当なことがなされていないことを見逃すのは、もっと問題なわけですよね。こちらでも、傷んでる家族の立場とか方針とかもあるので、自分のところで話をして、その上で家族にとってどうするのが一番いいのかを考えてもらって、その意思に基づいて、対応しますので。

 どの相談もそうだけど、本人であることが分からないように調べてほしい・当たってほしい・・・という声が聞かれる。でも、ある一定の線を越えたら、きちんと打たねばならない。
 ようやく、行政が腰を上げた。これから、もう一勝負である。受話器を取り、家庭へ、「楽しさを取り戻そう×野外炊飯活動」の際の待ち合わせを確認した後、今日各所でなされた話を伝える。
 「今、返事をすぐにしなくて構いません。大事なことなので、ゆっくり家族で話をして、一番いいと思う方法を教えてくれたら、それを採りますので。」

 * * * * * * * * * *

  電話が繋がる。
  今日、ひとつ突破したんだけど、
  あれだよな、
  安全と安心を確保するのが「福祉の仕事」なのに、
  「あっちはダメだったけど、こっちは大丈夫だよ」とかって
  口にしなければいけないのって、なんだかなー・・・・

    でも、「安全と安心を確保するのが『福祉の仕事』」って言葉、
    ちょっとつらいです、聞くの。

  そりゃ、お前が体張って、それを守ってるからだろ。
  お前らが守ってるからこそ、
  俺らも「真っ当な」もののために、
  しっかり戦わなくっちゃ・・って思うんだからさ。