彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

2月21日、安徳天皇の即位決まる

2012年02月21日 | 何の日?
治承4年(1180)2月21日、高倉天皇が退位し、言仁親王の即位が決まりました。後に安徳天皇と呼ばれる人物です。

安徳天皇の母親は、平清盛の娘の徳子(建礼門院)でした。
治承2年11月12日に誕生し、その約ひと月後の12月15日には皇太子として発表され、そして1歳3ヶ月(数えで3歳)での即位が決まったのです。
正式に即位するのは4月22日まで待たねばなりませんが、この日から安徳天皇の御代が始まったのです。

なぜこのように若い安徳天皇が即位することになったのかといえば、その外戚が平清盛だったことに尽きます。
藤原氏の摂関政治は、藤原一族が自分の娘を天皇に入内させて、その間に生まれた子どもを次の天皇に据えることで、外戚として政権を握っていました。
そして、藤原氏に娘が生まれず、藤原氏の血が薄い白河天皇が即位した時に摂関政治には限界が生じ、白河天皇が退位しいて上皇となって堀河天皇の後ろ盾になることで院政という新しい政治体系が生まれたのです。
これは、政治の主権が母方から父方に移る事例となり、実はこの頃から男系が重視される社会制度になったともいえます。平安時代では当たり前だった通い婚が薄れていったのもこの時代の前辺りからなのです。

そんな院政を崩すために清盛が再び外戚としての立場を利用したのです。
しかし、武家政権初の権力者となった清盛が、そのまま摂関政治を踏襲した訳ではありません。すでに太政大臣にまで上り詰めていて、名誉職ともいえる太政大臣はさっさと辞めてしまって実質的な実権を握っていたからです。
清盛は、安徳天皇が即位した年の6月に福原に遷都し、12月には京に戻りました。これは源氏の挙兵に対して京に戻ったと解釈されていますが、それならば守り易い福原の方が軍事拠点には適しています。
安徳天皇即位と福原遷都と京への帰還は、摂関政治や院政による既得権に満ちていた京を捨てることで、清盛を中心とした集権体制を福原で明確にし、その力を前面に押し立てながら既得権を飲み込むために京へ戻ったと考える方がわかり易いのです。

安徳天皇即位が急がれたのは、清盛の余命を考えての焦りであったのかもしれませんね。

2月19日。屋島の戦い

2012年02月19日 | 何の日?
寿永4年(1185)2月19日、屋島の戦いが起こりました。

2月7日に一ノ谷の戦いについて書きましたし、平家滅亡の物語として一ノ谷→屋島→壇ノ浦は一連の流れて表されることが多いので、一ノ谷で海上に逃げて対岸になる屋島に陣を構えた平家を、源義経が追いかけてそのまま奇襲したというイメージがありますが、実はこの間に丸々一年の期間が空いています。


一ノ谷の戦いの後で、義経は京に戻って、範頼は鎌倉まで戻っています。後白河法皇が義経に京都の治安警護を命じたのです。
この間に範頼が再び西国へと出陣するのですが、平家との戦いに敗れ、その他の中国地方に派遣された源氏の軍勢も平家の攻撃にさらされるようになったのです。
こうして、一旦は平家との戦いから離れていた義経が再び軍勢を任され、今度は範頼が居ない総大将となったのです。

義経は、屋島を海側から攻める戦いではなく、阿波に上陸して讃岐まで馬を駆けさせ、海側を警戒している平家の裏をかいて陸地側である背後からの奇襲を立案します。
しかし、一ノ谷での背後攻撃を行った義経の策を警戒しないわけがなく、もう一つの工夫が必要になったのです。それが天気でした。

2月18日深夜2時、暴風雨の中を義経は摂津の港から阿波に向かって出航します。天気の良い日なら3日間の航海が風によって4時間で到着したとされています。
ここから馬を走らせて19日に屋島の陣を奇襲したのです。

前方からの攻撃防御に集中していた平家は驚いて船に乗り込み海上に逃げたのですが、海上で改めて屋島を見ると義経が連れてきていた軍勢が少数であることを知ったのです。
ここから平家の逆襲が始まり、船から陸に向かって矢が射かけられます。源氏も応戦しますが、その最中に義経が海に弓を落としてしまったのです。
伝承では、義経が使っていた弓は小さい物だったそうで、その弓を敵に拾われて「総大将は何とひ弱なことよ」と笑われることを恐れた義経は、馬を海に乗り入れて弓を拾おうとしたのです。

これをチャンスとみた平教経は、義経に向かって矢を放ちました。しかしその矢を受けたのは義経四天王の一人の佐藤継信だったのです。
 
義経の代わりとなって継信は命を落とし、そんな教経の手柄首を確保しようとした教経に仕える童の菊王丸が、今度は継信の弟である忠信に討たれたのです。


このような激し戦だったのですが、夕方にはだんだん落ち着きつつありました。
この静けさの中を、平家の船から先に扇を竿の先に立てて、その傍らに美女が立った小舟が一艘出てきました。
これは平家方から、この扇を射てみろとの挑発だったのです。
ここで那須与一が弓の名手として義経に進言があり、義経自ら与一に扇を射るように命じたのでした。

与一は失敗すれば死を覚悟する気持ちで、故郷の八幡大菩薩に祈りをささげ、

馬に乗ったまま馬の脚を大石に踏ん張らせて弓を構えたのです。

そして矢を放つと、見事に扇に命中し海に舞落ちます。

これを見た両軍の兵たちは驚き与一を称えます。そして平家の武将が扇のあった船に乗って舞を踊ったのですが、義経はこれを見て再び与一にその武将を射るように命じ、与一が射殺したのです。
激怒した平家が再び矢戦を仕掛けますが夜がきて休戦。こののちも何度か上陸を試みて失敗し、屋島の戦いは平家が壇ノ浦に向かうことによって終焉します。

2月7日、一ノ谷の戦い

2012年02月07日 | 何の日?
大河ドラマ『平清盛』に絡んで、今回はこんなお話。


寿永3年(1184)2月7日、源義経が一ノ谷の戦いで平家に勝利を収めました。

元々は木曽義仲の都入りから逃れるために西国に下っていた平家でしたが、義仲が源頼朝との戦いに集中している隙に讃岐(香川県)の屋島まで勢力を戻し、そして大輪田泊(神戸)や福原まで迫っていたのでした。
その頃になり、源義経によって義仲が討たれ、再び源平が戦うことになったのです。

平家は平知盛の指揮の元で、福原から都側(東)の生田に主要部隊を置いて、源氏の襲来に備えたのです。ここは義経の兄の源範頼が正攻法で攻めることになっていました。
生田とは逆に一ノ谷側(西)は平家の勢力かであり、兵は配置していたものの油断があったのは否めないのです。
また、平家の当主である平宗盛が海上にいたことで、平家の士気が低かったのです。

2月6日、後白河法皇は平家に使者を送り和平勧告を行います。知盛はこれを了承し源氏が攻めてこないと確信したのです。
しかし7日の夜明け頃に範頼が生田口で矢を放ち開戦。平家は地の利を活かして防いでいたのです。

そんな時に、義経が一ノ谷の背後から駆け下ったのです。ここはきつい崖で、兵が下れるところではないと平家方が兵を置かなかったのですが、義経は鵯越とよばれるこの崖を鹿が下って行くのを見て「鹿が下れるなら同じ四足の馬が下れないはずがない」といって駆け下ったとされています。
しかし、この時の馬が今の道産子のように足が短くて小柄だったために安定感があり下ることに成功しましたが、時代劇にでてくるようなサラブレットならば失敗したであろうといわれています。


何がともあれ、これで源氏が優勢となり、平家は海に逃れて行きます。
この時に、敦盛が熊谷直実に討たれる逸話や、忠度戦死、そして重衡が捕えられた逸話などが伝わっています。平家にとっては一門の多くを失った戦いであり、実は壇ノ浦以前に一ノ谷でほとんど滅亡段階に在ったのです。

逓信舎オープニングイベント

2012年02月06日 | イベント
2月5日、佐和山一夜城石像除幕式が終わった後は、花しょうぶ通り商店街に向かいました。
午後からここで逓信舎のオープニングイベントが行われる予定になっていたからです。

有形文化財に指定されている、旧の郵便局(逓信局)の建物を活用した街作りプロジェクトです。
テープカット&除幕式にはいしだみつにゃんとおおたににゃんぶも参加していました。

今回のみつにゃん、ちょっとうつむき加減で不動、その姿がなんだか愛らしい、そんな一幕もありました。


 

ちなみに、幕の下には“逓信舎”の文字があったのですが、これは旧彦根藩士で書家の日下部鳴鶴の字です。“月桂冠”というお酒のラベルの文字で馴染みがある明治時代の人物です。

中では、昔の彦根の写真が見れたり、喫茶があったっりします。

4月からの本格営業ですので、ぜひお立ち寄りを。

オープニングイベントでは、ゆるきゃらたちが餅つきをして

そのお餅で彦根名物赤かぶらを包んだ彦根餅や
  
きなこもち

島左近の子孫の方が作っているお酒の酒粕で作った戦国汁
 
がふるまわれました。
美味しかった。

そして、逓信舎の中には、fmGIGというネットラジオの彦根支局も設置されました。
オープンを記念して、当日は2時間の生放送がありました。

映像があるので、ゲストにおおたににゃんぶが登場する場面もあったのです。

古くも新しい、そんな空間になりそうです。

佐和山一夜城石像除幕式

2012年02月05日 | イベント
2007年のこと、佐和山城の麓では佐和山一夜城というイベントが行われました。

この時は、佐和山城天守の絵を半月巻建てて、この麓でさまざまなイベントを行う行事だったのですが、この佐和山一夜城イベントで作られた天守が石像になり、その石像の除幕式が行われました。

朝の段階では幕が被っていましたが、

式典でお披露目

イベントの時は絵だったものが立体になりました。


芸が細かい部分もあります

バックに佐和山城跡を写してみます。

誤解が無いように書いておきますが、これは佐和山一夜城でのイラストを元に立体化した、佐和山一夜城石像です。
石田三成が城主の時代にこの形の天守が建っていた可能性は0です。豊臣時代に白壁の天守や佐和山の上に五層の天守があった可能性が限りなく0に近いので、両方が揃うことはないです。
でも、これは夢ですから、色んな人々の希望や夢が詰まった、心の中の佐和山城を作られたのです。

そう言う意味では、時代考証云々以上に佐和山城らしい佐和山城なんだと思いますよ。
そしてそんなお城の屋根にあの主従が…

さこにゃん、どこでもお酒です(笑)
そしてらんまる君も遊びに来ました。

時期的にズレがある可能性はありますが、石田三成と島左近はもちろんのこと、森蘭丸も佐和山城には何度も来ていますね。

閏2月4日、平清盛死去

2012年02月04日 | 何の日?
治承5年(1181)閏2月4日、平清盛が亡くなりました。享年64歳。


清盛の死は、源氏が平家に対して兵を起し、源平の争乱の最中におとずれました。

『平家物語』に記された話によると、2月27日に清盛の息子である宗盛が東国へ出陣しようとした矢先に、清盛が発病した報せが入り出陣を見合わせ、翌日に清盛重病の噂が都中に広まったとされています。
側近の平盛国の屋敷で寝込んでいた清盛でしたが、発病した日から高い熱が伴い、水も喉を通らないばかりか4、5間(10mくらい)に近付く者はその熱さに耐えられず、清盛自身も「熱い熱い」と言うばかりだったそうです。
比叡山から霊験あらたかな霊水を運ばせて、浴槽に入れて清盛を入れるとすぐに熱湯に変わり(それなら人間は死んでる気もしますが…)、樋のような物を付けて流してかけても、その水が散ってしまって身体に届くことがありませんでした。

このように苦しんでいる清盛の妻の二位殿(平時子)は、激しい火に包まれ「無」という文字が書かれた牛車が屋敷の中に入る夢を見ました。この牛車に従っている牛や馬の顔をした従者にどこから来たのかを訪ねると「地獄の閻魔庁から迎えに来た。この無は東大寺の大仏を焼いた罪で清盛が無間地獄に落ちて永遠に焼かれる無だ」と答えたのです。

閏2月2日、二位殿は泣きながら、熱さに苦しむ清盛に思い残すことが無いか訊ねると、清盛は「源頼朝の首が観見れなかったのが残念だ、自分が死んでも供養はいらないから、墓前に頼朝の首を供えろ、それが供養だ」と答えたのです。
そして病はますます悪化して、閏2月4日に苦しみ抜いて亡くなったのでした。

これは『平家物語』の記述なので全てを信じるわけにはいきませんが、熱病に冒されたのは確かなようで、マラリアだったのではないかともいわれているのです。