彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

大東義徹

2006年11月12日 | 井伊家以外の人物伝
他所で拝借した大東義徹の写真(汗)

明治4(1871)年11月12日、岩倉使節団が出航しました。
今日は、その岩倉使節団に同行した彦根の偉人を紹介しましょう。

その人物の名は大東義徹(おおひがし・よしてつ)


天保12(1841)年、彦根藩主が井伊直弼の兄・直亮だった時、大東義徹は、彦根藩の足軽・小西貞徹の次男として生まれました。
早くに母を亡くし、厳しい父親が男手一つで育てたと言われています。特に武芸に秀でていて、河西忠左衛門の教えを受けています。
大望を抱く身として小西という姓はふさわしくないと思い、大東に改名するほどに自分の人生に大きな希望を抱いていましたが、安政7(1860)年3月3日、桜田門外の変が起こり師と仰いでいた河西忠左衛門が闘死してしまいます。

余談ですが、この河西忠左衛門の強さは、桜田門外の変を扱ったドラマなどの映像で今でも見る事ができます。
井伊直弼の乗る駕篭を守るように戦っているのが忠左衛門で、より忠実に映像を作っていると、2振りの刀を持って何度も襲撃者達を押し返して獅子奮迅の働きをしている姿が再現されていますよね。

そんな忠左衛門ですら直弼を守れなかった事実にショックを受けた義徹は、剣術から砲術へと進む道を変更していまうのです。

またまた余談ですが、直弼の仇を討つために同じ年の8月15日に水戸に潜入し、月見をしていた水戸藩前藩主・徳川斉昭を暗殺した彦根藩士が居るのではないかという噂があります。その犯人の候補の一人が大東義徹で、このエピソードを元に『修羅の武士道』(延原潤一郎・著)という小説が書かれていますので、興味がある方は読んでみて下さい。

さて、砲術を志した義徹が次に歴史の舞台に登場するのが、慶応4(1868)年1月3日の事でした。
前年に大政奉還で政権を朝廷に返上した徳川慶喜を討つ為に薩摩藩や長州藩を中心とした官軍は旧幕府軍との戦いにのぞみました。歴史上、“鳥羽伏見の戦い”と呼ばれる戦争は、終始、官軍有利に進んでいたイメージがありますが、実は開戦からしばらくは旧幕府軍が有利だったのです。
官軍を指揮していた西郷隆盛が撤退も仕方ないと考えていた時、彦根藩の大砲が旧幕府軍に打ち込まれ、その一撃で形勢が逆転したのです。その砲撃を指揮したのが義徹でした。
この時の活躍で西郷隆盛との縁ができた義徹は明治維新後に中央政界に進む足掛かりを得ることになるのです。
明治4(1871)年、明治政府は岩倉具視(全権大使・副使が大久保利通、木戸孝允、伊藤博文)を欧米視察に派遣しますが、その時にこれから時代を背負う人材育成も兼ねて、多くの人間が派遣されます。
そんな人物の中には6歳の津田梅子も含まれていました。
この岩倉使節団に彦根藩代表として義徹も参加し、欧米の政治・文化を目の当たりにしました。
帰国後は、特に法律に深い興味を持ち、そこで得た知識を生かして司法省に出仕し、後に大阪、山梨の裁判所長を歴任します。

明治10(1877)年、鳥羽伏見の戦い以来深い交流を続けてきた西郷隆盛が明治政府に対しての反乱である“西南戦争”を起こすと、これに参戦。この時、西郷の為に大坂城乗っ取りを企てたという説話も残っているんですよ。
終戦後は不穏分子として暫らく獄に繋がれますが、やがて許されます。

義徹は地元・彦根では豪胆な性格と深い知識、人当たりの良さから義徹の事を「近江西郷」と呼んで慕っていました。
その為、人気も高く、明治23(1890)年第一回帝国議会創設に伴う衆議院選挙では、武力を排した「與論政治」の実現と民選議員の設立を訴え続けた功績が支持されて当選し、以後7回連続当選を果たします。
明治31(1898)年には、最初の政党内閣である第1次大隈重信内閣で司法大臣に任命されます、これは県内初・戦前唯一の滋賀県出身大臣となるのです。

またまたまた3度目の余談ですが、この時の他の大臣には
内務大臣・板垣退助
陸軍大臣・桂太郎
海軍大臣・西郷従道
文部大臣・尾崎行雄、犬養毅
など、歴史の教科書で何度も登場する人物が並んでいます。

この第一次大隈重信内閣は尾崎行雄の共和演説事件によって4ヶ月余りで総辞職に追い込まれますが、義徹は法典調査会副総裁として後の条約改正にもつながる事業を進めてゆきます。

中央政界でその痕跡を確実に残した義徹ですが、それと同時に地元・彦根でも数多くの足跡を残しました。
司法省を退官してから、西南戦争に参戦するまでの期間に地元氏族と集議社を設立。法律・司法制度の研究・教育、新聞の閲覧、訴訟の代言代書、演説会を行いました。
この集議社設立メンバーは、彦根中学の前身となる彦根学校の設立と運営に力を注ぎ、町立彦根中学の開設を実現しました。
また、衆議院議員を務めていた明治29(1896)年、彦根の氏族達と有力な近江商人達が連携して近江鉄道を開設し、初代社長に就任しています。

明治の偉人・勝海舟は、西郷隆盛を認めていた人物で、隆盛の死後に「○○西郷」と称される人物に批判的な言葉を浴びせました。
今回紹介しました大東義徹もそんな海舟の批判を受けた一人ですが、義徹が自ら「近江西郷」を称したのではなく、周りからそう呼ばれ、それに応えた所に、周囲の義徹に対する人柄が窺えるのでないでしょうか?


さて、近代の政治家である義徹の息吹をそのまま感じる事は難しいです。しかし、彦根市里根町の天寧寺には、彦根出身で明治三筆の一人に数えられている書道家・日下部鳴鶴による『大東義徹顕彰碑』が残っています。
また、義徹が初代社長を務めた近江鉄道も今でも滋賀県民の大切な交通手段になっているんです。そんな近江鉄道に乗って近江平野をのんびり旅をすると、先人の趣に出会えるかもしれませんね。

なお、今回は名前を“よしてつ”と紹介しましたが、これは彦根市の図書『彦根の先覚』より引用致しました。
“よしてつ”の他に“ぎてつ”“よしあきら”という呼び方もされている事もお伝えしておきます。

犬上郡と犬上君

2006年11月08日 | 井伊家以外の人物伝
国宝彦根城築城400年祭の言葉の通り、2007年は彦根城天守が完成して400年を迎えます。

彦根城を中心にした地域は彦根駅や市役所などがあり、今でも彦根市の中心地となっています。
では、その前は? と訊ねられると、石田三成の佐和山城という答えが返って来るのでは無いのでしょうか?
そこまでは、彦根の歴史を簡単に遡れるのですが、その時より過去の事となると案外知られていないものです。

しかし、彦根を含む近江国(滋賀県)は、京の都に近い要所として古くから歴史を育んできた土地だったのです。
701年、大宝律令の成立で、現在の滋賀県と同じ地域が近江国に定められ、近江国は12の郡に分けられたのです。
現在の彦根市とその周辺を含む地域は犬上郡と呼ばれ、犬上君(いぬかみのきみ)という豪族によって治められて居たのでした。
この犬上君をモデルにした話として手塚治虫の『火の鳥・太陽編』が有名ですね。さて、この犬上君一族の中には第1回遣唐使大使となった犬上御田鍬や高句麗に派遣された犬上君白麻呂など、中央の外交や行政に力を尽くした人物を多く排出しています。

そんな犬上君が治めた犬上郡は神戸・田可・沼波・高宮・尼子・甲良・安食・清水・竇田・青根・駅家の11の郷に分かれて居たのでした。
国司がある国府から郡の直接支配を委任される形になるのが郡家ですが、犬上郡家は、この郡の中心地であった河瀬周辺という説や、南彦根駅の西側にある竹ヶ鼻遺跡だったという説、犬上郡豊郷町に残る犬上君屋敷公園がその跡地だとも言われていてハッキリしていません。

ちなみに、犬上という地名の由来は、犬上君が愛犬に命を救われて、その犬を忠犬として祀った事に始まるそうですよ。
犬上君の末裔は、中世末期には大神主河瀬氏として多賀大社の社務の実権を握った事もあり、戦国期には河瀬氏と称して河瀬城を居城とし、河瀬大和守秀宗は甘呂城城主も勤めています。

彦根カルタには「その昔 郡家があった 河瀬の地」と言うモノがありますが、こう言った犬上君の子孫と河瀬地区の経緯を見ると、河瀬の地に郡家があった可能性もあるかも知れませんね。

彦根生糸

2006年10月21日 | 井伊家以外の人物伝
江戸時代には、一生涯お金を目にしないで過ごした武士達も沢山居ました。よく時代劇で目にするような、
「山吹色のお菓子ですお代官様」
「越後屋、そちも悪よのう」
「いえいえ、お代官様には叶いません」
なんて会話は殆んど無かったのです。そもそも、代官は能力に合った人物が選ばれてい多た為に清廉潔白な人物が多く、悪代官や悪郡代と言うのは数える程しか居なかったそうです。

幕末の会津藩にはこんな回顧録も残っています。
「お祭り音に誘われて、藩士の子どもが母親にお祭りに行く事を告げると、母親は幾らかのお金を財布に入れて子どもに渡したのです。その子は、夜店を覗くと、好きな商品を手にとって財布をそのまま夜店の主人に渡します。すると主人は必要な分のお金を取って子どもに財布を返したのです」武士の子はお金を目にしないままで済んだのでした。

実は武士達にとっては、お金は穢れている物だったのです。

しかし、多くの藩では江戸中期辺りから借金に追われる藩が多く彦根藩もその例外ではありませんでした。江戸末期には藩が経営する商売も始まったのです、特に高宮上布が有名ですし、12代藩主・井伊直亮と13代藩主・直弼が力を注いだのは湖東焼でした。
湖東焼は桜田門外の変の後に衰退しますが、高宮上布で培った商売法を、藩の勢力を盛り返す為に長浜縮緬に着目して応用したのでした。

家老・木俣清左衛門、重臣・長野主膳、町人・中村長平が中心となって松原町の木俣別邸で事業が始まりますが、文久二年の政変で、木俣が失脚し長野が斬首されて頓挫します。

明治に入り、武士の世の中が終わり、お金すら見た事がない藩士の救済のために宇津木家下屋敷跡に“彦根製糸工場”が建てられました。
製糸工場といえば、群馬県の富岡製糸工場が日本初の官営模範工場として有名ですが、そこに勤める女工の3割が彦根出身だったのです。こうして富岡製糸工場の技術を持った人々によって彦根製糸工場での指導が行われたのです。
近くを流れていた平田川は水が澄んでいて場所にも恵まれていたそうですよ。

ここで生産された生糸は「彦根生糸」と呼ばれ、滋賀県だけではなく近畿一円からも人々が働きに来る大規模な工場へと発展し、彦根だけではなく日本を支えた製糸産業の一角を担ったのです。

石田三成

2006年10月01日 | 井伊家以外の人物伝
1600年10月1日、石田三成が処刑されました。
という訳で、今回は三成のお話。

JR長浜駅の前に、“出逢いの像”という銅像があります。
一人の武士に、小坊主がお茶を差し上げようとしている姿を現したモノなのですが、この小坊主が、今日のお話の主人公・石田三成です。
この銅像は、三成が15歳のエピソードを元に作られていますので、まずはそのお話を紹介しましょう。

“豊臣秀吉がまだ長浜城主だった時の事、狩りの途中に領内にある観音寺を訪ねて「秀吉じゃ!茶をくれ」と言いました。
すると、小坊主が大きな茶碗にぬるい茶を沢山入れて持ってきました。
喉が渇いていた秀吉は、その茶を一気に飲み干しました。そして「もう一服くれ」と言ったのです。
小坊主は、次は一回目より少し小ぶりな茶碗に、前より熱い茶を半分だけ入れて持ってきました。
その茶も飲み干した秀吉は「もう一服」と命じました。
すると小坊主は、高価で小さな茶碗に舌が火傷しそうなくらい熱い茶を少しだけ入れて持って来たのです。
最初は、喉が渇いているから飲みやすい茶を沢山
次は、少し落ちついて飲める量と熱さ
最後は、茶本来のもてなしの為の茶碗と、ゆっくりする為の熱い茶
と、相手の状況に応じて機転を利かせた小坊主に感心した秀吉は、その小坊主を城に連れて帰り、家臣として育てました”

こうして秀吉に仕えるようになった石田三成は、内政政策に興味を持ち、文官として秀吉の近くに居る事が多くなったのです。
三成は秀吉の為に全てを捧げた人物で、「自分には法令・内政などの文治の才能はあっても、戦国時代に必要な勇猛さを持っていない」と悟っていたので、武断派の家臣を持つ事を心掛けました。

最初の家臣は渡辺新乃丞(渡辺勘兵衛という説もあり、ただし槍の勘兵衛とは別人)という人物。
新乃丞は、他の武将が誘っても「自分は10万石の領地が貰えなければ仕えません」と言い続けていましたが、500石の知行しかない三成に従ったので、不思議に思った秀吉が三成に理由を訪ねると「500石で召抱えました、自分は今、新乃丞の居候です」と涼しい顔で答えたそうです。
また、水口で4万石の城主になった時は、高宮で隠棲生活を送っていた豪傑・島左近を知行の半分である2万石で召抱えました(1万5千石説もあります)。

渡辺新乃丞も島左近も、当時どの武将も欲しがった有能な豪傑だったからこそ、三成は自分に足りない物を補って秀吉の役に立つ人物として、自分の出せる全てで誠意を示して家臣としたのでした。
三成の家臣の殆んどは、三成の秀吉の対する忠誠心に男惚れ(おとこぼれ)して仕えた人物が多かったので、知行の加増(今で言うなら給料の値上げ)を断る人が多かったそうです。

やがて、佐和山城19万石の城主となった三成は、中央政治の中でも官僚として多くの政策に関わりましたが、それと同時に佐和山領内では善政を尽しました。
凶作の年に年貢を免除した話も残っているが、ただ甘いだけではなく厳格な政策もあり、江戸時代を通して連帯責任制度として犯罪防止に役だった“五人組”制度は三成のアイデアを徳川家康がマネしたものです。

こんな三成でしたが、秀吉の重臣には「政治よりも戦いが重要」と考える人物が多く、秀吉の天下統一後は、“戦いが続いた日本を内政で立て直そうとする文治派”と“戦いが終わりやる事が無い武断派”が争うようになり、三成が攻撃対象となりました。
そんな中でも、秀吉の信頼が厚かった為に、秀吉晩年時代の官僚制度である“五大老・五奉行”の中で五奉行の第二席に任命されたのでした。

そして、秀吉が亡くなった後、豊臣家を守ろうとする三成は、秀吉の後釜を狙う徳川家康と対立し、関ケ原の戦いで敗北しました。
三成が嫌いという理由だけで家康に味方した武断派の大名達は、自分が世話になった豊臣家を自分達の手で滅ぼす手助けをした事となったのです。

関ケ原の戦いでの敗北後、三成は伊吹山の麓で隠れていました。
この時、領民達が自分の危険も顧みずに三成を庇ったと伝わっています。しかし、捜索の手が近くまで迫った事を知り、自分を匿うと罰を受けるとして、自分から捕縛隊の前に姿を現しました。

捕まった後に、京の六条河原で打ち首と決まった三成は、処刑当日、刑場に引かれて行く途中で、護衛の兵に「喉が渇いた」と言い白湯を求めました。
あいにく湯の持ち合わせが無かった兵は、近くの民家に干してあった干し柿を変わりに差し出すと、「気持ちはありがたいが、干し柿は痰の毒なので」と断ったのです。
「これから首を切られる者が、体を養生してどうする」と言って兵が周りの者と大笑いすると、三成は「大儀を志す者は、命を失うその瞬間まで体を大事にするものだ」と語り、笑った者は恥じ入ったと伝わっています。
茶の湯から始まった石田三成の逸話は、白湯でその全てを終えたのでした。

石田三成の後に佐和山城主となったのは、関ケ原の戦いで家康の重臣として勇敢に戦った井伊直政でした。
直政は、三成の善政を知る領民から三成の記憶を消す事に苦労したようで、統括地の村々に毎年正月に「ここには石田三成の血縁の者は居ません」という証文に村人全員の署名、捺印を取って提出させていました。
そして、2代藩主・直孝の時には城が彦根城に移ったのを切っ掛けに佐和山を廃山として領民の立入りを禁止しました。
以後、彦根では石田三成の話はタブーとされてきましたが、歴史的には水戸黄門こと水戸光圀や西郷隆盛は三成の功績を高く評価しています。


三成の遺構は、彦根市内の佐和山城跡をはじめ、生誕地である長浜市の石田八幡社や、関ケ原の戦いの後に三成が匿われた木之本町古橋の与次郎大夫屋敷跡・オトチ洞窟など彦根近辺に点在しています、まだまだ歴史の中の悪役として扱われている人物だからこそ400年祭を切っ掛けに新しい評価を発信していきたい人物の一人です。