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「サルデーニヤ島への旅」(6) 「戦争が終わったらフーケでまた会おう」

2020-03-04 14:26:00 | 旅行記
第二次世界大戦・開戦直後のパリ。 不法滞在で国外退去される外科医のラヴィックが、親友でナイトクラブのドアマン・ボリス・モロソフに最後の別れを告げる場面。 「ジョアンが死んだよ、男に撃たれたんだ。 病院に寝かせてあるが弔ってやらなくちゃならんのだ。一つ世話してくれないか? 何にも聞かずにうんとだけ言ってくれ」。「よしきた」。「ありがとう、僕の持ち物は何でも使ってくれ、それから僕の部屋へ移れよ、いつも浴室を欲しがってたじゃないか。戦争が終わったらフーケでまた会おう」。「どっち側だ? シャンゼリゼの方か、それともジョルジュ五世通りの方か?」「ジョルジュ五世通りの方だ」。 

1946年に出版され、世界的ベストセラーとなったレマルクの「凱旋門」、この本によって有名になったものが二つある。 林檎酒の「カルヴァドス」と、冒頭に紹介したパリのカフェ「フーケ」だ。 ラヴィックを男の理想像として崇拝する僕と、同じく彼の熱烈なフアンであるドクターS氏の二人が、パリに来てフーケに行かない筈がない。 昨夜は友人の死で落ち込み、今日はルーブル博物館で体調が悪く先にホテルへ帰ってた僕だが、ドクターが戻ると二人で早々とフーケへ向かった。 この老舗カフェはレマルクが生まれて一年後の1899年に、ルイ・フーケが御者たちのたまり場だった酒場を買い取って開いたカフェ兼レストラン。

フーケは自分の名前にSをつけ「フーケッツ」と英語風の店名にしたが、当時の流行に乗ったもの。 第一次大戦中はフランス空軍のパイロットたちがバーで最後の一杯をひっかけて戦場に飛び立ったという。 レマルクはここがホテルから近いこともあって頻繁に通い、多くの知人達と酒を飲み、時を過ごした。 「凱旋門」では妻を拷問して殺害したゲシュタポ幹部と遭遇する場に、フーケを設定している。 通りにテーブルを張り出したオープン・カフェの元祖で、赤いシェードが特徴的。 120余年を経て今も昔の姿を留めているのは、「パリのすべてを焼き払え!」と言うヒトラーの命令に部下が従わなかったから。

ジョルジュ五世通りの席に空きがなく、シャンゼリゼ側に座り、シングル45ユーロのカルヴァドスをオーダーする。 このクラスのヴィンテージになるとウエイターがグラスを置いた瞬間にブーケが漂う。 まずグラスを傾け、鼻から強い香りを吸い込んで脳で味わい、チェイサーで口を洗ってから少量を口に含み、舌の上で転がしながら喉の奥へ流し込む。 カルヴァドスのおつまみには漬け込んだオリーブがよく合う、とくにここのは別格で、オリーブがこんなに美味しいものかと感動しながら味わう。 奥のカウンターの壁に著名な来店者の写真がずらりと飾ってあるのだが、レマルクの写真を見つけることはできなかった。

戦争が終わった1945年、フーケは営業を継続していたが、ボリスとラヴィックは再びここで落ち合うことができたのだろうか・・・。 ラヴィックの生みの親であり、その命運を握る著者のレマルクに確かめるしかないのだが、1970年9月25日妻のポーレットに看取られながら79歳の生涯を終えた。 「凱旋門」の訳者・山西栄一氏が解説にこう記す。「彼の作品のうちでも彼の思想を、女の官能の彷徨を、そしてまた男と女の妖しくも微妙な心理の葛藤を、こんなにも巧みな芸術的構想でもって描き出し、作者の滾々として尽きることない豊かな詩情と哀切な抒情的感傷を、こんなにも心ゆくまで悲しく歌いあげた作品は、ほかにないだろう」。