優厳 × 赤鬼通信

社会参加活動の支援を目指す「なんちゃって社会貢献チーム」の、「優しく厳しい遊び場づくり」の迷走過程を記して行きます。

最後通牒

2012年02月27日 | 革命をめぐる迷路のような冒険
 震災以降、この1年の活動記録を記しているのだが、もうすぐ1年を経つという時期に、明確に、しかしずっと分かっていたことを、改めて記すことになったので、ちょっと載せておきたいと思う。分かっていたけど、見ないで過ごしていたような、そんな事実でありんす。

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 震災後、ほぼ1年を前にして、自分の職場での会議で挙がったこと。
 「この震災のため、4月5月のボランティア活動ができなかったのは、仕方がないことだ。」
 「震災ボランティアと、うちの障がい児ボランティアは違う。」
 この2点を口にされたとき、本当にそうなのか?と思わざるを得なかった。2つの意見に対して反論を試みたが、現状を考えたとき、それを理解してもらうことが無理であることも十分承知していた。
 ひとつは、1年間を通して、ボランティアを派遣する事業を行っている団体として、もし震災直後の3ヶ月にボランティアを動かすことが難しかったのだとしたら、じゃ、その後にそれを挽回するだけの活動をすることができなかったのか。あるいは、それを目指していたのかどうかという本質的な問いがある。
 もうひとつは、確かに震災復興支援ボランティアに携わる人が圧倒的に多かったのは事実であるが、自分たちが抱えているボランティアの数が皆無であったわけでもない。事業を行うに当たってボランティア希望者の応募も少なからずあった。何よりも現在進行的に抱えているボランティアもいる。その彼ら彼女らとともに、震災支援をも視野に入れた事業を何回も組んだことを踏まえて思うことは、主催する自分たちの意思や、一緒にやっていく人たちへの働きかけ自体が貧相であること、そして畢竟震災を言い訳にしてるに過ぎないのではないか・・・という事実に尽きる。もちろん自分自身にも、それは言えるし、足りなかったことを毎日のように痛感している。

 いろんな言い訳はできるだろう。でも、この「千年に一度の震災」という年に、どういう形でも活動できないのだとしたら、存在意義が問われるどころか、存在価値があるとは言えないのではないのか。確かに震災で活動できるボランティア数が足りなかったかもしれない。確かに「震災支援ボランティア」と「障がい児者の遊び相手のボランティア」を比した場合、今年に限っては優先順位は低かったかもしれない。でも、それを言い訳に、我々は甘んじ過ぎなかったのかどうかを問われると、実に脆弱な話だ。もし自分なら、こんなダメなところに業務を頼むことは無い。
 ・・・これが、おそらく結論だ。どんなに立派なことを言ってる団体だとしても、この程度でしかない。これが結論であって、その回答が出されたのは、おそらく間違いじゃない。突き付けられた最後通牒に反論の余地は無かった。


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 でも、まだ戦いを止めるわけにはいかない。給料をもらってる以上、その額以上のパフォーマンスができなければ、そこを辞しなければならない。その自覚がない人たちが揃う事業体ではあるが、まだ自分のところは勝負ができている・・・と信じているので、戦いを止めるわけにはいかない。


 ・・・さて、明日も頑張りましょう。

友あり、西方より地震の揺れとともに来たる。我らの共同体は、震度に揺らぐことなく共闘する。

2011年07月07日 | 革命をめぐる迷路のような冒険
和歌山で昨日、震度5強の地震があった。
和歌山には、盟友であり、魂の共有者がいる。
とりあえず無事が確認できた。
元々、お互いのことを確認することも無いのだが、
いい機会なので、近況を確認する。

「私も癌を克服しつつありますよ!」
そして付け加える、
「津波で亡くなった命と比べ、病と闘え、
 命と向き合える時間があることを幸いに思っています。」、と。

相変わらず、壮絶な人生であることをサラリと感じさせてくれ、
生きてるってことは、まさにそういうもんだよな・・・と思わせてくれる。
動き始めたら、止まってなんかいられない。
同じような速度で走らないと、
きっとどちらかが馬の鞍から振り落とされてしまう。


>>

東北は、おかしいもので「震度4くらいなら大丈夫」と、感覚がおかしくなっています(笑) 
私は南相馬、山元、東松島、石巻、気仙沼・・と、
仕事と並行して被災地の障害児者の家庭、ボランティアの方々の家庭を回ってました。
津波は酷いけど、復興への希望や気力があります。
片や原発の方は、絶望と怒り、そして恐れが満ちています。
私も何もできていません。
あちこち回って、無駄話に付き合ってるだけです。
縁があって、被災地に絵本や児童書を届ける活動を担っています。
できることは限られてますが、マグロが泳がないと死んじゃうように、
私も何もしないではいられないので、ちっちゃいことをやり続けています。
できることを、とにかくやり続けようと思ってます・・・生きてる者の使命、ですからね。

まだ、病の最中なのですね。
大変なことと思います。
うまく言えずに申し訳ないのですが、痛みや苦しみが少なくて済むことを願ってます。
痛みは、どうしようもなく人生の質を削ぎますから、
できるだけ痛みに向き合うのではなく、命そのものに向き合えるよう、願ってます。
些細な願いですが、きっと届きますように!
我々は、どこに居ても共同体ですからね!


>>

夜、弟子の一人が、仕事を終えてから訪ねて来た。
震災の余波からか、ちょっと調子を崩していたようだ。
同じ速度で走れる人と、まだこの世界に来てから出会えない。
のは事実だが、いつかこの子たちが、そこに応じてくれるといいなーと思ってる。
まぁ、いろいろあるかな・・・こちらの適性も含めて(笑)

革命をめぐる迷路のような冒険@その3

2008年12月16日 | 革命をめぐる迷路のような冒険
 大阪で行われた全障連(「全国障害者解放運動連絡会議」の略)の全国大会に介護人として参加したのは大学2年のときだったと思う。2日ほど大会に出て、後は脳性麻痺の友人であるNさんと一緒に大阪の街を回っただけだが、今でも忘れられないことが幾つもあった。
 ひとつは、今から20年近くも前の話になるので、まだ障害がある人と一緒に出掛けるということ自体が、中々ハードなものだということ。まぁ、この時は宿も予約して行ったし、障害者団体の大会ということもあって、移動手段についても余程スムーズに行ったはずだ(いつか、余程スムーズじゃなかった時のことも伝えられればと思う)。それでも駅がバリアフリー化されていない時代に、全国大会があるからと大阪の各地のJR駅で大勢の障害者を迎え入れるための体制やら様相は、ある種ものスゴイ光景であった。

 初めに断っておきたいのだが、同じ大学生レベルであっても、自分よりも遥かに障害者問題に取り組んでいる人たちからすれば、自分のボランティア活動など、些細なものでしかなかったと思う。もっとすごい活動・・・まさに闘争運動みたいな活動をしていた人はたくさんいたし、今でもそうなんだと思う。だから別にボランティア活動のどうこうを並べるつもりはない。
 でも、確かに革命的なことが時折起こるのが、この世界だった。最近思うのは、そんな革命的なことが現在進行形で起こっているのかどうか・・・・そうした魅力だったり、「問いの方から自分に向かって来て、そこから避けることができないような『問い』自身」に出会うようなことが、果たしてあるのだろうか。。。。と、ついつい余計なお世話なことを思ってしまうのだ。


 ・・・閑話休題、この大阪の旅、障害者問題の勉強会のために東北から関西を往復する、多分4日くらい車イスを押してるような旅だったが、希望をひとつ出した。「解放会館」を見学に行きたい、と。東北に住んでいると、問題について頭の中でしか分かっていないことがあるから、途中で見つけたら寄りたいんだと。
 自分と、このとき一緒に行くことになったNさんは、自分がよく足を運んでいたボランティア団体がある建物の、隣にある障害者施設に入所していた。年が15近く離れているのだが、何故か妙に気があって、大学生活の3年の間、大きな旅を何度かすることになる。ひとつは大阪での全国大会。ひとつは横浜の福祉施設の見学。もうひとつは、彼が親子関係を清算する気持ちを持って母親に会いに行った時だ。いずれも数日に渡る、そのときそのときに忘れ難い、くだらない出来事がある旅で、自分は彼とあちこち出掛けて行くことで「旅」に出ることを覚えたと言っても過言じゃない。
 ろくにすることもなかった大学生活を送ってた自分が、全国あちこちを回れるようになったのは、彼と一緒に出歩いていたからだと自信を持って言える。単純に、彼とあちこち出掛けるのが楽しかった。形としては「ボランティア」だったかもしれないけど、それ以上に、自分が彼と一緒に居るのが楽しかったのだ。そういうのって、とっても悪くない。

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 大阪での最後に晩、もう自分らは全国大会での分科会の参加も終えて、明日には大阪を発つことになっていた。その夜、自分たち2名と相部屋になったのは、同じ大会に参加していた関西の大学生だった。今考えると、車イス利用で宿泊してる我々に、見知らぬ客と相部屋で泊まらせるような人員配置をするのもすごいなーと思いつつ、まぁ、同じ目的で参加してる人同士だから、地元の彼らは、東北から電車を乗り継いで来た自分たちのことを歓迎してくれたのだ。
 いろいろ話してる中で、この日の帰り、解放会館に入って差別に関する展示物を見た自分は、初めて見た様々な驚き、そして怖さについて、率直に「こんなことがあるのか?」と訊ねたのだった。そこで自分が目の前にしたものの重さを、今も忘れない。

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 一緒にいた1人の大学生は、来年春から教員の採用が決まっているという教育大学の4年生だった。そうですね、と彼は言う。
 「自分も問題とか、小学校の頃からずっと教育を受けてるわけですよ、関西なので。だから頭の中では差別とかあるの分かってるのですが、それが目の前に現れたことは無いんですよ。だからどこかで問題はもう解決してることなんじゃないかなと思って大学生をやってるんですよね。」
 問題についての自分のスタンスを説明してくれた後、ちょっと一息ついてから彼は続けた。
 「・・・後輩がいるんですよ、とてもいいヤツで、一緒にいろんなことをしてる仲間なんですが、ある日、話をしてるうちに問題の話になったんですね。みんなでいろんなことを話して、その日はその後輩がうちに泊まってったんですけど、二人きりになったときに後輩が言うんですよ。
  『今日、問題のことを話したじゃないですか。
   これまで誰にも言ったことないし、
   親からも言っちゃダメだと言われて来たし、
   絶対に言うことは無いだろうと決めて来たんですけど、
   ・・・自分は「出身」なんです。』
、と。」
 
 「・・・驚きましたよ、そんなこと考えたこともなかったし、仮にそうだったとしても、自分がその後輩に対して何ら変化があるわけはない。でも、その後輩が、どれだけのものを背負って生きてきたのかを考えたら、自分は何も知らないのと同じじゃないか、というか、これまで何を見てたのだろう・・・って。
 後輩も、『先輩だから言うんです、他には絶対に言えません。』、と。
 ・・もう言葉なんか出ませんよね。もちろん後輩に対して持っている気持ちに変わりはありません。でも、自分がそれまで見ないでいた差別について、きっとこれから教師になってからも、やらなきゃならないことがあるんだということを、そのとき実感しました。だからきっと、まだまだなんだと思いますよ。どうにかしていかなくちゃいけないんだって、思うんですよね。」

 彼は、自分たちが参加した全国大会の実行委員でもあったので、先に寝ててくださいと言って、途中で部屋を抜けて行った。残された自分とNさんは、空気すらも重くなった差別の話を、もう一度反芻した。自分とNさんも、障害者の権利や差別問題を齧ってはいたが、さすがにグーの音も出なかった。「後輩もすごいけど、彼もすごいよね。。。。」、そう2人で言って、頷いていた。帰りに、もう一回、解放会館へ行ってみようと言いながら、ベッドに入ったのだった。

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 このときに感じたのは差別問題についてもだが、「大学4年生の力量」をまざまざと見せられたという気持ちの方が強かった。自分のことを考えてみて、大学生にもピンからキリまであるよなー・・と思ったものだ。
 だから卒業年度の学生に対して、特に強い思い入れを持っている。4年生は、単に大学4年目ということじゃない。もっと大きなことを担うことができる特別な年なのだと。人の気持ちを動かすのに年齢など関係ないのだが、それでも「大学4年生」というのは、きっと大きなステップを踏めるようじゃなきゃならない「年」なんだと。
 尤も、学歴などそれほど価値がないものだから、今の自分の考え方に換算すれば、専門学校であっても何処であってもいいのだが、卒業年度や次のステップに進む自覚を有する場合の前年度という時期に、自分の弱さを前に進むための力にできる、しっかりとした言葉で話ができる人材であって欲しいと思う。自己完結するだけではなく、もっと社会的にも意義のあるだけの人材になれるようであって欲しいと。
 そして、この時期に大きくステップを踏めないのだとしたら、それはそこにいる間に程度の低い生活を続けて来たってことなのだ。自分の大学4年生時は、まさにその通りで、これっぽっちの価値もない大学4年生を送ることとなった・・・勿論何年か後に跳べるための素地だけは作ることができたのだが、「偉大な大学4年生像」を考えた場合、やっぱりゴミみたいな存在でしかなかったと思う。

革命をめぐる迷路のような冒険@その2

2008年12月15日 | 革命をめぐる迷路のような冒険
 (前略) 仕事における事務連絡みたいな郵便物が届いたって面白くないよなー・・と思い、親しい方々には一筆加えて送らせていただくこととしました。ここしばらくはメールだけに専念してて、ペーパーを渡していないこともあり、ちょいと記してみます。

 昨年、今年、この2年間に卒業に絡む方々が去っていくと、ほぼ私がフル回転で関わってきたメンバーが「学生」という身分から離れ、社会人になっていきます。もう、半数は卒業して社会の第一線で働いており、何をしていいのか分からずに戸惑う時期も過ぎ、そろそろ役割や責務に胃を痛めてたり、毎日の仕事に忙殺されたりして、何かを考えたり、あるいは何かを始めようと思うことが難しい方もおられるのでは・・と思います。
 よく言う話ですが、私が公務員生活を9年続けて来て得たものは、形としては何も無かったと思います。勤続10年の表彰もされなかったし、視聴覚教育の功労も辞めた所為でカットされたし、9年で170万円の退職金を手にしただけです・・僅かなものでしょう!
 大学4年の1月に採用試験を受け、面接で助役に「君は何も知らないのか!」と怒られた挙句に就いた役所は、天下り、談合、地域エゴ、職員間の相互不信、賭博の借金による懲戒免職、公金横領、職責に耐えられずに職場で縊死・・・そんなことばっかりでした。役所で「最も上司に恵まれない職員」を9年続けたと称された私は、総務・企画・衛生センター・教育委員会と4つを回り、総務という名の雑用、企画という名のつじつま合わせ、衛生センターという名の左遷、教育委員会という名の後始末・・に励んでました。当然です、仕事は給与をもらうだけでものであって、それ以外に何も期待しなければ、何も無いと信じてましたので。
 でも、その間、児童劇団の運営、地域イベントの裏方、5万世帯が目にする広報作成、水質管理のイロハ、パソコン教室の講師、ホームページ作成を含む庁舎のサーバー管理者まで、いわゆるエリート公務員が絶対にしないような、細部に渡って面白い仕事をしてたように思います。もちろん、今となって思うことですが。

 昨年就職された方、あるいは今年就職を探される方の多くは、自分が目指したい職業に、しっかり就かれる方が、ほとんどかと思われます。当然仕事に就いてみれば、思い通りの職場じゃないことも多いでしょうし、自分がイメージする自らの能力と実質との差に愕然とすることもあるでしょう。「仕事は楽しい、でも職場が嫌だ」、あるいは「職場は楽しいけど、仕事は向いていない」、かつての自分のように「仕事も嫌だし、職場の嫌だ」と思われる方もいるかもしれません。
 でもまぁ、20かそこらで自分の天職なんて見つからないし、いつの段階で「自分に合う」ものが見つかるか、分からないものです。今、探している方々にも、いつかいきなり目の前に現れてくるかもしれないのですから。
 社会人になると、実は悩んでなんかいられない状況に陥ることがあります。悩んでる暇があれば、先に進まなければならない場面の方が多いのです。悩み自体も変わってくれば、悩み方自体も変わってくるし、大抵は解決しないことなので、油断してると大人はどんどん駄目になっていきます。まさに賃金と引き換えに、魂を切り売りしてるようなものです。これは中々止まれないもので、余程じゃないと人生にしろ価値観にしろ、「切り返す」のは難しいのですよ。

さて、学生のうちは悩まなければならない。いつも言うように、20歳そこらの時代は、毎日のように悩んでなければならない、である。社会人になってしまうと、悩んでなんかいられなくなる。でも、「悩み方」が分からないと、すっごく意味が無いとは言わないけど、薄い、そして次に繋がらないような悩み方しかできなくなる。
 「切り返す力」は、そうそう手に入らないものです。誰かが、とっても感動するような言葉を告げてくれて、それに自分の気持ちが大いに揺さ振れてたとしても、「それに応じられる自分」であるかどうかは、分からないのだ。だからこそ、切り返せる力を、隠してでも持っていなければならない。

 ・・・というわけで、現在進行形で悩んでいる皆さんも、今のためにだけでなく、将来「力」を有するときのために、頑張って悩んでください。悩み過ぎて死ぬようなことは、本当はありません。死にそうになったら、逃げ出せば良いのですから。一時撤退して、しっかり体制を整えてから、また迎え撃てば良いだけのことです。新選組の副長・土方歳三は、鳥羽伏見の戦いで薩摩・長州連合軍に破れてから連戦連敗で本州を北へ敗走し続けましたが、北海道の五稜郭に陣を構えてからは、明治政府軍に破れるまで、正に鬼神の如く戦い続けました。敗れても、戦い方はあります。悩まない人は、戦い方を学ぶこともなく、なんとなく過ぎてしまうことになるだけ。
 でも、我々は所詮「社会の歯車」でしかありませんから、それなりに生きて行くことも悪くないし、それも良いのかもしれません。私は単純なので、死ぬ間際になって、「あの時、辞めていれば、俺の人生は・・」なんて言うような無様な人生を送るのは嫌だなと思ってるだけです。そんな人生を送ってると必ず起こること・・・失敗して転んで落ちぶれたりした時に見てた誰かが、「ほら、見たことか」とか言って笑われたりするわけです。でも、そんな凡人たちの嘲笑は、もう踏み込んだ自分の耳には、絶対に耳に入らない。踏み込んだ人には、そこに留まったままの人には見ることのできない、「踏み込んだ者の世界」があります。そこは、自分が判断して決定したことは、たとえ世界の誰がダメだと否定しようが、自分で決めたことは絶対的に正しいという論理によって導かれるものです。いつか、見えてきます・・・皆さんの周りにも、何名かいますよね、既に。

 そんなことを思ったので、この機会に、まぁ、いつも聞いていることでしょうが、お伝えしようと思い、改めてペーパーにしました。うちのボランティアに関しても、やりたくても諸事情により、どうしても断念しなければならない、そんな方が、何名もいます。本人の過失でもなんでもないのに、自分がやりたいことを諦めざるを得ないことは、きっと今後も多々あると思います。
 我々、山を登る方々の金言に「山は逃げない」という言葉がありますが、そんなの、ウソです。山は逃げないかもしれないけど、山に登れるだけの自分であるかどうか、そんなのは誰にも分からない。体がそのときまで動くかどうか、自分の置かれている事情が山を登ることを許すかどうか、その時まで分からないのが正直なところです。
 だからこそ、踏み込めるときに踏み込まねば、逃げてしまう。逃げられたら、もう取り戻せない。ジャズ史上に燦然と残るエリック・ドルフィーの遺作『Last Date』にも残された遺言は、正にそれを意味しています。
  When you hear music,after it's over,
  it's gone in the air.
  You can never capture it again.

 しっかりと見てあげてください。
 自分の人生ですから、諦めることなく、投げることなく。どうか、よろしくお願いします。


 2006.10.14

革命をめぐる迷路のような冒険@その1

2008年12月15日 | 革命をめぐる迷路のような冒険
 2006年10月に書いた文章を読み返す機会があって、当時、就職機を迎えてた人たちを中心に、思いのほか反響があったものなのだけど、どうしてこの時期に、しかもペーパーで個別配布をしたんだろう・・・と、ふと考えてみたりしてました。カレンダーを追っていくと、ひとつ想像できることが見つかる。おそらくファイルが入ってた続きの文書を読んでみても、多分これがきっかけだったんだ・・と思わせるものがあり、まぁ、いい機会だから、これからやろうとしてるところに繋げて行こうかなーと思っている次第です。

 「これからやろうとしていること」・・・そんなにスゴイことじゃぁ、ない。今はボランティア活動を展開することが、一応私の主戦場なわけですが(本当にそうか・・は、分からないでしょ?)、いつボランティア活動をメインの場から離れることになるか定かじゃなくなってきたので、ちょっと伝えられるといいなーって勝手に思ってることを、これまた勝手に並べてみようと思ってるところでした。

 最近、写真に経過記録を付けて資料を作ってたのだけど、振り返ってみたら、案外すごいなーと思ったんですね。
 「極端な話、ボランティアがいなくても、
  死ぬような状況に陥る家庭は、もういないでしょう。
  サービスも揃ってるし、ボランティア養成はいろんなところでやってるし。」
 そんな言葉を受けて、直接私が返せる位置にはいないのが残念なのだけど、きっとこんなふうに返したんじゃないかな、と。
 「ボランティアがいなくても死ぬ家庭はいないかもしれない。
  でも、気が狂いそうになる家庭は、いますよ。」
 数値で表せない部分を担う「ソフト事業」(あえて、この用語を使うのですが)は、いつも評価すること、尺度を置くことが難しい。だから面白いし、だから面白くない。満足度というのも、実はかなり怪しい尺度である。言わんとしていることが伝わると嬉しいのだけど、だからこそ意味があるのだ。評価を、他者からのものだけではなく、「自分自身で付けることができる余地」があることは、一種の一発逆転である。だから面白くないし、面白いのだ。


 「ボランティアは革命である」と言い続けている。「もっと頑張れ」とも言い続けている。近い将来にある、ボランティアに関わる機会が消失する前に(笑)、その意味を、適当にでも伝えられればいいなーと思ってます。
 まぁ、適当にのんびりと。。。。。