彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊直政公の法要

2016年01月31日 | イベント
管理人は、昨年12月に市民から2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』を応援するグループ「井伊直虎市民応援隊」を立ち上げ、メンバーに名を連ねています。
その市民応援隊の主催する最初の行事となる井伊直政公の法要が行われました。

井伊家菩提寺である彦根の清凉寺です。


事前に記事を書いて下さったメディアもありました。


まずは本堂で法要が行われました。
参加者に市長や県議、市議の方も来て下さいましたし、市内の方も含めて20名ほどになりました。
直政公のご命日は2月1日で、お寺では毎年法要をされているそうですが、今年は前日にはなってしまいましたが市民参加ができて良かったです。

本堂奥のご位牌にも焼香させていただいた後に、お墓にも参りました。


参加者は、墓石に水を掛けさせていただきました。


大河ドラマ撮影の安全も祈願し、直政公に見守られながら、来年に向けて頑張っていきたいです。
主催側の市民応援隊の一人として、今回参加していただいた皆様に感謝申し上げます
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井伊家千年の歴史(3)

2016年01月10日 | ふることふみ(DADAjournal)
 井伊家の系図では、初代井伊共保の後に2代共家、3代共直と「共」の字を継いだ当主が続くが、4代惟直、5代道直、6代盛直と共直を境に「直」の字が引き継がれるようになってゆくことが見えてくる。
 さて、彦根藩が編纂した『井伊家傳』では初代共保が亡くなった寛治7年(1093)から急に井伊直平が引馬城を預けられる永正2年(1505)まで飛んでしまうため、他の資料から400年近い空白を推察しなければならない。
 その資料となる一つが鎌倉時代に書かれたと推測されている軍記物語『保元物語』なのだ。保元元年(1156)に起こった保元の乱とその前後を記した物語であるため多くの武士が登場する。例えば近江の武士として後の佐々木源氏に繋がる佐々木源三秀義の名前も挙がっている。
 この『保元物語』の前半に後白河天皇が内裏から三条東殿に行幸し源義朝や平清盛らが」これに従った。300騎を超える義朝の軍勢の武士の中に先ほどの佐々木秀義や、遠江の「井八郎」が登場する。
 井伊家は時として「井」とのみ姓が記されることがあり、この井八郎は井伊家の誰かと考えて間違いないとされているが、系図に記された誰であるのかは解明していない。当時は井伊家当主の通称が「九郎」だったと伝えられていて、系図には記されていない井伊家一門であった可能性も否めないのだ。また井八郎と共に遠江の武士として横地・勝俣(勝間田)という名も挙がっている。横地家の記録ではこの三家は井伊家が伝える藤原後胤説ではなく源義家(後三年の役で活躍した武士)の孫であるとの伝承を残している。出自に多少の違いはあるものの、この時期に遠江国(静岡県西部)は井伊家とその親類が力を誇っていた可能性が高いと言える。
 どのような形にしても源義朝に従った武士として登場する井八郎だが、『保元物語』の記述はこの一か所のみであり、この後にどのような活躍をしたのかは想像するしかない。次稿で鎌倉時代の井伊家について触れるが、井伊家は大いに評価されている。逆説的に、鎌倉時代の井伊家があるからこそ、保元の乱に関わった武士として井八郎を記したとも考えられる。そうであるならば井八郎は源義朝と共に行動したのであろう。
 保元元年7月11日明朝、三条東殿や隣接する高松殿に終結した義朝・平清盛・源頼政らの武士団は崇徳上皇が籠る白河北殿に夜襲をかけて上皇を捕えて勝利を収める。三年後の平治の乱では義朝と清盛が戦い、敗れた義朝は東国に戻る途中、尾張国(愛知県西部)で暗殺され家臣たちは平家が謳歌する世の中で肩身が狭い思いをしながら過ごすこととなった。
 保元の乱で源義朝と共に勝利を経験した井八郎は、平治の乱をどう戦い、そして敗れたのか? もしかすると命を落としたのか? 現在の資料は何も教えてはくれない。

京都の三条東殿跡(旧・新風館)
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