優厳 × 赤鬼通信

社会参加活動の支援を目指す「なんちゃって社会貢献チーム」の、「優しく厳しい遊び場づくり」の迷走過程を記して行きます。

親は親で大変なんだろう、気にしてる余裕が無いし

2023年03月12日 | Weblog
 さて、うちの親,何遍言っても分からないようで(笑)、結局介護保険の補助を受けずに外の階段をスロープにして、石畳を平らなしてしまったらしい。ケァマネからの電話で知ったが、ケアマネも唖然としていたが、まぁ、仕方ないというか、それで満足なば良いとしよう。ケアマネが身でも、「まお、大丈夫でしょう」と言ってたからね。
 分からないんだよな、当事者に確認することの意味を。それについて話をしても意味無さそうだし、何より親の家だからな、自分も移動が楽になるのなら、それが一番だ。早めに動線を直してくれたことに感謝しなければならないものだ。
 

 いろんな不満はあるんだろうけど、誰かに敵意を持ってる場合じゃない。憎たらしい看護師が担当で入っても、普通にやり過ごせるようになっている。理学リハ担当が「優しくなったんじゃないですか?」と言って笑うが、看護師にこん畜生と思ってもう仕方ない。
 ただ、うるさい患者は我慢ならない。看護師に、何度も医師を呼んで話をしたいと訴えてるのに、医師が来たら何も言わず終い。その繰り返しに隣の病室に居るとイライラしちゃうんだが、精神病領域の患者だから、どうしようもない。看護師は何倍もイライラしてるんだろうから、いや上手く流せるのかな?

 こちらの状態としては、口内炎によりフルーツジュースやアセロラドリンクが口の中で滲みて飲みにくいため、薬を飲むのに苦戦している。喉にまで口内炎の影響があるため、飯の飲み込みもつかえてしまう。熱いスープも滲みるしな。唇も荒れてるので、炎症治療の薬を塗っている。
 まぁ、前回一番口内炎が酷かった時は、夜中に特注マスクを探して、唇に当たらないガードや、不織布のマスクは唇に触れて痛いのでポリエステルのマスクを探して使ってたもんね。さらにうがい薬が口の中で滲みてうがいができなくなったため、うがい薬に痛み止めを混ぜ、水を水道水ではなく、滲みないものを用意してもらっていた。かなり大がなりな口内炎対策だったが、治したのは内視鏡検査で薬品が体内にぶち込まれたことであった。
 それと比べれば、まだまだ軽い副作用としての口内炎である。


その後・・・

2016年04月09日 | Weblog
 最近、気に入ってるもの。
 笹川美和の歌声。これは最近ってわけじゃなく、夜の車の中で延々と流れている。
 女優の松岡茉優。「そこはNTTでしょう、社長」のCM以外、すべてが素晴らしい(笑) というか、それ以外に外れがない仕事ぶりは尋常じゃないとしか言いようがない。
 吉田鋼太郎のドラマ、『東京センチメンタル』。コメントの必要が無いくらいの好いドラマ。


 さて、裁判に証人として出廷して、おおよそ10日が経つ。言いたいことは山ほどあるのだが、言えないことも山のくらいあるので・・・
 でも、どうしても気になることが幾つか。日本の裁判というか、犯罪をどのように裁くのか、ということに拠るのだと思うんだけど、「事実」を積み上げて犯罪を捉えることによって導き出されるものは、真実からは案外離れたものになってしまうこともあり得るんだということを、裁判官、検事、そして弁護士の3者の中で、どれくらい共通理解があるのだろうか? 正直、甚だ疑問を感じてしまう。確かに「証拠」を積み上げた先に事実があり、起こされた犯罪があるのだが、犯罪を事実として捉えただけでは、その背景や環境が、本当に明確には浮かび上がって来ない。いや、捜査はちゃんとされてるんだろうけど、それがどれほどの「事実」であるかを示すことができたとしても、果たして「真実」であるかを示しているかは分からないのではないか・・・という気持ちになったのだった。事実と真実は、似て非なるものである。
 その境目に自分が立っている。でも、自分が求められている証言は「事実」を告げることであって、「真実」を説明してくれとは言われていない。いや、証言の中で幾許かの意思表示を行ったものの、それは「その程度」のものでしかない。自分が言いたいこと(つまり、「特に伝えたいと思うこと」)は、裁判上では「言う必要のないもの」であり、必要とされる事実についての言葉は、事実には違いないのだけれど、全然真実味を帯びていない。
 分かっている。裁判官も検事も、おそらく被告の弁護士も、彼が有罪であることは証拠が証明している。でも、彼が否認しているから起訴され、裁判になり、証人尋問がなされるような事態になっているのだ。
 しかし、事件が起こった背景や環境要因は、その事件の判決と一切関係ないまま、存続する。事件は一過性のものでしかないが、その環境要因は脈々と続いているものだとしたら、いずれ同じようなことが起きないとも限らないので、関係する全ての人が何らかの変化が必要だと思うのだけれど、それが必ずしもそうではなかったりする・・・
 ホント、正直笑えないことばかりだ。


「正義」を振り翳す人たちは、正しいのかもしれないけど・・・やはり受け付けない

2016年03月28日 | Weblog
 ご無沙汰してます、東北の地でも雪のほとんど降らない冬も終わりを迎え、そろそろ春になります。無事にお過ごしでしょうか?
 先日来、東日本大震災から5年が経った・・と連呼されてますが、被災が少なかった地に住む自分の中でも、正直震災は風化してるのが現実です。忘れちゃうダメな生き物です。


 さて、というか・・・明日、裁判所に呼ばれてます。今年の正月、福祉サービスを利用している人が傷害事件を起こしたのですが、凶器を持って殴打してたのを止めたものの、逃走して逮捕されたため、事件の証人として出廷を強制されてます。
 事件としては、それほど大きなものではないと思うのですが、事件を否認してるようで・・・何度も警察と検察に呼び出されては事象聴取を受けてます。新聞にも載った事件ですが、障害の有無は記載されませんでした。ということは、傷害事件を起こした背景にある医療や福祉の問題が、「犯罪・事件」という看板に隠されてしまう・・ことに不安にならずにいられません。
 それ以上に警察の、障害者であろうが犯罪を起こしてしまった人への態度に対し、そして(犯罪を認めず否認し続ける容疑者に対して、警察よりも)居丈高な態度を取る検察の検事の態度に対し、ひどく失望を禁じ得ません。ついでに言うと、事件の証人として呼ばれる関係者の都合などひとつも考慮しない検察・裁判所の対応についても、法治国家の暴力性すら感じます。検事は、「私は(裁判に)負けたことが無いので」をやたらと連呼し、人を有罪にすることは如何に大変なことかを説きつつ、とにかく自分たちが正義だと暗に言い続けてます。気持ち悪いなー、そういうのって。
 こちらは、人が凶器で殴られてるのを止めてる時のことなんて、そんなの正確に覚えるほど余裕ないのに、目撃した場所の位置が曖昧だからって何度も呼び出されては、記憶が曖昧なことに対して警察からも検察からも非難され続けると、傷害事件による迷惑よりも、事情聴取のために警察・検察から受けた面倒の方が遥かに厄介で悪質だと思っちゃいます。確かに彼らは市民を守ってるかもしれないけど、振り翳してる正義なんて、よく分からないものです。だって、傷害事件を起こした彼が抱いてた社会に対する怒りや不満は、事件化されてしまうと隠されてしまい、「事件を起こした彼が、全部悪いわけじゃないのでは?」という問いを、警察も検察も聞いてはくれない。
 ・・・おかしい。何かおかしい。
 でも、おかしいと感じることは、警察・検察からすると、相当「おかしい」ことらしい。
 そして自分は、検察が彼を有罪にするための証人として、証言することを強いられる。そこに自分の都合や心情は一切配慮されない。とにかく検事が起訴すると決めてしまったら、ホントに何も告げる言葉はない。この違和感は、犯罪を否認してる被告に怒ってる検事には伝わらない。日本という国は、ホントに失敗した人に対して残酷なまでに悪意を持ってるんだなー・・・と思わずにはいられません。


 なんか、一歩違うところに足を踏み入れたら、すっごく息苦しく、どうしようもない現実があるんだということを、改めて痛感してます。裁判が終わっても何も解決しないし、良い方向には向かわない。不満と怒りだけが相手(=被告人)に残り、特段罪の意識を問うつもりもない自分にも、この事件に関与してしまったがために絶望的な無力感だけが留まってしまう。
 生きてくことは大変なこと辛いことなんて重々分かってる・・・と思ってたんだけど、本当は全然分かっていないんだなと。巻き込まれるまでは分からない現実の理不尽さよりも、遥かに強く厚い社会的な壁(正義のような顔をした悪意みたいな・・・)に直接向き合うのを強いられている人たちは想像を絶するような苦しみなのだろう、と。でも、どうしょうもないまま、不本意なシステムに組み込まれて、不本意過ぎて吐きそうな気分に陥ってしまうのでした。
 ・・・ホント、人の難しいところに関わらずに生きてけたら少しは楽なんだろうなー・・・とか、情けないことを考えてたのでした。なんなんだろうね、しかし。

ver.2

2015年02月13日 | Weblog
 無沙汰してました、こちらはあんまり力まず、ぼんやりやってます。そちらは元気にしてますか?

 だいぶ頑張らないようになってるんですが、「一寸のソーシャルワーカーにも五分の魂」ってヤツで、何故か福祉制度に翻弄される人・・・一番大変な状況の人・一番困ってる人・しっかりとした福祉的な支援がないと道を外れてしまう人ばかりが、どんどん制度から疎外され、自分が関与したくともできなくなってしまう・・ということばかりが続いて、「なんとまぁ、福祉支援職と言いながらも無力なことよ」と毎日のように思ってる今日この頃です。
一番困ってる人を助けられないんなら、一体何のためにこんな仕事に携わってるんだろうか・・と。思い余って死んだりしないか、無闇に誰かを殺したりしないか、精神障害者支援に関わってると、それほど熱心に仕事してるわけじゃないけど、当事者が本当に困ってるところを支援できないのは情けないものです。
 誰のために支援してるのか、その時その時の状況や環境、相手によって変わるのは仕方ないんだけど、支援者側の泣き言以上に家族や本人自身は大変なんだと思うと、やはりろくに何もできないことに参っちゃいます。社会が良い方向へ変わる感触が少しでもあると救われるんだけどなぁ・・とか思ってるのでした。(すっかり毒気も抜けてます)

 相変わらず、世界は無差別テロやら殺人事件、そして原発に象徴される経済界の圧力が続いてます。2001年のあのテロから、東日本大震災から、我々は相変わらず無力なままなのでしょうか。
 ・・と、弱音を吐いちゃいました。あなたの方も参らない、参り過ぎないよう、過度に無理することのないようになさってください。重ねて健康にも重々留意なさってくだされ。

なんとまぁ、福祉支援職と言いながらも無力なことよ

2015年02月09日 | Weblog
 まだまだ寒いのですが、元気にしてますか? というか、福祉支援やってて参ってませんかね??

 何故か福祉制度に翻弄されるというか・・・気が付くと、一番大変な状況の人・一番困ってる人・しっかりとした福祉的な支援がないと道を外れてってしまう人ばかりが、どんどん制度から疎外され、自分が関与したくともできなくなってしまう・・ということばかりが続いて、「なんとまぁ、福祉支援職と言いながらも無力なことよ」と毎日のように思ってる今日この頃です。一番困ってる人を助けられないんなら、一体何のためにこんな仕事に携わってるんだろうか・・と。
 あんまりこだわっちゃいけないんだけど、死んだりしないか、殺したりしないか的な精神障害者支援に関わってると、なるほど燃え尽き症候群になったり逃げ出したくなる気持ちも分かる。んなことより当事者が本当に困ってるところを支援できないのは、情けないものです。
 誰のために支援してるのか、その時その時の状況や環境、相手によって変わるのは仕方ないんだけど、きっと何処の誰もが大変なんだろうなー。でも、それ以上に家族や本人自身は大変なんだと思うと、やはり参っちゃいます。程々にやってる自分も時々吐きそうになるんだから、真面目にやってる方は大丈夫なんでしょうかね・・・と、ふと思っちゃった次第でした。

 あまり頑張り過ぎて囚われないよう、お互い気を付けて、やっていきましょう。

疲労困憊千鳥足的

2014年09月04日 | Weblog
 「落とし穴」・・とはいっても、大抵は自分に何かしらの原因だったり要因だったりがあってこそ落ちたり引っ掛けられたりするものだから、相当なダメージを仮に受けたとしても、そこは自己責任だと思い切るものであるべきだ、と。
 そういう意味では、今回巻き込まれた「落とし穴」は、いやまだ落ちてはいないんだろうけど、ほぼ想定していなかったところから、まさにいきなり吹いて来た風によって関係者全員が足元を一斉に浚われたようなもの・・・そこに至る人生を歩んでいるのだから全然自分に責任は無いとは言わないけれど、まさか、まさか、「人生には『まさか』という坂がある」というボケのような迷言をこういう時こそ呟きたくなる。そう、関係する全ての人が一堂に。

 別に何を失ったわけでもないまだ今のところだからこそ、ちょっと全身疲労困憊、心頭滅却すれば火もまた涼し的に山で寝っ転がって来たわけだ。でも、尾瀬なんで、そんなに困憊するんかい・・・って思ってたのに、寝ずに尾瀬まで出向いて、夜明け前から登って転んで、そのままテント担いで10時間近く歩き続けてたら、余計なことを一切考えるだけの隙間もなく単に歩くだけの「すっから空っぽ」になってしまった。挙句あまりに疲れてしまって、ほとんど誰も声を出さない無音のテント場(テントは何張りも張られてるんだけど)では、暗くなった途端に眠りについてしまい、普段の寝不足を取り戻すかのように、まるで意識を失ったかのように寝続け・・・
 
 翌朝、目覚めた瞬間から、まるで千鳥のような疲労困憊足にも関らず、真っ先に頭に浮かんだ成功イメージ・・・それは
  「無情にも落とし穴に突き落とされたならば、
   とりあえず疲労困憊するまで歩いて山奥のキャンプ場を目指し、
   意識を失うように寝てしまえ。
   そうすれば、少しはスッキリするんじゃないか?」

 別に誰が悪いわけじゃないけど、どうにもならないってこともある。大抵のことが自分の過失なりに起因するものだけど、そうじゃないことだってあるのは、この数年でみんな学んだはず。年中戦う必要はないし、戦う前に一眠りすることだって悪いことじゃないだろ。
 目が覚めたら、どうせ歩かなきゃならないんだから。

ここは尾瀬の入口、まだ待機中

2014年08月31日 | Weblog
ここは片品村戸倉、雨が止みそうな朝の4時。
もうすぐ尾瀬に入るバスが来ます。3年続けて尾瀬界隈に入ってますね、思えば。

人生には、思いもしない落とし穴があるもんです。
いやはや、みんな揃って茫然自失的な感じ。
なんで今日は気分転換でテント担いで雨の中を無心で歩いてみよう。

Pの領域に関わる中の、曖昧な空気を吸いながら@その2

2014年05月25日 | Weblog
 でもって話は数週間経った今日、先程のこと。
 先程、偶然以前関わりのあったボランティア活動指導者の一人(立派な人だけど、おそらく仲良くはないだろう方)に会った。
 最近、自分の現状を伝えるのに、「20年働いて、職員同士が仲良い職場は初めてだ」という表現を使う。事実だし、私の経歴を知ってる人には、なるほどと理解されることなので。注釈を入れておくと、多分に自分自身に問題があったため、どこでもそれなりに職業人として機能していたとの自負はあるが、基本的に人間と相性が悪いのだろう、あまり良い職業環境で居られたことは少なかったし、ほぼ無とも言える。適応能力の問題だと思うことにしているが、何れも劣らぬ偏った職場であり、偏った職業観によって成り立っている職場であったことは異論無いところだ・・・
でも、その立派な人は言うのだ、「それはどこに行っても自分次第でしょう」、と。
 そのやり取りだけを踏まえても、私とこの人は絶対に理解し合えないし、お互い仲良くはなれない(笑)

 帰り道、「どこに行っても自分次第」で他者とうまくやれるのかどうか・・・を考えてたら、段々腹が立って来るわけだ。
 「どう思うよ、経歴と脛に傷がある同士、『自分次第』でうまくなんてやれないよな」
 ちょっと友人と話したりしたのだけど、精神保健サバイバーである友人にとっても、それは案外厳しい響きだったらしく、
 「『自分次第で』うまくやれるんだったら、みんな幸せに生きてますよね・・・」
 改めて思い直したのだった、理想論やら真っ当な正論を言う立派な人たちのいるところに関わるのは、自分には負荷が大き過ぎたんだなー、と。
 そして、それこそ真っ当な理屈だけでは通じない世の中に、自分は関わっているのだから、押したり引いたりしてること自体が、どれだけしんどかろうと、それこそに意味があるんだと。例えば、いま課題に縛り付けられてる相手に対して、杓子定規で反論できないような正論をぶつけて身動き取れなくはしていないか・・・甘過ぎるとは言われるけど、どうだろうか。  

 自分自身、おそらくひどい人生を送ってるし、それ以上に他者にひどい思いをさせてる。そういう意味では、いつ刺されてもおかしくないし、もしくは刺すだけの価値が無いと思われてる程度の存在でしかないのは重々承知している。だから真っ当な声を向けられれば、そりゃ耳が痛いし、腹も立つし、気分が悪くなるし重くもなる。
 でも、自分を筆頭として、思い通りにならない人生を送らざるを得ない人に付き合っていく「どうしようもなさ」からは離れられない。「離れられないからこその役割」があるんじゃないか・・・と思う。
 解決不能なダメージは大きいんだけど、それは付き合って行くしかない種類のものだし、この偏りこそが存在意義なんだから、それは抱えていくしか仕方がないのだ。まぁ、今はまだ空き屋っぽい状態が続いてるんで、ダメージが大きくても反作用はほとんど生じないし、怒り的なものもあっさり消えるんで、ダメージも一寝すれば、違う価値観に移り変わってしまうかもしれないんだけどね。


 ・・・ホント、正論や常識が当然のように通じるんだったら、そりゃ楽で、うまく行くよな、確かに(笑)

Pの領域に関わる中の、曖昧な空気を吸いながら@その1

2014年05月25日 | Weblog
 ちょっと前のことになるのだが、GWの期間に少しだけ知人に会ったり、連絡を取ったりした。と言っても、GWとは言っても、別に連休があるわけでもなく、日々と変わらないが、自分以外の人たちの方が時間に余裕があったりするんで、実際に会わなくとも、連絡が取れたりする・・・というか、ほとんど他者と連絡を取り合わなくなってるので、逆に驚かれたりする。まぁ、人間関係も断捨離じゃないけど(笑)、特段接触する必要がない人が多いものだし、もし互いに必要だとするならば、そのタイミングで十分通じ合ったりするし、通じないようならそれまでのこと、なので。
 こちらも精神保健福祉に関係してることもあって、ちょっとだけ精神科病院の支援職と話をした。職場の優秀なワーカーたちの「支援観」の相違の間に挟まってしまい、ちょっと苦しくなっていた。「ストレングスとかリカバリーとか言い過ぎるので、それに振り回されてしまうのにきつくなる。その支援職の先輩諸氏はものすごく勉強してるし研修にも参加してる、すごいんだろうけど、何だか疲れてしまう」そうな。なるほど・・・あるよな、きっと。でも、「ストレングス」とか連呼してるよりも、もうちょっと何とか・・・って気がするわけだ、私も友人も。専門的な用語は、何となく話を進めやすい道具として掲げやすいのだけど、時々それが故にズレちゃうみたいな、ね。

 きっと、かつての自分もそうだったのだろう、と思って、違った意味で面白かったのだが。今の自分と、おそらく以前の自分の立つ位置で一番違うのは、おそらくバランス感覚が良くなっていることだと思う。自分で言うと、ちょっと変なのだが、以前と比べて、直接的に当事者自身と関わることが主たる目的になっていること、間接支援から直接支援にポジションを変えたためでもある。それは、それまで有していた「職員同士で取らねばならないバランス感覚」ではなく、障害当事者、特に精神障害の方たちと関わることで、それこそ言葉ひとつ、態度ひとつを問われながら鍛えられたとも言えるようなものだ。・・・じゃ、今までそうじゃなかったのか?と問われそうだが、きっとそうなのだろう。
 あんまり理念を振り回したりしなくなったし、「“克服することで前に進むこと”こそが一番だ」的な発想も振り回さなくなった。「前に進むこと」って何なのか? 自分の中では段々分からなくなって来ていることも確かだ。傍から見ると、正しい・真っ当な主張やら支援論は、それこそ支援者側や関係者の直観やら原則論でしかない。原理原則的な思想を捨て、「まぁ、どっちに転ぶかは運ですから、しゃーないわ」的なことを口にできるようになって、立つ位置が随分変わって来た気がする。怒って対応するよりは、時間が掛かっても仕方ないんで揉めないように辞めないように細く長くでも続けて行けるような、そんな対応が大事であることを改めて実感するのだ。

 局面を打開する役割にことにこそ価値があると信じているのは、おそらく変わらない。そういう意味では、以前は「引っ張って行かねばならない」感が尋常じゃなかったため、それを過剰に出すことで、止まれば沈没するのが目に見えていた船を動かして来たつもりだった・・・いや、それも思い込みかもしれないし、それ自体が自己演出だったのかもしれないと思い返せるようになってるのだが(笑)
 でも、場面が変われば、対応すべき相手が変われば、自分が信じている手法だって、少しずつでも変えて行かねばならない。嗅覚に近いような信念で突き進むことでしか為し得ないこともあるし、その求心力や、そのこと自体の魅力に捉えられると、そこにこだわりを集中させたくなる。だが、それが誰のためになるのかを考えると、ともすると「自分のため、自分たちのため」ってことになってしまってる、と言えないことは無いのだろうか・・・自問自答した時に、「そうだよなー」と、かつては反論してただろことも、今ではあっさり頷けてしまったりする。

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 なので、ふと思うのだ。精神科医療、精神科領域の福祉や司法で常識として扱われている幾つかのことに対して、やはり疑念を挟まざるを得ないのを、一体どのように自分の中で整理して行くのか、それが起こっている現場で、この「違和感と不正義」的なものと、どのように向き合っていくべきなのか・・・

放射能との戦いは、どれだけ住民を苦しめているのか・・・

2014年03月31日 | Weblog
 除染に行く前に、改めてチェルノブイリについて資料を目にしたりしていたのだが、その一冊、『チェルノブイリ 家族の帰る場所』(フランシスコ・サンチェス 文、ナターシャ・ブストス 画)を読んだ時は、非常に重い気持ちにさせられた。本当、チェルノブイリの事故から、日本は学ぶことが多いはずだ。というか、やはり思うのは、「どうしてちゃんと学ばなかったのだろうか」、である。
 福島と関わるということは、「この国で、原発をどうするか」を考えることになるはずなのだが、必ずしもそうなっていない。除染活動に参加しても、最初にあるのは、「その地域に住む人が、その地で安心して生活できる環境を取り戻すこと」であって、そこには原発の是非を語っている暇など、もしかすると無かったりする。そりゃ、そうだ。原発再稼働の是非は未来・将来の課題であるが、放射能汚染の中に住む人の喫緊の最重要課題は、如何にしてこの地を安全にするかどうか・・・の一点に掛かっている。当然自分もその一点のために赴いている。原発反対を叫ぶよりも、もちろんそれが重要課題であることは重々承知しているが、それよりもやはり生活の安全や大地の回復という実務が大事になる。
 でも、じゃ、エネルギー問題やら原発の是非は、どの場面で語られ、どこの誰が決定するのか、というプロセスに、本当に苦しんでいる人たちの声は聞こえているのだろうかという疑念を、どうしても拭えない。脇に居る自分がそう思うのだから、そこで艱難のど真ん中に居続ける人たちは、どれだけの思いを抱えているのだろうか、想像を絶する。
 当たり前のことだけど、原発の恩恵を受けている人、恩恵とは言えなくとも原発によって生計が成り立っている人たちの視点は、きっとまた違うだろう。そして、震災の風化が当たり前のこととして捉えられている現状において、特段原発有無の是非に関心が無い・関係ないと思っている人たちの視点も、きっとまた違うだろう。「エネルギーはベストミックスで考えるべき」と、メディア識者は口々に尤もらしく言う。これだけ世界史的な事故であるにも関わらず、その地に住んでいる一部の人だけが被災者・被害者になっただけで、その地以外は「概ね問題なく、普通に生活が成り立っている」。故に問題がどんどん矮小化されていってるような錯覚を覚えてしまう。ホント、「目に見えないリスク」は、目に見えないが故に見過ごされ、見逃されているのだ。
 だけど、そんなことは別に現場で汗を流さない人でも十分に分かっている。分かっているからこそ、もう、わざわざ議論として俎上に乗せなかったりする・・・おかしいと思いながら、結局原発事故が起こっても、本当に困ってるのは土地を失った人たち、汚染された土地で住み続けることを選んだ人たち、責任や使命感を持って復興復旧に携わっている人たちしか、当事者がいないような実情。形を変えて儲かったりしてる復興業者がいないなどと、誰も思っちゃいない。原因も責任も分からないまま、政治はスローペースのまま震災以降を生き長らえており、官僚は何をどれくらい失ったかも分からない程度にしか反省をしていない。自分を含めて震災自体の痛みが風化した自覚はあるけれど、その違和感をどこに投げたら良いのか分からないような・・・ そんな漠然としたものではない怒りや痛み、苦しみを持つ人は、一体どこにその感情を向ければいいのか。時々、というより稀にしか支援に携わらない人たちには、もちろん自分にも、そこに口を挟むのは難しい。難しい、難しいばかりが並んでしまうと、本当に情けない気持ちになるが、偉そうなお題目を唱えることもまた、やはり難しい。

             

 いわゆる安心して安全に生活するために「除染」が必要な地区はまだまだあるはずなのに、公的資金が投入される該当地区は限られている。その範囲以外では、地域住民が声を上げ、それに呼応して力を貸してくれる支援団体がサポートしてくれる場合には公費が投入されることもある。除染に来てもらった地域では、まさに住民が手出し負担で味噌汁を振る舞ったりする、それだってタダなわけじゃない。昨日の活動では、公費で飲料水が支給されたようだが、余ったので持って帰ってくれ、もう1本飲んでってくれ的なことを言われたりしたのだが、余ったのなら、また次に使えるように保管しておけばいいのに・・・と、正直思ったりする。
 除染を手伝いに来てくれた多くのサポートは、県外から来たボランティアだったので、地域住民や役所の方々が参加者に対して感謝の気持ちを表したいのは重々承知しているが、除染活動のように、まさに一雨降れば今日やったことが全部水に流れてしまって、また線量が高くなってしまうような半永久的な戦いを挑まれていることを思えば、本当はペットボトルの水1本の値段であっても、活動費としては貴重なものとして扱うべきのはずだ。おそらく県外から自費で遠征しているボランティアの人たちの方が、自分たちの食料や水などは自分が背負って来るべきものだとの自覚をしっかり持っている。それが活動に携わる者の原則であることは、概ね共通理解のはずだ。これは難しいのだけど、主催する側が頑張って線引きすべきだ。そうじゃなくとも、外部の人たちが入らない時間は、地元の人たちや自治体職員が貼り付いて除染活動に携わっている。その分は次回使えばいいのだ、そうしないと湯水のように復興支援資金は流れて行く。
 でも、自分たちが支援活動に携わっている時もそうだったが、どうしても手伝ってくれる人たちへの恩義を、どうにかして返したいと思ってしまうんだよな。事情が事情だから・・・とか言うのは簡単だけど、一番の財産である「人」を確保し、次も来てくれるように仕込んだり仕掛けたりするのに必要なんだよね、そういう資金って。きっちり予算通りに事業が回ってくれるのなら、運営者はそれほど苦労しない。

 できることは相変わらず限られている。とりあえず、できることがあれば、できる範囲で取り組んで行きたいという意思だけは持ち続けること。何よりも、「忘れない」ってことが、やはり大事。福島こそが、最前線なのだから。



年度末も押し迫ったところで

2014年03月31日 | Weblog
 託児のマッチングサイトが話題になっていた・・・と思ってたら、数日もしないうちにメディアからの露出が減って来た。世の中、事件が多過ぎるからなのだろうか。児童の命が失われていた事件なだけに安易なことを言えないのだが、あまりにも多く表出された問題課題に対して、メディア上のコメントでも、我々の普段の会話の中でも、批判非難が止まらなかったのは仕方ないが、それが誰に向けられた非難なのかによって、立つ位置が分かる。ただ、児童を預けたこと自体を非難するのは間違ってるし、「雇用・収入が不安定のために身分を偽らなければならない」として託児者をも被害者だと言うのは、やり過ぎだと思う。
 支援のマッチングの片隅に関わってた経験からしても、問題は正論で解決するほど一筋縄では行かないものだ。安かろう場合は、当然制限が生じる。それでもそれを必要とするからこそ、そこに需要があるのだ。「安かろう、その上、質も良い」を担保するには、数を減らして、為す側に善意的なものを期待しなければならない・・・でも、それでは成り立たない時代なのだ、今は。求める側も、求められる側も、それでは「足りない」のだ。

   * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 年度末の最後の最後に、福島で除染活動に参加して来た。ちょうど1年前の今は、入院中で完全拘束であり、今まで受けたこともないような医療機器と親しんでいたものだった(当たり前だ、病院になど滅多に行くこともなかったし)。中々、何かをすることができなくなっている中、1日・・・でも今日は雨が降って時間短縮になっちゃったんだけど(そーいやー、以前の除染の時も雨が降って時短になったような・・・)、とりあえず福島市大波地区での除染活動をやって来た次第です。
 いつ以来だろうかと思ったら、2012年4月に弁天山の除染に参加して以来だった。随分前のことだな、しかし。まだ、除染活動を住民やボランティアがするべきかどうかが議論になっていた時期だったし、今では業者が中心になって請け負っているのだろうけど、正直、進んでいるのかどうか、あるいは「進んでいる」と言われているけど本当なのかどうか、分からなかったりする。
 この大波地区は、確かに以前から福島市内でも渡利地区と並んで、除染活動をする場所として目にする地域だ。福島第一原発から随分離れているはずの福島市内で、これだけの放射線が相変わらず測定されること自体が問題なのだが、それ以上に2011年から大波地区の除染ボランティア活動が行われて続けており、その活動内容も「枯葉・枯枝を集める」といった作業を、同じように続けなければならないことを思うと、そこに住んでいる人たちの精神的な疲労困憊度は、言葉を失うどころではないだろう。この地区では、きっと原発自体が身近なものではなかっただろうし、原発事故が起きて、その被害が及んでいるのだとしても、放射線自体が目に見えるような害悪ではないため、片付けようとしても片付いたのかどうかすら定かじゃない・・・枯葉をレーキで片付けて袋詰めしても、また時期が来れば同じように枯葉を集めなければ、放射線の数値は下がらない。・・・となれば、本当に見えない敵との戦いを半永久的に続ける覚悟をしなければならないのだ。これは本当に拷問としか言いようがない。

             

                            

 除染活動の前に、地域の代表者が地区のことを話してくれた。この大波地区では今年の小学校の卒業生が1名だったという。そして来年度入学する生徒がゼロのため、休校になるとのこと。というか、ちょっと調べてみたら、今年度の全校生徒が1名だったのだ。過疎地域で生徒数も元々少なかったのだろうが、やはり原発事故の影響で転校する生徒が多く、かつ来年度入学する予定の児童も、学区外通学を認めたため、来年度の生徒がゼロになった。今日の集合場所の目の前に、その大波小学校はあった。地震対策で補強されている姿が妙に人の気配が無かったように感じたのは、そうしたこともあってのことだろうか。

             

鬼が大好きな私は、節分は心が痛いのだ(笑)

2014年02月02日 | Weblog
 先日、年1回の健康診断を受けて来た。前職場では事業所の支払いで受けられたんだが、今は地道に自分で手続きをし、自費で健康診断を受けて来たわけだ。
 ちょうど1年前、これまでにないくらい酷い数値が出たのだったが・・・結局再検査を受けることなく、これまでと同じように、まぁ、やり過ごそうと。ある程度の歳を取ると、胃の透視、いわゆるバリウム検査、正式名称は「上部消化管X線検査」ってヤツを受けるのだが、昨年そのバリウム検査をした際に飲んだバリウムが腸の中に残って、まるで盲腸のような鈍痛を引き起こしたのだった。もちろんバリウムが残ってるなんて、気付いたりはしない。腹痛の部位的に、おそらく盲腸じゃないのか、しかし40過ぎて盲腸かよ・・・って感じだった。別にすごく痛いわけでもないが、数日も腹に「違和感」があるなんて、それまでの人生に無かったことなので、滅多に自発的に病院に行くはずの無い自分が、わざわざ病院に出向いたのだった。数か所回って、ようやく診てもらえたところが、昨年3月に生まれて初めて入院させられた病院であった(これは検診を受けてる病院ではない)。ほら、普段病院に行かないから、病院が開いてる時間帯や曜日が分からないので、訪ねた病院のほとんどが受付終了だったということなのだ。まぁ、それが運良く、良い病院に巡り合えることに繋がったのだけどね。

 治療中ってことでもあるので、検査結果も相当改善した数値が出たため病院側は感心してたのだが、その通院のきっかけとなった「バリウム問題」を、今回もバリウムを飲むに当たって告げると、「そうした問題が起こった方には、バリウムではなく、うちではない病院で胃カメラを飲んでもらうようになる」との切り返しを受け、そりゃ、とんでもない、胃カメラなんて飲んだら死ぬほど苦しいだろうに!と、おもむろに自己責任で構わないのでバリウムにしてくれと懇願することになったわけだ。どうも諸々のことを考えると、水を飲む量が少ないことが様々な問題を引き起こしてるような気もするが、それ以前に健康に対する姿勢そのものが問題だ、のだな(悲)
 「健康の優先順位が低い」というのは、もうどうしようもない。健康の優先順位が低いことを前提として成り立っている人生を自負してる人が「心の盟友」だったこともあり、結果的には日本の西と東で、互いに健康には程遠い生活をしてるというわけだ。そんな不健康自慢をしてても笑えない話なんだけどさ。

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 とりあえず、生活と活動ができる状態になっているんで、ちゃんと見合っただけのことをしようと思うのだが、いや、していないわけじゃないのだが、かつて自由度の高い仕事をしてた分の反動が来てるので、自分の中でそれが消化できていない・・・ということなんでしょう。
 で、これはここ数日の出来事。
 従来から関わっている人たちも、概ね関係性が一段落してることもあり、わざわざ接点を持つ人も随分減っているので、時々来る連絡は案外な大事(おおごと)だったりする。尤も、人生において大事なんて、それほどでもないし、それを大事と受け取るかどうかは、単純に「その人の価値観次第」だったりするため、容易には言えないのだが・・・そうだね、そうやって他者に「大したことじゃなくて良かった」と安心させてるはずだったのに、それを「軽めに棚上げされ切り置きされてる」と思われてたことも、きっと多かったことでしょう。ふと、思い当たっては反省するのだった。
 前職では身体に障害のある人たちと関わることが多かったため、児童やその家族、そして成人になってからも諸々関わりがあったわけだが、当然ながら「仕事を通しての関わり」と、「それ以外での関わり・その範疇を越えて求められる関わり」があり、できること、できないこと、管轄外のこと、管轄外だけどどうにかしたいと思ってしまうこと・・・そうしたことをゴチャゴチャにして、どうにか折り合いを付けて行くものだった。もう、実質的に自分と組んできたボランティア学生の多くが社会人になり(実質的には2名だけが学生で、そのうち接点を持っているのは1名のみだし)、「これは職務」「これは職務じゃない」という形で分別をせざるを得ないし、その中の一部についてのみ「どこまでが関与できるところか、そうじゃないか」との迷いの範疇に置かれていることだと思う。そういう意味では「職務」というものは、実に「行動原理を限定してくれるモノサシ」であり、それが曖昧だったら人生は滅茶苦茶になっているよなー・・・と思い当たっていることでしょう。
 ああ、だから自分の生活は滅茶苦茶だったんだ・・・と、他人事のように改めて納得する(笑)
今回何度か連絡を寄越した人は、発語ができない、重度の身体障害の、もう40を越えた人だ。主として親の介護により在宅で生活しており、日中は通所の障害者施設で過ごしている。もう、おおよそお分かりであろうが、「毎日親に怒られながら家で生活するのは嫌なので、入所施設に入ろうと思うのだが、僕の考えは間違っていますか?」、という問いだ。
 間違っていますか?と問われたものの、自分としては、彼と関わり始めて10年もの間、「君が思っているほど入所施設は悪くないし、自由度も以前よりは高まっている。もし、家族と一緒にいるのがきついなら、選択肢として施設入所も考えてみて、そこから君の考える自由な生活を作って行くのも悪くない選択肢だと思うよ。」と言い続けて来たし、そのために親しい福祉施設の職員に体験入所について問い合わせをしたり、様々な情報を伝えていた。でも、彼は、月に1回程度利用しているショートステイでの施設経験が、いつも印象が悪く、どうしても前向きになることは無かった。重度の身体障害者が利用できる入所施設の数が圧倒的に足りないことが、一番の問題であるのだが、彼をはじめ、自分が今でも関わっている重度身体障害者(ここで例えておくと、重量的に重くてデカい車椅子を利用し、言葉を発することができないため容易に意思伝達ができない、ような)がショートステイとして利用できる施設となると、数少ない障害者施設では利用できる日を確保することが難しいため、特別養護老人ホームなどの高齢者施設を利用せざるを得ないことが多い。そりゃ、「どうしても評判のいい障害者施設を」という希望以外認めない人もいるだろうが、現実的な選択と必要性を考慮して、高齢者施設でサービスを受けている人は多い。別に悪いことじゃない、職員の多くは介護福祉士だろうし、介護技術は、そりゃ最初は慣れないために本人もきつかったり痛かったりするかもしれないが、介護技術は経験値の蓄積によって間違いなく向上するものだ。だからこそ、「必要なくとも、職員が慣れるためにも利用するように」なんてことがまことしやかに言われるのだ。
 「介護と家庭教師は、家族には難しい」・・・これも世界の常識だ。以前より、よく授業の度に口にしてたものだ。にも関わらず、本人の意思よりも「家族の意思・感情」が未だに優先されるのも、おそらく未だに常識だと思う。確かに「最優先」ではないかもしれないが、「優先」される。なので、本人が施設入所の希望を口にしても、本人を目の前に話を聞いている相談支援機関の職員は、「それは家族との問題だから」と差し戻してしまったりもする。いや勿論全部がそうではないだろうが、今回彼はそう言い返されていた。
 ちなみに彼の親と以前話をした際に、それこそ親の方から入所施設のアテについて尋ねられたことがあり、「そんなにすごく良い施設じゃないけど、決して悪い施設ではない(!)」某入所施設に、とりあえず体験入所とか申し込めるように職員にも確認してたから聞いてみたら?と伝えたところ、彼が利用している相談支援機関の方から、それは自分たちで検討しますのでと言われて、その話は据え置きになった・・・と言うのだ。外部の、まさにフリーの情報屋の話など真に受けてられるかと思われてるのかもしれないけど、結局ここ数年、親も本人も歳を経るごとに身体的にも感情的にもきつくなって行くものの、選択肢としての施設入所は、利用している福祉施設・相談支援機関に止められ、二進も三進も行かない。経年劣化だけが進み、不満だけが溜まって行く。そしてその不満のガス抜きができる場も機会も無い。かつての仕事では、そうしたガス抜きの機会だったり、ステップになるための場を作るのが職務だった自分も、今ではそこから離れている。それを専属でやっていた時に注ぎ込めた時間が無いこと、いわゆる戦車のような車椅子を移動させる交通手段が無いこと、この指止まれで集めていたマンパワーが足りないこと・・・あとは自分自身の状況だ。本来ならば、かつて自分が就いていた某職場が、ほんの少しでもそうした機会を作る役割を引き継いでくれれば良かったと思わないでもないのだが、まぁ、それは言いっこ無しだし、自分にとって大事だと思ってた業務が、現在における全体の位置付けとして見た場合、それほど意味が無いのかもしれないので。第一自分は、かつて在籍していた職場が、今も業務を継続しているかどうかを確認できたことが皆無なので!

 話は戻るが、相談支援機関が「家族の問題」だからと言って、目の前にある、もしくは間違いなく何れのタイミングで起こる大きな課題を据え置いておくと、結果大変な思いをし続けるのは当人と家族ということになる。当たり前なんだが、福祉の相談支援機関でも、担当者の力量によって、随分対応が違うし、熱心さが違う。職場の方針もあるだろうが、やはり個々の力量と熱意に左右される。制度論が大事なのは、今の方が優勢だろうが、そればかりじゃ、回らない。制度論とは関係ない世界に10年も居た所為で、その時に染み付いたものは容易に抜けない。
 向こうが信用するかどうかは別にして、福祉事務所だろうが相談支援機関だろうが、必要だと思うんなら話し合いの時に付き合うのはヤブサカジャないし、役に立つかどうかは別にしても声を掛けてもらえりゃ、飛んで来るとは言えないけど、ちゃんと顔を出すからさ・・・「来る義理」は無いんだけど、そういうもんじゃないだろうしな。
 でも、彼が文字盤で伝える話のうち、こちらが口を挟めるところは左程多くないし、現実的に他者が顔を突っ込める範囲は限られている。「安心させられること」と「安心させる言葉を言うこと」の挟間のどちらに価値や真実があるのかは、正直難しい。難しいけど、「本当に難しい」のは、「難しい局面に立たされ続けている当人」であって、決して自分じゃないのだ。支えることもできないが、泣き言を吐き捨てるのに付き合うくらいはできるかな、と。


 ・・・ふと、思う。全体のことを考えてる真似をして、個々の人を見ないで済ませている人は、気楽で痛みが無くていいなー、ってね。あんなに面倒見てるフリをして、自分たちの興味の範疇やら容量を越えてしまうと、一切見向きもしなくなるような、それで給料もらって社会的評価も得られるんだったら、そりゃ、ヤメラレナイわな。
 と、たまに嫌味を言ってみてもいいだろう、もう二度と、現実を見据えない理想論だけしか言わない人たちとは同じ舞台には立たないのだから(笑)

一応、新年の挨拶がてら

2014年01月20日 | Weblog
 新しい年になってたようで・・・年始すぐに事故を起こした人の現実的な後始末などに追われてるうちに、あっという間に半月以上が過ぎてしまってたものです。
 とりあえず自分自身については、穏やかな年末年始を過ごせてるんだが、まぁ、「現実的対応が得意」なもので、それなりにバタバタさせてもらっています。「穏やか」というのは「言い様」で、かつてのように「過剰に動く必要も無い」ことにも大分慣れて来たな、というわけです。

 さて、いわゆる「社会的な問題」を考えていく上で、今は何に絡まなければならないかを思うと、それは「雇用問題」に行き着くのは、おそらく現在の共通認識でしょう。貧困問題とまでは行かなくとも、就職先を探すこと、それ以前に「就職できる自分であるかどうか」を自覚的に問うことができるかどうか、そして働き先が見つかったとして、「働き続ける上で起こる様々な問題への対処・耐性を身に付けることができるかどうか」等、本人には問われている。
 でも、雇用のミスマッチ、賃金と勤労時間のアンバランス等をはじめ、個人の努力、ひとつの会社や支援機関だけではどうにもならない課題でもある。
 まずは「社会の入口」としての就職先を探す学生もさぞかし大変なのだろうが、一旦就職した先で進路変更(決して「失敗」ではない!)したことで再雇用先を探す人たち、あるいは就業する能力が足りないかなと思われる人たちの雇用の再獲得活動は、尋常じゃないくらい難しい。雇用支援機関が投げて来る、実に滅茶苦茶な求人に対する要望にも驚くし、あるいは各所に構えているハローワークの力量や融通性にも随分と差がありそうで、ホント、個々人の力量だけで雇用戦争的な現状を勝ち抜くのは難しい。「難しい」と言っただけでは社会は改善しないし、現状は進まないのが現実なので、まったく困ったものなのだが、できることを地道にひとつひとつやって行くだけである。どこに行っても、それは変わらない。

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 先日、ようやく手に入れた kindle で、ちょっと以前の記録写真や映像を見れるようにファイルを整理してたんだけど、それなりに面白かった時もあったよなーとか思ったりもしたけど、「じゃ、それと比べて今はどうなのか」を問うた時、「そんなに悪くないかな」というのが実感である。健康になるために使える時間もあれば、健康を取り戻すためのチャンスそのものがあったしな、と。
 おそらくみんな、歳を経るごとに失ったり、やれなくなったことが増えてるんだろうと思う。実力も実績も高めた人もいるだろうけど、それとは違った意味で「失われた何か」が、さ。「得たもの」と「失なったんじゃないかなと感じられそうなもの」は、単純に比較はできない。失ったものの多くは、無くても大して気にならないものだったし、無くなって清々したものだったりする(笑) 例えば職場で作られる無駄な関係性(←これは実に清々している、無くなって!)とか、おそらく無理しなきゃ保てなかったんじゃないかなと思えるような自分のアイデンティティというかキャラクター設定というか、そうしたもの。

 だからと言って、今が劇的に素晴らしいことがあるわけじゃ、当然ないんだけど・・・ 日常で起こっている些細な、でも微妙にズレてるような出来事を、まるで「すごく面白いこと」が起きているかのように再構成して伝えることで、尋常じゃないくらいの笑い声を作り出すのが、実は今、あちこちで担っていることのひとつ。そう、まるで「算段の平兵衛」(いや、違うか?)のように、ゼロから全然関係ない何かを作り上げるかのような・・・ でも、それって以前とそんなに変わらないんだけど、話す相手と、話を聞く人たちの気持ちが、これまでと大きく違うために全然別種のものになってるのだな。
 逆に、話せなくて残念です(笑) まぁ、それでいいんだけどね。

「躓き続ける人」と共に

2013年12月17日 | Weblog
 「躓き続ける人」がいる。
 いや、自分もそうなんだろうが、とりあえず躓き続けてると、それなりに器用になったり対応能力が上がって来たり、決して本意じゃないことだとしても、それなりにトラブルにならないような対処ができるようになるものだ・・・と思っているのだが、世の中、中々そうはならないようで、一度躓いたら最後、一体どこまで躓き続けなきゃならないんだ・・・と、他人ながら心配しなければならなくなるような人がいたりする。
 ・・・いやいや、改めて訂正しておくが、とりあえず自分ではない(笑)  「本当に自分じゃないのかね?」と問われたら、ちょっと悩むかもしれないが、いろいろあったとして、そしていろいろあるとして、とりあえず躓き続けてはいないかな、と。いろいろあったかもしれないので、わざわざ面倒な自己開示をせずに済むように、近況的な表記というか、率直な物言いを放り投げるのを止めている(この影響は実に多大で、キーボードで自らの思考の整理をしなくなったら、面倒なことを考えないようになってしまった・・・それが良いことなのかどうかは、まだ不明である)。生活環境がシンプルになったために可能になったことでもあるし、指向性が随分変わったのだ・・・ということでもある。つまり、わざわざ自分から躓こうとしなければ、躓き易いところに向かって行かなければ、あるいは躓くことで何かしらなものを呼び込もうとしなければ、そうそう躓くことはない。・・・まぁ、随分リスキーな志向だったのですこと(笑)  ちゃんと生活するってことは、多少用心深くなるってことさ。


 「躓き続ける人」、だ。それでも自分の関わってる人の多くは、そうした傾向のところに位置している。それは公の部分で関わっている人にも言えるし、私の部分で関わっている人であっても言える。彼らの正常な姿を、もちろん自分は常に見知っている。しかし、躓き続けているうちに、何かが壊れてしまったかのようになってしまう瞬間に、時に接することとなる。決して選ばずにいるはずなのに、結果として次々と「躓き続け」、「もう、笑うしかなくなってる」ため、コトは深刻な状況にも関わらず、すっかり上機嫌になってしまっているように見受けられ、ダメになることを諦めながら受け止めるしかないという気持ちを、まるでタガが外れたように溢れさせるような姿を見ると、その時に隣に居てやれないことを悔やむのだが、だからと言って、隣に居ることがプラスになるとは限らないことも分かっている。
 結局、自分の問題は、自分で解決するしかない。誰かの支えになることはできるかもしれないが、頼りにされたって、おそらく他者は役には立たない。自分で連鎖的にドブに落っこって行くのを止めるには、自力で踏ん張るか、あるいは運か僥倖を見逃さないことしかない。しかも僥倖が、継続して僥倖として存在してくれるかというと、決してそうではなく、その僥倖こそが奈落へ繋がっているかもしれないこともまた、嫌でも身に付いてしまった感覚だったりする。差し伸べられた手が、本当に救ってくれるかなんて、分からない。差し伸べられなかったからこそ浮かぶ瀬もあったりもする。
 大抵、自分にできることは無かったりする。かつてのように、限られた状況において、マジックのように劇的に変化させることはできないわけじゃない。でも、そうした特効薬として派手な効用を見せて勘違いさせて、その場を乗り切らせたって、躓き続けなくなるわけじゃない。中々、人は学ばないものなのだ。
しゃーない、きっちりここに一点を穿つために金槌を打ち続けてることの方が、今は自分の手に馴染んでいるし、命綱にはならん でも、バランスを取るための支点にはなれるかもしれない。


 大抵のことは、悪意もなければ、ほぼ無関心なことだったりする。
 にも関わらず、無関係な人たちが概ね信じられない形で出会い、「『この地に、この人がいる』ことの価値」を、様々な場面で実感じさせてもらっている。躓き続けている一人として、うまく歩こうとは思わないけど、ね。

福島の空です

2013年09月18日 | Weblog
諸々あって、留守にしてます。
ちょいと足を伸ばして、奇跡のような空を見て来ました。
ここは福島の地です。
まさに天国のような世界です。
「悔しかったら、ここまで来てみろ」、ってくらいの空です(笑)