除染に行く前に、改めてチェルノブイリについて資料を目にしたりしていたのだが、その一冊、『チェルノブイリ 家族の帰る場所』(フランシスコ・サンチェス 文、ナターシャ・ブストス 画)を読んだ時は、非常に重い気持ちにさせられた。本当、チェルノブイリの事故から、日本は学ぶことが多いはずだ。というか、やはり思うのは、「どうしてちゃんと学ばなかったのだろうか」、である。
福島と関わるということは、「この国で、原発をどうするか」を考えることになるはずなのだが、必ずしもそうなっていない。除染活動に参加しても、最初にあるのは、「その地域に住む人が、その地で安心して生活できる環境を取り戻すこと」であって、そこには原発の是非を語っている暇など、もしかすると無かったりする。そりゃ、そうだ。原発再稼働の是非は未来・将来の課題であるが、放射能汚染の中に住む人の喫緊の最重要課題は、如何にしてこの地を安全にするかどうか・・・の一点に掛かっている。当然自分もその一点のために赴いている。原発反対を叫ぶよりも、もちろんそれが重要課題であることは重々承知しているが、それよりもやはり生活の安全や大地の回復という実務が大事になる。
でも、じゃ、エネルギー問題やら原発の是非は、どの場面で語られ、どこの誰が決定するのか、というプロセスに、本当に苦しんでいる人たちの声は聞こえているのだろうかという疑念を、どうしても拭えない。脇に居る自分がそう思うのだから、そこで艱難のど真ん中に居続ける人たちは、どれだけの思いを抱えているのだろうか、想像を絶する。
当たり前のことだけど、原発の恩恵を受けている人、恩恵とは言えなくとも原発によって生計が成り立っている人たちの視点は、きっとまた違うだろう。そして、震災の風化が当たり前のこととして捉えられている現状において、特段原発有無の是非に関心が無い・関係ないと思っている人たちの視点も、きっとまた違うだろう。「エネルギーはベストミックスで考えるべき」と、メディア識者は口々に尤もらしく言う。これだけ世界史的な事故であるにも関わらず、その地に住んでいる一部の人だけが被災者・被害者になっただけで、その地以外は「概ね問題なく、普通に生活が成り立っている」。故に問題がどんどん矮小化されていってるような錯覚を覚えてしまう。ホント、「目に見えないリスク」は、目に見えないが故に見過ごされ、見逃されているのだ。
だけど、そんなことは別に現場で汗を流さない人でも十分に分かっている。分かっているからこそ、もう、わざわざ議論として俎上に乗せなかったりする・・・おかしいと思いながら、結局原発事故が起こっても、本当に困ってるのは土地を失った人たち、汚染された土地で住み続けることを選んだ人たち、責任や使命感を持って復興復旧に携わっている人たちしか、当事者がいないような実情。形を変えて儲かったりしてる復興業者がいないなどと、誰も思っちゃいない。原因も責任も分からないまま、政治はスローペースのまま震災以降を生き長らえており、官僚は何をどれくらい失ったかも分からない程度にしか反省をしていない。自分を含めて震災自体の痛みが風化した自覚はあるけれど、その違和感をどこに投げたら良いのか分からないような・・・ そんな漠然としたものではない怒りや痛み、苦しみを持つ人は、一体どこにその感情を向ければいいのか。時々、というより稀にしか支援に携わらない人たちには、もちろん自分にも、そこに口を挟むのは難しい。難しい、難しいばかりが並んでしまうと、本当に情けない気持ちになるが、偉そうなお題目を唱えることもまた、やはり難しい。
いわゆる安心して安全に生活するために「除染」が必要な地区はまだまだあるはずなのに、公的資金が投入される該当地区は限られている。その範囲以外では、地域住民が声を上げ、それに呼応して力を貸してくれる支援団体がサポートしてくれる場合には公費が投入されることもある。除染に来てもらった地域では、まさに住民が手出し負担で味噌汁を振る舞ったりする、それだってタダなわけじゃない。昨日の活動では、公費で飲料水が支給されたようだが、余ったので持って帰ってくれ、もう1本飲んでってくれ的なことを言われたりしたのだが、余ったのなら、また次に使えるように保管しておけばいいのに・・・と、正直思ったりする。
除染を手伝いに来てくれた多くのサポートは、県外から来たボランティアだったので、地域住民や役所の方々が参加者に対して感謝の気持ちを表したいのは重々承知しているが、除染活動のように、まさに一雨降れば今日やったことが全部水に流れてしまって、また線量が高くなってしまうような半永久的な戦いを挑まれていることを思えば、本当はペットボトルの水1本の値段であっても、活動費としては貴重なものとして扱うべきのはずだ。おそらく県外から自費で遠征しているボランティアの人たちの方が、自分たちの食料や水などは自分が背負って来るべきものだとの自覚をしっかり持っている。それが活動に携わる者の原則であることは、概ね共通理解のはずだ。これは難しいのだけど、主催する側が頑張って線引きすべきだ。そうじゃなくとも、外部の人たちが入らない時間は、地元の人たちや自治体職員が貼り付いて除染活動に携わっている。その分は次回使えばいいのだ、そうしないと湯水のように復興支援資金は流れて行く。
でも、自分たちが支援活動に携わっている時もそうだったが、どうしても手伝ってくれる人たちへの恩義を、どうにかして返したいと思ってしまうんだよな。事情が事情だから・・・とか言うのは簡単だけど、一番の財産である「人」を確保し、次も来てくれるように仕込んだり仕掛けたりするのに必要なんだよね、そういう資金って。きっちり予算通りに事業が回ってくれるのなら、運営者はそれほど苦労しない。
できることは相変わらず限られている。とりあえず、できることがあれば、できる範囲で取り組んで行きたいという意思だけは持ち続けること。何よりも、「忘れない」ってことが、やはり大事。福島こそが、最前線なのだから。