彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城周辺史跡スポット:「天寧寺」

2007年07月06日 | 史跡
彦根市街から国道を越えて名神の彦根インターに向かう手前に五百らかんへの案内看板を目にします。
その道に入り、狭くて急な坂を登ると閑静なお寺に到着。
天寧寺と呼ばれるこのお寺には、井伊家に関わる悲しい恋の物語が残っています。


井伊直清は、十一代藩主・直中の長男として誕生し生まれてすぐに後継として期待されていました。
しかし、直清は側室の子どもだったので、正室の子どもである弟(直中の三男)・直亮が生まれると廃嫡になったのです。
直清14歳の時でした。

しかし、直清は藩主の座に執着する事が無かったようで、早々と若隠居として藩からの捨扶持を受けていたのです。
直亮が十二代藩主に就任して父・直中が隠居してもその生活が代わることが無かったのです。

幼い弟(直中の十四男)鉄之助が遊びに来るようになった以外は・・・


文政2(1819)年、彦根城内で大きな事件が発覚しました。
男子禁制だった槻御殿の腰元・若竹が妊娠している事が発覚したのです。
 
当時の槻御殿の腰元は藩主の目に止まればそのまま側室への道が開ける立場だった為に特に取締りが厳しく、この話はすぐに隠居していた直中に届き、直中の指示の元に調査が行なわれました。

激しい拷問も行なわれた様子ですが、若竹は相手の男の事を話そうとはしませんでした。
 
その相手と言うのが、直清だったのです。
いくら槻御殿が男子禁制といっても、藩主一門の住いとは殆んど離れておらず、鉄之助が直清の元によく通っていた為に若竹が直清に出会うのも普通の成り行きだったのでしょう。

直清と若竹がどんな風に恋に落ち、それを育てていったのかは、今となっては想像の世界でしかありませんが、二人が真剣だったからこそ若竹は直清の名前を絶対に表に出す事はありませんでした。

こうして、直清が何も知らない内に若竹は不義の法度によりお手討ちとなったのです。


もともと病弱だった直清は、後日この報せを聞いてショックを受けて6年後に若くして亡くなりました。
その後、直中は若竹の相手が直清と知り、お腹の子は本来なら自分の初孫となる子だと知ったのです。
直中は、手討ちになった若竹と産まれてこなかった孫を不憫に思い、後悔の念を募らせてその菩提をともらう為に里根山のお城が見える絶景地に天寧寺を建立し、そこに五百らかんを安置しました。

五百らかんの中には必ず自分の探す顔があると言われています「亡き親・子供に会いたくば、五百らかんの堂に籠れ」と伝承されたくらいです。
また、天寧寺には子育て・水子地蔵尊も安置されていますが、このお地蔵様は日本最大の石造地蔵尊です。
また日本最大の木像布袋様も安置されています。
 

井伊直清と若竹は、ただ純粋に恋をしただけだったのですが立場のしがらみから若くして命を落とし、その死後にやっと認められて今は悲しい物語と共に現在に伝わっています。


ちなみに、直清のところによく遊びに行っていた鉄之助は成長して直弼と名乗ります。
管理人は個人的に直弼が幼い心の中に若竹を慕う気持ちがありそれが年上の女性への憧れとなって後に村山たか女との恋になるのだと思っています。

小説『姦婦にあらず』ではこの天寧寺が直弼とたか女との密会の場になっていますが、これもこんな直弼の思いが書かせたものではないでしょうか?
また、また境内には桜田門外の変で非業の死を遂げた直弼の供養搭や直弼の側近・長野主膳の墓・村山たかの碑があります。


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