彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

4月20日、賤ヶ岳の戦い

2011年04月20日 | 何の日?
天正11年(1583)4月20日、賤ヶ岳の戦いが大きく動き、合戦の決着がつきました。

現在、賤ヶ岳の古戦場として知られている場所は、賤ヶ岳砦という羽柴方の砦があった場所で、本来の古戦場はこの砦から尾根沿いに2キロほど進んだところ一帯です。

清州会議で柴田勝家に明け渡した長浜城を秀吉が奪ったことで始まった戦いでしたが、賤ヶ岳の戦いは二つの戦の組み合わせでした。
ひとつは余呉湖の周辺にお互いに陣城を作って相手を囲もうとする囲碁のような戦い。
もうひとつは、直接の戦いを避けた持久戦
だったのです。

陣城勝負については、お互いに長けていて引き分け。
そして持久戦勝負の矢先に、岐阜城の織田信孝が勝家のために動きだしたので、秀吉は賤ヶ岳を弟の秀長に任せて岐阜城を攻めに向かいました。4月17日のことでした。

【岐阜城】

この時、秀吉が岐阜城近くまで攻め込んでいたら歴史は全く違った形になっていたのかもしれませんが、 揖斐川が氾濫していたために秀吉は大垣城に入ることになったのです。


20日の夜、秀吉が留守をしている隙に、中川清秀が守る大岩山砦を柴田勝家の甥である佐久間盛政が襲い、清秀は戦死、持久戦を破った盛政のために柴田軍は勢いに乗り命令系統が乱れてしまったのです。
【大岩崎j砦跡の中川清秀の墓】

この報せを受けた秀吉は、大垣城から賤ヶ岳まで52キロを5時間で駆けて戻り、大岩山砦のすぐ近くに陣を敷いて盛政を攻め、逃げる佐久間勢に対して追い打ちをかけて手柄を挙げたのが加藤清正らの七本槍でした。
ここでよく言われるのは、秀吉軍の先陣を切って戦ったのは石田三成や大谷吉継であり、七本槍は逃げる佐久間勢の後ろを追っただけなので、本当の武功は三成や吉継にあるのではないか?との話です。これに関しては江戸時代という260年以上続いた時間の中で、三成らを褒めるものが残せなかった事情に繋がるのではないかと思います。

佐久間勢が敗れたことで、勝家は前田利家に協力を求めますが、利家が戦わずに兵を引いたために柴田勢は負け戦が決定、北ノ庄城まで逃げることとなるのです。

秀吉が出世をつかむ戦は、駆けることが多いです。
金ヶ崎退き口・中国大返し・そして賤ヶ岳
このすべてに言えるのは、事前の準備が万全に行われていたことです。
それを考えるなら、大垣城から賤ヶ岳までの準備を見抜けなかった柴田勝家の観察力の鈍さが敗因だったと言えるかもしれませんね。


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1 コメント

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初めまして (鷲谷 壮介)
2021-01-11 23:56:21
初めまして、鷲谷と申します。

この度賤ケ岳の戦いを題材にした記事を書かせていただいたのですが、その際にこちらの記事を参考にさせていただきました。

石田三成や大谷吉継が先陣を切ったという話は知りませんでした。

2人、特に石田は文官という印象が強いですが、彼のこういった面ももう少しフォーカスされると面白いですね。

それと、誠に勝手ながら自ブログにてこちらの記事のリンクを貼らせていただいたので、ぜひ遊びにいらしてください!

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