彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『井伊家千年紀』

2017年02月02日 | 書籍紹介
毎月第四日曜日に、滋賀県の湖東湖北地域の読売新聞に折り込まれる地域情報紙の『DADAジャーナル』で僕が連載している「湖東湖北ふることふみ」から井伊家千年の歴史だけをまとめた『井伊家千年紀』が本日、遂に形になりました。


入手方法は、
1.著者である管理人を捕まえる。
2.日曜日からは、繖山の石馬寺に置いています。
3.DADAジャーナル編集部に注文する。

が確定です。
今からもしかしたら方法が増えるかもしれませんのでその時はお知らせします。

また
3の場合、680円切手と送付先のメモを書いた紙を入れて、
〒522-0064
彦根市本町2-2-3
DADAジャーナル編集部
にお送り下さい。

50ページ強の冊子ですが、まえがきを井伊谷龍潭寺のご住職が書いて下さっていますし、表紙は墨絵師・御歌頭さんの『井伊直虎』です。
定価は税込500円ですが、たぶんこの二点だけでも定価以上の価値ある気がします。
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井伊直政公命日法要

2017年01月29日 | イベント
昨年に続き、今年も井伊直政公の命日法要を行いました。

この一週間の大雪のため、清凉寺にもまだまだ雪が残っていました。
そんな中でも、市長や商工会会頭、県議さん、市議さんなどの方々もお越しになられました。

予定の午前9時を少し超えてから本堂で始まった法要。





本堂と位牌堂でご焼香をさせていただきました。

そののち、雪が残る墓所にお参り



雪に埋もれる井伊家歴代のお墓、寒そうです。

でも、雪景色も綺麗ですね。

直政公のお墓でもご住職にお経をあげていただき、無事に法要は終わりました。

今年の大河ドラマと410年祭が無事に行われますように、井伊直政公にお祈りしました。


関連地 彦根市 清凉寺
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勝鳥神社 訪問

2017年01月02日 | 史跡
毎年、元日に干支に関わる神社にお参りに行くことを習慣にしていますが、今年は彦根市内の勝鳥神社に行きました。

事代主命らと美濃に向かって出陣した天稚彦命が美濃で討死し、その亡骸を天稚彦命の妻である下照姫命が引き取って葬った地とされていて、下照姫命はそこに勝鳥石を建てたそうです。
関係としては、事代主命と下照姫命が大国主命の子どもと言われていますので、事代主命と天稚彦命は義理の兄弟ですね。
近くの高野瀬には天稚彦神社もありどちらも同じ氏子さんに寄って守られていた時期があり、戦国期にはどちらも高野瀬氏の領国であったことも興味をそそります。

また、近く亀山小学校の裏にある茂賀山には、天照大神に派遣された天若日子が大国主命と会うために天上から金の鶏に乗って地上に降り、鶏を置いて行った地とされています。
ちなみに、天若日子は大国主命の娘シタテルヒメと結婚してしまい、仕事を果たさなかったので天照大神が命じた矢を受けて死んだとされているなですが…

天稚彦はアメワカヒコつまり天若日子
下照姫はシタテルヒメ

と考えると、全く違う話が同じ人物によって結ばれ、下照姫命がなぜ勝鳥石なんて物を建てたのかもわかります。

そんな勝鳥神社参拝
人が多い…
12年前にある旅行会社がミステリーツアーとして干支に関わる神社として参拝を企画したことから酉年に注目されて参拝もあるみたいです。

由緒書

境内には鳥の狛犬?や絵馬額など…









また、近くには肥田城水攻めに関わった高野瀬氏の重臣久木氏の住居だった越川城跡の碑もあります。



関連地 彦根市三津町 勝鳥神社
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『コレクター大名 井伊直亮』

2016年10月29日 | 博物館展示
彦根城博物館で10月28日〜11月27日の期間で行われる特別展『コレクター大名井伊直亮-知られざる大コレクションの全貌-』を観て来ました。

井伊直亮は、直弼の兄で先代藩主でもあります。
彦根藩主随一の数寄者と言ってもよい人物で、たくさんの美術品を収集しました。
その中の最高傑作が今日「彦根屏風」と呼ばれる、京都三条柳町の色街を描いた風俗画です。

(↑この写真は、別の時に展示されたものです、今回の展示では撮影できません)
多くの貯蔵品は、関東大震災や東京の空襲で失われましたが、その不幸すら乗り越えて残った物の数々なのです。
そして、直亮だけではなく同じようにコレクター大名だった松浦静山、松平不昧、細川斉茲、徳川治宝の集めた物もあり、芸術品のオンパレードです。
彦根屏風と並び称される風俗画の傑作「松浦屏風」も観ることができます。

そして、別の展示として、大坂夏の陣に関わる物も展示されていて、
井伊直孝の甲冑



若江合戦の絵

彦根藩士八田金十郎の備前長船の脇差

といった『真田丸』を彷彿させる物も観れます。
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10月13日、一言坂の戦い

2016年10月13日 | 何の日?
元亀3年(1572)10月13日、遠江国一言坂で徳川軍の本多忠勝と、武田軍の山県昌景が戦いました。
三方ヶ原の戦いの前哨戦の一つでもある戦いで、二俣城での戦いに敗れた徳川家康が天竜川の東である一言坂に本多忠勝ら3000の兵を抑えとして派兵します。
しかし坂の上にはすでに山県昌景5000が陣取っていて、忠勝は家康が逃げるまでの間に坂の下で上からの敵を防ぐという難しい戦いを強いられるのです。
しかも、本多軍の後方に小杉左近を進ませて鉄砲を撃たせ挟み撃ちにするという武田軍必勝の策が実行されました。

陣も安定せず、地形や人数も不利だった忠勝でしたが後方の小杉隊に突っ込むことで死地を脱したのです。
このときに小杉は道を開けさせて、忠勝は感謝の言葉を述べて去っていったのでした。

この戦いの後、小杉左近は
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」
との落首を書き、本多忠勝の武勇を賞したのです。


現在は国道一号線が通り道が整備されていますが、それでも浜松市から磐田市への移動で一言坂の落差がよくわかります。
磐田警察署の少し西に古戦場跡があり、ここに立つと落差が顕著です。




一言坂から1キロほど西へ向かうと、徳川家康が提灯の光で武田軍をだまして打ち取ったという伝承がある挑燈野という場所があります。



三方ヶ原の後の犀ヶ崖でも同じような伝承がありますが、これらは家康がただ負けただけではないとの神君伝説の一つなのかもしれませんね。


・所在地 静岡県磐田市(国道一号線沿い)
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『Dramatic Legacy』

2016年09月30日 | イベント
彦根城と多賀大社周辺で10月1日から行われるライトアップのイベント『Dramatic Legacy』の彦根城での点灯式が行われまさした。

ひこにゃんや、たがゆいちゃんも参加しての点灯式

BGMになぜかカラスの大合唱

そして、点灯されました。
表門橋の辺りでは、赤や青に染まります。



佐和口では彦根橘の紋がライトアップされました。





ライトアップは12月31日まで行われ、彦根城の様々な場所に思考を凝らした物がみれるそうです。

明日からは、多賀大社、胡宮神社、高源寺、大瀧神社でも普段では見れないライトアップがされます。
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9月28日南渓和尚死去

2016年09月28日 | 井伊家千年紀
天正17年(1589)9月28日、南渓瑞聞が亡くなりました。

井伊直虎の大叔父(祖父の弟)で、直虎の人生において常に支えとなった人物が南渓和尚です。
以前は井伊直平の実子の次男(もしくは三男)と言われていましたが、井伊谷龍潭寺の過去帳を見ると、父は「実田秀公居士」母は「善室賢修大姉」とあり両親の名前(戒名)は直平以外の人物が記されていて、現在では井伊家に養子として迎えられたのではないかと考えられるようになりました。
武士の家では殺生が日常であるために、一族の者から僧籍に入れることで一族が救われるとも信じられていました。南渓和尚の両親と井伊直平がどのような関係にあったのかも資料はありませんが、もしかしら僧籍に入れるために井伊家の養子に入った可能性もあるのです。
南渓は、直平が井伊谷に招いた黙宗瑞淵(龍潭寺一世)に学び、龍潭寺二世となるのです。また桶狭間の戦いの後には今川義元の葬儀の総括(安骨大導師)を任されたほどでした。

9月18日の直平の命日の時にも書きましたが、井伊家は南渓の兄弟である直宗・直満・直義が不幸な死に方をし、甥の直盛は桶狭間で討死、直親は今川氏真の意で暗殺されました。
また、井伊家を支えた一門の奥山朝利は井伊家家老の小野但馬に雑害され、その後の井伊家を支えた義父直平も毒殺されてしまったのです。
井伊家は、残った男子である虎松(のちの直政)を育てるために直盛の義兄・新野左馬助と一門の中野直由を後見としますが、新野と中野も引馬城攻めの最中に安間橋において討死。
南渓は、龍潭寺で出家していた直盛の娘・次郎法師を直虎と名乗らせ女地頭として井伊家当主とし自らが後見として井伊家を守ったのです。
今川氏真の介入を直虎が支えきれず、井伊家はいったん地頭としての地位を失い直虎も龍潭寺の尼に戻ります。そして武田信玄の侵攻によって井伊谷や龍潭寺は火の海となったのです。

そんな苦労を乗り終えて虎松が15歳のとき、南渓は直虎や虎松の母とはかって虎松と徳川家康の面会を浜松城下で演出します。
そして井伊家の発展の基礎を虎松(家康に仕えて万千代と改名)に託したのです。
直虎と万千代の活躍を聞いていたであろう南渓でしたが、今度は直虎の死に立ち会うことになります。

その後、万千代は元服し直政と名乗り、赤備えを託されて小牧長久手の戦いなどで活躍、豊臣秀吉にも愛されて侍従任官と、昔の井伊家を取り戻すような活躍を見せますが、南渓はそのすべての報せを聞く立場にありました。
しかし、豊臣秀吉が天下を統一する直前にその生涯を閉じたのです。

よく井伊直平や直虎が井伊家の不幸を体感した人物として挙げられますが、本当の意味で井伊家の殆どの男たちの死と女地頭にまでなった直虎の死まで経験した井伊家の不幸を知り尽くした人物は南渓瑞聞だったのです。

〇龍潭寺の南渓肖像画(直虎命日法要で本堂に出ていましたが普段は撮影できません)

〇2016年に発見された妙雲院の南渓和尚の位牌



関連地 浜松市北区引佐町 龍潭寺・妙雲院
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9月18日、井伊直平死去

2016年09月18日 | 井伊家千年紀
永禄6年(1563)9月18日、井伊直平が亡くなりました。
75歳とも85歳とも言われていますが、75歳だとその後の子や孫たちとの年齢に支障がありますので85歳説を押す本をよく見かけます。

さて、井伊直平という人物を一言で表すならば、井伊家のどん底を味わった人物ともいうべきでしょうか?
井伊家は代々今川家と対立していましたが、明応7年(1498)の大地震で浜名湖が外洋と繋がると東海道が海沿いの道から浜名湖を回り込む道を使うようになり、井伊谷近くの経済的価値が上がってしまうのです。
これにより、今川家は拠点としての井伊領の価値を認め、井伊家と今川家の対立はより激しいものになりました。
永正5年(1508)、父の直氏死去。直平が井伊家の運命を握りますが、その直後に今川家の猛攻に耐えられず降伏し、詰めの城である三岳城を明け渡すことになるのです。
この後、20年近くを井伊谷近くの伊平で過ごしたとも言われています。

井伊谷に戻れたきっかけは、今川家の家督争い(花倉の乱)で今川義元に味方したためと言われていて、義元に娘を人質として差し出しますが、この娘が義元のお手付きとなった後に、妹として関口義広(瀬名親永)に嫁ぎ築山御前(徳川家康の正室)を生みました。

さて、井伊谷に戻ったあとからの井伊家には今川家に絡む不幸が続きます。
息子の直宗は今川軍の先発として出陣した田原城(または今橋城など諸説あり)で討死、直満と直義は謀反の疑いで駿府城にて斬殺。
娘は、桶狭間の戦いの後に家康が今川家から独立したために夫と共に自害。
孫の直盛(直宗の子)は桶狭間の戦いで義元近くに居て自害、直親(直満の子)も謀反を疑われ今川氏真の命で懸川(掛川)で殺害されたのです。
こうして、息子と娘、そして孫たちにも先立たれ、井伊家に残った最後の男子である虎松(後の直政。直親の子)に家を繋げるために再び井伊家を差配したのです。死の一年半前の事でした。

井伊家当主として、今川氏真からの無理な出陣要請にも応えなければならなかった直平。
氏真の三河攻めに際して、直平は三河との国境の遠江白須賀に陣を置きました。
この時に不運があり、陣から火が出て白須賀の建物が幾つか焼ける事態にもなったのです。氏真は井伊家の裏切りと勘違いして兵を懸川城まで撤退。火を出した直平に社山城の天野氏を攻めるように命じたのでした。
この出陣の途中で引馬城主飯尾連龍と妻のお田鶴の方が陣中見舞に訪れ、すでに氏真を裏切る決意をしていた連龍は妻に毒入りの茶を点てさせて直平に飲ませたとされています。
そして、徐々に毒に犯された直平は馬上から落ち、驚いた家臣の大石作左衛門が遺体を川名まで運んで埋めたとも、死を悟った直平が三岳城を守る存在となるべく川名まで最後の力を振り絞って馬を翔け鎧橋で命を落としたとも言われているのです。
大石はその後、直平を追って自害しました。
(鎧橋)


現在の墓は井伊直弼の命で作られたものと言われています。



関連地:浜松市北区引佐町川名
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9月15日、新野左馬助討死

2016年09月15日 | 井伊家千年紀
5日前に、新野左馬助の命日法要の話を書きましたとおり、永禄7年(1564)9月15日に新野左馬助親矩が、引馬城攻めの時に安間橋において討死しました。

新野家は『吾妻鏡』に井伊介と共に東大寺法要に行った記録もある遠江国の名家で、戦国時代には今川家に仕えていて今川義元の信任も厚かったと言われています。

しかし、もともとは井伊家の監視のために左馬助の妹が井伊直盛に嫁いだはずだったのですが、左馬助自身も井伊家の分家である奥山家から妻を娶りいつの間にか井伊家一門と並ぶようになっていたのです。
そして妹が直盛の娘を生んだのでした、これがのちの直虎です。

今川家から井伊家に来る無理難題の防波堤になっていた左馬助でしたが、それでも防ぎきれず井伊家の男性はどんどんと亡くなって行き、ついには幼い虎松と年老いた直平が残りました。
永禄6年9月18日、直平没(詳細は後日)、井伊家は家を継げる成人男性が居なくなり後見として新野左馬助と中野直由が井伊家を支えます。
しかし、引馬城主の飯尾連龍は、今川氏真からの離反を表明、怒った氏真は井伊家に引馬城討伐を命じて、この戦いで左馬助も直由も討死してしまったのでした。

左馬助の墓は、
御前崎市の左馬武神社に残る出土された多くの墓石


浜松市龍潭寺の墓


そして命日法要を行った彦根市龍潭寺の墓

が知られています。
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新野左馬助命日法要

2016年09月10日 | イベント
井伊直虎の母方の伯父である新野左馬助のお墓が彦根の龍潭寺にあります。
新野家は井伊直弼の兄によって江戸後期に家名が再興した家で、この時の当主である新野親良が新野家の名将である左馬助親矩の戒名が刻まれた墓を建立し、新野家の墓所としたのです。

そんな左馬助は、永禄7年(1564)9月15日に遠江国の東海道にある安間橋で討死しました。
前年の9月18日、井伊直虎の曽祖父である直平が引馬城(現・浜松城辺り)の城主飯尾連龍の室であるお田鶴に毒を盛られて亡くなり、井伊家は家を継げる成人男性が居なくなったのです。
そんな井伊家を後見していたのが、新野左馬助と中野直由でした。
直平を毒殺した飯尾連龍は、今川氏真からの離反を表明、怒った氏真は井伊家に引馬城討伐を命じて、この戦いで左馬助も直由も討死してしまい、井伊直虎が井伊家当主となるのです(直虎の当主になる時期には諸説あり)

と、いう訳で9月10日に彦根の龍潭寺、9月17日に御前崎市で命日法要が行われることになりました。
龍潭寺では、本堂において左馬助や直虎、直虎の両親など関わった方々のご供養も行われました。



その後、お墓に移動。
佐和山城跡への登城ルートに幟旗が立ちました。

この奥に左馬助のお墓があります。

ここでもご供養の読経が行われ、無事に彦根での命日法要が終わりました。

井伊直政
高瀬姫
新野左馬助
と、彦根にお墓がある井伊直虎に関わる方々の命日法要を終え、井伊直虎市民応援隊は、新たな心持ちで来年に備えたいと思っています。


関連地 彦根市 龍潭寺
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