彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:外国総奉行設置(4月24日)

2017年04月24日 | 何の日?
慶応3年(1867)4月24日、江戸幕府が外国総奉行を新たに設置しました。

安政5年(1858)6月19日に日米修好通商条約が締結されると、幕府と外国との交渉事が出始めたために、幕府は外国奉行を新たに設置して、諸外国との交渉にあたらせていました。
当初は5人だった奉行なのですが、諸外国との問題が多く発生して、そのたびに外国奉行の人数を増やしていたので、外国奉行をまとめるための役職が必要となったのです。
それが外国総奉行でした。

しかし、外国奉行を纏めるためだけに仕事をするわけにもいかず、若年寄などとの兼任になっていたのでした。

そんな外国総奉行ですが、設置から半年後の10月14日に大政奉還が行われて、幕府が崩壊してしまったために、すぐに廃止されることになり、実質そのような仕事だったのか?実際にどんなことを行ったのかは、ほとんど世に知られていないのです。
唯一といっていいほどの歴史に残る事例が、大政奉還後の12月に外国総奉行に就任した堀直虎という人物が翌年1月17日に江戸城内で突然自害して果てたことです。
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新野左馬助公献茶式

2017年04月09日 | イベント
昨年に続き、今年も参加してきました。

朝は生憎の雨に降られ心配していましたが、酷いことにはならなかったので左馬武神社で始まりました。



まずは献茶式の神事が行われ、新茶の恵みに感謝します。
そこから、新茶会と続きました。

今年は『おんな城主 直虎』が放送され、直虎の伯父である新野左馬助が活躍していたこともあり、左馬助を演じられていた苅谷俊介さんも参加されました。
ドラマでは今川にいじめられてしまう目付であり好々爺だった左馬助ですが、苅谷さんも実際の左馬助もカッコいい男性という共通点があるように思います。

献茶式が終わる頃には雨も気にならない程度となりました。

新野左馬助公顕彰会を発足された故鈴木東洋先生の旧宅で展示されている資料を楽しむ時間もあり有意義な時間となりました。









関連地 御前崎市新野
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『Over the SEKIGAHARA』

2017年03月25日 | イベント
夢京橋あかり館で墨絵師御歌頭さんによるライブペイント『Over the SEKIGAHARA』が行われました。

彦根で御歌頭さんといえば、二年前に治部少丸で行われた壁へ石田三成を描いたライブペイントがよく知られるようになりましたが、今回は二日に分けて関ケ原の戦いに関わった武将を五人描かれたのです。

石田三成、徳川家康を一日目





管理人は、この時は観に行けませんでしたが、二日目をじっくり観てきました。

二日目は、大谷吉継と島左近






そして、井伊直政と騎馬軍団




島左近に槍を持たせて完成


凄い迫力で、御歌頭さん技術がふんだんに入っている贅沢な作品です。


全体像


御歌頭さんも入って下さいました。




彦根城に近い夢京橋キャッスルロードのあかり館2階の「MITUMARI11」で常設展示されることになります。
治部少丸の三成同様にこれを目的にしても間違いない物です。
ぜひ、観にきて下さい。
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『井伊家千年紀』

2017年02月02日 | 書籍紹介
毎月第四日曜日に、滋賀県の湖東湖北地域の読売新聞に折り込まれる地域情報紙の『DADAジャーナル』で僕が連載している「湖東湖北ふることふみ」から井伊家千年の歴史だけをまとめた『井伊家千年紀』が本日、遂に形になりました。


入手方法は、
1.著者である管理人を捕まえる。
2.日曜日からは、繖山の石馬寺に置いています。
3.DADAジャーナル編集部に注文する。

が確定です。
今からもしかしたら方法が増えるかもしれませんのでその時はお知らせします。

また
3の場合、680円切手と送付先のメモを書いた紙を入れて、
〒522-0064
彦根市本町2-2-3
DADAジャーナル編集部
にお送り下さい。

50ページ強の冊子ですが、まえがきを井伊谷龍潭寺のご住職が書いて下さっていますし、表紙は墨絵師・御歌頭さんの『井伊直虎』です。
定価は税込500円ですが、たぶんこの二点だけでも定価以上の価値ある気がします。
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井伊直政公命日法要

2017年01月29日 | イベント
昨年に続き、今年も井伊直政公の命日法要を行いました。

この一週間の大雪のため、清凉寺にもまだまだ雪が残っていました。
そんな中でも、市長や商工会会頭、県議さん、市議さんなどの方々もお越しになられました。

予定の午前9時を少し超えてから本堂で始まった法要。





本堂と位牌堂でご焼香をさせていただきました。

そののち、雪が残る墓所にお参り



雪に埋もれる井伊家歴代のお墓、寒そうです。

でも、雪景色も綺麗ですね。

直政公のお墓でもご住職にお経をあげていただき、無事に法要は終わりました。

今年の大河ドラマと410年祭が無事に行われますように、井伊直政公にお祈りしました。


関連地 彦根市 清凉寺
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勝鳥神社 訪問

2017年01月02日 | 史跡
毎年、元日に干支に関わる神社にお参りに行くことを習慣にしていますが、今年は彦根市内の勝鳥神社に行きました。

事代主命らと美濃に向かって出陣した天稚彦命が美濃で討死し、その亡骸を天稚彦命の妻である下照姫命が引き取って葬った地とされていて、下照姫命はそこに勝鳥石を建てたそうです。
関係としては、事代主命と下照姫命が大国主命の子どもと言われていますので、事代主命と天稚彦命は義理の兄弟ですね。
近くの高野瀬には天稚彦神社もありどちらも同じ氏子さんに寄って守られていた時期があり、戦国期にはどちらも高野瀬氏の領国であったことも興味をそそります。

また、近く亀山小学校の裏にある茂賀山には、天照大神に派遣された天若日子が大国主命と会うために天上から金の鶏に乗って地上に降り、鶏を置いて行った地とされています。
ちなみに、天若日子は大国主命の娘シタテルヒメと結婚してしまい、仕事を果たさなかったので天照大神が命じた矢を受けて死んだとされているなですが…

天稚彦はアメワカヒコつまり天若日子
下照姫はシタテルヒメ

と考えると、全く違う話が同じ人物によって結ばれ、下照姫命がなぜ勝鳥石なんて物を建てたのかもわかります。

そんな勝鳥神社参拝
人が多い…
12年前にある旅行会社がミステリーツアーとして干支に関わる神社として参拝を企画したことから酉年に注目されて参拝もあるみたいです。

由緒書

境内には鳥の狛犬?や絵馬額など…









また、近くには肥田城水攻めに関わった高野瀬氏の重臣久木氏の住居だった越川城跡の碑もあります。



関連地 彦根市三津町 勝鳥神社
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『コレクター大名 井伊直亮』

2016年10月29日 | 博物館展示
彦根城博物館で10月28日〜11月27日の期間で行われる特別展『コレクター大名井伊直亮-知られざる大コレクションの全貌-』を観て来ました。

井伊直亮は、直弼の兄で先代藩主でもあります。
彦根藩主随一の数寄者と言ってもよい人物で、たくさんの美術品を収集しました。
その中の最高傑作が今日「彦根屏風」と呼ばれる、京都三条柳町の色街を描いた風俗画です。

(↑この写真は、別の時に展示されたものです、今回の展示では撮影できません)
多くの貯蔵品は、関東大震災や東京の空襲で失われましたが、その不幸すら乗り越えて残った物の数々なのです。
そして、直亮だけではなく同じようにコレクター大名だった松浦静山、松平不昧、細川斉茲、徳川治宝の集めた物もあり、芸術品のオンパレードです。
彦根屏風と並び称される風俗画の傑作「松浦屏風」も観ることができます。

そして、別の展示として、大坂夏の陣に関わる物も展示されていて、
井伊直孝の甲冑



若江合戦の絵

彦根藩士八田金十郎の備前長船の脇差

といった『真田丸』を彷彿させる物も観れます。
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10月13日、一言坂の戦い

2016年10月13日 | 何の日?
元亀3年(1572)10月13日、遠江国一言坂で徳川軍の本多忠勝と、武田軍の山県昌景が戦いました。
三方ヶ原の戦いの前哨戦の一つでもある戦いで、二俣城での戦いに敗れた徳川家康が天竜川の東である一言坂に本多忠勝ら3000の兵を抑えとして派兵します。
しかし坂の上にはすでに山県昌景5000が陣取っていて、忠勝は家康が逃げるまでの間に坂の下で上からの敵を防ぐという難しい戦いを強いられるのです。
しかも、本多軍の後方に小杉左近を進ませて鉄砲を撃たせ挟み撃ちにするという武田軍必勝の策が実行されました。

陣も安定せず、地形や人数も不利だった忠勝でしたが後方の小杉隊に突っ込むことで死地を脱したのです。
このときに小杉は道を開けさせて、忠勝は感謝の言葉を述べて去っていったのでした。

この戦いの後、小杉左近は
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」
との落首を書き、本多忠勝の武勇を賞したのです。


現在は国道一号線が通り道が整備されていますが、それでも浜松市から磐田市への移動で一言坂の落差がよくわかります。
磐田警察署の少し西に古戦場跡があり、ここに立つと落差が顕著です。




一言坂から1キロほど西へ向かうと、徳川家康が提灯の光で武田軍をだまして打ち取ったという伝承がある挑燈野という場所があります。



三方ヶ原の後の犀ヶ崖でも同じような伝承がありますが、これらは家康がただ負けただけではないとの神君伝説の一つなのかもしれませんね。


・所在地 静岡県磐田市(国道一号線沿い)
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『Dramatic Legacy』

2016年09月30日 | イベント
彦根城と多賀大社周辺で10月1日から行われるライトアップのイベント『Dramatic Legacy』の彦根城での点灯式が行われまさした。

ひこにゃんや、たがゆいちゃんも参加しての点灯式

BGMになぜかカラスの大合唱

そして、点灯されました。
表門橋の辺りでは、赤や青に染まります。



佐和口では彦根橘の紋がライトアップされました。





ライトアップは12月31日まで行われ、彦根城の様々な場所に思考を凝らした物がみれるそうです。

明日からは、多賀大社、胡宮神社、高源寺、大瀧神社でも普段では見れないライトアップがされます。
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9月28日南渓和尚死去

2016年09月28日 | 井伊家千年紀
天正17年(1589)9月28日、南渓瑞聞が亡くなりました。

井伊直虎の大叔父(祖父の弟)で、直虎の人生において常に支えとなった人物が南渓和尚です。
以前は井伊直平の実子の次男(もしくは三男)と言われていましたが、井伊谷龍潭寺の過去帳を見ると、父は「実田秀公居士」母は「善室賢修大姉」とあり両親の名前(戒名)は直平以外の人物が記されていて、現在では井伊家に養子として迎えられたのではないかと考えられるようになりました。
武士の家では殺生が日常であるために、一族の者から僧籍に入れることで一族が救われるとも信じられていました。南渓和尚の両親と井伊直平がどのような関係にあったのかも資料はありませんが、もしかしら僧籍に入れるために井伊家の養子に入った可能性もあるのです。
南渓は、直平が井伊谷に招いた黙宗瑞淵(龍潭寺一世)に学び、龍潭寺二世となるのです。また桶狭間の戦いの後には今川義元の葬儀の総括(安骨大導師)を任されたほどでした。

9月18日の直平の命日の時にも書きましたが、井伊家は南渓の兄弟である直宗・直満・直義が不幸な死に方をし、甥の直盛は桶狭間で討死、直親は今川氏真の意で暗殺されました。
また、井伊家を支えた一門の奥山朝利は井伊家家老の小野但馬に雑害され、その後の井伊家を支えた義父直平も毒殺されてしまったのです。
井伊家は、残った男子である虎松(のちの直政)を育てるために直盛の義兄・新野左馬助と一門の中野直由を後見としますが、新野と中野も引馬城攻めの最中に安間橋において討死。
南渓は、龍潭寺で出家していた直盛の娘・次郎法師を直虎と名乗らせ女地頭として井伊家当主とし自らが後見として井伊家を守ったのです。
今川氏真の介入を直虎が支えきれず、井伊家はいったん地頭としての地位を失い直虎も龍潭寺の尼に戻ります。そして武田信玄の侵攻によって井伊谷や龍潭寺は火の海となったのです。

そんな苦労を乗り終えて虎松が15歳のとき、南渓は直虎や虎松の母とはかって虎松と徳川家康の面会を浜松城下で演出します。
そして井伊家の発展の基礎を虎松(家康に仕えて万千代と改名)に託したのです。
直虎と万千代の活躍を聞いていたであろう南渓でしたが、今度は直虎の死に立ち会うことになります。

その後、万千代は元服し直政と名乗り、赤備えを託されて小牧長久手の戦いなどで活躍、豊臣秀吉にも愛されて侍従任官と、昔の井伊家を取り戻すような活躍を見せますが、南渓はそのすべての報せを聞く立場にありました。
しかし、豊臣秀吉が天下を統一する直前にその生涯を閉じたのです。

よく井伊直平や直虎が井伊家の不幸を体感した人物として挙げられますが、本当の意味で井伊家の殆どの男たちの死と女地頭にまでなった直虎の死まで経験した井伊家の不幸を知り尽くした人物は南渓瑞聞だったのです。

〇龍潭寺の南渓肖像画(直虎命日法要で本堂に出ていましたが普段は撮影できません)

〇2016年に発見された妙雲院の南渓和尚の位牌



関連地 浜松市北区引佐町 龍潭寺・妙雲院
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