■ グラスホッパー/伊坂幸太郎 2019.1.28
塾の講師 鈴木先生、押し屋の過去を探るべく 『グラスホッパー』 を読んでみました。
登場人物たちは、生きていくために、何かしらの執着を鎧のように身につけている。
それが、すごく滑稽であったり非情だったりします。
鈴木は、亡くなった母ちゃんの幻影にいびられている。
鯨は、ドストエフスキーのある小説が手放せない。自分が殺した人間の亡霊に翻弄される。
蝉は、ガブリエル・カッソという監督の映画に影響を受け、蝉の指示者は、ジャック・クリスピンというミュージシャンに心酔し、その言葉を行動指針としている。
鈴木の妻が、バイキングでお皿にてんこ盛りに料理を取ってくるという話は、自分を見ているようで苦笑してしまった。
何皿かに分けて持ってくればいいのに、ついつい山盛りにしてしまうんですよねえ。
これも、執着のひとつか。
「どうして、僕が」
「疑いを晴らすためでしょ」
「こんなことで証明できるとは思わない」
「証明って何? うちはね、すごく単純な会社なんだから。可能性とか、濡れ衣とかは気にしないわけ。」
「話をするだけじゃないだろう」鳥は小さく回転を見せた。「おまえと話をしたら、あの岩西ってのは死ぬ。おまえは自殺屋なんだから、きっと岩西は自殺する。おまえは岩西を自殺させる気だ。そうだろう? でも、どうして、殺す」
「面倒になったんだ。全部を白紙に戻すためだ。手近なところから、片っ端から消していく。精算するんだ」
「それ、田中が言っていたことだろ」鳥が揶揄するかのように、言った。「おまえ、影響を受けてるんだ」
「頭の揺れを感じた。目を閉じてから、開ける。情景が先ほどよりも、鮮やかに映った。空を飛ぶ鳥の姿は消えている。そのかわりでもないだろうが、右手の電信柱にカラスが止まっていた。
『だが、それで神は君に何をしてくれた?』
その一文が、鯨の頭を突いた。誰の台詞だ、と瞬間的に頭を悩ませる。ラスコーリニコフか、ソーニャか、それとも別のロシア人か。目から入った言葉が、水晶体や網膜を突き抜けて、頭に直接、飛び込んでくるようだった。
「神ってのは、ジャック・クリスピンのことかよ」と岩西が意味不明なことを口走り、鯨はそこで瞼を閉じた。
神が何をしてくれた、というよりそもそも、神に何かをしてもらえた人間がどこにいるんだ、と鯨は思った。神はおろか、他人はおろか、自分自身にさえ何もしてもらえないのが現実ではないか。その当たり前のことに気づいたとたん、人は自ら死にたくなるのかもしれない。人はただ生きていて、目的はない。死んでいるように生きているのが、通常なのだ。その事実を知って、死を決断する。
「だいたいこの大男は、人を自殺させるんじゃねえのかよ」蝉は手を伸ばし、鯨を指差すが、そこで自分の指が情けないくらいに震えているのを見て、余計に震える。
「自殺屋だからな」
「自殺させてねえじゃんかよ」蝉は半ば笑いながら、自分の胸を指差した。「銃で撃ってきたじゃねえか。話が違うだろうが」
「おまえが手強いからだよ」岩西の輪郭はどこか薄ぼんやりとし、風景に滲んでいる。
「でっかい鯨が、蝉にてこずるわけがねえだろうが。最大の哺乳類と、昆虫だぜ」
「知ってると思うけどよ」岩西が顎を突き出した。
「何だよ」
「おまえ、死ぬだろうな」
「知ってるっつうの」蝉は横に唾を吐く。血が混じり、涎のように口の端にこびりついた。
「言い残すこととかねえのかよ」
「ねえよ」と答えてから蝉は、「ああ」と呻き声を出した。「しじみ」
「しじみ?」
「しじみの砂抜き、やったままだな」蝉はぼんやりと呟いて、それからアパートの台所の器の中で、呼吸を繰り返す貝のことを思い出した。ぶかっ、と砂を吐き出している、しじみを頭に描く。「ずっと、あそこにいるのもいいか」
「しじみのことか?」
「しじみだよ。おまえさ、人としじみのどっちが偉いか知ってるか?」蝉は訊ねる。
「人に決まってんだろうが」
「馬鹿か。いいか、人間の知恵だとか科学は、人間のためにしか役に立たねえんだよ。分かってのか? 人間がいてくれて良かった、なんて誰も思ってねえよ、人間以外はな」
「それなら次は、しじみに生まれ変われって」
「そうなりてえよ」蝉は胸に当てた手を、その血を見つめながら、言った。
この業界で、非情に生きた男たちの物語です。
『 グラスホッパー/伊坂幸太郎/角川文庫 』
塾の講師 鈴木先生、押し屋の過去を探るべく 『グラスホッパー』 を読んでみました。
登場人物たちは、生きていくために、何かしらの執着を鎧のように身につけている。
それが、すごく滑稽であったり非情だったりします。
鈴木は、亡くなった母ちゃんの幻影にいびられている。
鯨は、ドストエフスキーのある小説が手放せない。自分が殺した人間の亡霊に翻弄される。
蝉は、ガブリエル・カッソという監督の映画に影響を受け、蝉の指示者は、ジャック・クリスピンというミュージシャンに心酔し、その言葉を行動指針としている。
鈴木の妻が、バイキングでお皿にてんこ盛りに料理を取ってくるという話は、自分を見ているようで苦笑してしまった。
何皿かに分けて持ってくればいいのに、ついつい山盛りにしてしまうんですよねえ。
これも、執着のひとつか。
「どうして、僕が」
「疑いを晴らすためでしょ」
「こんなことで証明できるとは思わない」
「証明って何? うちはね、すごく単純な会社なんだから。可能性とか、濡れ衣とかは気にしないわけ。」
「話をするだけじゃないだろう」鳥は小さく回転を見せた。「おまえと話をしたら、あの岩西ってのは死ぬ。おまえは自殺屋なんだから、きっと岩西は自殺する。おまえは岩西を自殺させる気だ。そうだろう? でも、どうして、殺す」
「面倒になったんだ。全部を白紙に戻すためだ。手近なところから、片っ端から消していく。精算するんだ」
「それ、田中が言っていたことだろ」鳥が揶揄するかのように、言った。「おまえ、影響を受けてるんだ」
「頭の揺れを感じた。目を閉じてから、開ける。情景が先ほどよりも、鮮やかに映った。空を飛ぶ鳥の姿は消えている。そのかわりでもないだろうが、右手の電信柱にカラスが止まっていた。
『だが、それで神は君に何をしてくれた?』
その一文が、鯨の頭を突いた。誰の台詞だ、と瞬間的に頭を悩ませる。ラスコーリニコフか、ソーニャか、それとも別のロシア人か。目から入った言葉が、水晶体や網膜を突き抜けて、頭に直接、飛び込んでくるようだった。
「神ってのは、ジャック・クリスピンのことかよ」と岩西が意味不明なことを口走り、鯨はそこで瞼を閉じた。
神が何をしてくれた、というよりそもそも、神に何かをしてもらえた人間がどこにいるんだ、と鯨は思った。神はおろか、他人はおろか、自分自身にさえ何もしてもらえないのが現実ではないか。その当たり前のことに気づいたとたん、人は自ら死にたくなるのかもしれない。人はただ生きていて、目的はない。死んでいるように生きているのが、通常なのだ。その事実を知って、死を決断する。
「だいたいこの大男は、人を自殺させるんじゃねえのかよ」蝉は手を伸ばし、鯨を指差すが、そこで自分の指が情けないくらいに震えているのを見て、余計に震える。
「自殺屋だからな」
「自殺させてねえじゃんかよ」蝉は半ば笑いながら、自分の胸を指差した。「銃で撃ってきたじゃねえか。話が違うだろうが」
「おまえが手強いからだよ」岩西の輪郭はどこか薄ぼんやりとし、風景に滲んでいる。
「でっかい鯨が、蝉にてこずるわけがねえだろうが。最大の哺乳類と、昆虫だぜ」
「知ってると思うけどよ」岩西が顎を突き出した。
「何だよ」
「おまえ、死ぬだろうな」
「知ってるっつうの」蝉は横に唾を吐く。血が混じり、涎のように口の端にこびりついた。
「言い残すこととかねえのかよ」
「ねえよ」と答えてから蝉は、「ああ」と呻き声を出した。「しじみ」
「しじみ?」
「しじみの砂抜き、やったままだな」蝉はぼんやりと呟いて、それからアパートの台所の器の中で、呼吸を繰り返す貝のことを思い出した。ぶかっ、と砂を吐き出している、しじみを頭に描く。「ずっと、あそこにいるのもいいか」
「しじみのことか?」
「しじみだよ。おまえさ、人としじみのどっちが偉いか知ってるか?」蝉は訊ねる。
「人に決まってんだろうが」
「馬鹿か。いいか、人間の知恵だとか科学は、人間のためにしか役に立たねえんだよ。分かってのか? 人間がいてくれて良かった、なんて誰も思ってねえよ、人間以外はな」
「それなら次は、しじみに生まれ変われって」
「そうなりてえよ」蝉は胸に当てた手を、その血を見つめながら、言った。
この業界で、非情に生きた男たちの物語です。
『 グラスホッパー/伊坂幸太郎/角川文庫 』