彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊直政公命日法要

2017年01月29日 | イベント
昨年に続き、今年も井伊直政公の命日法要を行いました。

この一週間の大雪のため、清凉寺にもまだまだ雪が残っていました。
そんな中でも、市長や商工会会頭、県議さん、市議さんなどの方々もお越しになられました。

予定の午前9時を少し超えてから本堂で始まった法要。





本堂と位牌堂でご焼香をさせていただきました。

そののち、雪が残る墓所にお参り



雪に埋もれる井伊家歴代のお墓、寒そうです。

でも、雪景色も綺麗ですね。

直政公のお墓でもご住職にお経をあげていただき、無事に法要は終わりました。

今年の大河ドラマと410年祭が無事に行われますように、井伊直政公にお祈りしました。


関連地 彦根市 清凉寺
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井伊家千年の歴史(15)

2017年01月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 前稿まで、井伊家が誕生してから井伊直政が徳川家康に仕えるまでの565年の歴史を紹介した。今稿からは井伊直虎とその周辺の人物に焦点を当てて紹介したい、その過程で前稿までと重複する話が多用されることをお断りする。

 まずは井伊直虎。
 井伊谷龍潭寺が作成した年表では直虎の生年は天文5年(1536)で許嫁の井伊直親の一歳年下としている。一方、直虎があまり世に知られていなかった頃には、直虎の生年を享禄3年(1530)として直親の5歳年上との説も流れたことがあった。これは直虎の名前に使われている虎の字が寅年生まれを連想して唱えられた説と考えられる。直虎の生年や幼名・本名について伝える記録はない。
また井伊家の記録には直虎という名は出てこない、次郎法師の署名と黒印が押された文書以外に次郎直虎と署名と花押が書かれた古文書が現存しているため次郎法師と直虎が同一人物であることが理解されただけなのだ。
 さて、井伊直虎の人生を直虎が生きた時代の資料から見つめることは難しいため、これから書くことは一般的に言われていることであり確定したものではないという言い訳をお許しいただきたい。
 直虎は井伊家宗家である井伊直盛の一人娘として誕生する。母は新野親矩の妹だった。直盛は側室を持たなかったために直虎以外に子どもを授かることがなく、井伊家宗家の血を繋ぐために、従弟の亀之丞(直満の息子)を直虎の許嫁とした。
 しかし、亀之丞が九歳の時、今川義元の命で直満が殺害され、亀之丞は信州伊那の松源寺に逃れ、行方不明となった。直虎は許嫁が居なくなったことに悲しみついに出家を決意する。これを直盛は許さず、井伊一族で菩提寺龍泰寺(直盛の死後は龍潭寺)の南渓瑞聞に相談すると、南渓は「備中次郎と申す名は井伊家総領の名、次郎法師は女にこそあれ井伊家総領に生まれ候間、僧侶の名を兼ねて次郎法師とは是非なく」と話し命名した。井伊家研究の中で「彦根藩主を務めた人物に備中次郎を名乗った者はおらず、これは伝承の域を出ない」との意見があるが、備中次郎で一つではなく「備中守」と「次郎」のことであり、備中守は井伊家初代共保と養父共資の官職、次郎は南朝に属した井伊家が新田義貞から与えられたと伝わり、どちらも井伊家にとって大切な名だった。しかし彦根藩井伊家は徳川家康に仕えた直政を藩祖としている、直政は家康に「万千代」の名を与えられているため、この時点で井伊家の歴史は改めてスタートしているのだ、彦根藩主たちが備中次郎を引き継がないことこそが井伊家が大きな災いの後に復活を遂げた象徴でもある。
 こうして、出家して俗世から離れた直虎に許嫁帰国の報が届いたのは、亀之丞失踪からあしかけ11年後のことだった。

井伊直親の墓(左)と直虎の墓(右)


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勝鳥神社 訪問

2017年01月02日 | 史跡
毎年、元日に干支に関わる神社にお参りに行くことを習慣にしていますが、今年は彦根市内の勝鳥神社に行きました。

事代主命らと美濃に向かって出陣した天稚彦命が美濃で討死し、その亡骸を天稚彦命の妻である下照姫命が引き取って葬った地とされていて、下照姫命はそこに勝鳥石を建てたそうです。
関係としては、事代主命と下照姫命が大国主命の子どもと言われていますので、事代主命と天稚彦命は義理の兄弟ですね。
近くの高野瀬には天稚彦神社もありどちらも同じ氏子さんに寄って守られていた時期があり、戦国期にはどちらも高野瀬氏の領国であったことも興味をそそります。

また、近く亀山小学校の裏にある茂賀山には、天照大神に派遣された天若日子が大国主命と会うために天上から金の鶏に乗って地上に降り、鶏を置いて行った地とされています。
ちなみに、天若日子は大国主命の娘シタテルヒメと結婚してしまい、仕事を果たさなかったので天照大神が命じた矢を受けて死んだとされているなですが…

天稚彦はアメワカヒコつまり天若日子
下照姫はシタテルヒメ

と考えると、全く違う話が同じ人物によって結ばれ、下照姫命がなぜ勝鳥石なんて物を建てたのかもわかります。

そんな勝鳥神社参拝
人が多い…
12年前にある旅行会社がミステリーツアーとして干支に関わる神社として参拝を企画したことから酉年に注目されて参拝もあるみたいです。

由緒書

境内には鳥の狛犬?や絵馬額など…









また、近くには肥田城水攻めに関わった高野瀬氏の重臣久木氏の住居だった越川城跡の碑もあります。



関連地 彦根市三津町 勝鳥神社
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