彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

9月18日、井伊直平死去

2016年09月18日 | 井伊家千年紀
永禄6年(1563)9月18日、井伊直平が亡くなりました。
75歳とも85歳とも言われていますが、75歳だとその後の子や孫たちとの年齢に支障がありますので85歳説を押す本をよく見かけます。

さて、井伊直平という人物を一言で表すならば、井伊家のどん底を味わった人物ともいうべきでしょうか?
井伊家は代々今川家と対立していましたが、明応7年(1498)の大地震で浜名湖が外洋と繋がると東海道が海沿いの道から浜名湖を回り込む道を使うようになり、井伊谷近くの経済的価値が上がってしまうのです。
これにより、今川家は拠点としての井伊領の価値を認め、井伊家と今川家の対立はより激しいものになりました。
永正5年(1508)、父の直氏死去。直平が井伊家の運命を握りますが、その直後に今川家の猛攻に耐えられず降伏し、詰めの城である三岳城を明け渡すことになるのです。
この後、20年近くを井伊谷近くの伊平で過ごしたとも言われています。

井伊谷に戻れたきっかけは、今川家の家督争い(花倉の乱)で今川義元に味方したためと言われていて、義元に娘を人質として差し出しますが、この娘が義元のお手付きとなった後に、妹として関口義広(瀬名親永)に嫁ぎ築山御前(徳川家康の正室)を生みました。

さて、井伊谷に戻ったあとからの井伊家には今川家に絡む不幸が続きます。
息子の直宗は今川軍の先発として出陣した田原城(または今橋城など諸説あり)で討死、直満と直義は謀反の疑いで駿府城にて斬殺。
娘は、桶狭間の戦いの後に家康が今川家から独立したために夫と共に自害。
孫の直盛(直宗の子)は桶狭間の戦いで義元近くに居て自害、直親(直満の子)も謀反を疑われ今川氏真の命で懸川(掛川)で殺害されたのです。
こうして、息子と娘、そして孫たちにも先立たれ、井伊家に残った最後の男子である虎松(後の直政。直親の子)に家を繋げるために再び井伊家を差配したのです。死の一年半前の事でした。

井伊家当主として、今川氏真からの無理な出陣要請にも応えなければならなかった直平。
氏真の三河攻めに際して、直平は三河との国境の遠江白須賀に陣を置きました。
この時に不運があり、陣から火が出て白須賀の建物が幾つか焼ける事態にもなったのです。氏真は井伊家の裏切りと勘違いして兵を懸川城まで撤退。火を出した直平に社山城の天野氏を攻めるように命じたのでした。
この出陣の途中で引馬城主飯尾連龍と妻のお田鶴の方が陣中見舞に訪れ、すでに氏真を裏切る決意をしていた連龍は妻に毒入りの茶を点てさせて直平に飲ませたとされています。
そして、徐々に毒に犯された直平は馬上から落ち、驚いた家臣の大石作左衛門が遺体を川名まで運んで埋めたとも、死を悟った直平が三岳城を守る存在となるべく川名まで最後の力を振り絞って馬を翔け鎧橋で命を落としたとも言われているのです。
大石はその後、直平を追って自害しました。
(鎧橋)


現在の墓は井伊直弼の命で作られたものと言われています。



関連地:浜松市北区引佐町川名
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9月15日、新野左馬助討死

2016年09月15日 | 井伊家千年紀
5日前に、新野左馬助の命日法要の話を書きましたとおり、永禄7年(1564)9月15日に新野左馬助親矩が、引馬城攻めの時に安間橋において討死しました。

新野家は『吾妻鏡』に井伊介と共に東大寺法要に行った記録もある遠江国の名家で、戦国時代には今川家に仕えていて今川義元の信任も厚かったと言われています。

しかし、もともとは井伊家の監視のために左馬助の妹が井伊直盛に嫁いだはずだったのですが、左馬助自身も井伊家の分家である奥山家から妻を娶りいつの間にか井伊家一門と並ぶようになっていたのです。
そして妹が直盛の娘を生んだのでした、これがのちの直虎です。

今川家から井伊家に来る無理難題の防波堤になっていた左馬助でしたが、それでも防ぎきれず井伊家の男性はどんどんと亡くなって行き、ついには幼い虎松と年老いた直平が残りました。
永禄6年9月18日、直平没(詳細は後日)、井伊家は家を継げる成人男性が居なくなり後見として新野左馬助と中野直由が井伊家を支えます。
しかし、引馬城主の飯尾連龍は、今川氏真からの離反を表明、怒った氏真は井伊家に引馬城討伐を命じて、この戦いで左馬助も直由も討死してしまったのでした。

左馬助の墓は、
御前崎市の左馬武神社に残る出土された多くの墓石


浜松市龍潭寺の墓


そして命日法要を行った彦根市龍潭寺の墓

が知られています。
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新野左馬助命日法要

2016年09月10日 | イベント
井伊直虎の母方の伯父である新野左馬助のお墓が彦根の龍潭寺にあります。
新野家は井伊直弼の兄によって江戸後期に家名が再興した家で、この時の当主である新野親良が新野家の名将である左馬助親矩の戒名が刻まれた墓を建立し、新野家の墓所としたのです。

そんな左馬助は、永禄7年(1564)9月15日に遠江国の東海道にある安間橋で討死しました。
前年の9月18日、井伊直虎の曽祖父である直平が引馬城(現・浜松城辺り)の城主飯尾連龍の室であるお田鶴に毒を盛られて亡くなり、井伊家は家を継げる成人男性が居なくなったのです。
そんな井伊家を後見していたのが、新野左馬助と中野直由でした。
直平を毒殺した飯尾連龍は、今川氏真からの離反を表明、怒った氏真は井伊家に引馬城討伐を命じて、この戦いで左馬助も直由も討死してしまい、井伊直虎が井伊家当主となるのです(直虎の当主になる時期には諸説あり)

と、いう訳で9月10日に彦根の龍潭寺、9月17日に御前崎市で命日法要が行われることになりました。
龍潭寺では、本堂において左馬助や直虎、直虎の両親など関わった方々のご供養も行われました。



その後、お墓に移動。
佐和山城跡への登城ルートに幟旗が立ちました。

この奥に左馬助のお墓があります。

ここでもご供養の読経が行われ、無事に彦根での命日法要が終わりました。

井伊直政
高瀬姫
新野左馬助
と、彦根にお墓がある井伊直虎に関わる方々の命日法要を終え、井伊直虎市民応援隊は、新たな心持ちで来年に備えたいと思っています。


関連地 彦根市 龍潭寺
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『井伊直虎 学習会』現地学習会

2016年08月31日 | イベント
前回から一か月ぶりに『井伊直虎 学習会』が行われまさした。
今回は井伊谷龍潭寺まで行って現地での学習会を行う内容です。

彦根市役所から50名弱がバスにのり井伊谷を目指します。
休憩を含んだ三時間半の道程を越えて到着。

前住職の武藤全裕さんが、本堂やお庭などを丁寧に説明して下さいました。








墓所では、井伊直虎のお墓や歴代のお墓もお参り

直親を助けた今村藤七郎のお墓なども説明して下さいました。

そして、直虎が亡くなった地ともされている松岳院跡

井伊家の始まりの井戸も訪れました(写真撮り忘れ)

駆け足でしたが、井伊家の始まりの一部を覗き見た現地学習会でした。

井伊直虎は、井伊谷ではなく近くの伊平で誕生したのではないか?との説を最近耳にしましたが、道中見ていると伊平では「直虎誕生の地」と案内されていました。
(後日、ご指摘をいただき「直虎の祖母・曽祖母生誕地」と書かれているとのことでした)

浜松での対応の早さには頭が下がります。

夕方に彦根帰還。
市税を使った勉強会ですので、参加者は今回学んだことを伝えて行く役割を担っています。
しっかりと、アウトプットして行ける責任を果たさねばなりませんね。


関連地 浜松市北区引佐町 龍潭寺
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『直虎フォーラムin浜松』

2016年08月27日 | イベント
午前中に妙雲寺や龍潭寺で井伊直虎の命日法要が行われるましたが、午後からは浜松市みをつくし文化センターホールで『直虎フォーラムin浜松』が開催されました.
浜松市みをつくし文化センターホールは、2017年1月15日から一年間『おんな城主 直虎』大河ドラマ館となる場所でもあります。

直虎フォーラムのプログラムとして、4つの項目が進められました。

ますばパネルディスカッション「井伊家と遠州」
・コーディネーター:磯田道史先生

・パネリスト:井伊家18代当主・井伊直岳さん、時代考証を担当される小和田哲男先生、浜松市長・鈴木康友さん

内容は、井伊家は鎌倉時代には八介と称されくらいの名家でありながら南北朝時代以降負ける方についてしまうことが続き、直虎の時代には苦労していたこと。
小和田先生が戦国時代には立花道雪の娘の誾千代のように女性が城主になった例があり、女城主といえば岩村城の信長の叔母が浮かびますが、実際に女性が城に籠って戦った例はあり江戸時代以降の男尊女卑ではなかったとのこと。直虎は井伊家の男が居なくなり窮余の策として男の名を名乗って井伊家を継いだとのこと。
今川家では、寿桂尼が一時期女戦国大名で女性が家をひっぱっているので、女城主ありという考えではなかったのか?とのことでした。
磯田先生は、それならば南渓和尚が居たのではないか?との質問に、小和田先生は龍潭寺の過去帳で調べると南渓和尚の父親に井伊直平以外の名前があり、南渓は養子だったのでは?とも考えられますが、答えは出ていないのことでした。
直虎以外に井伊家に活躍した女性は?と磯田先生が井伊さんに訊ねると、来年で生誕100年を迎える井伊文子さんを紹介され、文化や福祉や沖縄の為に尽くされた話がありました。
また、直虎の女性像について小和田先生は芯の強い人物だと思いますが資料が少ないので人間性がわからないとのこと、ただ女性が花押を使うのは他に例がなく発想ができる女性でもあったのではないかとのこと。
磯田先生は、今川徳政に対抗した肝の強い人だったと思うとのことでした。
直虎の歴史的意義は、井伊直政を育て徳川家康に引き合わせたことなのだそうです。
また磯田先生は、井伊家の強さは、武田遺臣を任された武力の強さ、外交官としての強さ、そして頭陀寺の松下家などを使った情報力の三つの強さがあり、井伊谷に有能な人材が出たのは大国に挟まれた谷間の国で蹂躙される交通の養殖だったために、こういう地で外交や交渉に優れた人物が育つとのことでした。
小和田先生は、『おんな城主 直虎』では今川家の町や民と交流する直虎など戦国時代を視覚的にも楽しんで欲しいとのこと。
鈴木市長は、浜松市は多くの人が関わり大事な土地でありながらメインではないので、出世の地としての浜松市をアピールしたいとのことでした。

続いて、井伊直虎ゆかりの地浜松マスコットキャラクターとして募集されていた「出世法師直虎ちゃん」の初お目見えでした。

浜松市のゆるキャラの出世大名家康くんも登場して盛り上がっていました。


その後は、井伊直虎ゆかりの地のアピール
彦根市長がトップバッター


最後にこれらの都市が協力して井伊直虎をアピールする直虎宣言が行われました。
↓以下、聴き取りで纏めました。
一、千年の歴史を持つ井伊家のゆかりの地として、地域の歴史と文化を大切にします。
二、各市町の歴史と文化を尊重し、相互の情報交換と多面的な交流を進めます。
三、相互の観光交流を促進することで、交流人口の拡大と観光産業の振興に努めます。
四、地域が持続的に発展できるようおもてなし体制の整備、歴史や文化を活かした町造りを進めます。
こうした取り組みを具体的に進めるため、今国会関係市町によるサミットを開催していきます。

こうして無事に『直虎フォーラムin浜松』は閉幕しました。

なお、今回のフォーラムは浜松市民に向けた抽選が行われたイベントで、彦根市民である管理人は聴講対象ではありませんでしたが、井伊直虎市民応援隊としての井伊谷龍潭寺さんとの交流を通じての関係者さまのご厚情で席を用意していただきました。
お礼申し上げるとともに、現地での様子をお伝えすることがご恩返しと思い急ぎまとめさせていただきました。
浜松市の皆さん、ありがとうございます。


開催地 浜松市北区細江町気賀 みをつくし文化センター
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井伊直虎顕彰法要

2016年08月26日 | イベント
大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公・井伊直虎は天正10年(1582)8月26日に亡くなりました。
生年が不明ですが、没年齢は40代半ばから後半と言われています。
今年は435回忌になります。

亡くなった場所は諸説ありますが、龍潭寺の松岳院ともいわれています。


そして、ドラマを翌年に控え井伊家の菩提寺である井伊谷龍潭寺で命日法要が行われました。

周辺の寺院から26名の僧侶が集まった大きなイベントで井伊家現当主や彦根市・浜松市など関係地域の市長、ドラマの時代考証の小和田哲男先生、浜松市文化顧問の磯田道史先生などが参加されました。

井伊家歴代をお祀りするお経が読まれ、参列者の方々のご焼香などが厳かに行われていきます。
井伊家現当主の直岳さんのご挨拶

ご住職のご挨拶があり、無事に式は終わりました。


法要終了後に、井伊直虎を演じられる柴咲コウさんがお見えになりました。
個人的なことですが、偶然に1度目に山門ですれ違ったときは二度見してしまい、2度目はお墓に献花されているのを木々の隙間から拝見しました。
↓献花されたお花

そして、お寺の中での記者会見の帰りにもう一度目撃しました。

柴咲コウさんに小柄なイメージはなかったですが、実際に拝見すると小柄な美人。
来年の大河ドラマをどう演じられるのか、楽しみです。


関連地 浜松市北区引佐町 龍潭寺
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森一族供養の石筒

2016年08月23日 | 史跡
8月20日の読売新聞に森可成の子孫とされる森若狭守(誰だ?)が一族を供養するための石筒を大津市坂本2丁目の浄光寺に立ていたことが確認されたとの記事がありました。
記事の中に8月21日に森若狭守が石筒と同じ頃に奉納した地蔵菩薩像も公開される(こうした公開は初めてとのことです)と書かれていたので、観てきました。



境内には地蔵菩薩像があるお社があります。

その脇に立つ石筒には「奉納」「森若狭守」と刻まれています。



また、地元の方のご厚情で地蔵菩薩様のお写真を撮らせていただきました。
綺麗に護られてきたことがうかがえる美しい仏様でした。


浄光寺から2キロほど離れた場所には、宇佐山城が落城した時に森可成の遺体が運ばれて埋葬された聖衆来迎寺があり、ここに可成の墓があります。

森一族にとても縁が深い地域なのですね。
余談ですが、聖衆来迎寺には織田信忠の側室で秀信(三法師)の生母・寿々(鈴姫)のお墓もあります。
一説には寿々姫は森可成の娘とも言われているからだろうと考えられます。



関連地 大津市坂本2丁目 浄光寺
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『のぶニャがの野望 ねこ軍議〜飼い猫はどいつニャ?〜』滋賀公演

2016年08月21日 | イベント
戦国武将を猫キャラにした人気ゲーム『のふニャがの野望』の舞台公演「のぶニャがの野望 ねこ軍議〜飼い猫はどいつニャ?〜」滋賀公演を観に行きました。



のぶニャがの野望のネコ武将たちを使った人狼ゲームを舞台化したものです。
石田軍、徳川軍、そして蘇った織田軍の13匹の猫ネコ武将から、人間に飼い慣らされてしまった3匹、それに追従する1匹など、それぞれの役割をどのネコ武将が演じているのかを当てていく、観客を巻き込んだ内容でした。
考えながら観るのは楽しかったですが、どうしても解らない役割が一つだけあって、そこは不完全燃焼。
解らないと悔しくなるくらい集中しました。

こういう舞台ならヒントを探すために真剣に観るのでそこも楽しいでしょうね。
全問正解すると、ピンクの小判が貰えたそうです。

しかも、ピンクの三成甲冑を着た林家ペーさんから…


会場には『のぶニャがの野望』のキャラたちも登場

ぺーさんや、神桜舞の二人も一緒に会場を盛り上げてくれていました。

滋賀ではあまり見かけない公演でしたから新鮮な気分でした。


会場 米原市 ルッチプラザ
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陸上男子400mリレー パブリック・ビューイング

2016年08月20日 | イベント
リオデジャネイロオリンピックで、彦根市出身の桐生選手が活躍する陸上男子400mリレーがあり、ひこね文化プラザでパブリック・ビューイングが行われました。

10時30分頃に出場の予定でしたが、開場は8時30分。
管理人は少し遅れて9時30分前に行きましたが、その時は3割ほどしか埋まっていませんでした。
彦根周辺では他のイベントや陸上競技も重なって参加できない方も多かったそうです。

しかし、時間になれば会場は多くの人で賑わいました。
用意されたくす玉が割れるのかも注目でした。
そして、時間になり、選手のたちの入場が映し出されると会場のテンションも上がります。

「ニッポン!ニッポン!」の掛け声も大きく最高潮。
いざレース
山縣選手、飯塚選手がいい感じでバトンを繋ぎ、桐生選手も大活躍!
ケンブリッジ選手がウサイン・ボルト選手のすぐ後ろを走り、アメリカよりも早い2位になりました。
このあとアメリカは失格になっちゃいますが、そんなことは関係ない正真正銘の銀メダルです。
会場全員が止まない声援と万歳を繰り返し、彦根市長によるくす玉割りとも行われました。
日本陸上界に大きな伝説を残す素晴らしい時間でした。
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『ヴェネツィア展』

2016年08月15日 | イベント
守山市の佐川美術館で8月28日まで開催されている『ヴェネツィア展』を観てきました。
ボストン美術館からヴェネツィアをテーマにした作品をピックアップした作品展で、中世から現代までの500年間の芸術を観ることができます。

運河都市として、多くの芸術家を魅了したヴェネツィアは水と建物のバランスや人の営みがどことなく琵琶湖に寄り添った滋賀のようでもあり、水をふんだんに使って外観を演出している佐川美術館では特に合っている展示に感じました。


メインはクロード・モネの『ヴェネツィアの大運河』です。
(写真は販売されている絵はがき)

他にもじっくりみたいな作品がたくさんありました。
(ヤコポ・デ・パルバリ『ヴェネツィア鳥瞰図』)


絵画だけではなく、写真や壺、レースの作品、そして衣装、ヴェネツィアンマスクと呼ばれる物も観ることができました。
日本人の吉田博(風景画家)の作品も展示されていて、時代だけではなく多国籍の視点、様々な芸術様式を楽しめたところも魅力のひとつでした。
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