COCKPIT-19

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癌の定説は覆る?

2010-07-31 03:27:05 | 健康・病気

僕は親友の一人を失わずにすんだ。 これまでも病名は隠して、ブログでも紹介してきた東京の友人だが、実は脳腫瘍だった。 それも悪性で生存率はほとんどゼロに近い、そんな中にあっても彼は諦めなかった。 前にも癌を患い、何度もの手術に絶えながら根治させた経験が、彼を奮いたたせたのだ。 

忘れもしない昨年の11月初頭、僕の出版記念に出席するため来てくれるはずの彼が、当日の午後猛烈な頭痛に見舞われ、大学病院の脳神経外科に緊急入院した。 会場に電話が入り、気が動転した僕は、満足な挨拶ができなかった。 病名は「脳原発性リンパ腫」、すぐに手術を施し、できる限り腫瘍は摘出したが、場所的に難しい部分は抗がん剤治療を続けてきた。

僕は家族の一員として、科学医療チームからの説明に立ち会った。 脳の癌は増殖の勢いが激しい、それでも子供や若い人の治癒率が高いのは、強い抗がん剤の副作用に耐えられる体力があるからで、その限界は65歳。  しかし自分の体力は本人が一番よくわかっている。 彼はもっと強い薬の使用を希望し、腫瘍が小さくなったところで、放射線をかける「複合治療」の方針が決まった。

彼は厳しい治療によく耐えた。 そして奇跡は二度起きた。 一度は20年前の舌癌からの生還、さらに今回は病院側も驚くほどの治療効果で、先週ついに退院までこぎつけた。 もはや腫瘍の痕跡すら見当たらない。 主治医はその要因として二つを挙げる、「抗がん剤の進歩」と「本人の強い意志・体力」、僕はそれに奥さんと身内の支援を加えたい。 それにしても彼の経験が、これからの治療に一石を投じたことは確か。

彼は退院後ひんぱんに電話をくれるが、合併症として予想されてた「放射線治療による認知障害」は、まったく感じられない。 いま癌の情報は巷に溢れているから、病人も家族も容易に判断がついてしまう。 しかしそれは過去のもので、今回のように癌治療のページは刻々塗り替えらている。 難しい癌でも、諦めずに「正面から挑戦してみる」時代に入ったのかもしれない。

  

 


警察署長 ジェッシイ・ストーン

2010-07-26 11:06:43 | インポート

僕のような癌経験者が、再発と次の癌を予防するため、とくに心がけているのは、食事と睡眠と運動。 これから先、仮に何か仕事をするにしても、この3大要素に支障をきたすことは、絶対にやるまいと決めている。 具体的には、3食とも我が家のものを食べる(昼の弁当は可)、9時に寝て4時に起きる(季節変動あり)、朝晩欠かさない犬とのウオーキング+ストレッチ。 勿論こんな条件を満たす仕事などあるわけがない、もしあったらご紹介願いたいもの。

毎日約1時間を要するストレッチの楽しみは、同時並行で観る映画。 最近スターチャンネルで、偶然に何回か観たシリーズ物が 「警察署長 ジエッシイ・ストーン」。 最初2流のTVドラマだろうと馬鹿にしてたが、シナリオがしっかりしてて、ショーン・コネリーとバート・レイノルズを一緒にしたような署長が、いつも机の引き出しに置くアイリッシュ・ウイスキィを口にしながら、メモしたくなるような台詞を吐く。

仕事ぶりを見てても、署員が3名しかいないマサチューセッツ州の田舎町に置いておくような人物ではなく、なにかイワクありげな感じ。 ゴールデン・レトリバーと暮らし、彼を監督する立場にある美人の地方検事と、たまにベットを共にしたりもする。 よく鍛えているのだろう、酒を飲むのに贅肉は皆無、勤務中でもGパンとロゴ入りのブルゾン姿で、ひげがよく似合う。

昨日の午前、署長の身元が割れた。 生みの親はアメリカの作家で、今年の1月、77才で亡くなった 「ロバート・B・パーカー」。 不勉強だったが、彼はスペンサーシリーズのほか、警察署長ジエッシイ・ストーン を含めて、3つのシリーズ物を書いている。 署長役は今年65歳になるアメリカの俳優「トム・セレック」で、体型風貌とも私立探偵スペンサーのイメージにもピッタシ。

いつもチャンドラーを意識していた B・パーカーが好んで描くスペンサーのライフスタイルは、1970~90年代にかけて多くの読者を魅了し、少なからず影響を与えた。  スタイルだけではない、「男はこうして生きていくんだ」 というスペンサーの後姿にのめり込んだ。 最後まで結婚することなく、一緒に多くの時間を過ごした恋人の精神科医、スーザン・シルヴァマンとスペンサーは、いま頃ボストンの街でどうしているだろうか? 

 

 


親父と息子

2010-07-23 04:03:10 | 日記・エッセイ・コラム

僕が今お付き合いしてる人は、6年前の倒産を境にして、その前後二つに分類される。 後者で知り合った中の一人に「W」さんがいて、先週末、彼の長男が会津若松市に開店したフレンチレストランに招かれ、試食してきた。 オーナーシェフとなったT君は、フランス各地のレストランで修行の後、磐梯山麓のリゾートホテルで何年か働き、昨年嫁さんをもらい、2人で協力しながら、1ヶ月前開業にこぎつけた。

準備期間中に一度夫婦で我が家に見えた。 何かアドヴァイスが欲しいと言われ、僕の考える成功パターンを話した。 まず価格設定はランチを1200円、ディナーはその倍ぐらいとし、この予算で客の期待を裏切らない料理を出す。 ワインは他店で数千円程度のモノを、2500~3000円ぐらいで提供し、持ち込み歓迎。 その場合持ち込み料は一本1000円。

最初から予約制とする。 理由は食材のロスをなくすことと、客待ちの時間をゼロにして、予約のないときは休養と勉強に当てる。 手持ち資金は300万と聞いたので、内外装と家具はこの範囲で収め、厨房機器はリースを充当。 家賃は売り上げの2~3日分を想定し、最低7~8台が駐車できる立地を選ぶ。 さらに地元と東京で幾つか参考になる店を挙げて、行ってみるよう薦めた。

当日は十数年かぶりに磐越西線の鈍行を利用してみた。 単線で停車駅は12、そのうち10は無人駅、そのひとつひとつが懐かしい、所要時間75分。 途中 猪苗代湖や磐梯山を望みながら標高600mまで登り、その後会津盆地まで一気に下る。 駅から歩いて数分の、メインストリートに面した店に着いたのは夕方6時過ぎ。 白を基調としたシンプルなオープンカウンターで、テーブルは16席。 

僕の進言を8割方採用し、連日予約の客で1・5回転する好調ぶりとのこと、 ところがコース料理を食べ終えて感動が沸かない、「旨かった」の一言が出てこない。 食べ物商売で、作り手の思いや心が伝わってこないのは、深刻な問題。 帰り際外まで送ってきたWさんに、どうだった? と聞かれ、嘘は言えなかった。 今回 カネもクチも出さず、建築のプロを送り込んだだけの親父だったが、僕の直言をどう受け止めたか 気になる帰途だった。 

   

 

  


米は余らない?

2010-07-19 04:55:36 | 食・レシピ

先週末、農作業の中で最も過酷だと言われる 「田の草取り」を手伝ってきた。 説明するまでもなく、今の米作で草取りの作業は必要なくなっている。 種籾の段階から除草剤を使用することで、雑草との戦いに人類は勝利したと言っていい。 さらに田植え機やコンバインの導入で、米作りは飛躍的に省力化が進み、皮肉にも米余りに拍車をかける結果となった。

除草剤や化学肥料を一切使わずに、米作りをしているのは、僕の住む郡山から南西に車で40分ほどの集落で農業を営む「K」さん。 夫を亡くした後もその意思を継ぎ、1人で自然米を作ってきた。 収穫した米はすべて直売、顧客はがん患者やアレルギー体質の人達で、僕も癌を患って以来の付き合い。

Kさんが弱音を吐いたのは3年前、60歳半ばになり体力的にも辛くなってきたので、少しだけ除草剤を使いたいと言い出したのだ。 たった1回の使用でも劇的な効果があり、草取りの苦労は半減する、 しかし元の田圃に戻すには数年を要する。 僕は断固反対し、1枚の田圃(3反歩・900坪)だけは毎年草取りを手伝う約束で、いままで通り続けてもらうことにした。

草取りの当日、田圃を見るまで不安だった。 昨年は6月半ばに終わってた作業が今年は遅れていて、連絡してもなかなか日程が決まらなかったからだ。 「もしかしたら除草剤を使ったのではないか?」、いやな予感がしたのだ。 だが草ぼうぼうで、稲が見えないほどの田圃を見てホッとした。 ご子息の結婚式や、母親の介護などで作業が遅れていたのだった。

午前3時間、午後4時間、Kさんと2台の「エンジン付き田車」を押して、汗と泥まみれになっての作業は終わった。 2リッターのスポーツ飲料が空になり、細身の長靴が脱げなくて手こずった。 これで秋には8俵ぐらいの収穫ができるだろうし、息子の家族にも安全な米が食べさせられる。 

やっと稲が顔を出した田圃を見てKさんがつぶやいた。 「こうして作れば、米は余らないんだよね。」 

  

   

 


「占守(シュムシュ)島」 の終戦

2010-07-14 09:15:05 | 本と雑誌

モノを書いて生計を立てている人なら、7月5日発売の浅田次郎著 「終わらざる夏」 の出版を知ったとき、「してやられた」 と悔しがったにちがいない。 なぜなら僕でさえ 「こんな凄い題材を、世の作家達は何故これまで誰も書かなかったんだろう?」 と不思議に思ったからだ。  

「戦争の体験者が、いなくなってしまう前に、この小説を書いて世に出したかった。 ギリギリのタイミングだった。」 と著者は語っているが、「誰も書かない前に、世に出したかった。 ギリギリのタイミングで間に合った」 これが本音ではないか、と思わせるぐらい「占守島」に着眼した浅田氏の構想は素晴しい。

占守島(しゅむしゅとう)は、千島列島最北端に位置し、北海道根室の東北約1200kmにある東西20km、南北30kmの小島。 海抜200m未満の丘陵と沢沼地・草原が入り混じり、樹高1mぐらいの這松や榛の木が群生している。 周囲を太平洋とオホーツク海に囲まれ、夏季は15℃、冬季はマイナス15℃ぐらいの気候。 しかし夏には濃霧の発生、冬には猛吹雪に悩まされる日が多い。

幌莚(ぱらむしる)海峡周辺、および占守島の守備を命じられていた第5方面軍・91師団は、数倍の米軍を想定し、陸海軍あわせて25000名の配備をしていた。 そして迎えた昭和20年8月15日の終戦で、日本軍は武装解除の準備に取り掛かっていた。 ところが、ソ連軍が突然上陸攻撃をかけてきたのだ。 これは北海道北部まで奪おうとする、火事場泥棒的国際犯罪。

急遽武装を整え迎え撃った日本軍は、奮戦の末ソ連側を完全に足止めし、甚大な損害を与える。 一方、島の缶詰工場で働いていた約400名の若い女子工員を独航船に分乗させ、北海道に無事逃がしている。 8月23日守備隊は上層部から再び武装解除の命を受け、泣く泣く降伏し、兵士はシベリアに送られ多くが命を落とす。 戦闘における日本軍の死者800、ソ連側3000。