彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

八大神社参拝

2020年10月30日 | 史跡
一乗寺下り松のすぐ近くに鳥居が建ち、少し坂道を登ると八大神社があります。



ここは、素戔嗚命を祀っていて北の祇園社とも呼ばれる京の十二社の一社です。
一乗寺下り松の決闘の前に宮本武蔵が祈願に訪れながら、神仏に頼ろうとする己の心の弱さに気付き戒めた場所とも言われて、「宮本武蔵、開悟の地」ともされています。
神頼みしなかったことが、神託みたいに表現されるのは凄いです。

本殿にお参りすると、





脇には、武蔵が闘った頃の下り松も展示されていました。





御朱印は様々な種類がありましたが、2種類のみ受けてきました。






一乗寺下り松訪問

2020年10月29日 | 史跡
若宮大社を出て、京都市街地を一気に突き抜けて左京区まで移動しました。
そして到着したのが、一乗寺下り松です。



平安時代から南北朝時代辺りまで一乗寺という寺院があったことからこの地名を残していると言われています。
ここに育っている松は、京と近江を結ぶ道の目印として利用されていたそうで、現在は四代目の松になるそうです。

そして、この場所は全国的にも有名な場所でもあります。
慶長9年(1604)、京にやってきた宮本武蔵は足利将軍家の剣術指南を務めていたこともある吉岡一門(吉岡憲法)に試合を望みます。
まずは当主吉岡清十郎と戦い勝利、怪我を負った清十郎は剣の道を捨てて家伝の染物業に専念したとも言われています(武蔵が怪我を負った説もあります)。
続いて清十郎の弟伝七郎が武蔵と戦い敗死します。

こうして名誉が地に落ちた吉岡一門は、清十郎の息子でまだ元服前の又七郎を大将に立てて、下り松を中心に数十人の門弟で武蔵一人を討とうとしたのです。
清十郎や伝七郎との闘いの時には遅れてきた武蔵は、一乗寺下り松には先に到着し松の上に身を潜めていて、又七郎が近くに来た時に頭上から一気に斬り捨てて、門弟が混乱した隙に手薄な場所から逃げ延びたと言われています。
嘘か真か、この時に両手にそれぞれ打刀と脇差を持って闘ったことが二刀流の目覚めという話もあります。
俗に「一乗寺下り松の決闘」と言われていますが、実は北野一条下り松(北野七本松付近)だったのではないか?との説もありますが、吉川英治さんの『宮本武蔵』で一気に一乗寺下り松が有名になったのでした。


また、ここは南北朝の騒乱で楠木正成が本陣を置き、北畠顕家との連携で足利尊氏を九州まで追う戦に関わる地でもあったのです。




梅宮大社参拝

2020年10月28日 | 史跡
松尾大社の近くに、「大社」がついた神社があることを知り興味を持って寄ってみたのが梅宮大社です。



案内板を読むと橘諸兄の母である縣犬養橘三千代が氏神として建立した神社を檀林皇后(嵯峨天皇の皇后)が遷宮させたのだそうです。
その檀林皇后が子どもができなくて悩んでいたときにここにお参りしてまたげ石をまたいだならば妊娠したとのことで、安産のご利益もあるそうです。

なんだか、この周辺は安産の神様多いですね。

橘諸兄といえば、遣唐使として唐で学び、聖武天皇の大仏建立に反対しながらも聖武天皇や孝謙天皇を助けた人物であり文官のイメージがありながらも、恵美押勝の乱で藤原仲麻呂を追い詰めて討ち取った軍略者でもあります。
平城宮で活躍した人物の氏神様が平安京とは外れているとは言っても、京都にあるのが面白いです。



拝殿

本殿

御朱印




松尾大社参拝

2020年10月27日 | 史跡
松尾大社の前を通ることは何度かあったのですが、お詣りには初めて行きました。

松尾大社は「まつお」ではなく「まつのお」と読むのが正しいそうです。
もともとは、神社の裏の山にある磐座を祀っていたのですが麓にお社が造られました。
秦氏の氏神だったのですが、多くの信仰を集めています。

初めて潜った鳥居、奥にそびえる山に磐座があるようです。

二つ目の鳥居を潜ると

趣きがある門が建っています



歴史ある拝殿と本殿



縁結びにご利益がある木


また、お酒の神様でもあるそうです。
境内には酒の資料館があり、ここでパリ販売されていた野菜を酒粕に漬けた物がおいしかったです。


京都の西を護る神社でもあるため、御朱印は四神の西の霊獣「白虎」でした。

今回は、ふらっと寄っただけなので下調べをしていませんでしたから、今度はちゃんと調べてお参りしたいと思います。


月読神社参詣

2020年10月26日 | 史跡
浄住寺から鈴虫寺まで戻り、松尾大社に向かっていると、月読神社に着きました。

月読と言えば、『古事記』で黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが身を清めた時に誕生した三神として、天照大神や素戔嗚命と並ぶ神でありながらイマイチ影が薄い感じもある月読命を思い出したのですが、案内板を読むと壱岐や秦氏など海上交通から渡来人に関わる月読尊が祀られているとのことでした。




京都の西側は、渡来人のもたらす古代の最先端文化の中心地だったとも考えられますので、今はゆっくりとした時間が流れている月読神社も古代は流行の最先端だったかもしれません。

江戸時代から残る本殿や拝殿。



霊水も流れていますが飲み水ではないそうです。


安産のご利益がある石もありました。




御朱印




平石久平次二百五十回大遠忌

2020年10月25日 | イベント
長松院で行われた、平石久平次二百五十回大遠忌に参列してきました。


平石久平次時光は彦根藩士として様々な役職に就き、奉行クラスの仕事をこなした人物ですが、同時に天文学者でもあり発明家でもありました。
その発明の一つとして『新制陸舟車(陸舟奔車)があります。新制と付くようにもともとは武蔵国児玉郡(埼玉県本庄市)で作られた陸船車の噂を聞いて久平次が作った物でした。
しかし、陸船車のことは噂で聞くだけでしたので似て異なる物が完成したのです。それが三輪でハンドルがあり足でペダルを漕ぐことで動力を得る自転車の発明に繋がりました。
享保17年(1732)のことです。

欧州で自転車が発明されるのは1817年ですので、久平次は世界で最初の自転車を発明した人物となります。

設計図などを記した平石久平次の記録は、久平次の二十回忌の時に長松院に鉄塔を建て保管されましたが、大正時代に開かれて東京に運ばれほとんどは関東大震災で焼失します。しかし陸舟奔車の史料は彦根に残されていて、今は彦根市立図書館が保管しています。

令和2年の久平次250回忌に(これは後でわかったみたいです)、無縁仏になっていた墓石の本堂前移転が行われ新たな石板も設置されました。




以前に再現された陸舟奔車を彦根市立図書館から借りて12月1日まで公開が行われています。








そして、10月25日に二百五十回忌の法要が行われました。








長松院は井伊直政公が荼毘に附された地に建立されたお寺であるため、藩士である久平次がメインになる法要はご本人にとってもビックリするイベントだったかもしれませんが、近江はビワイチで自転車とも縁が深い場所ですから脈々と繋がってきたものがあったのかもしれませんね。

以前は弁天堂だった場所を「可休庵」と命名し、平石久平次資料館としてビワイチをされる方の休憩所としても提供されるとのことですので、新たなビワイチの聖地となるかもしれません。


ちなみに平石家文書を入れていた鉄塔は戦時中に供出され今は土台の石積みだけが残っています。




浄住寺訪問

2020年10月24日 | 史跡
地蔵院の近くにもう一寺気になる場所があったので寄りました。
それが浄住寺です。



平安時代初期の弘仁元年(810)に嵯峨天皇の勅願によって建立されました。
今までどちらかと言えば小野篁に関わる史跡に関わることが多かったので、嵯峨天皇と言えば小野篁が「無悪善」と書かれたモノを「悪さが(嵯峨)無ければ善いのに」と答えて、その後色々あった後に「子」を12個書いた文章を読めと言った無茶振りした天皇というちょっと悪いイメージがあったのですが、最近訪れるお寺でよく見かけるようになり、結構信心深い方だったのではないか?とのイメージに変わりつつあります。


建立された時は「常住寺」と言う寺号でした。
お釈迦の歯の一本が中国から日本に渡り嵯峨天皇の手に入ったために、その歯を石窟に置いた地だと言われています。
鎌倉時代に「浄住寺」に寺号が変わり、江戸初期に黄檗宗の寺として再興され、京都では珍しい黄檗宗の様式を今に伝えているそうです。

地蔵院に負けないくらいに自然豊かな場所でした。






亀甲竹


本堂


方丈は、伊達騒動で有名な伊達綱村が若い時に住んでいた屋敷を移築した物とのことです。








お庭は手入れができたなら良い風景になりそうなところでした。



特に観光寺でもないようなので保護に困っておられる感の案内がありました。
苔寺や鈴虫寺が近くにある場所だけに、工夫によっては良い観光地になりそうなのですが、いろんな問題はあるのかもしれないですね。

ただ、静かなお寺だからこそ、猫がのんびり日向ぼっこしている姿に会うこともできました。




地蔵院訪問

2020年10月23日 | 史跡
鈴虫寺に行くためにバスを降りて最初に目に入ったのは、竹の寺地蔵院の看板でした。

鈴虫寺に向かうと逆方向になってしまうのですが、次に寄る事を決めましたので、地蔵院を訪問しました。

地蔵院は、細川頼之が建立した寺です。
頼之は、室町幕府初期の管領で、三代将軍足利義満を幼い頃から教育し、義満が成長すると補佐役としてサポートして一時期だけとはいえ室町幕府の力を全国に知らしめました。
そして三管領制度を固めた人物でもあります。
義満は頼之を深く信頼していて、政変で頼之が失脚するとなんとか幕政に戻そうと義満自身が裏工作を行ったくらいでした。

義満に近い人物の寺だったためか、一休さんが幼い頃に母子で預けられていた場所とも言われています。


また、『太平記』は頼之が管領に就いたところで終わっていますので、時代に区切りを付けた人物として評価されているのかもしれません。

そんな頼之が住職として宗鏡禅師を招いたのですが、禅師は師である夢窓疎石を開山の人として自らは二世と称した人物です。

細川氏はその後、細川藤孝の家系が続いていますので、地蔵院にも細川氏が関わることもあります。


さて、山門から緑豊かなお寺であることが伺えます。




本堂手前には頼之の碑がありました。


本堂をお参りし、


方丈に行くと、日本のハートマークとも言われる猪目窓が開放されています。
季節によっていろんな見え方がするのでしょうね。




方丈庭園は、「十六羅漢の庭」と呼ばれていて市指定史跡にもなっている場所です。



本堂横には宗鏡禅師と細川頼之の墓が並んでいます。



禅師は、亡くなるときに自然石のみを墓石にするように遺言し、希望通りの墓が作られました。


頼之は宗鏡禅師に倣い、自分の墓も禅師の隣で自然石のみである事を望みます。
やがて、頼之の墓から木が生えてきて石を抱き抱える状態になりましたが平成30年の台風21号でその木が倒れ、今は切り株と自然石が残っています。



2020年3月に細川元首相が、頼之の墓の裏に桜の木を植樹しました。


御朱印




華厳寺訪問

2020年10月22日 | 史跡
華厳寺は鈴虫寺という呼び名で有名なお寺です。

28年の研究、検証によって一年中鈴虫の音が聞こえるために鈴虫寺と呼ばれるようになったそうです。
お寺の歴史は、享保8年(1723)に鳳潭上人が華厳宗再興のために建立しました。
華厳宗は奈良の盧舎那仏(大仏)に代表されるくらい隆盛を極めた宗派ではありましたが、仏の観念から物事を観るという難しい宗派でもあり、華厳寺も今は臨済宗のお寺とのことです。

さて。
今回、鈴虫寺には初めて訪問したのですが、なぜか前日に急に「鈴虫寺に行かないといけない」と思いました。
ここはとにかくお願いが叶うお寺とのイメージはありましたが、「行かないといけない」と強く思うことは初めてなので自分でも不思議に思っています。
その思いのまま朝早くに電車に乗ったのですが事故のため山科駅で足止め。
しかし、山科だったので地下鉄とバスを乗り継いで向かいます。すると、バスの連絡も良く思ったより早く到着しました。

ネットなどで見ると山門前の階段が行列になっているとも書かれていましたが、それもなく普通にお寺の受付ができました。

受付の後で法話を拝聴するのですが、すでに始まっていたのでゆっくり入り、鈴虫の音をBGMに耳を傾けます。
御守りとお札の違い、お札の向きの話、手を合わせることの意味などを聴きました。

お話のあと、御守を購入させていただき、お庭を周り京都市街の展望を楽しみます。











そして山門横の幸福地蔵菩薩様のところに向かいます。

お地蔵様は、既に浄土に行ける霊験をお持ちなのですが現世や地獄を廻られて人々を救ってくださると言われています。
普通のお地蔵様は裸足なのですが、鈴虫寺のお地蔵様は草鞋を履いておられて願いを叶えに来て下さると伝えられています。
特に恋愛については80%近い満願成就率なのだそうです。

先程購入した御守りを両手で挟み、手を合わせた状態で住所と氏名を言った後でお願いを言うそうです。
僕は彼女と出会ってから、お願いはいつも同じなのでそこに「苦労させずに笑顔で過ごせる」と言う願いを込めました。

もしかしたら、僕自身が何かの形を欲したのかもしれませんが行けて良かったと思っています。

あと、法話の時に出してくださるお菓子、今は持ち帰りです(以前はお茶と一緒に出たそうてます)。美味しかったです。




御朱印




俗に言う土下座像

2020年10月21日 | 史跡
今回から京都行きの話になります。

三条大橋の東に、土下座をしているように見える人物の像があります。
正確には土下座ではなく拝礼なのですが、そのインパクトが強い姿と三条京阪駅の側という立地から待ち合わせ場所としてよく知られた場所で、僕自身20年近く前に京都市内で働いていた時はここでの待ち合わせに憧れましたが、実際にそれが叶ったのは1年半前のことでした。

では、この人はなぜこんな場所で拝礼しているのでしょうか?

この人物は高山彦九郎と言う人で、江戸後期に林子平、蒲生君平と共に「寛政の三奇人」と称された人でした。
幼い頃に『太平記』を読み、親族から自分の家が新田義貞に仕えた新田十六騎の一人高山重栄の子孫と知らされ勤皇の志を持ちます。
次男であったことから家を継ぐこともなく諸国を旅して多くの文化人とも交流しました。

そして京都に入る時には、三条大橋を渡る前に必ず御所に向かって拝礼したことが、今も銅像となって伝えられているのです(昭和3年に設置されましたが、現在は二代目)。

京都では岩倉具視の曽祖父(ただし血縁はない)となる岩倉具選と知り合い、鴨川で緑毛亀を発見して皇室に献上したことから光格天皇との拝謁も叶ったのです。
そのようなことから、中山愛親とも交流を行います。
しかし、尊号一件(光格天皇が、親王でしか無かった父親を上皇として遇しようとし、幕府に注意された)の事件に愛親が関わったことから、彦九郎も幕府に警戒され、追われるように九州に逃れます。
高山家の家紋が轡十文字であったためか、なかなか入ることができない薩摩にすら入国した彦九郎でしたが、旅の幅はだんだん狭められて、豊後国日田(大分県日田市)で捕らえられた後、久留米の友人で医師の森嘉膳の家で自害したのです。

この時、嘉膳はすぐに腹の傷を縫う処置を施したため彦九郎は夜に腹を切った後、明け方まで見舞いにきた人と横になりながら会話をして、最期の時は京都の方角に拝礼して亡くなったのです。

後に、吉田寅次郎という青年が彦九郎が東北を回ったときと同じコースを旅したことで彦九郎の人生に共感し、彦九郎の戒名「松陰以白居士」を借りて吉田松陰と号するのです。