彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城周辺史跡スポット:「般若院」

2009年08月20日 | 史跡
多賀大社の境内にあった寺。
『花の生涯』は村山たかの生き方に大きな焦点が当てられていますが、そのたか女の出生は恵まれたとは言い難いモノでした。
父親は多賀社尊勝院主の尊賀少僧都で母親は般若院住職の妹だったのです。
この二人の子どもに生まれる事は世間に許されるものではなく、世をはばかって村山家の養女として預けられてそこで芸事や生きる為の様々な教育を受けたといわれています。

本名は「可寿江」で、多賀の娘なので「たか」と呼ばれたのだ。とか、いやいや元々「たか」が名前で「可寿江」は密偵をする時に使った偽名だ。など名前一つでも説がいくつもあります。


そんな、たか女が育った般若院は、多賀大社で祭礼がある時に彦根藩から派遣される上級武士の宿坊として使われた場所でもありました。
そういった縁で彦根藩との関わりも深かったのです。
たか女と井伊直弼・長野主膳との出会いは、直弼と主膳が彦根城下で会う度にいらない憶測に悩まされるのを避けて般若院で落ち合った時が最初だったとの話もあるのだとか…?
それよりは『花の生涯』のような出会いの方が絵になりますよね。

般若院は廃仏毀釈で多賀大社と切り離され廃寺となり建物は高源寺に移築され、今は跡地に夷神社の社がひっそりと建っています。
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彦根藩の藩札

2009年08月10日 | その他
ひょんなことから、管理人の手許に彦根藩の藩札がやってきましたので、今回はこのお話を書きたいと思います。

藩札は、簡単に言えば今の地域振興券のような物とイメージしてみてください(厳密には違いますが…)
根本的には藩の中で通用する通貨です。

昔は、通貨はそれ自体に額面と同じだけの価値を必要としました。
その代表のような物が金貨や銀貨だったのです。

ですから、江戸時代に時々貨幣改鋳がされて金の質を落としてお金自体の質が下がるという悪循環を生む政策も何度もありました。
つまり、今のような紙幣と言う物は基本的には考えられなかったのでした。紙幣はそれを発行する機関(政府)に絶対的な信頼があってこそ流通する物なのです。


しかし、江戸時代の藩は金銭的に困窮する事もあり、今の赤字国債のような形で藩内でのみ流通する紙幣を発行したのです。いわば赤字藩債の保証書という物でした。
『忠臣蔵』というドラマを見ると、赤穂藩が断絶した時に民衆が一番心配した事がこの藩札についてでした。
藩の債務ということは藩が無くなればただの紙くずになります。ですからせめて額面の4割で換金するのが当時の通例でした(と忠臣蔵では語られます)。
これを赤穂藩家老の大石内蔵助は6割で換金した為に民衆に喜ばれたというのです。
でも、本来なら10割その物で使えないとおかしいですし、藩主の勝手な刃傷で断絶したなら藩士への分配金を減らしてでも10割換金が当たり前なのです。これが6割換金で凄いように見えるのは、「4割が通例」という忠臣蔵の世界での説明ですから、思いこみをさせる力は強いですね(笑)


さて、話は横道に逸れましたが、彦根藩の藩札は赤字藩債とは違う形の物でした。
元々“藩札”という表現そのものが間違っていて、彦根藩では“米札”という物でした。
写真を見ると“米壱升 代壱匁預”と書かれています。
これは「この札で、米一升=壱匁の価値があります」と言う事なのです。これで米や銀との引き換えが行われていました。

彦根藩では幕府に許可を得る形で、藩内での他の貨幣流通を禁止し米札のみを流通させていたのでした。
…とすれば、その為の両替商が藩内のどこかに存在した事となります。

この両替がどのような場所で、どのように、いくらくらいの比率で行われていたのか?
これから調べられれば面白いですよね。
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花火の後の清掃活動2009

2009年08月02日 | イベント
毎年8月1日は、松原水泳場付近で『彦根大花火大会』が行われます。

2009年度は土曜日で翌日も休みと言う好条件があり、また心配されていた雨が花火の最中は止んでいたために彦根の人口よりも多い14万人の人出だったと発表されました。
大量の人出は、悲しい事にそのまま後に残る大量のゴミとして換算されてしまいます。

本来なら持ち帰っていただくのが原則です。
百歩譲ったとして公設されているゴミ箱に捨てると処理もしやすいのですが、困るのは投棄されたままになってしまうゴミたち。
例年では花火終了後に大会関係者の方々が暗く危ない中を清掃されていました。

しかし、能率も悪く危険性も高かったので昨年からは市民のボランティアの力を集めての翌朝の清掃となったのです。
ですから昨年も、この報告をさせていただいたと思います。

8月2日午前7時。
朝からの雨で決行されるのかどうか分からないままに彦根港に行くと、7時開催の筈が10分前に到着した段階で既に現場での説明が始まっていました。
雨が降る中での活動となったのですが、中止・延期・決行の報告がどこでなされるのかもよく分からないままで、しかも開始時間が早まったならばその連絡は今後の課題にしていただきたいと思います。

雨の中でも既に多くの団体や市民の方が集まっておられました(今回は人数を確認できませんでした)。


説明の後にグループに分かれて清掃が始まります。
あちらこちらに投棄されているゴミ、缶、ペットボトル・・・
そして市販されている花火のカス。

昨年同様に特に多いのがタバコの吸殻でした。
今回気になったのは割れたガラスの屑です。

清掃中に、観光の途中で琵琶湖を見に来られていた親子さんに出会い、まだ幼いお二人のお子さんが一緒にゴミを見つけては持って来てくれました。
タバコの吸殻や花火の屑は「ありがとう」と言って受け取れたのですが、ガラスの破片が出てきた時は、管理人の顔は青ざめたと思います。さいわいにも怪我をされるような事はありませんでしたが、子どもさんの手の届く範囲にガラス瓶が捨ててあり、それが何らかの形で割れたまま放置されている現実には考えさせられました。


昨年も書きましたが、誰もが気持ち良くイベントを終える事ができるマナーを守ってこそ本当にイベントを満喫した事になるのだと思います。
このゴミが後でどうなるのか?
未来を想像する能力を持っているのが人間なのですから、せめてその最低限の能力を使ってみんなが気持ち良くイベントを終えて欲しい物です。


幼い子どもたちが「あっちこっちゴミだらけ」と言ってゴミを拾わなければいけないような行為をさせる大人が減る事を懇願します。
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