優厳 × 赤鬼通信

社会参加活動の支援を目指す「なんちゃって社会貢献チーム」の、「優しく厳しい遊び場づくり」の迷走過程を記して行きます。

Front Line  part 2 (御礼も込めて)

2008年07月24日 | Weblog
 単純に「自分たちが持っている範囲内に通常為しうること」を越えること・・・ここに臨めるかどうかが、自分にとっての、ある種の判断基準になる。

 全然関係ないんだけど、自分が揃えていたベストのメンバーでやった、かつての野外炊飯行事と、選りすぐられてるとはいえ掻き集めたようなメンバーでやってる今回の野外炊飯活動では、どれくらい差があるか・・・・ほとんど皆無である。自分の準備が周到じゃなかったくらいで、ほとんど差はない。イメージは、いつでもどのタイミングでも、その気にさえなれば具現化できる。それは、ここが自分の「主戦場」であり、相変わらず枠組み設定こそが自分の役割であるからである。良し悪しは、声を掛け終わった段階で、もう分かっている。大事なのは、スタートするために「この指とまれ」を掲げることであり、その声に応じてくれた人がいるのであれば、概ね、それは歓迎されるものになっているのだろう。参加者を集めるのに苦労する事業は、セッティングが甘いか、魅力ないプログラムであるか、主催者が汗を掻いていないことに起因する。
 あとは、中身を埋める作業は、そこに集まった人たちが無意識に、しっかりやってくれる。そりゃ、ひとつかふたつ、仕込みはするけど、中身に対して口出しする程のことはない。ランディ・パウシュも言っている、「忠誠心は双方向」だと。
 でも、思う・・・これがビジネスだったら、あっという間に破綻してる(笑)

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 単純に、思う。某授産施設に通ってる車イスを利用する女性がいて、たまたま・・・本来は自分が何かをやる際には入って来ないところにいるはずの方なのだが、ちょっと気になって、今回遊びに来たんだけど、いわゆる毎日の施設に通う以外で外に出ることは、皆無だと言う。そんなに周りにいる人たちも知り合いばかりじゃないので、気後れもしたんだろうけど、それでも接点が少しでも掠っていれば、そこに糸口がある。きっかけを作る程度に過ぎない、自分ができるのは。どんなにきっかけがあっても、出てこない人は、絶対に出てこない。さて、バトンタッチした方の力量、お手並み拝見である。

 ここ半年の間、外に出た3回のうち、2回に絡んでる在宅の男性(うち1回は病院診察なので、成果としては驚嘆すべきものなのだ)。家から出ないから、車イスもパンクしたままやって来たという始末。でも、面白かろうがどうだろうが、「暇だから、行ってみっか」ってなること自体が金星なのだ。彼の母親の願いは、単純に「部屋から出ること」、ついでに「しっかり食べてほしい」である。電車を乗り継いで、夜通しパソコン使った所為で居眠りしながらとはいえ、野外炊飯やってるってんだから、大金星である。

 きちんとした就労と、現在の福祉作業所での仕事の合間で悩んでると言いに来た高次脳機能障がいの青年は、事故に遭ってから転校した養護学校在学時に一緒だった同級生を目の前に、彼ら彼女らには話し掛けないのだけど(笑)、彼ら彼女らの隣に座ってる自分に向って、目の前にいる彼らについて、「覚えてますよ、どっかで見たことあります」を連呼してる・・でも、直接話し掛けることはない(ここが、彼の障がいの特性なのだ)。
 ちなみに彼の母親は、出来が悪くて動きの鈍い学生ボランティアや、意味不明の日本語をオンリースピーキングしてるような社会人ボランティアを余所目に、ガンガン薪を焚き付けるは、包丁を裁くは、洗うは、磨くは・・の活躍ぶりだったけど、接点があるということ、自分の子どもの障がいに向き合ってた自己について語る機会を持つということは、とっても貴重なんだろうなーと、改めて思う。

 そして、どうしても親と離れて地下鉄で帰りたい・・と言い張って、母親を追い返した車イスの青年は、丸一日包丁を持って、野菜と肉を切り続けてたのである。春には包丁の上と下を気にせずに使ってたのだけど、随分の進化ですわ、はい(笑)  
 通っている施設では、やりたいなーと思うようなことができずにいるようなので、ちょっとスケジュールを動かしてもらって、ボランティアに地下鉄で一緒に帰ってもらう。小さな自己実現が、満足感と自信に繋がっていけばいいなー、って思う。ここ、ずっと包丁持って付き合ってくれたボランティアがいてくれたんだけど、本人と一緒に役割を果たしてくれた御蔭で、彼は今日一日、自分が一番働いたって自負をお土産に持って帰れます。そーいうのって、単純に素敵なことだと思うんだな。

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 ボランティアは、駒であり、兵隊である。あまり好かれない表現に受け取られているが、そのうち「駒」として機能することに喜びを感じてもらえれば、私も嬉しいです。
 「『駒』って言われるのって、何だか嫌だなー」・・・そんな声が聞こえるのは、どうせ最初だけです。というか、本当に嫌な人は、最初からそんなことを言いませんし、ここにはいませんから。
 「兵隊」という表現に対して、あまり快く思われていない節があるけど、でもほら、ボランティアは社会正義のために活動している「兵士」ですからね。自分としては、その表現に最大限の敬意を表している。
 そうそう、最近も学生に言いましたよ、
 「ボランティアやってることを親にちゃんと伝えてるか? 
  何て言っていいか分からない? 
  『社会正義のためにボランティアやってるんだ』って言えばいいだろ。」
 
 いろんな言い方があって、いろんな活動があって、いろんな場所があるんだと思う。でも、「ここ」が「最前線」である。確かに、「ここ」は「私の主戦場」であって、「あなたたちの主戦場」ではないかもしれない。
 ・・・でも、「ここ」は、あなたたちにとっても「最前線」であることは、違いないだろ? あまり為にもならない・・・履歴書にも書けないし、友達にも紹介しにくい、出来の悪い人の溜まり場と言われても反論しにくい空間だけど、この最前線では、夢と希望と可能性を、ちゃんと売っている。ここに来て、あたふたと動き回ってる人に対してしか、それは売られることはない。
  最前線 = The Front Line  
  テストには出ないけど、しっかり覚えておこう。


追伸;
 なぁ、大学院に行って、主戦場がどこかを話し合ってたって、なーんにも意味なんてないのだ。お前にとっての最前線で、如何に起動するか、稼動するか、成果が残らないとしても経過を残せるか・・・なわけですよ。だからお前は、しっかり最前線で討ち死にするくらい、戦えばいいんだよ。能力やら学力やら、そんなの価値なんてないのだ。いや、在るところでは「在る」のかもしれないけど、「戦わざるもの、食うべからず」である。
  見る前に跳べ、語り続ける前に動け、止まる前に進め

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