彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

モネの池

2016年07月24日 | その他
まるでモネの代表作『睡蓮』のようにも見える池が昨年あたりから話題になっていました。
今回、たまたま近くまで行く用事があったので行ってみました。

場所は岐阜県関市板取にある根道神社という小さな神社の池になります。
山間を国道256号線が通り抜けている静かな場所。

油断すると見過ごしそうな場所に根道神社があります。



鳥居の脇にある名もなき池が『モネの池』と呼ばれるようになったのです。

モネの『睡蓮』を思わせる構図

澄んだ水に、色とりどりの鯉が優雅に泳いでいます。

まだ蓮の時期には早かったのですが、花が咲くころはとても幻想的な場所になるのでしょうね。



ここは湧水がそのまま池になっている為に、美しく澄んだ水になっていて、光の辺り加減によって違った顔を見せてくれるそうです。
夏には涼しげな様子を見せてくれる場所でもあるのでしょうね。


所在地 関市板取 根道神社
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『紙の森 The Paper Forest』

2016年07月23日 | イベント
岐阜県美濃市の美濃和紙の里で『紙の森 The Paper Forest』という展示が8月29日まで行われています。

コイケアカリさんの紙の森に大東守さんの動物や昆虫たちのkirittaiが融合し、紙による神秘的な森が作られていました。





入場する時に、紙の蝶をいただき、来場者が好みの場所に蝶を貼って作品を作る一端を担います。

管理人も、貼ってきました。

大東さんの作品が展示されたコーナーもありました。












そして、7月23日は、kirittaiリクエスト切りのイベントがありましたから、見学に行きました。
kirittaiは、一枚の紙を切って立体の作品を作るアートですので、2色のkirittaiは大変なのに、来年の大河ドラマにちなんで虎をkirittaiしていただきました。

いつもながら、素晴らしいです。
たぶん、これから井伊直虎関連の何かをする機会が多くあると思うので、その時に連れて行こうと思っています。
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『ニコニコ町会議2016in彦根』 に少しだけ関わる

2016年07月17日 | イベント
「ひこねゆかたまつり」と一緒に行われた『ニコニコ町会議2016in彦根』
その壮大な内容は当日まで管理人の理解を超えて、そして会場の様々なブースでの熱気に押されてしまい、すべてを理解して見学することはできませんでした。

そんな中で、管理人は墨絵師御歌頭さんのライブペイントの補助を仰せつかり、御歌頭さんのブースに宣教師のコスプレをして参加していました。

イベント前、彦根駅改札口ではキャラたちが順番に案内をしてくれていました。






そして、会場。
このキャンパスに描かれます。


御歌頭さんによって、魂が込められます。









完成した作品は、石田三成公でした





ひこにゃんや、いしだみつにゃんが観に来てくれて、いい作品と褒めてくれました。

会場に来ていた猫ちゃんともツーショット

この作品は、MEET三成展の彦根会場で展示されるそうです。
国宝彦根城で、御歌頭さんの石田三成が展示されるとは、感無量です。

そののちは、雑用をしたり、特別ゲストの声優で俳優の高木渉さんの舞台裏で補助をしていました。
高木さんのお誕生日をお祝して出されたケーキおいしそう。


雨の予報を跳ね除けて、過ごし易い曇り空で良かったです。


会場 彦根市 彦根城京橋口駐車場と夢京橋キャッスルロード
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『なぜ直政は「佐和山城主」になったのか』聴講

2016年07月03日 | 『戦国怪談話』
歴史手習塾セミナー22『謎解き おんな城主 直虎』
二日目の『なぜ直政は「佐和山城主」になったのか』を聴講しました。
講師は昨日に続き『おんな城主 直虎』の時代考証を担当される小和田哲男先生です。二日間連続で小和田先生から井伊家の話が聴ける贅沢なイベントでした。

今回は、関ケ原の戦いでの井伊直政の活躍を見てみました。
秀吉が亡くなった時、石田三成は五大老と五奉行が秀頼を助けて豊臣家が世襲する形で続けるよいに考えていて、戦国は終わったと思っていました。
対する徳川家康は、秀吉が織田信長の遺児から簒奪したように天下は回り持ちと考えていて、戦国は終わっていないと思っていたのです。
前田利家が亡くなり、武断派七将が三成を襲い、三成が失脚、上杉景勝が米沢で軍備を強化した事を利用して、三成潰しと秀頼潰しを目論んだのです。
小山評定を経て、家康は軍勢を二手に分けて、秀忠に本多信正、榊原康政を付けた軍に中山道を進ませます(関ケ原には遅れる)。
家康は、江戸に留まり諸大名に手紙を送ります、そこには本多正純、本多忠勝、井伊直政が従っていました。
忠勝と直政は豊臣恩顧大名の軍監として東海道を進みました。西軍に従った織田秀信が城主を務める岐阜城攻略を決断し、中山道を進む本多信正に報告、自身も戦ったのが直政だったのです。
また、禁制を出し進軍の準備も行いました。そして西軍と目される大名たちの調略も行ったのです。
吉川広家は、父元春のときに秀吉に冷遇されていたこと、小早川秀秋は秀頼が誕生しなけれは豊臣家の跡を継いだかもしれないのに毛利家に養子に入る話が出て、それも小早川家になってしまうという不満があったのです。これらを敏感に読み取って工作したのも直政だったのでした。

関ケ原当日は、家康の息子忠吉の岳父である立場から忠吉を連れて福島正則の陣を抜け、島津隊に発砲し開戦させたのです。
小早川秀秋が裏切り、西軍が撤退した後に残った島津義弘の軍勢が敵中突破を行ったとき、義弘の軍を追ったのが直政であり、この時に鉄砲傷を負い、戦後は家康から薬を与えられたのです。
直政の手柄はそれほど大きなものでした。

戦後は、毛利家との交渉や土佐で長宗我部盛親の家臣の反発を受けた山内一豊を助けるために直政が家臣を派遣したのです。

これらの活躍から、西軍の中心メンバーだった石田三成の居城である佐和山城が直政に任され、普代大名では最高の6万石加増(高崎12万石→佐和山18万石)となります。
直政は関ケ原の鉄砲傷が元で亡くなり、井伊家は佐和山から彦根城に移ります。
息子の直孝が二度の大坂の陣で活躍し井伊家は五人の大老を出す家になったのです。


さて、
個人的なことですが、以前『前田慶次道中日記』の琵琶湖の経路を同行した時に、「弁天嶋の瀬戸」がどこか調べる過程で、沖島の弁財天についての記録『沖島弁天記』が長松院にあるとの情報を目にしたことがあり、一度お話を聞いてみたい場所が長松院でした。
昨日、そのお話をご住職にさせていただきましたところ、本日は境内にあります弁財天を祀ったお堂を開けて下さいました。
また、明治時代の直政公三百回忌に描かれた直政公の肖像画(讃は日下部鳴鶴が書いています)も拝見できました。
どちらも、素晴らしい体験をさせていただきました。


会場 彦根市 長松院
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『なぜ直虎は「おんな城主」になったのか』聴講

2016年07月02日 | 講演
歴史手習塾セミナー22『謎解き おんな城主 直虎』
一日目の『なぜ直虎は「おんな城主」になったのか』を聴講しました。
講師は『おんな城主 直虎』の時代考証を担当される小和田哲男先生です。二日間連続で小和田先生から井伊家の話が聴ける贅沢なイベントであり、今回は前売りで席が埋まったそうです。
しかも、会場は井伊直政を荼毘に付した地に建立された長松院です。本当に特別尽くしの講演になります。

お話は『寛政重修諸家譜』『井伊家伝記』『藩翰譜』を資料として井伊直虎を中心に直平から直政までの井伊家の歴史を紐解かれました。

まずは、女性が城主になるという例は立花家など西日本にみられるが東の井伊家の例もあることから全国的だった可能性があること。
大河ドラマでは「女性も活躍できる社会が戦国時代にもあった」がコンセプトかもしれない。とのことでした。

井伊家は、南北朝時代に南朝の宗良親王に味方して北朝の今川範国と戦っていた頃から今川家と対立していたのですが、直平の時に娘を今川義元に差し出し義元がこの娘を側室にした後に、関口義広に嫁したこと。
井伊家では直宗の討死、直満と直義の誅殺、桶狭間での直盛や家臣の討死など不幸が続き、直虎の許嫁の直親の波乱の人生もお話されました。

そして、直虎。
朱印ではなく黒印を使っているのは女性だが、花押を使った女性は足利義満の母くらいしか見られず珍しいとのことでした。

そして、幼少期の直政。
新野左馬助に養育されていましたが、その死後は左馬助未亡人に育てられ、松下源太郎に嫁いだ実母と共に松下家に養子に入ったとのこと。
15歳で徳川家康に仕え、井伊谷二万石の旧領回復、神君伊賀越えで孔雀の羽根で作った陣羽織を与えられる。
その直後くらいに直虎は亡くなりますが、直政が井伊家の旧領を回復した所を見れて喜んでいたのではないか?とのこと。
その後も、北条氏との大切な交渉を任されるなど、家康の信任は厚かったとのことでした。


講演後の質疑応答で、井伊直宗は実在の人物なのかを訊ねました。
直宗が出した書状などの資料は一切無く、直宗が生きていた頃から直盛が活躍しているために、何とも言えませんが、系図などには必ず書かれている。
とのお答えでした。


会場 彦根市 長松院
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6月28日、井伊直孝死去

2016年06月28日 | 井伊家関連
万治2年(1659)6月28日、井伊直孝が亡くなりました。


井伊直政が上野国(群馬県)箕輪城12万石の城主だった時、同じ年に2人の男児が誕生しました。
長男が、万千代(直継)
次男が、弁之助(直孝)と命名されました。

同じ年に生まれたこの兄弟の母親は別の人物で、万千代の母は正室・松平氏でしたが、弁之助の母・印具氏は、万千代の母の侍女だったのです。
怒った松平氏は印具氏と弁之助を城から追い出してしまったのです。
ちなみに直孝の産湯を汲んだ井戸が静岡県焼津市中里の若宮八幡宮に残っていますので、もしかしたら印具氏が追い出されたのは弁之助が生まれる前だったのかも知れません。
そんな風に、城から追い出された弁之助でしたが、6歳の時に母・印具氏に連れられて直政と親子の対面を果たし、その保護を受けるようになりましたがまだ城に入る事ができなかったのです。

11歳の時に弁之助の有能さを惜しみ手元で育てたいと望んだ直政は、迎え入れるのを拒む松平氏に対して「弁之助に母が居なくなれば我が手で育てねばなるまい」と言い、印具氏に刺客を向けて殺してしまったのです。
こうして母を失った弁之助は父・井伊直政の息子として迎えられたのでした。
この時、直政は近江国佐和山18万石の城主となっていましたが、翌年に亡くなってしまうのです。

しばらくして、徳川家康に拝謁、家康の後継・秀忠に仕え井伊家の別家として所領を得ました。
そして15歳で兄・万千代と共に元服し、直孝と名乗ったのです。
慶長19年(1614)に大坂冬の陣で初陣を飾りますが、この時に病弱な兄に代わって井伊家家臣を率いて出陣しました。
この戦いでは真田信繁の真田丸に攻撃を仕掛けて大敗を喫しますが、その勇猛振りを家康に評価されたのでした。
冬の陣和睦後、家康から井伊家宗家の家督を兄・直継から直孝に譲るようにとの命が下ります。
こうして直孝は彦根藩井伊家を相続したのです。
石高は15万石。3万石を直継に譲ったのでした。この時から井伊家は2家に分かれたのでした。

翌年の大坂夏の陣では先鋒を務め活躍し“夜叉掃部”との異名をとるほどになったのです、この戦いで豊臣秀頼の信頼が厚かった木村重成を討ち取って、秀頼や淀の方を追い詰めて自害に追い込んだのも直孝でした。
戦後、戦功を賞されて家康から金と銀を千枚ずつ賜り、5万石の加増も得たのでした。島津家の薩藩旧記に「日本一の大手柄」と称賛されています。
この加増で、彦根城の拡大が必要となり、第二期工事が始まったのでした。
後年に近江国内で5万石、世田谷と下野国佐野で計5万石(後に3万石が近江に移される)の加増があり30万石の所領を得たのです。
ここに彦根藩主には京都守護を兼任する事が決まっていて、その役料として5万石の米が幕府より預けられていたので合計35万石の大大名となったのでした。

さて、井伊直孝には一つ大きな疑問が残されています。
大老になったのかなっていないのか?
徳川秀忠が亡くなる時に「彦根には戻らず、江戸詰めとなり“元老”に就任して三代将軍・家光を補佐するように」との遺命が残されます。
この元老という職は、そのまま後の大老となるのですが、大老という呼び名では無い以上は、大老として扱わないのか?それともいい直孝が初代大老となるのかは今でも議論が分かれる所です。
彦根藩から出た大老の数は5人か7人と言われていますが、5人の時は“直澄・直興・直幸・直亮・直弼”の事を指し、7人になるとこれに“直孝・直該(直興の再任)”が加わるのです。
どの様な呼び名にしろ、直孝は三代将軍・家光を元老として支え、家光が亡くなった後は四代将軍・家綱の後見を勤めたのです。


何度も書きますが、井伊直孝と言えばひこにゃんです。
彦根は招き猫がシンボルとなっていますが、その伝承は直孝から始まっています。

1615年と言いますから、ちょうど大坂夏の陣の年のこと、貧しいお寺だった弘徳庵の和尚は、とても大切にしている猫(名前・タマ)がいたそうです。
和尚は自分の食事を削ってまで猫に与えていましたが、ある日その猫に「タマ、恩を感じているなら何か福を招いてくれないか?」と言って聞かせました。
多分、貧しさによる冗談だった筈です、しかし夏の日のこと、急に門前が騒がしくなり和尚が不審に思って表に出ると狩の中途と思える立派な武士が居ました。
その武士は「何やらこの猫がしきりに手招きするので尋ねてみた、休憩させてもらう」と言いました。
和尚が武士を茶でもてなしていると突然雷が鳴り響き、辺りは豪雨となったのです、和尚はその中でも整然と仏の教えについて説きました、これを見た武士は「我は、近江彦根城主・井伊直孝だ、猫に招かれ雷雨を逃れ、その上、ありがたい話まで聞けた、これからもよろしく頼む」と言ったそうです。
井伊直孝は、この後、四代将軍・家綱の頃まで幕府の重鎮として活躍し、江戸前期の幕府を築き上げた「寛永の遺臣」の一人にも挙げられていますし、井伊家は江戸時代を通して七人の大老を輩出するほどの名門でしたから弘徳庵は、江戸における井伊家の菩提所として多くの田畑を寄進され、大きなお寺へとなったのでした。
そして、後に直孝の戒名を取って『豪徳寺』と改名したのです。
和尚は、猫の恩返しに感謝し、その後も大切にし、亡くなった後は墓を作って「まねきねこ」と称して家内安全、営業繁盛、心願成就のご利益があると公伝しました。
こうして招き猫が誕生し、彦根も招き猫をシンボルにするようになったのです。

この縁のあり、直孝の墓は豪徳寺に建立されています。
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石田三成と戦国の世御用絵師展

2016年06月20日 | イベント
米原市のおうみはにわ館で行われている『石田三成と戦国の世御用絵師展』を観てきました。

それほど大きな展示ではありませんが、『石田三成の青春』という本の関連展示をが始め、

渡辺崋山、英一蝶、丸山応挙、狩野派の面々の作品といった、貴重な作品が展示されていました。

また、石田三成が領国に発した『十三ヶ条掟書』のうちで成菩提院に残る物が展示されています。
この資料の三成のサインは自署と言われていますので、三成の痕跡を知る貴重な物でもあります。


展示は6月30日まで入場無料ですし、一見の価値はありますよ。
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『琵琶湖周航の歌』をめぐる9 六番「長命寺」

2016年06月12日 | 史跡
6.西国十番 長命寺  汚れの現世 遠くさりて
 黄金の波に いざこがん  語れ我が友 熱き心

前回、彦根港に寄港しなかったのではないか?と考えるもう一つの理由が次にわざわざ「西国十番長命寺」と始めているからです。
長命寺は西国三十一番札所で、十番ではないとの指摘を下級生に受けたとき、小口は「それでは曲に合わない」と答えたそうです。
そこまでしてわざわざ「西国十番」の言葉を入れたのは、西国三十三番札所巡りでは竹生島から長命寺まで舟で渡った故事があるからではないでしょうか?
だからこそ、彦根港は寄港していないと思っています。
ちなみに、この「西国十番」がカットされた歌碑が長命寺港にありました。

現在はこれを甘受して一つの歌の歌詞として認めた歌碑が長命寺境内にあります。



ここから見る琵琶湖は美しいです。

ここでも宗教的な雰囲気のある「汚れの現世遠くさりて 黄金の波にいざ漕がん」と表しています。
黄金の波ということは夕方のイメージがあるので晩年を表現しているのでしょうか?現実には長命寺から大津に向かうのに夕方に漕ぎ始めたら危険ですから、情景描写ではないはずです。

そして、未来を目指すように「語れ我が友 熱き心」と歌は終わります。

『琵琶湖周航の歌』六番に歌詞変更はありませんが、資料館の展示から紹介。

『琵琶湖周航の歌』は六番で終わりますが、ここから、出発地である大津まで戻り、琵琶湖周航は無事に終わりを迎えるのです。


所在地 近江八幡市長命寺町
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『琵琶湖周航の歌』をめぐる8 五番「彦根港」

2016年06月11日 | 史跡
5.矢の根は深く 埋もれて  夏草しげき 堀のあと
 古城にひとり 佇めば  比良も伊吹も 夢のごと

歌碑は、彦根港の奥にあります。



古城という言葉と、当時の城の認識から考えて彦根城だと思われていますが、たぶん小口は彦根には寄港していないのではないか?と思います。
「矢の根は深く」という城によくあるイメージや、「夏草しげき堀のあと」は松尾芭蕉の句に重ねたのでしょう。
どちらにしても、戦がなく堀もしっかりと残っていた彦根城の現状とは違う部分も見られ、長浜城や安土城ではないかとの考え方もありますが、そうなると、距離感が変わってしまうので個人的にもこの古城は彦根城であると思いたいです。
そして「比良も伊吹も夢のごと」が彦根城とどう関わるのか?同じ名前の水上部の漕艇の古くても現役な様子を彦根城に重ねたのではないか?と思えます。

『琵琶湖周航の歌』五番と六番に歌詞変更はありませんが、これまで通り資料館の展示から紹介します。



所在地 彦根市松原町 彦根港
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『琵琶湖周航の歌』をめぐる7 四番「竹生島」

2016年06月10日 | 史跡
4.瑠璃の花園 珊瑚の宮  古い伝への 竹生島
 仏の御手に 抱かれて 眠れ乙女子 やすらけく

琵琶湖を船で移動し、

上陸してすぐに歌碑があります。



竹生島は貴重な建物もあり、一見に値する場所。

『琵琶湖周航の歌』をしつこいほど聴いたら、1~3と4~6では雰囲気が変わることに気がつきます。これはたぶん4番以降は小口以外の意向も多く入り、また歌としての美しさや『ひつじ草』の水面に漂うよう様子を自らの舟に重ねたとも考えられます。
3番までは目に浮かぶ情景の描写でした。しかし4番以降はある意味で宗教的とも言える未知の世界に思えます。
「瑠璃の花園珊瑚の宮」と竜宮城のような描写の竹生島。
再び登場する「乙女子」は仏の御手の中で青春の苦しみから癒され眠りにつくのは救いでしょうか?

では、『琵琶湖周航の歌』四番の歌詞変更も資料館の展示から紹介します。



所在地 長浜市早崎町 竹生島
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