優厳 × 赤鬼通信

社会参加活動の支援を目指す「なんちゃって社会貢献チーム」の、「優しく厳しい遊び場づくり」の迷走過程を記して行きます。

Pの領域に関わる中の、曖昧な空気を吸いながら@その2

2014年05月25日 | Weblog
 でもって話は数週間経った今日、先程のこと。
 先程、偶然以前関わりのあったボランティア活動指導者の一人(立派な人だけど、おそらく仲良くはないだろう方)に会った。
 最近、自分の現状を伝えるのに、「20年働いて、職員同士が仲良い職場は初めてだ」という表現を使う。事実だし、私の経歴を知ってる人には、なるほどと理解されることなので。注釈を入れておくと、多分に自分自身に問題があったため、どこでもそれなりに職業人として機能していたとの自負はあるが、基本的に人間と相性が悪いのだろう、あまり良い職業環境で居られたことは少なかったし、ほぼ無とも言える。適応能力の問題だと思うことにしているが、何れも劣らぬ偏った職場であり、偏った職業観によって成り立っている職場であったことは異論無いところだ・・・
でも、その立派な人は言うのだ、「それはどこに行っても自分次第でしょう」、と。
 そのやり取りだけを踏まえても、私とこの人は絶対に理解し合えないし、お互い仲良くはなれない(笑)

 帰り道、「どこに行っても自分次第」で他者とうまくやれるのかどうか・・・を考えてたら、段々腹が立って来るわけだ。
 「どう思うよ、経歴と脛に傷がある同士、『自分次第』でうまくなんてやれないよな」
 ちょっと友人と話したりしたのだけど、精神保健サバイバーである友人にとっても、それは案外厳しい響きだったらしく、
 「『自分次第で』うまくやれるんだったら、みんな幸せに生きてますよね・・・」
 改めて思い直したのだった、理想論やら真っ当な正論を言う立派な人たちのいるところに関わるのは、自分には負荷が大き過ぎたんだなー、と。
 そして、それこそ真っ当な理屈だけでは通じない世の中に、自分は関わっているのだから、押したり引いたりしてること自体が、どれだけしんどかろうと、それこそに意味があるんだと。例えば、いま課題に縛り付けられてる相手に対して、杓子定規で反論できないような正論をぶつけて身動き取れなくはしていないか・・・甘過ぎるとは言われるけど、どうだろうか。  

 自分自身、おそらくひどい人生を送ってるし、それ以上に他者にひどい思いをさせてる。そういう意味では、いつ刺されてもおかしくないし、もしくは刺すだけの価値が無いと思われてる程度の存在でしかないのは重々承知している。だから真っ当な声を向けられれば、そりゃ耳が痛いし、腹も立つし、気分が悪くなるし重くもなる。
 でも、自分を筆頭として、思い通りにならない人生を送らざるを得ない人に付き合っていく「どうしようもなさ」からは離れられない。「離れられないからこその役割」があるんじゃないか・・・と思う。
 解決不能なダメージは大きいんだけど、それは付き合って行くしかない種類のものだし、この偏りこそが存在意義なんだから、それは抱えていくしか仕方がないのだ。まぁ、今はまだ空き屋っぽい状態が続いてるんで、ダメージが大きくても反作用はほとんど生じないし、怒り的なものもあっさり消えるんで、ダメージも一寝すれば、違う価値観に移り変わってしまうかもしれないんだけどね。


 ・・・ホント、正論や常識が当然のように通じるんだったら、そりゃ楽で、うまく行くよな、確かに(笑)

Pの領域に関わる中の、曖昧な空気を吸いながら@その1

2014年05月25日 | Weblog
 ちょっと前のことになるのだが、GWの期間に少しだけ知人に会ったり、連絡を取ったりした。と言っても、GWとは言っても、別に連休があるわけでもなく、日々と変わらないが、自分以外の人たちの方が時間に余裕があったりするんで、実際に会わなくとも、連絡が取れたりする・・・というか、ほとんど他者と連絡を取り合わなくなってるので、逆に驚かれたりする。まぁ、人間関係も断捨離じゃないけど(笑)、特段接触する必要がない人が多いものだし、もし互いに必要だとするならば、そのタイミングで十分通じ合ったりするし、通じないようならそれまでのこと、なので。
 こちらも精神保健福祉に関係してることもあって、ちょっとだけ精神科病院の支援職と話をした。職場の優秀なワーカーたちの「支援観」の相違の間に挟まってしまい、ちょっと苦しくなっていた。「ストレングスとかリカバリーとか言い過ぎるので、それに振り回されてしまうのにきつくなる。その支援職の先輩諸氏はものすごく勉強してるし研修にも参加してる、すごいんだろうけど、何だか疲れてしまう」そうな。なるほど・・・あるよな、きっと。でも、「ストレングス」とか連呼してるよりも、もうちょっと何とか・・・って気がするわけだ、私も友人も。専門的な用語は、何となく話を進めやすい道具として掲げやすいのだけど、時々それが故にズレちゃうみたいな、ね。

 きっと、かつての自分もそうだったのだろう、と思って、違った意味で面白かったのだが。今の自分と、おそらく以前の自分の立つ位置で一番違うのは、おそらくバランス感覚が良くなっていることだと思う。自分で言うと、ちょっと変なのだが、以前と比べて、直接的に当事者自身と関わることが主たる目的になっていること、間接支援から直接支援にポジションを変えたためでもある。それは、それまで有していた「職員同士で取らねばならないバランス感覚」ではなく、障害当事者、特に精神障害の方たちと関わることで、それこそ言葉ひとつ、態度ひとつを問われながら鍛えられたとも言えるようなものだ。・・・じゃ、今までそうじゃなかったのか?と問われそうだが、きっとそうなのだろう。
 あんまり理念を振り回したりしなくなったし、「“克服することで前に進むこと”こそが一番だ」的な発想も振り回さなくなった。「前に進むこと」って何なのか? 自分の中では段々分からなくなって来ていることも確かだ。傍から見ると、正しい・真っ当な主張やら支援論は、それこそ支援者側や関係者の直観やら原則論でしかない。原理原則的な思想を捨て、「まぁ、どっちに転ぶかは運ですから、しゃーないわ」的なことを口にできるようになって、立つ位置が随分変わって来た気がする。怒って対応するよりは、時間が掛かっても仕方ないんで揉めないように辞めないように細く長くでも続けて行けるような、そんな対応が大事であることを改めて実感するのだ。

 局面を打開する役割にことにこそ価値があると信じているのは、おそらく変わらない。そういう意味では、以前は「引っ張って行かねばならない」感が尋常じゃなかったため、それを過剰に出すことで、止まれば沈没するのが目に見えていた船を動かして来たつもりだった・・・いや、それも思い込みかもしれないし、それ自体が自己演出だったのかもしれないと思い返せるようになってるのだが(笑)
 でも、場面が変われば、対応すべき相手が変われば、自分が信じている手法だって、少しずつでも変えて行かねばならない。嗅覚に近いような信念で突き進むことでしか為し得ないこともあるし、その求心力や、そのこと自体の魅力に捉えられると、そこにこだわりを集中させたくなる。だが、それが誰のためになるのかを考えると、ともすると「自分のため、自分たちのため」ってことになってしまってる、と言えないことは無いのだろうか・・・自問自答した時に、「そうだよなー」と、かつては反論してただろことも、今ではあっさり頷けてしまったりする。

  * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 なので、ふと思うのだ。精神科医療、精神科領域の福祉や司法で常識として扱われている幾つかのことに対して、やはり疑念を挟まざるを得ないのを、一体どのように自分の中で整理して行くのか、それが起こっている現場で、この「違和感と不正義」的なものと、どのように向き合っていくべきなのか・・・