優厳 × 赤鬼通信

社会参加活動の支援を目指す「なんちゃって社会貢献チーム」の、「優しく厳しい遊び場づくり」の迷走過程を記して行きます。

過信のループ

2006年05月30日 | Weblog
 こんばんは。私は、知ってのとおり、案外自分の力に自信を持ってます。それが、単純に自分の力だけじゃないのを分かってる上で、敢えて、そう言い続けています。何もやれないときは力を溜めろ、泣くと力が抜ける・・・私はずっと「力」を求めてます。何かを為す時、何かを始める時、必ず力は必要になる。何も無くて、何かがやれるほど、人間はすごくない。だから、それがハッタリでも過信でも、力が必要なのです。

 「自分の力を過信する」ってことにも、いろんな種類があると思います。自信がない人を、少しでも自信を付けさせるのが私の役割です。自信が付くと、今度は強くなったことが、ちょっとだけ不安になります。過信や強さがマイナスに働いてくると、どこかに躓くか、誰かが離れていきます。そして気付きます、やり直し、出直し・・・その繰り返しです。我々は、常にそんなループの中にいるんだと思います。
 もし、あなたが、「自分の力を過信してる」と思うのなら、その力を無為にせず、その力を足場にすればいい。もう1つ、誰かと相対的に比較するのは無価値なことだけど、自分が手にした棒で標したスタートラインに立てているかどうかを見るために、そこを目指すだけの自分であるかを見据えるためにラインを引いて、追い駆けてるものとの差異や距離を比較するのは、絶対に必要だと思う。公務員を辞めて、追い駆けるためのスタートラインに立てるだけの自分になるために、私だって2年掛かってます。
 私は、他の誰が何をどう思っていても、君が有してる力を知っているし、おそらくそれは、君以外の人も、みんな分かっていると思います。何をすればいいか・・・それは分からないけど、積み重ね以外では人間は前に進まないってこと、それと、やり直しを重ねるだけの根性がなければ、得られるものなど限られてるってこと、です。
 考えてください、自分がやりたいことは何なのか? そしたら何をすべきなのかが、見えると思います。私の役割は、皆さんにとっての通過点です。そして踏み台です(笑)。行き詰ったら、息を吐きに来てください。

やったことが返ってくるのが人生ならば

2006年05月25日 | Weblog
 おはようございます、いつものように無駄話を(笑) 
 昨日は「休み」でした。本当は県外に出向いて、何時間か山を走って来ようとかと思ってた水曜日でしたが、全く想定外のことが起きました。事の始まりは火曜の夜、プロレス観戦招待に遡るのですが、障害のある方を対象にした招待行事の送迎を済ませ、家に戻ってきたのは23時近く。明日はアウトドアライフを満喫して、かつ一番弟子待遇の学生が最後の実習に行くので、夜から壮行会を兼ねて飯でも食う予定でいたのですが、帰って来てところ聞こえて来たのは、50代の遠い親類が老齢が原因で車椅子を利用することになり、それを悲観して首を吊って死んでしまったという話でした。私自身には無関係な方ですが、車椅子利用時に転んで打撲があったようで、一族のところには警察が調べに来たとのことで、そんなこんなで丸1日の休みは通夜の絡みで潰れることとなったのでした。
 何に絶望するかは、人それぞれなのだろうからコメントは残せないのですが、早過ぎる選択に対して・・・しかしそれについても、実も知らないところにいる自分が、何かを言うことはできないのですが、確かに障害を負うこと、高齢になること、多くの喪失感や無力感が伴うことは、人生にとって大きな痛手かもしれません。しかし、そうしたことを除いても、多くのことを負って我々は生きています。軽く言う気はありませんが、生きてることの意味、その重さを、何かの折にでも振り返ってみたいと思った次第です。
 その上で、いつものように言えることは1つだけです、「いつ何時、何があるか分からない」。明日、健康でいられる保証は何処にもないし、寝て起きたら、世界が変わってることだって、無いとは限らない。私と昨年の秋を過ごした方なら、言わんとしていることがお分かりでしょう。何度でも言います、いつ、どうなってもいいように、できれば思い存分、生きて行くための努力をしたいものです。残された者に出来る唯一のこと、それは後悔しないように生きていくこと。後悔してからでは遅いのですから!

  ・・・というわけで、私は昨朝から岩山を2時間走った後、イビチャ・オシム、Jリーグのサッカーチームであるジェフ・ユナイテット千葉の監督の伝記を読み、改めて感銘を受けるわけです。本当にオシム監督の言葉は、全ての活動の根底を支える方々にとって、力になる言葉ばかりです。ワールドカップの近いことですし、“トータルフットボール“の次の概念として、オシムの戦略を皆さんに伝えたいと思ってますので、乞うご期待。
 で、最近言い続けていることを1つだけ。「レベルの低い人と組めば、あっという間にレベルが下がっていき、もう手の施しようが無くなる」、です。レベルの1つの基準は、「誰を見ているか?」です。対「人」に関わっている以上、痛い思いをしても、理解し合えなくても、そんなの当たり前なのです。だけど、「うまく繋がる可能性」は、ちゃんと存在している。だからこそ、痛い思いをしたところから逃げないように。挽回できるチャンスは、逃げない人にしか与えられないのだ。
 何をしたいか、何を目指したいか、何処へ向かいたいか・・・最終的には自分で決めることばかりです。アフリカで医療活動をしたいと思ってる医療系学生も、意思表示をしたからこそ、それに沿った実習先を学校側が配慮してくれてるのだと思います。来週から、実習に臨む方が大勢いると思いますが、私のカレンダーには実習に行く皆さんのスケジュールを全部書き込んでおります。だから、しっかり自分を見据えて実習に臨んでください。何処にいても、多くのものを得られます。だからこそ、しっかりと自分のことを見据えて、日々を送っていきましょう。
 
 さ、今日の教訓ですが、イビチャ・オシムが言っています、「やったことが返ってくるのが人生というもの。もっと走るべきだし、タイトにプレーすべきだ。全てが返ってくるのだからやらなくてはいけない。」、と。それに付け足す言葉は、無い。必ず、全てがいつか返ってきますから、痛い思いも糧に換えて行きましょう!

オシムの言葉

「光」と「影」が相まって

2006年05月23日 | Weblog
今日は朝から、“「光」と「影」が相まって、その人なりの「良さ」を作っている。“という話を、親しくしてる学生から教えてもらいました。
解説することもないでしょうが、本当にその通りだと思います。影は決してマイナスばかりじゃないし、光だって決してプラスにばかり作用することはない。全ては、そうしたものがゴッチャになって、その人を作り上げています。「いい人」ばかりでやってたら苦しくなるし、ダーティーに逆らってたら荒んでしまう。自分自身が折り合えるところで遣り繰りし、自分を作って行く中で「自分らしさ」が生まれ、「良さ」に繋がっていくわけですから。影の面からも「良さ」に繋がるものがたくさんあるのだから、それを繋いでいけば、「良さ」のグラデーションは、きっと随分のものがあると思います・・ゆっくりゆっくり「自己覚知」!

自己覚知

2006年05月20日 | Weblog
 「自分は何をやっているんだろう…」、いい自問自答です。常にそれを意識し、そこから逃げないこと。大事だよ。でも、誰かと比較しても得られるものは少ない。なぜなら目指すもの、向かうところが各々違うのですから。まだ就職戦線に入ってない以上、始まってる人と同じ土俵に上がるのは無理なんです。だからその分、力を溜めよう。
 私は、もう分かってる通り、あまり普通な生活をしてません。誰かと仲良くなったことも多くないし、誰かと組んだことも少ない。理解されることも少ないし、自分から理解してもらおうとも思ってない。一人でやっていける自負が強いし、ある意味、「組む」という作業を、今それを君らと実感してるところなのでしょう。問題を抱えててもさ、ピンポイントに役に立つこともある。問題を抱えてるからこそ、やれることもある。君にとって福祉は、確かに今、目指すものなのでしょうが、それ以上に、やはり学生生活という時間を使って、しっかり「自分」を見ていくことが大事なんだと思います。いいところ、悪いところ、そしてそれをどういった方向に活かしていき、修正していけるか・・・それが自己覚知です。それができる、できないこそが、専門職へ臨む最大のことだと思うのです。自己覚知さえできていれば、知識や技術を活かせる機会・場を、自分で見つけることができる。だからこそ、「”やりたいこと”は何か」を問い続けるのです。
 「もっと自分が強くならなきゃいけない」、私もそう言ってますよね。私は、そう言ってくれる人もいなかったので、自分で強くなるしかなかったのです。強くなるってことは、自分を守ることが目的だったにも限らず、知らないうちに敵を作ったり、強さが相手を追い詰めることにも繋がっていくよな、確かに。
 でね、大事なことは、「強さが恐い」ってことを、ちゃんと自覚してるってコトです。私はきっと、強いから冷たいんだと思うよ。私と一緒に組むことで、磨り減っていく人も多いと思う。でも、それを自分で分かってさえいれば、多少の修正は効く。だから私は、私と組める人を見つけて、きとんと結果を残してます。そして君らを育ててます。強い私に育てられてるんだから、君らも強くなります。だからこそ、自分で修正していく必要があるのです。
 大事なことは、自己覚知。君の言いたいことは、全部伝わってます。OK、大丈夫!

嗅覚

2006年05月20日 | Weblog
 夜分様、16時になって、急に緊急に介入が必要になったケースの訪問が入って県北に向かい、21時半に訪問を終えて、先程帰ってきたところです。トラブルに巻き込まれて怒りが収まらず、完全に身体が緊張しきって、部屋から廊下までの距離も歩けないようになってしまった状態の中、2時間半かけて、怒りと緊張を緩めるのに費やす。その人とはコンタクトは取ってるものの・・・というか、気が付いたら、本当はずっと関わっていた人たちがいるにも関わらず、今では私しかコンタクトを取らないような現状に陥ってるのだが・・・とりあえず「そのうち伺うから」という予定を、急遽「今から行くので」に訂正して、夜半まで掛かるであろう訪問に行ってくる。

 怒りに付き合うこと、納得はしないけど思いを吐き出させること・・・本当はもっと親しくて、もっと話が分かって、次に繋がる見通しが持てる人がそこに居てやれば、きっとずっと本人にとってはプラスなんだろう、そう思う。でも、そこにいるのは、「もっと・・」を望める誰かではなく、自分なのである。
 半年ほど前にも同じような風景を見たことがあった。動けなくなってる人を前にして、「自分じゃない誰かがここに居てやった方が、もっと分かってあげられるんじゃないか・・」って言ってたヤツがいた。「でも、そこにいるのはお前だけだし、お前がそこにいたからこそ、あいつもそこに居ることができるんだから。」・・そう伝えた言葉を、今度はそっくり自分に投げつけてみる。あいつに向かって、そう言ったんだから、自分もしっかり見ていなければ、あいつと一緒に組めるだけの自分じゃない。
 2時間半・・誰かの怒りが一時的にでも収まるまでに掛かる時間。緊張で捻じ曲がった体が緩んで歩けるようになるまでに必要な時間。次、またガス抜きをしに来るからと約束できるようになるまでの余裕が生まれる時間。往復の移動時間を含めて6時間、でも、「そこに居た自分にしか為し得ない」時間、である。怒りは一時的に収まっても、トラブルの根源までは対応していないし、そこまでは手を出せない。でも、「そのとき、そこに居てやる必要がある場面」ならば、逃げずに、しっかり向き合わなくっちゃならない。それが嗅覚で感じられるからこそ、偶然でも予定外でも「そこにいる」のだろうから。

 ここ数日、何人かからゼミや教官の指導によって、不本意な意見や指摘を受けたりしてるような話を聞くことが多いのだけど、そうですね、ボランティア活動と、プロ・福祉専門職は全く違う。その差は大きいと思う。でも、「学習によって補えるもの」と、「学習では補えないもの」があるとしたら、少なくとも私のとこでやってることは、「補えないもの」を相手にしており、それを体感することで、自らで学ぶべきだと自覚できる範疇が拡大するものだと思ってます(笑) 少なくとも、私の嗅覚は福祉専門職の勉強で身に付いたものじゃぁ、ない。福祉専門職としての教養を身に付けるのは学校で学べばいい。代わりに、危機介入等の「そこにいる自分にしか為し得ないこと」をやるための嗅覚を鍛えることを一緒にやれるといいなー、そんなことを思った夜半でした。
 さ、どっちが良いのかなー?

「”火を点けられなかった自分”と”火を点けた後の自分”は、全然別人でしょう!」

2006年05月15日 | Weblog
ボランティア養成トレーニングに出向き、雨の中、野外活動をしてきたのだけど、野外炊飯で火を点けられない若者に、どうにか火を起こさせることができたら、彼らの顔が全然別なものになった。「”火を点けられなかった自分”と”火を点けた後の自分”が、全然別人でしょう!」と伝えると、本当に嬉しそうな顔をして何度も頷いた。単純な話だけど、「できなかったことが1つ、できるようになることの大きさ」を痛感する。

「”火を点けられなかった自分”と”火を点けた後の自分”は、全然別人でしょう!」って、きっと全てに当てはまるわけで、その場、その機会を、少しでも作ってやれるといいなーって思う。何でもいいのだけど、何かができれば、それが自信になっていけばいい。毎日がそんな繰り返しで進んで行けば、いつかは随分違った自分になれるんじゃないかなと思う。
この話は、別なところでは登山の話に流れて、>> 山に登ってみると、何も無かったときの自分を思い出す。社会的身分も収入も要らないと言って、ただ単に、何も考えずに山を歩いて、アルプスを目指してた自分。山に登りたいと思ってるうちは、まだ力が搾り出せるような気がする。「”山に登らなかった自分”と”山に登れた自分”は、全然別人でしょう!」と言えるくらい根底から引っ繰り返された自分がいる。>>

うまく言えないけど、あと少しだけ後押しができれば、つまり体験する機会を用意しておいて、何回かでも経験が積めれば、もう一人でしっかり進んでいける人たちがいっぱいいる。まだ自信がないだけだったり、自分の力に確信が持てなかったりするだけで、十分力を持ってる。
何処よりも厳しい「振り返り」をするけど、誰よりも「甘い」のは自分だろうと自負するところである。誰かが手を出してくれるのは、「今だけ」である。でも、しっかり自分で立ってれば、必ず誰かが力を添えてくれるはずであろう。

さぁ、何を仕掛けていこうか、次は? 素材を探すのが、何よりも至難な課題ではあるのだが、これが無かったら、自分だって何をしてるのか分からないのだからね。

振り返ってみれば

2006年05月12日 | Weblog
 おはようさまです。「振り返り」について、返事をくれた方、ありがとうございます。いろんな意味で中々興味深かったです。まぁ、3日もあれば概ね意見が集約できるし、言わなくとも分かってる部分も多いし、何より「仮説を立てて、検証する」ことが前提なので(笑)、それでもとっても考えるに値するものでした。いつでも何でもいいので、気が向いたらお伝えいただければ幸いです、まずは御礼まで。
 5月も半ばに入ってもバタバタしてますが、相変わらず策を練っていきます。禁じ手の「拠点づくり」も含め、平日午後行事をそろそろ打診していこうかなと思ってます。ちなみに平日の午後、夕方以降でも構わないのですが、空きそうな曜日が分かってれば伝えてくれると助かります → 今、狙ってるのは水曜日の夕方です・・社会的には「水曜はノー残業デー」が率先されてますし。野球観戦もボウリング大会も待ってますからねー(久し振りに140を出したし)。
 というわけで、またいつものようにお付き合いください。余裕があれば、5月末から続々スタートする実習に向けての壮行会とか、スタッフジャンパー(Tシャツになるかなー)のデザインを地道に制作中ですので、そのうちいろいろ打診しますねー。

問いかけ

2006年05月12日 | Weblog
 こんにちは、日々のお仕事、勉強、活動、ご苦労様です。ここのところ、新社会人の方が仕事で忙しいのに、さらに混乱するような連絡は控え始めた5月の矢先でしたが、1つお伺いです。
 お伺いについてですが、方法を変える気は全然無いのだけど、うちの行事でやってる活動の「振り返り」って、そんなに厳しいでしょうか? 確かにYも「ここが一番厳しい」と言ってましたし、様々な事後連絡の中で相当きつい思いをしてた方も多いのは、私も重々分かっています。で、敢えて聞きますが、うちの「振り返り」は厳しいのでしょうか?
 もし、気が向いた方、どんなものなのか、思ってることを教えていただければ幸いです。言わなくても分かってると思いますが、この方法を変える気は、きっと無いと思います。でも、試行錯誤する義務が、私にはあると思うので・・・

落ち込みながらも

2006年05月12日 | Weblog
 こんばんは、早めに見つけたので返しておきますね。 
 記録をしっかり読むと皆が相当落ち込みます。落ち込んで立ち直れない人がいるので、あまりオープンにしてません。なので私が記録をあなたに渡したのは、あなたなら渡しても大丈夫だと思ってのことです。あれを読んで辞めちゃうと、私がどうにもならなくなるので、もう少し付き合ってください。
 ・・・あのね、私は「結果」が欲しいんですよ、冗談じゃなく。「私の掛け声でボラが動いて、家庭が満足して、それが実績となれば、職場で権力を握ることができ、少しでも自分の目指すものへ近づけるような事業を実施することができる」、そんな意図を丸出しでやってます(笑)。人を思いやる気持ちなんかではありません。力が無ければ、何もできない。だから登録してる100名のボランティアのうち、一緒にやれる15名を絞り込んでチームを組んでいます。人間的にレベルが低いことですよねー、それって。参加してるボラは善意でも、私は給料を貰って活動してます。だから手段のために目的は選ばないし、目的のために手段も選びません。偽善も世辞もあれば、きっちり打算して自腹を切るし、意図的な演技もすれば、うまい演出もします。
 私は「一人でやれる」って、どこかで信じてるんですよ。だから誰かと組むのって、できればしたくない。今でも大勢を集めて行事を組むのはしんどいんです。だいぶ慣れてきてるけど、新しい人と組むのは面倒だし、困難ケースも関わりたくない。でも、呼ぶのが難しいだろう児童や参加者を呼んで、少しでも楽しそうだったり、憂さが晴れたりすると、すっごく嬉しい。新しいボラが来て馴染んでくれて、また来てくれると、すごく嬉しい。一人でやれる自負が強い分、誰かと組んでうまくやれたことって、自分の中で新鮮な驚きだったり、そう、「壁を越えたー」って達成感がある。誰のためでもない、自分のために嬉しがったりする。うん、でも当然ですよ、その「達成感」は、誰かが味わうものではなく、自分が身を刻んで手に入れたものです。どんな大きさであれ、それを手に入れた自分に対して、苦しみながら活動を続けている自分に対して、ほんの少しだけ敬意を払ってあげてください。私は、来てくれるあなたに敬意を払ってます。私の態度からは伝わらないかもしれませんが、「声を掛ける=敬意を表してる」ってことです。
 本当は、私がもっとしっかりした支援者であれば、あなたを痛めつけずに、いろんなことを気付かせてやれるのかもしれません。でも、私は「弱さ」を内包しない人を信じないし、それはきっといつか自分を強くします。「適当にやってる」と口にすれば、それはいつか適当な結果に成り下がってしまいます。私はあなたと出会った日から、しっかりあなたを見てます。あなたを呼びたいから、呼んでいます。あなたの良いところも、いっぱい知ってます。疲れたら、息を抜きながらでもいいので、ゆっくりゆっくり、やってきましょう。そして、いつかあなたが「もっとやりたい」と思えるところが見つかったならば、いつでも喜んで見送りますので(笑)。
 学生とか社会人とか、経験があるとか無いとか、そんなのどうでもいいんですよ。ほんの一瞬だけでも一緒にやれて、何かが引っ掛かれば、もう十分なんです。なので、自分が痛まない程度に付き合ってくれれば幸いです。

 それと余談ですが、私のところに居る方々は、世間一般のボランティア像より少しだけ自虐的なところがあるので、いつも自分のやってることはマイナスだと思ってたり、自分はダメなんだと思い込んでいます。その上の、私のように血も涙も無く、ボラを駒のようにしか扱わない者が束ねてるから、更に挫折するわけです。でもみんな、私に騙されてるって分かってて、それでも付き合ってくれてる人が多いので、中々止まらないんですよ。にも関わらず、海千山千を越えてきた35の(口だけの)私と、19、20、21、22で渡り合おうと思ってるので、様々なところで活動をしてる人たちでも、私のところの活動が「一番きつい」って言います。どうせ私など「口だけ指導者」なのですが、でも私は、大人は若者の壁になるべきだと思うので、口だけであっても止めません。私は自分が偏った人間で、かつ迷ってること、困ってることをできるだけ全部伝えるようにしてますが、それはいつか皆がぶつかる、「試行錯誤することは恥ずかしいことじゃない」ってことを、自分の無能さを晒してでも伝えたいからです。でも、多分私の方法論が追い詰めるんだろうなー、少し反省もしておきます。

GWの最終日、Check It Out!

2006年05月07日 | Weblog
こんばんは。GW最後の日に行事を組みますが、どうぞよろしくお願いします。今、網の目のように家庭の都合を聞きながら参加者の組み合わせをしてます。明日にならないと、誰が来るか分からないので(笑)、来なかった場合は、みんなで美味しいカレーを作りましょう。それと新しく発見した「すっごく簡単なゲーム」をしてみようと思ってます。プログラムは、暫定コック長◇◇の指揮下でうどん作り×カレー作り、▽▽は児童と一緒にスイミングでシンクロの練習、あとは皆で児童と走ってもらう予定です。いっぱい走れる子が来る予定ですので。
それと、今日の午後からうちの行事に来る予定だった△△が、午前中に参加した別団体の行事で物凄いパニックを起こして今日来れなかったので、気持ちが回復しなかったらリハビリに連れて来ていいからね・・と伝えています。午後には□□姉弟が来ます。確定参加者は9名(2名はPMから)、ボラは7名+αです。まぁ、GWのレスパイトなので、ゆっくりゆっくりやりましょう。集合は10時に来れるんなら、10時がベストです。介護訓練室の絨毯で少し寝転がったりします(楽しいゲームのためです!)ので、決してジャラジャラしてきたり、尖った靴を履いてきたり、調理に支障のあるくらいに爪に色を塗って来たりしないように!

なお、最近自画自賛してると筆頭番頭のお目付け役にも厳しく叱咤されているのですが、△△も他のところでケンカしてパニックを起こすくらいなら、ゆっくりうちで思う存分遊んでけばいいのになー・・と思うのでした。うちは、確かに時間に締まりがないし、勝手気ままにやってるけど、それでも全然ルールがないわけじゃないし、家族も余裕が持てるし、何よりも「参加児童が元気になって帰って行ける場」になってると思う。やりっ放しのボランティア活動が多い中で、「活動の振り返り」をあれだけ徹底してやれてるところは中々ないと思うし、何よりも自慢できるサポートメンバーが揃ってる。▽▽君のセリフじゃないけど、「ここの活動は中々素晴らしいと自慢できるものである」と自負してます。
やりっ放しじゃなく、きっちり前に進むためのステップを踏める場になっていることが、必ず参加児童の気持ちに反映し、うちに来てくれる子どもたちや家族の気持ちを動かし、引いては皆さんの気持ちを動かしています。当日の明日にならないと、ボラが余るか足りないか分からないけど、分からないからこそ行事は生き物で、生きているからこそ我々も突き動かされるのだ・・・と思うのであります。
最後に、GWの最終日にデートもせずに、うちでボランティアしながらカレーを作ってる皆さんのことを思うと、本当に私は複雑な気持ちになります。喜んでいいものか、慰めていいものか・・ ぜひ、明日は「余計なお世話ですよ」と言いに来てください。ちなみに明日のスピーチのテーマ、「なんでボランティア活動なんてやってるのでしょう??」で各自がCheck it out!

なお、相変わらず「某ボランティア有志サークル」を軽く扱って線引きすることへの非難を受けてますが、しかしだ、「問題意識を持つこと」、「『課題は何か』を自分で問い続けること」、この2点は、誰かと共に為すことではなく、あくまで自分自身と向き合って為すものです。群れることを無碍に否定したりはしませんが、レベルの低いところで集まって良いことなど、何も無い。空気を入れ替え、メンバーを入れ替え、少しでも自分がステップを踏んで踊り続けられるよう、そのステップが違う次元の自分自身を展開できるよう、ぜひとも明日の機会を活かしてください。「次」は、いつやれるか分からないので・・・
さぁ、明日は待ってるからねー!

GW、本格突入

2006年05月03日 | Weblog
  GWであります。気が付けば、4月29日から5月7日までの9日間、正規の勤務日は2日なのに、実質は休みと勤務日が逆転してるのだけど、まぁ、世間一般も、きっと似たようなものでしょう。GWに勤務するのだからと、連休中もボランティア活動をしてくれる何人かの方々と一緒に、少しだけ遊び行事を組んでいます。
 本当は、9日間も続くゴールデン・ウィークなのだから、少しでも「遊び場」を確保できればいいんだけどと思いつつ、その反対側では、このような連休にこそ、普段出来ないような体験ができる機会としてほしいとの思いが強くあります。だから元々は、大きな行事を組んでいなかったのだけど、中には連休を空けてるというヤングな方々の声を聞き、少人数だけど遊び場を作ることにしました。まぁ、家族でどこかに行ったりできればいいのだけど、環境的に難しかったり、あるいは家族の方がバテてたりするので、機会だけは作っておきます。
 でも、これだけ長い休みだと、家族の方も都合も何処で付けていいのか分からなくなるだろうし、天気とかも絡むし、何より、どこで子どものストレスがピークになるか分からないというので、日程は中々組めないのだけど、そうしたスペースがあるだけでも、何かの足しになるんじゃないかなーって思うわけです。

  来る、来ないを拘束しない形で行事をやり続けるリスクはいるもあるけど、参加者が少なく、ボラがいっぱい余ってる状況になったら、その状況を逆手に取って、「“遊び”を自分のものにする」機会に昇華すればいい。調理も同じで、本当に驚くくらい、何もやったことがないヤングが多いのだから、いろんなことをやる機会になればいい。野球だって、サッカーだって同じで、外で遊んだことのない子どもたちだけが、上手くボールを投げられないのではなく、我々だって必ずしも上手くボールを投げられなかったりするわけで、

 GWの休暇などお構いなしに、職場にいれば夏休みの余暇活動の相談電話が延々と鳴り続ける。夏休みに抱えてる大きな事業から離れれば、もっと小回りの効く行事を、多くの場所で、より多くの人を対象にやれるんじゃないか・・・と思わないこともないのだが、でも、まぁ、「やれることを、やれるだけ、やっていきたい」と思うのだ。あとは、どれだけ人を繋いでいけるかが問われてくる。そしてこっちも問い掛ける、「ここで何をやりたいのか?」

「『分からない』程度の自分」でいるわけにはいかない

2006年05月01日 | Weblog
 さて、地上戦の話をしたついでに、もう少し。
 私の主義は元々、仕事は金を稼ぐための手段であって、それ以上の意味は無いと思っています。でも最近、「それ以上の意味は無い」の後に、「が、私が送り出す学生たちは、絶対に社会を良いものに動かしていくと信じている」と付け加えるようになっています。
 全ての人が「そうだ」とは言わないでしょうが、私などは「1円でも高く自分を買ってくれる人が神様だ」と思っていますので、できるだけ価値を高めるために、「ここ」でやれる最大限のパフォーマンスを、できるだけの低コスト×高品質で展開できることが最大使命だと踏まえてます。いつも役所で仕事をしてるときは、それが故か、あるいは左遷された宿命なのか(笑)、いつも行き先が「1名減」になってたものです。故に、人がいなくとも、金が無くても出来る仕事は何か・・・を、うまく遣り繰りして進める場に置かれていたものです。そのため、今でも安い資金を組み合わせて、実の多い行事を繰り広げることになる。1万円の元手があれば、案外楽しい行事がやれる。金で時間を買わずとも、いろんなことがやれるはず。

 「1円でも高く自分を買ってくれる人が神様だ」と思ってるだけに、オールマイティーに評価はされてもされなくともいいのだけど、評価というか、相手が「分からない」ところに立たれるのが、実は相当きつい。というか、まぁ・・勘弁してくれよ、と思ってしまう。悪気は無いのだろうし、実際決断することに慣れてなかったりするのだろうが、「分からない」という言葉は、いつか決定的な意味を持つことがある。
 「分からない」・・便利な言葉だ、確かに。でも、「分からない」だけでは何も進まなくなる。「分からない」で済んでしまうのなら、初めから何処へも進まないでも済んでしまう。世界が二分割されるような単純なものじゃない時代なだけに、なるほど分からないことは多いのかもしれないけど、「分からない」という判断を下されると動きが止まってしまうことになるので、止まってられない人は、どちらかの判断を下すこととなる。そして「動き始める」のだろう。往々にして、何も変わらずに動き始める・・・得たか、あるいは失ったかのどちらかであっても気付かないまま。

 欲しいものが分からないままでいると、みすみすその手から擦り抜けてしまったりすることがある。で、何らかの場面で「そのことの大きさ」に気付けば、授業料としては元を取れることもあるのだが、もっと早く明確になってれば、大きな魚を取り逃がすこともなかったのになー・・と思わないこともない、自分も含めて。つい先日、そんな話をしたものだった。
 ふと、思ったのこと・・・「分からない」は、実は「評価されていない」ことを意味するのではないのだろうか? 自分を売り込みに行くとき、「分からない」と称された場合は、きっと商品としての魅力が足りないことを如実に意味してるはずだ。もっと魅力とか効果が明らかならば、「分からない」という回答は無いはずだ。ここで、さらに相手に売り込むか、それとも別の市場へ売り込みに行くか、止まってるわけにはいかないのであれば、どちらかの判断を自らに強いることになる。
 「『分からない』程度の自分」でいるわけにはいかないのだ。だって、1円だって高く値を付けてくれる人がいるのであれば、そこに応えなければならない。打つ手がいっぱいあるのに、手を打たずに、弾を撃たずにいるのは、まるで無価値で無意味なのだ。
 欲しいものがあったら、どんなことをしてでも手に入れる。望んだものが全て手に入るわけではないだろうけど、望むことができて、手を伸ばすことができるのならば、痛い思いをしてでも、手を伸ばして明確な意思で以って「求める」べきなのだ。「求めよ、されば与えられん」、本当にその通りである。「分からない」とか言ってると、全てを見逃してしまうことになりかねない。 
 ・・・そんなことを考えるGW(ゴールデン・ウィークポイント)であった、もちろん仕事がわんさかである。