彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊直虎 学習会

2016年07月28日 | 講演
彦根市が主催した、市民向けの『井伊直虎 学習会』を受講してきました。

講師は井伊谷龍潭寺の前住職・武藤全裕さんです。
直虎の生まれた頃の井伊家は、今川義元の旗本になるかならないかの微妙な時期で、もしかしたら井伊谷ではなく伊平で誕生した可能性もあること。
井伊家の男性たちは次々に不幸な亡くなり方をして、井伊家の一人である南渓和尚の後楯で直虎が井伊家当主になったのではないか。とのこと。
そして、直政の出世がたった10年で6万石を得るという他の武将には例を見ない早い出世をしたこと。
など、直虎を中心にした井伊家のお話でした。

最後に
「直政が家康に仕えてから四年後に、松平信康が自害しているが、直政も信康も井伊直平の玄孫の立場でありながら、直政が連座した形跡もない。
直政と信康は交流がなかったのか?」と質問しました。
お答えとしては、岡崎と浜松で離れていて二人が会うのは信康が出陣してきた時くらいだっただろう。とのことと、家康は何らかの想いで直政を重用していて、信康切腹のすぐ後に何の功績もないまま直政を6万石にしている、5万石を有していた信康を意識していたとも考えられる。
とのことでした。


以前に市長にお伺いした話では、今回の勉強会の受講者が彦根市内で、直虎を伝導する役割を担うそうですから、責任を持ってしっかりと学んでいかねばなりませんね。
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モネの池

2016年07月24日 | その他
まるでモネの代表作『睡蓮』のようにも見える池が昨年あたりから話題になっていました。
今回、たまたま近くまで行く用事があったので行ってみました。

場所は岐阜県関市板取にある根道神社という小さな神社の池になります。
山間を国道256号線が通り抜けている静かな場所。

油断すると見過ごしそうな場所に根道神社があります。



鳥居の脇にある名もなき池が『モネの池』と呼ばれるようになったのです。

モネの『睡蓮』を思わせる構図

澄んだ水に、色とりどりの鯉が優雅に泳いでいます。

まだ蓮の時期には早かったのですが、花が咲くころはとても幻想的な場所になるのでしょうね。



ここは湧水がそのまま池になっている為に、美しく澄んだ水になっていて、光の辺り加減によって違った顔を見せてくれるそうです。
夏には涼しげな様子を見せてくれる場所でもあるのでしょうね。


所在地 関市板取 根道神社
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井伊家千年の歴史 (9)

2016年07月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 南朝に属し宗良親王を助けた井伊道政とは何者なのか? 彦根藩井伊家の系図でも幕末になって急に登場する人物で明治政府に提出した系図に直系の人物として公にしている。江戸期になって書かれた南朝資料に名前が登場することがあったために南朝を助けた勤皇家の井伊家という象徴として追加されたと考えられているのだ。私見ではあるが「道政」は「直政」だと思っている。「道」と「直」を草書で書くと似ている文字を使うこともあるからだ。井伊家中興の祖である直政を暗示させる道政を誰かが意図的に広めた人物かもしれないが、現在は井伊谷宮で忠臣として神格化されている。
 では本当に宗良親王を助けたのは誰だったのか?との疑問が沸いてくるが、『宗良親王御事蹟雑記』という資料には「親王が井伊城に滞在したのは、井伊9代行直公(現在の数え方では10代)在城の時だった」と記されている。
 さて、不本意ながらも北朝の軍門に下った井伊家だったが降伏後も井伊谷周辺の支配を許されていたと考えられている。しかし遠江守護は短い期間に何人も変わる。観応3年(1352)宗良親王や井伊道政と激しい戦いを続けた今川範国の息子範氏が遠江守護に就いたことから井伊家は今川家のために働くことになってしまう。
 応安3年(1370)範氏の弟了俊(貞世)が九州探題に任ぜられ九州の南朝勢力討伐の将兵を遠江・駿河で集めた。この中に井伊家とその一族が従軍したのだった。敵となる九州での南朝の旗頭は懐良親王という人物で宗良親王の弟であり井伊家にとって士気が上がらない遠征となった。翌年二月に出陣した了俊の九州討伐は、1年半をかけて大宰府を落とし九州北部に北朝の拠点を据える。しかし抵抗は激しくこの後十五年もの長い期間九州各地で戦いを繰り返すこととなった。この間特に激しかった戦いとして永和元年(1375)の背振山の戦いがある。筑前と肥前の国境で山岳密教の修験場でもあった地であるだけに一筋縄では落とせなかった地であり、士気が低かった井伊家だけに苦戦が強いられ奥山家当主奥山直朝が討死している。『今川記』には「横地・勝間田・奥山・井伊・笹瀬・早田・河井悉く討死」とも記されていて井伊一族の犠牲が大きかったことがうかがえるのだ。また応安6年(1373)に井伊二郎という人物が三河巣山の熊野権現に戦勝祈願の懸仏を奉納したと『遠州渋川の歴史』という本に書かれていると井伊家関連の資料にはよく紹介されているが、この井伊二郎という人物も背振山で戦った可能性が高いのかもしれない。
 苦戦の末に九州を平定した了俊だったが、25年の任期を経て解任され帰国している。生き残った井伊家の人々も虚しい帰郷となったのだろうか? 今川了俊の子孫は瀬名氏を称し、そこから分かれた関口義広が直虎や直政の人生に大きく関わることとなる。


懐良親王陵
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『紙の森 The Paper Forest』

2016年07月23日 | イベント
岐阜県美濃市の美濃和紙の里で『紙の森 The Paper Forest』という展示が8月29日まで行われています。

コイケアカリさんの紙の森に大東守さんの動物や昆虫たちのkirittaiが融合し、紙による神秘的な森が作られていました。





入場する時に、紙の蝶をいただき、来場者が好みの場所に蝶を貼って作品を作る一端を担います。

管理人も、貼ってきました。

大東さんの作品が展示されたコーナーもありました。












そして、7月23日は、kirittaiリクエスト切りのイベントがありましたから、見学に行きました。
kirittaiは、一枚の紙を切って立体の作品を作るアートですので、2色のkirittaiは大変なのに、来年の大河ドラマにちなんで虎をkirittaiしていただきました。

いつもながら、素晴らしいです。
たぶん、これから井伊直虎関連の何かをする機会が多くあると思うので、その時に連れて行こうと思っています。
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『ニコニコ町会議2016in彦根』 に少しだけ関わる

2016年07月17日 | イベント
「ひこねゆかたまつり」と一緒に行われた『ニコニコ町会議2016in彦根』
その壮大な内容は当日まで管理人の理解を超えて、そして会場の様々なブースでの熱気に押されてしまい、すべてを理解して見学することはできませんでした。

そんな中で、管理人は墨絵師御歌頭さんのライブペイントの補助を仰せつかり、御歌頭さんのブースに宣教師のコスプレをして参加していました。

イベント前、彦根駅改札口ではキャラたちが順番に案内をしてくれていました。






そして、会場。
このキャンパスに描かれます。


御歌頭さんによって、魂が込められます。









完成した作品は、石田三成公でした





ひこにゃんや、いしだみつにゃんが観に来てくれて、いい作品と褒めてくれました。

会場に来ていた猫ちゃんともツーショット

この作品は、MEET三成展の彦根会場で展示されるそうです。
国宝彦根城で、御歌頭さんの石田三成が展示されるとは、感無量です。

そののちは、雑用をしたり、特別ゲストの声優で俳優の高木渉さんの舞台裏で補助をしていました。
高木さんのお誕生日をお祝して出されたケーキおいしそう。


雨の予報を跳ね除けて、過ごし易い曇り空で良かったです。


会場 彦根市 彦根城京橋口駐車場と夢京橋キャッスルロード
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『なぜ直政は「佐和山城主」になったのか』聴講

2016年07月03日 | 『戦国怪談話』
歴史手習塾セミナー22『謎解き おんな城主 直虎』
二日目の『なぜ直政は「佐和山城主」になったのか』を聴講しました。
講師は昨日に続き『おんな城主 直虎』の時代考証を担当される小和田哲男先生です。二日間連続で小和田先生から井伊家の話が聴ける贅沢なイベントでした。

今回は、関ケ原の戦いでの井伊直政の活躍を見てみました。
秀吉が亡くなった時、石田三成は五大老と五奉行が秀頼を助けて豊臣家が世襲する形で続けるよいに考えていて、戦国は終わったと思っていました。
対する徳川家康は、秀吉が織田信長の遺児から簒奪したように天下は回り持ちと考えていて、戦国は終わっていないと思っていたのです。
前田利家が亡くなり、武断派七将が三成を襲い、三成が失脚、上杉景勝が米沢で軍備を強化した事を利用して、三成潰しと秀頼潰しを目論んだのです。
小山評定を経て、家康は軍勢を二手に分けて、秀忠に本多信正、榊原康政を付けた軍に中山道を進ませます(関ケ原には遅れる)。
家康は、江戸に留まり諸大名に手紙を送ります、そこには本多正純、本多忠勝、井伊直政が従っていました。
忠勝と直政は豊臣恩顧大名の軍監として東海道を進みました。西軍に従った織田秀信が城主を務める岐阜城攻略を決断し、中山道を進む本多信正に報告、自身も戦ったのが直政だったのです。
また、禁制を出し進軍の準備も行いました。そして西軍と目される大名たちの調略も行ったのです。
吉川広家は、父元春のときに秀吉に冷遇されていたこと、小早川秀秋は秀頼が誕生しなけれは豊臣家の跡を継いだかもしれないのに毛利家に養子に入る話が出て、それも小早川家になってしまうという不満があったのです。これらを敏感に読み取って工作したのも直政だったのでした。

関ケ原当日は、家康の息子忠吉の岳父である立場から忠吉を連れて福島正則の陣を抜け、島津隊に発砲し開戦させたのです。
小早川秀秋が裏切り、西軍が撤退した後に残った島津義弘の軍勢が敵中突破を行ったとき、義弘の軍を追ったのが直政であり、この時に鉄砲傷を負い、戦後は家康から薬を与えられたのです。
直政の手柄はそれほど大きなものでした。

戦後は、毛利家との交渉や土佐で長宗我部盛親の家臣の反発を受けた山内一豊を助けるために直政が家臣を派遣したのです。

これらの活躍から、西軍の中心メンバーだった石田三成の居城である佐和山城が直政に任され、普代大名では最高の6万石加増(高崎12万石→佐和山18万石)となります。
直政は関ケ原の鉄砲傷が元で亡くなり、井伊家は佐和山から彦根城に移ります。
息子の直孝が二度の大坂の陣で活躍し井伊家は五人の大老を出す家になったのです。


さて、
個人的なことですが、以前『前田慶次道中日記』の琵琶湖の経路を同行した時に、「弁天嶋の瀬戸」がどこか調べる過程で、沖島の弁財天についての記録『沖島弁天記』が長松院にあるとの情報を目にしたことがあり、一度お話を聞いてみたい場所が長松院でした。
昨日、そのお話をご住職にさせていただきましたところ、本日は境内にあります弁財天を祀ったお堂を開けて下さいました。
また、明治時代の直政公三百回忌に描かれた直政公の肖像画(讃は日下部鳴鶴が書いています)も拝見できました。
どちらも、素晴らしい体験をさせていただきました。


会場 彦根市 長松院
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『なぜ直虎は「おんな城主」になったのか』聴講

2016年07月02日 | 講演
歴史手習塾セミナー22『謎解き おんな城主 直虎』
一日目の『なぜ直虎は「おんな城主」になったのか』を聴講しました。
講師は『おんな城主 直虎』の時代考証を担当される小和田哲男先生です。二日間連続で小和田先生から井伊家の話が聴ける贅沢なイベントであり、今回は前売りで席が埋まったそうです。
しかも、会場は井伊直政を荼毘に付した地に建立された長松院です。本当に特別尽くしの講演になります。

お話は『寛政重修諸家譜』『井伊家伝記』『藩翰譜』を資料として井伊直虎を中心に直平から直政までの井伊家の歴史を紐解かれました。

まずは、女性が城主になるという例は立花家など西日本にみられるが東の井伊家の例もあることから全国的だった可能性があること。
大河ドラマでは「女性も活躍できる社会が戦国時代にもあった」がコンセプトかもしれない。とのことでした。

井伊家は、南北朝時代に南朝の宗良親王に味方して北朝の今川範国と戦っていた頃から今川家と対立していたのですが、直平の時に娘を今川義元に差し出し義元がこの娘を側室にした後に、関口義広に嫁したこと。
井伊家では直宗の討死、直満と直義の誅殺、桶狭間での直盛や家臣の討死など不幸が続き、直虎の許嫁の直親の波乱の人生もお話されました。

そして、直虎。
朱印ではなく黒印を使っているのは女性だが、花押を使った女性は足利義満の母くらいしか見られず珍しいとのことでした。

そして、幼少期の直政。
新野左馬助に養育されていましたが、その死後は左馬助未亡人に育てられ、松下源太郎に嫁いだ実母と共に松下家に養子に入ったとのこと。
15歳で徳川家康に仕え、井伊谷二万石の旧領回復、神君伊賀越えで孔雀の羽根で作った陣羽織を与えられる。
その直後くらいに直虎は亡くなりますが、直政が井伊家の旧領を回復した所を見れて喜んでいたのではないか?とのこと。
その後も、北条氏との大切な交渉を任されるなど、家康の信任は厚かったとのことでした。


講演後の質疑応答で、井伊直宗は実在の人物なのかを訊ねました。
直宗が出した書状などの資料は一切無く、直宗が生きていた頃から直盛が活躍しているために、何とも言えませんが、系図などには必ず書かれている。
とのお答えでした。


会場 彦根市 長松院
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