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世界初の[核ミサイル原潜沈没事故]と、セスナ機「赤の広場着陸事件」

2012-10-01 13:12:32 | 戦争
1986年10月3日、観光客で賑わうバミューダ島からわずか800km沖合で起きた 「Kー219」(ソ連海軍弾道ミサイル原子力潜水艦)の惨事は、レイキャヴィックで行われた核兵器削減が主題の米ソ首脳会談の8日前で、まさに冷戦の頂点にあった時期。 さらに当時、核戦略の要ともいうべき潜水艦作戦の真相は秘中の秘、ゆえに米ソいずれの側からも公表されることなく闇に葬られた。 そして冷戦終結からおよそ10年が経過したころ一冊のノンフィクションが出版されると、長く閉ざされていたドラマの全貌が明らかになり、大きな反響を呼ぶ。 著書は「hostile waters」(邦題「敵対水域」三宅真理・訳)で、著者は三人。

ピーター・ハクソーゼンは元アメリカ海軍大佐、イーゴリ・クルジンはロシア海軍大佐、R・アラン・ホワイトはミステリー分野で活躍する作家。 米露両海軍大佐の豊富な経験と知識・人脈・情報に加えて、プロの作家が構成するストリー展開の巧さが緊迫感が盛り上げる。 さらにアメリカの最先端技術に捕捉されてるのも知らず、老朽化した潜水艦で敵の海に向かうブリタノフ艦長と乗組員たちの深い諦念と強烈なプライドが哀切を誘う。 1984年にアメリカで出版されると大ベストセラーとなり、レーガンを始め国防関係者がこぞって読んだ。 「レッド・オクトーバーを追え」の著者トム・クライシーも、寄せ書きの中で絶賛している。

Kー219の第6サイロ内に漏れ出した海水がミサイル燃料と反応して爆発を起こした事故は、3名の水兵が死亡し、原子炉を停止させる作業は、19歳の徴兵水兵が自らの命を犠牲にして成し遂げられた。 ソ連の貨物船の曳航によって帰港する試みは失敗し、有毒ガスが艦の最後尾まで漏れ出すと、ブリタノフは本国からの命令に反して曳航船への総員退去を命じ、自らは艦に留まる。 怒ったモスクワは艦長の交代を命じたが艦への浸水が激しく、Kー219は核兵器とともに6000mの海底に沈んだ。 辛うじて溺死を免れたブリタノフに対する刑は機関長とともに20年の重労働、さらに故意の自沈が立証されれば死刑・・・。

ところがブリタノフの運命が若い一人のドイツ青年の手に握られていることを、当人が知る由もない。 1987年5月28日午後、当時19歳のマチアス・ルストはヘルシンキ郊外の小さな民間空港からセスナ172B型機をレンタルして離陸した。 彼はフィンランド湾の上空で南東に機首を変え、姉が住むエストニア共和国タリンの近くでソヴィエトの上空に入り、やがて前方にモスクワの汚れた空が見えてきた。 青年を乗せたセスナ機は地球上で最も警戒が厳重と言われる空の関所をいくつも見事に通過し、ソ連の中枢にあるクレムリンに隣接する赤の広場に着陸した。 皮肉にもその日は国境警備隊を讃える国民の祝日。

当時ソ連の改革を進めていたミハイル・ゴルバチョフ書記長は、この事件を好機と捉え、ペレストロイカに反対していたソコロフ国防相は直ちに解任され、ゴルバチョフの側近であるドミトリ・ヤゾフ陸軍大将が後任に起用される。 ヤゾフは考える、艦長らは少なくとも世界の目から見れば一種の英雄であり、さらにゴルバチョフの信奉する「新思考」をまさに体現した人物ではないか・・・ヤゾフは処罰指令書を破り捨てる。 1960年~89年までの旧ソ連時代に発生した原子力艦船事故は23件、放射線被曝などにより少なくても40名の死者が出ていると言われる。 K-219と同類の悲劇は過去に何度も繰り返されてきたのである。   



 







  


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