彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

時報鐘

2006年12月31日 | 彦根城
表門から天守に向かう時、天秤櫓の前に「鐘の丸」と呼ばれる曲輪の跡が残っています。
この鐘の丸は、築城時から本丸御殿が完成する前の間、藩主の家族が住んでいた場所だったのですが、それと同時に時報や様々な合図を行う鐘と鐘楼があった事からこの名が付けられました。

しかし、鐘の丸の位置では岩盤に反響して音が割れてしまう事から、2代藩主・井伊直孝の嫡男・直滋が天秤櫓と太鼓門櫓の間にある現在の場所に移され、それ以降は音が割れる事も無く、美しい音色を響かせるようになったと言われています。
その後、この鐘は彦根藩によって何度も作り直された物だったのですが、12代藩主・直亮の時代に、より美しい音色にするため大量の黄金を混ぜて鋳造したところ、それまでにない程に美しい音色を響かせるようになったのです、以降160年以上の間、同じ鐘が使われていて、秋の『玄宮園の虫の音を聞く会』と共に日本の音風景百選に選ばれています。

以前に太鼓門櫓のお話をした時に「太鼓が遠くまで鳴り響く構造になっている」と言いましたが、太鼓と同じように城下や家臣に合図を伝達する手段が鐘だったのです。
特に、時報鐘の音が早く打ち鳴らされたのは桜田門外の変を知らせる時でした、そういう意味では、この鐘も彦根の歴史を見て伝えている物なんですね。

しかし、桜田門外の変のような緊急を知らせる事は、260年近く続いた江戸時代でもそんなにある事では無く、普段の鐘は時刻を知らせる為にも使われていてたのです、江戸時代には1刻(2時間)ごとに鳴らされていたそうですが、今は6時・9時・正午・15時・17時の1日5回鳴らされているんですよ。
この時に、より正確な時刻を打つ為にラジオの時報を聞いて鐘を打っておられます。時報鐘という名前が残す時間に対するこだわりを感じさせていただけるお話ですね。

さて、時報鐘の紹介をわざわざ大晦日に書いている理由なのですが、大晦日・鐘と言えばやはり除夜の鐘ではないでしょうか?
時報鐘では毎年『彦根城で除夜の鐘をつく集い』が行われます、日時は12月31日の23時30分から24時30分までです。
一年の締め括りを彦根城自慢の鐘をうって彦根市内に響かせてみてはいかがですか?


・・・さてここからは余談です
除夜の鐘は、108回撞かれますがそれには大きな意味があります。
一般的に有名なのは人間の煩悩を表した数だという事ですが、この数はどこから出てきたのでしょうか?
その内容は、「六根」(眼・耳・鼻・舌・身・意)に苦楽・不苦・不楽があり6×3で18類
18類には浄・染があるそうで18×2で36類
36類も三世(前世・今世・来世)に渡るので36×3で108類になるんだそうです。
つまりは、今生きている分だけではなく、前世や来世の煩悩まで含まれているんですね。人間ってどれだけ煩悩の塊なんでしょうか?

別の説では月の数12と二十四節気の数24と七十二候の数72を足した数が108となることから、1年間を表しているとも言われているそうです。

余談『徳川家康と井伊家』

2006年12月29日 | 井伊家千年紀
西来寺の築山殿肖像画


永禄9(1566)年12月29日、松平元康が朝廷から「徳川」姓を許され、同時に従五位下三河守の官位を授けられます。
こうして、徳川家康と改名しました。
こんな日だからという訳で、少しこじつけになりますが徳川家康と井伊家の関わりについて少しお話してみたいと思います。


まずは徳川家と井伊家の家系から簡単にお話すると・・・
徳川家は、元々は「松平」姓を名乗っていて、一説には平家の子孫とも言われていますが、初代・親氏(ちかうじ)は徳阿弥と名乗る時宗の僧として諸国を流浪している身でした。
ある時三河国松平郷の領主だった松平信重の屋敷に逗留し、そのまま気に入られて信重の娘婿として松平家に養子に入ったのです。この時の松平家は存原氏の末裔と称していました。
戦国時代初期、松平家は一人の英雄を誕生させます。
その英雄の名は清康。
松平清康は、姓を「世良田」に改めて、世良田次郎三郎清康と名乗るようになり、岡崎城を居城とするようになりました。
世良田家は、清和源氏に繋がる新田義貞の末裔の得川氏に繋がると言われていて、清康は源氏の子孫を称する為に世良田姓に改姓したのだと考えられます。

余談ですが、この“世良田次郎三郎”はこの後3代まで松平家の名として引き継がれます、隆慶一郎さんや原哲夫さんの『影武者 徳川家康』という作品で有名なこの名前の由来はここから来ているのです。

さて本題、世良田清康は三河国で一大勢力を築き、今川氏とも対等に争えるだけの力を持ちますが、美濃の内紛を治める為に出兵した時に、尾張国守山で家臣・阿部弥七郎に斬られてしまいました。天文4(1535)年12月5日(今の12月29日、偶然です・・・)享年25歳、この事件を“守山崩れ”と呼びます。
もし清康が30歳まで生きていたら天下を取ったとも言われていますが、それは過大評価にしても、その後の戦国史は大きく変わっていた事は間違いないでしょう。
守山崩れの後、世良田家は清康の嫡男・広忠が継ぎますが、ここで叔父・松平信定に岡崎城を乗っ取られてしまい、広忠は命辛々逃げ延びたのでした。
そして、翌年に何とか岡崎城を取り戻すのですが、この時に今川義元の庇護を受けたために世良田家と三河国は今川家の属国のような扱いを受ける事となったのです。

岡崎に戻った広忠は、刈谷城主・水野忠政の娘・於大を正室に迎えます。
この於大の母は、於大を産んだ後に清康の側室となり広忠の弟と妹を産んでいるので、広忠と於大は血は繋がって居ませんが義理の兄妹となるという不思議な関係を持っています。
この於大が産んだ子供が、徳川家康なのです。
於大は、家康を産んだ後に離縁されて実家に帰ります、そして家康が5歳の時に今川義元の所に人質として送られるはずが、途中で織田家にさらわれて織田信秀の人質となってしまい、ここで織田信長と親しくなったとの説が生まれます。
2年後、広忠が家臣・岩崎八弥に殺害されました、天文18(1549)年3月6日、享年25歳。

この後、信長の兄・信広が今川義元に捕らえられた為、人質交換という形で家康は義元の居城・駿河城に移る事となり、義元の姪・築山殿(関口親永の娘)を正室に迎えたのです。
やがて信長が桶狭間の戦いで義元を討ったので、その隙に三河国岡崎城で独立を果たして徳川姓に改姓したのでした。


つづて井伊家は・・・
平安時代、三河の隣り遠江国村櫛に三国(藤原)共資(ともすけ)という人物が住んで居たのです。
寛弘7(1010)年元旦、井伊谷八幡宮の御手洗井戸の近くに男の赤ん坊が捨てられているのを神主が見つけ養育しました。
赤ん坊が7歳に成長した時、その噂を耳にした共資が「自分には娘しか居ないのでその子を養子としたい」と申し出て引き取り、15歳になった時に元服して共保(ともやす)と名乗り共資の娘と婚礼を行ったのでした。
やがて、正式に三国家を継いだ共保は、自分が拾われた井伊谷に戻って城を築き居城とし、「井伊」姓に改姓しました。
そして、旗印を井戸の『井桁』にし、井戸の近くに橘の樹があった為に神主が共保の産衣に橘の紋を使った事からそのまま橘を家紋としたのです。
やがて、南北朝時代は南朝に属し、勤皇の志の篤い家として知られましたが、南朝の衰退から心ならずも北朝方だった今川氏に臣従する事となったのです。
しかし、今川家は井伊家を信頼しておらず、両家には何度も争いの危機があったのです。
今川家の当主が義元になった頃、井伊家の当主は直平という人物でした。
井伊直平は自分の娘を義元の妾として差し出します。そして義元はその娘を妹として家臣・関口親永に嫁がせました。
この直平の娘が産んだ女性が築山殿、そう徳川家康の正室なのです。

さて、井伊家の話を続けると、天文13(1544)年の事、井伊家の家督について直平の次男・直満の嫡男・直親に継がせると一族内で決定事項を定めたが、家老・小野和泉守がこれを不服として義元に井伊家の謀叛を訴え出ました。
これによって、直満と直平の四男・直義が義元に殺害されます12月23日の事でした。
この時、直親が義元の手を逃れて逃亡しています。
そして、井伊家は直平の嫡男・直宗とその子・直盛が義元の目を気にしながらも井伊谷を統治していたのです。
やがて、直宗は戦で亡くなり、直盛には男子が居なかったので以前の取り決め通り直親を養子として迎えたのです、この時すでに小野和泉守は亡くなっていて、今川義元にも許しを得たのでした。
しかし、本来なら直親は直盛の娘を妻として井伊家の家督を継ぐ筈でしたが、逃亡期間に別の正室を迎えていたために、直親を待って婚期を逃した直盛の娘はそのまま出家してしまい次郎法師と名乗ったのです。

運命の桶狭間の戦いの日、今川軍として参戦していた井伊直盛は義元の討死を聞いて自害してしまいます。
この翌年に直政が誕生しますが、そのまた翌年、直親は小野和泉守の息子小野道好の讒言で今川義元の後を継いだ氏真に殺害されてしまったのです永禄5(1562)年12月14日、享年27歳。
この時、直親は今川家を離れ徳川家康に味方しようとしていたので讒言とも言い切れないところもあるかも知れませんね。
とにかく、この事件の後、2歳の直政は氏真から逃れて逃がされたのです。
その翌年9月18日、息子・孫の横死を見続けながらも何とか井伊家を守ってきた直平が八城山城へ出陣の最中に家老・飯尾豊前守に毒を盛られて横死します75歳でした。

こうして、井伊家は逃亡中の直政以外に家督を継ぐ者が居なくなったので窮余の策として女性である次郎法師が「直虎」と名乗って井伊家を相続したのでした。

やがて徳川家康が遠江に侵略し、井伊谷も家康の軍門に降ります。

そして直政が15歳となった天正15(1575)年2月15日、鷹狩に出ていた家康を浜松城下で待ち受けた直政はそのまま謁見を許されて家康の近習となったのでした。


さて、ここで徳川家康と井伊直政が直接主従となる訳ですが、1575年は5月21日に長篠の戦いが行なわれる年で、天下取りレースも既に織田信長のペースにはまっていた頃でした。
そんな時に家臣の層の厚い(酒井・本多・榊原・石川・阿部・高力・大久保・戸田・奥山・鳥居・菅沼などなど)家康に仕えた直政がどうやって徳川四天王にまで登りつめたのでしょうか?

漫画家のみなもと太朗さんが『日本武将伝』に紹介していた興味深いエピソードがあります。
直政が家康に仕えた翌年の2月、遠州芝原の戦いで武田勝頼に大敗した家康は武田軍に追われ、本隊ともはぐれて井伊直政を含む4.5名の家臣と共に逃げ回っていました。
しかし逃亡は日を跨ぎ、主従は飢えと疲労に襲われて居たのです。
そんな時、祠に供えてある赤飯を見つけて少しづつ分け合って腹の足しにすることにしたのです。

家康を始め家臣もその赤飯に口を付ける中、直政だけがその赤飯を受け取りませんでした。
家康は「虎松っ(直政の幼名)なぜ飯を受け取らん! 新参者と遠慮している場合かバカ者! 今は皆が逃げ延びる力をつけねばならぬ時だ、状況を心得ぬ愚か者が!!」と叱責したのです。
すると直政は冷静に「私はここに止まって追っ手を食い止めます、斬り死にする身に一粒の飯も不要。私の分も皆で分け城まで戻る力を少しでもつけ、急いで落ち延びて下さい!」と応えたのでした。

その地に止まってやがて武田軍を撒いて無事に戻った直政を迎えた家康は、直政の恩に報いたというのです。
その後に続く言は、家康はイザという時、すべてをなげうって尽くしてくれた家臣には必ず破格の恩義で報いた律儀で感激屋の武将であったと書かれて居ます。

大河ドラマ『功名が辻』の山内一豊は関ヶ原の戦いの前に「城を差し出し、家族も人質に差し出します」と宣言して4倍の知行地を得た話にしてもそんな家康の一面が覗けるのかも知れませんね。

彦根城周辺史跡スポット:「中山道」

2006年12月23日 | 史跡
現在の中山道にあるモニュメント


中山道は、古くから東海道の裏道という位置付けがされていて、古代から中世にかけてはこの道が通る国々を“東山道”として一纏りに分類されていました。
そして近世になって中山道と呼ばれるようになったのです。

1603年、徳川家康が江戸で幕府を開幕すると、街道の整備に重点を置くようになり、江戸を結ぶ東海道・甲州街道・日光街道・奥州街道そして中山道の五つの主要街道の整備を始めたのです。
その整備事業の一環が一里塚の設置でした。
さて、中山道という名前の由来ですが、「日本の中間の山道」という意味から来ています。その字は“中”の次に人偏に“山”と書く時(中仙道)と普通に“中”“山”と書く時(中山道)がありますが、基本的にどちらも間違いではありません、しかし、江戸幕府が1716年に人偏の無い山を使った文字(中山道)で統一したので、そちらの方が今の主流になっているようですね。

さて、ここで少し疑問になるのは、昔の旅行ってどんな感じだったんでしょう?

テレビなどを観ていると分ると思いますが、昔は殆んどが徒歩でした、体の弱い女性などが駕篭を使いましたが、駕篭もずっと乗っていて楽な物ではありません。
そして、東海道で江戸~京までなら普通の人でも1週間から10日は掛かったと言われています。
年末になると話題になる『忠臣蔵』で、松之廊下刃傷事件を伝える早駕篭が四日半で江戸から赤穂を走った事を強調しています。
赤穂は今の兵庫県にあるので、10日以上掛かる距離にあります、それを半分以下の時間で移動した事が凄いんです、それ程、重大な事だったと言うことを伝えるエピソードなんですが、今ではあまり伝わりませんよね…

話は戻ったのか戻らないのか分かりませんが、最初に中山道は東海道の裏道という風に書きましたが、それでも中山道は賑わっていました。
江戸時代の旅は危険が多く、山賊や宿場町での客引きが旅人達の悩みのタネだったのですが、その殆んどは東海道がメインになっていたので、中山道では比較的安全に旅をする事ができ、特に女性を含めた旅には適していたそうですよ。

特に当時の旅で一番お金が落ちたのは、宿屋が抱えている飯盛女でした(大人の男性が買うモノですね・・・当時は公的に認められていたものですから、こういう話も出てきます・汗)。
女性の旅人はそう言った商売の客にはならないので、宿としてもあまり歓迎したくない種類の客だったようです。

幕末には、皇女・和宮が14代将軍・徳川家茂に嫁ぐ時も中山道を利用されています。


さて、余談が長くなりました。が、今少し・・・
整備された街道には宿場町が発展していきます。
例えば、東海道で53次、中仙道で69次ある宿場町(中山道は板橋から守山の間に69の宿場町が置かれ草津で東海道と合流していた)を長くて10日で進むということは、一日で幾つかの街を通り過ぎると言う事になります。
そうなると、流行る宿場とそうではない宿場に分れる訳です。
では、宿場町を流行らせる為にはどうすれば良いのでしょうか? 現代の市町村運営でも同じ事をしていますが、町の名物を作る事なのです。

そんなしのぎを削った中山道の64次が鳥居本宿、65次が高宮宿でした。

鳥居本宿のお話は「摺針峠」のお話の時に、高宮宿のお話は「無賃橋」の時にそれぞれ登場していますし、鳥居本宿のお話はまた出てきますが、名物の話を書いてしまうなら・・・

鳥居本宿での名産は合羽で、今も本家合羽と書かれた古い木製看板を見ることができます。
合羽は京から雨の多い木曽路へ向かう時の必需品として販売されていたのです。
また万病に効能があるといわれる赤玉神教丸(あかだましんきょうがん)の製造販売を江戸時代から営む有川家も有名ですね。

高宮宿は以前にも何度か登場している高宮上布です。高宮宿は多賀大社の大鳥居が建っている事でも解かる通り、多賀大社の門前町として栄えた町で中山道の職場町でもその規模は2番目の大きさを誇っていました。
でも、鳥居本の地名の由来はその地に多賀大社の鳥居があった事に由来するそうですから、多賀大社の鳥居はどれだけ沢山あったのでしょうね?

芹川(善利川)

2006年12月18日 | 史跡
皆さんは、彦根城築城以前の彦根付近の地図をご覧になった事はありますか?
滋賀大学経済学部附属資料館に残る『彦根古図』を見ると、芹川が彦根山の東側を北に向かって流れ、彦根山の北側にあった松原内湖に流れ込んでいた事が見て取れます。

彦根在住の方がイメージしやすい地名でお話すると、平田山の北にある中芹橋から城東小学校の辺りを通り、彦根城の麓を通って陸上競技場の辺りまで流れ込んでいたのです。

でも、今の市内をイメージするとそんな所に川は流れて居ませんよね。

芹川は、400年前まで先ほどお話した流れでしたが、彦根城築城に伴い大掛かりな土木工事が行われて、今の私たちが知っているような真っ直ぐに琵琶湖に注ぎ込む流れになったのです。
川の流れを変えるのというのは、想像を絶するような工事が必要となりますが、彦根山の地形を考えた時には南側の防備が弱かった為、南側の防備を強化する必要性があったのです。

こうして、芹川の流れを変えることで、城の南側に川でありながら堀となる軍事的な防御施設を作りあげたのです。

そんな、芹川の改川工事の終了後に護岸の為に植えられたのが、今に繋がる芹川並木になります。
植えられている木は、桜・欅・榎など500本以上。四季に応じて様々な植物が芽を吹き、花を咲かせて、秋には色付きます。
並木の中で一番大きな木は、高さ1.5m・幹の周囲が450㎝近くある欅の木で、この木以外にも、大きな欅の木は50本以上あるそうですよ。

『彦根カルタ』には“通りゆく 芹川堤に けやきの木”と詠われています。

元々は軍事的な目的で流れが変えられた川でしたが、今は自然一杯のウォーキングコースとして人気を集めています、自然と触れ合いたい時にゆっくり散策されてみてはいかがですか?


↓『彦根古図部分』(滋賀大学経済学部附属資料館所蔵)
http://longlife.city.hikone.shiga.jp/serinature/03/01b.html

12月15日、吉良邸討入り

2006年12月15日 | 何の日?
元禄15(1701)年12月14日(厳密には15日の午前4時頃)、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りました。

<まずは豆知識を一つ>
『忠臣蔵』で有名な赤穂事件は元禄14(1701)年3月14日の松之廊下刃傷事件と翌年の吉良邸討入り事件の事を指しますが、江戸時代に上演されていた『仮名手本忠臣蔵』はその舞台を南北朝(室町初期)時代に設定されていた事もあって、大石内蔵助や浅野内匠頭・吉良上野介という名前は庶民にはあまり知られていませんでした。
逆に武士の世界ではこの事件の意味は重要視されていて、これ以降は14日・15日(討入りの14日と吉良が討たれた15日)に事件が多くなるのです。
以前に書きました近江屋事件が11月15日なのもそのためだという説もあるんですよ。


<さて、本題>
そもそも、吉良上野介義央はなぜ赤穂浪士に殺されなければならなかったのでしょうか?
前年3月14日、赤穂浪士の主君だった赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城松之廊下で吉良に斬りかかり2ヶ所に傷を負わせました。
その日は5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院の為に京から来た勅旨(天皇の使者)を江戸城に迎える大事な日でしたが、その勅旨の来訪を血で汚した(公家は血を忌み嫌う)罪と江戸城内での抜刀の罪で浅野はその日の内に切腹になったのです。
この事件で吉良を殺しそこなった主君の代わりに大石内蔵助良雄などの四十七士が吉良を敵として仇討ちを決意したのでした。
松之廊下刃傷事件で浅野内匠頭は即日切腹になり、これが『忠臣蔵』では浅野の哀れさを誘う要因になっているのですが、これ以前は江戸城内で刃傷に及んだ者やその後継ぎは即日か翌日には切腹になっているので、別に不当な沙汰ではなかったのです。

兎にも角にも、君主が大失態を犯した以上は藩は取り潰しになり藩士は失業します。武士の再就職は今のサラリーマンよりも難しい事でしたので藩士達は浅野内匠頭の弟・大学長広を君主にして浅野家を再興して再就職の道を開こうとしました。
しかし、幕府は浅野家の再興を認めなかったために吉良邸討入りが決行される事となったのでした(逆に言えばもし浅野大学のお家再興が許可されていたら吉良は殺されずに済んでいたのです)。
元禄15年7月18日に浅野大学長広は永預け(無期の監禁)という沙汰が下り、これを受けて18日に京都・円山で赤穂浪士の会議が行われて討入りが決定したのでした。

こうして浪士達は少しづつ江戸へ集合します。

これから討入りに間に何人かの脱落者が出ます。
江戸に出た浪士達が吉良邸の中や吉良の行動をつぶさに観察にする話が『忠臣蔵』のドラマに登場しますが、実際はそんなに苦労しなくてもそれらの情報は手に入ったようなのです。
と言うのも、吉良上野介としては討入りが来るなどという事自体がありえない話でした。
元々、吉良は切られた方で被害者であり、しかも浅野内匠頭を切腹にしたのは将軍であって、吉良が狙われるのはお門違いだったのです。
また、仇討ちの定義は親や兄が殺された時に子や弟・妹が行なうものであって、主君の仇を討つとういう考え方自体が当時の世の中には無かったのです。
『忠臣蔵』関連のドラマで、主君の仇を討たずに一周忌を迎えた浪士達が主君の墓参りに向かうと、民衆が野次を飛ばして馬鹿にするシーンをよく見かけますが、そんな事も実際にはありえないのですよ。
しかし、吉良の妻・富子は赤穂浪士の逆恨みを心配して吉良に逃げるように言いました。
でも吉良は笑って聞き流したために富子一人が実家の上杉家に戻り難を逃れたと伝わっています。

さて、討入りは12月14日という事になっていますが、実際は15日の午前4時頃の話。
この頃は日の出を日付の変わる目安としていたので14日という事になっているのです。
14日の昼に大石内蔵助が浅野内匠頭の未亡人・瑤泉院を尋ねた“南部坂の別れ”や赤埴源蔵が兄の着物の前で酒を飲んだ“徳利の別れ”等の逸話がありますが、これは全てフィクションで実話ではありません(忠臣蔵ファンを敵に回すな、絶対・・・)。
夜になり浪士の内三人の家でそれぞれ集合して身支度を固めて浪士の一人・杉野十平次宅に集まったのが15日午前4時、それから吉良邸に討入ります。
そんな事を夢にも思っていなかった吉良側は備えもないために一方的な殺戮となってしましました、吉良上野介は異変に気付き刀を構えて防戦し両手3ヶ所・左股1ヶ所・右膝頭2ヶ所・右下腿1ヶ所に傷を負い邸内の台所で倒れます。
そして胸に刀を刺されて死亡しました。
ここでも、誤解されているのですが、吉良上野介は炭小屋に隠れたりはしておらず、正々堂々と戦って斬られたのです。
つまり、隠れていた吉良を探すのに手間取った訳ではなく、浪士の誰も吉良の顔を知らなかったためにこの死体を捜すのに時間がかかり、夜明け後にやっと首を切る事が出来たのでした。

吉良の首を取った赤穂浪士たちは、吉良邸の火の後始末をしてから主君の墓所である泉岳寺へ向かいます。
この時に、吉良の首を奪われては困るので、槍の先には首の大きさくらいの置物(千利休が「桂川の魚籠(びく)」と命名した花器)を包んで吊るして、本物の首は別ルートで主君の墓前に運ばれました。
そして、寺坂吉右衛門という足軽が関係者への報告のために大石内蔵助の指示で現場から離れます。
そのため、切腹した浪士は46名なのですがお芝居で『忠臣蔵』が有名になると数合わせのために寺坂の存命中に墓が泉岳寺に作られてしまいます。
後年に寺坂が没した時に寺坂の墓は姫路に作られて、後に泉岳寺に改葬されたのでした。

さて、寺坂を除いた46名を民衆が拍手で迎えて途中で甘酒を振舞われたとの話がありますが、これもフィクションです。
甘酒を振舞った店は今もお商売をされていますが、この時は討入り後に体の冷えた浪士が暖を取るためにこの店の主人をたたき起こし無理やり甘酒を用意させたそうです。
民衆達も急な暴徒の集団に怯えて家の中で息を潜めて様子を窺っていたと言われています。

色んな虚実を交えながらも、討入り後に泉岳寺の浅野内匠頭の墓前にに吉良上野介の首を供えた46人の浪士達はそのまま幕府の使者が来るのを待ちました。
「本当に仇討ちだけが目的ならばこの泉岳寺で一同が揃って切腹するはずだ」と批判する儒学者も居ましたが、浪士達にすると死罪になるとは思っても見ない事だったと言われています。
この事件で浪士達には二つの罪がありました。
1.許可無く仇討ちをした事。
2.徒党を組んで将軍のお膝元を騒がせた事。
普通はどちらも死罪になる罪ですが、これで死罪にならなかった事例が過去にあったのです。
寛文12(1672)年2月1日に起こった浄瑠璃坂の仇討ちと言う事件で、その酷似した内容から後に『雛型忠臣蔵』と呼ばれる事なりますが、この首謀者達はすぐに遠島になった後に彦根藩に高禄で召抱えられたのです。
罪は1は無罪、2で遠島六年だったのです。
この為、吉良邸討入りは就職活動の一環という見方もあるくらいなのです。
就職活動とまで言われた討入りは結局は46名全員の切腹と言う形で決着を迎える事となります。
吉良を討った事が仇討ちとは認められなかったからで、もし浪士達の行動を仇討ちと認めるならば、松之廊下刃傷事件での浅野内匠頭への切腹の沙汰が間違いだったと幕府が認める事になるというのが大きな要因だったと言われていますし、前述したようにそもそも仇討ちではないのですから、斬首ではなく切腹となっただけでも幕府にとっては温情だったのです。

元禄16(1703)年2月4日、46名は預けられていた大名屋敷で切腹します、しかし切腹の作法を知っている者は殆どいませんでした。
当時の切腹は実際に腹を切る事は殆ど無く、切腹人の前に置かれた三方に載せた扇子(脇差ではない)に手を伸ばした瞬間に首を斬られていたのです。
ですが、浪士達には布で包んだ脇差が使用されたそうなので破格の待遇だったと言えます。
この脇差は切腹後に折って捨てられるので、現在残っている浪士使用の脇差は偽者だとも言われているんですよ。
ちなみに浪士切腹の同日に吉良義周は高島お預けの沙汰を受けているのです。


話は飛んで明治38(1905)年、日本と露西亜が戦った日露戦争の終結のためにポーツマス条約の締結に赴いたポーツマス条約全権大使・小林寿太郎はその後にセオドア=ルーズベルト大統領を訪ねに米国のホエワイトハウスへ出かけています。
ポーツマス条約で日本側有利のように斡旋したのがルーズベルト大統領だったからでした。
しかし、小林はなぜ大統領がこんなに親身になってくれたのかが疑問だった…
その疑問を感じ取った大統領は自分の書斎に小林を招いて、擦り切れる程に読み込まれた一冊の本を示したのです。
『The Toyal Ronins』と言う『忠臣蔵』の英訳本で明治13(1880)年にニューヨークで出版された物でした。
小林が、その本を目にしながら、まだ大統領の意図が解からずに居ると、大統領はこの本を手にして「この本が武士道とは何か、日本人がどれほど忠義に厚く義に勇む人々かを教えてくれました」と言ったと伝えられているのです。大統領は赤穂浪士を信頼の糧とし大の日本びいきとなり、20世紀初頭の世界史に影響を与えたのでした。
明治時代には米以外にも英・仏・独等にも翻訳本が出版されて、武士道と忠義が日本の顔となったのです。


さぁ、長々と書きましたが、これが彦根藩と関係あるのでしょうか?

はっきり言えば、本編の事件とは全く関わりがありません。
当時の彦根藩は、4代藩主・井伊直興が直通に家督を譲って(元禄14年3月5日)間もない頃でした。
直興は隠居前に大老職を辞していたので彦根藩主は幕府の要職には就いて居なかったのです。

でも、敢えて言うならほんの少しだけ関わりがあるのです。
吉良の首を取った赤穂浪士たちが、主君の墓所である泉岳寺へ向かう時の事、当日に浪士達が通過する永代橋が彦根藩中屋敷の前だったのです。
永代橋の辻番の警護の武士は彦根藩中屋敷前を不逞な浪士集団を通す訳には行かないと、浪士達と「通る」「通さない」の問答になります。
この騒ぎを聞きつけた彦根藩の藩士達が門前に現れ、赤穂浪士や藩士との審議の後に浪士達を通す事にしたのです。

赤穂浪士たちが礼を述べながら通り過ぎようとすると、一人の藩士が「厳しい寒さの朝ゆえ、熱い湯を一杯ずつさしあげましょう」と提案し、他の藩士も協力して浪士たちの為に茶碗に湯を酌んで与えたのでした。
大石内蔵助は「思いがけず温まる事ができ、生き返った気分です」と感謝を示してその場を去って行ったそうですよ。

大きな事件の陰に隠れた小さなエピソードですが、どんな出来事もこう言った小さな事が積み重なってできているのです。
こじつけの様な歴史紹介でした。

余談:『いなばの白うさぎ』

2006年12月09日 | 史跡
稲葉神社、常夜灯台石のウサギ


『因幡の白うさぎ』という昔話を知らないと言う方は少ないと思います。

対岸に渡りたい白うさぎが、海に居た鮫に声をかけて、「君達鮫と僕の仲間のどちらの数が多いか数えてみよう」と言い、鮫の数を数えながら海を渡っている途中に「騙されたな~、僕は海を渡りたかっただけなんだ~」と口を滑らせてしまったので、白うさぎは怒った鮫によって毛を毟られて丸裸にされてしまったのでした。

やがて旅をしていた高貴そうに見える兄弟が白うさぎを見つけて事情を聞くと、苦しんでいる白うさぎに嘘を教えてますます傷を悪化させたのでした。
そんな兄弟達の末の弟である大国主命(オオクニヌシノミコト)が少し遅れてやって来て、憐れな白うさぎを見て、正しい治療法を教えてあげたのでした。
これに感謝した白うさぎは、貴い姫を紹介し、姫と大国主命は夫婦となったのです。

その後、スサノオノミコトの娘と駆落ちに近い状態で結婚した大国主命は出雲(島根県)の支配者になるので、「いなば」は鳥取県の因幡国だという説が定説でした。

しかし、彦根市下稲葉町の稲葉神社の大燈篭(常夜灯)の台石には波に乗るウサギが浮き彫りにされています。
また、少し前に『亀山』の項で紹介しました『金のニワトリ』という彦根の昔話を覚えておられますか?
この物語では大国主命の元に使者として向かった天若日子(アマノワカヒコ)が、彦根市中南部の現在亀山小学校が建っている場所の裏山に乗ってきた金のニワトリを隠します・・・
この話を読んでフッと疑問に思った事は、「天若日子は何で出雲に行くのに近江で乗っていたニワトリから降りたのかな?」という事だったんですが、もし『いなばの白うさぎ』を始めとする大国主命の逸話が下稲葉町周辺とするならば、天若日子が亀山に金のニワトリを隠した事も納得できますよね。

お隣りの多賀町にある多賀大社は、日本を作った神様・イザナギノミコトが隠居した所だといわれていますし、彦根市周辺には多くの神話の舞台となった場所も残っています。
琵琶湖の周辺が昔から発展していた政治の中心地だった証拠なのかもしれませんね。


ちなみに、ここからは少しブラックなお話ですが・・・

『いなばの白うさぎ』はとても惨い話だとも言われています。
うさぎが海の向こうの陸に憧れて鮫(因幡の方言で“わに”と言うために鰐が出てくるものもあります)を騙して海を渡り、怒った鮫に皮を剥がれてしまううさぎは、実は都会に憧れる若い娘を指すものだったとか。
田舎暮らしに飽き飽きしていた娘が都会に憧れて旅に出る。しかし悪い人(鮫)に騙されて丸裸にされ酷い目に遭ったのだろうというのです。
やがて大国主命の兄達が娘(うさぎ)を見つけて、これも散々な目にあわされる…
そんな娘に初めて優しくしてくれたのが大国主命だったのです。
物語はこの後にうさぎが高貴な姫を紹介して大国主命がその姫と結婚する事になっているのですが、うさぎと姫は同一人物だという指摘もあるのです。
つまり、優しさに救われた娘は大国主命と結婚した、という事になるそうなのです。

しかし、この後に大国主命はスサノオノミコトの娘とも駆け落ちに近い結婚をするので、娘(うさぎ)が幸せだったかどうかは疑わしい気がしますね。

着見台

2006年12月03日 | 彦根城
彦根城の天守閣がある本丸の形を思い浮かべて見ると、天守閣から見て彦根駅の方面に奇妙に突き出た部分があります。
この突き出た部分は、到着の“着”を“見る”と書いて「着見台」と呼ばれていて、江戸時代にはここにお月見という字を書いて「月見櫓」と言われる二重櫓が建てられていました。

この月見櫓では、佐和山から出る月を眺める宴などが催されていたようですが、残念ながら明治時代初期に建物は取り壊されてしまったのです。
現在は、石垣がその跡を残すのみとなっていますが、その場所に立って景色を眺めると、彦根市内を始めとする広い範囲を見渡す事が出来ます。

彦根は、京都から中山道を通って東に向かう時も、北国街道を通って北陸に向かう時も必ず通る交通の要所だった為に、織田信長の時代には次席家老の丹羽長秀が佐和山城主に任命され、豊臣秀吉の時代には寵臣・石田三成が佐和山城を任されるなど常にその時の権力者が信頼する人物によって治められていたのです。
そして、その大きな役割は街道を通る人々の監視でした。
それは、徳川家の時代になっても変わらず、後に譜代大名筆頭と呼ばれるようになる井伊家に任されたのです。

つまり、彦根城の役割の一つには街道を往来する人々の監視は欠かせないものでした。こう考えると、着見台から広い範囲を見渡せるのは当然なのかもしれませんね。
ちなみに、ここでは、城門の佐和口と京橋口の監視もされていて、城の防備をより強く固めただけではなく、緊急の連絡を早く迎える為や、帰城する藩主の行列をいち早く発見して役人に伝える役目を担ったのです。

着見台は、合戦の時に敵軍の動きを見る役割もあった筈ですが、彦根城が合戦に巻き込まれる事が無かったので、本当の仕事はずっと無かったのかもしれませんね。

ちなみに、この着見台から見る中秋の名月はとても素晴らしいそうですよ。