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“男のためのガーデニング”改め

写真展「琵琶湖源流の美と暮らし」~長浜市余呉町菅並~

2021-10-18 17:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜市余呉町菅並集落は現在この方面での滋賀県最奥の集落となっていますが、かつてはその奥に「奥川並・小原・田戸・ 鷲見・尾羽梨・針川・半明」の7つの集落が存在したといいます。
それらの集落の内、「奥川並・針川・尾羽梨」の3つの集落は炭焼きが生業だった為、ガスや石油の普及に伴い生計が成り立たなくなり、昭和40年代に集団離村したとされます。

残る「小原・田戸・ 鷲見・半明」の4つの集落に関しては、丹生ダム建設計画により1995年に移住させられ、離村した集落にはかつての面影はなくなってしまい、自然に帰ってしまっていると聞きます。
尚、丹生ダムは「もったいない」を合言葉に「新幹線新駅・産廃処理施設・ダム事業の凍結、見直し」を公約して滋賀県知事に当選した嘉田由紀子の推進もあり、2016年に国土交通省により丹生ダム建設中止が決定しています。



今回の写真展は、1969年頃から無人となる1995年まで吉田一郎さんが撮りためた集落の記録を公開する写真展です。
写真展は、近隣集落となる菅並で公開された後、滋賀県立美術館での巡回展などを経て、「地図から消えた町-琵琶湖源流七集落の記憶と記録-」として出版が予定されているそうです。



展示会場は「妙理の里」と曹洞宗の「洞寿院」の2会場で屋外展示され、会場には元滋賀県知事で現在は参議院議員の嘉田由紀子さんの姿もありました。
丹生ダム建設中止に深く関わった嘉田さんと丹生ダムで離村された方々とのつながりは深いのでしょう、地元の方々と立ち話されていました。



7つの集落の耕地は棚田だったとされますが、高低差が大きく小さな棚田が多かったようで、耕作にはかなりの苦労があったと思われます。
奥丹生谷では自家用米の自給も出来ない状態にありながら、国によって減反されたり、水害や台風の被害も多かったようです。

 

耕地の少ない鷲見では畑で粟やキビやヒエを栽培して、餅や団子にしたり米を加えて雑穀米として食べていたという。
また、高栄養価というバイの実やトチの実、トチの蜂蜜を採集していたそうです。
ヒエや粟、キビ団子となると、何か昔話のような錯覚を起こしますが、写真は1969年以降に撮られたものですから、その時代でも日本の原風景のような生活が残っていたといえます。



吉田一郎さんが撮影された写真は、集落の方の生活や信仰、民俗に根差した写真でありつつも、人との垣根を感じない写真となっているのはそれだけ集落の人にとけ込んでおられたからなのしょう。
四半世紀に渡って村を訪れ、しっかりとした信頼関係を築いていなければ撮れない写真ばかりだと感じ入りました。

余呉町は滋賀県下でも豪雪地帯で有名な地域で、あの五六の豪雪では4m近い雪で道も家屋も埋まってしまったそうです。
そんな豪雪地帯ゆえに小原・田戸・鷲見の集落では埋葬する墓(埋め墓)と雪の中でもお参りできるよう村の近くにある(詣り墓)の2つがあったといいます。
上記の3集落では離村するまで土葬を続けられてきたといい、魂が山へ帰る「埋め墓」と現生の人が墓参りの出来る「詣り墓」というのは理にかなった独特の供養方法だと思います。





信仰の篤さは、「野神さん」「氏神さま」にも表れており、離村の際には野神さんも氏神さまも御神体を別の寺社に遷したようです。
余呉町の丹生地区は野神さんとして祀られる巨樹が多く残る一帯ですが、鷲見の野神さんは高時川を渡って行った先にある洞窟に鎮座していたようです。
野神さん・氏神さま・山の神と自然神信仰の色濃い丹生谷には、離村していない集落にも自然信仰の姿が今も残ります。





第一会場の妙理の里を見終わると、坂道を歩いて「洞寿院」の境内へと向かいます。
寺院は山と山の谷間に流れる妙理川横の渓間にあり、巨樹に囲まれた山門は曹洞宗の寺院らしい厳格さを感じます。



山門の前には大きな巨岩があり、岩の上には仏が祀られています。
洞寿院に参拝するのは3度目ですが、同じ菅並集落に祀られる六所神社同様に気が引き締まる厳かさを感じます。



山門の右側には何本かの樹が合体したような独特の姿の樹があり圧倒されます。
こういう感じの山村を歩いている時間は、実に心穏やかな気持ちになり、何か心が満たされていくような感覚を覚えます。



「塩谷山 洞壽院」は1406年に如仲天誾禅師により開山され、曹洞宗中本山の格を持ち、皇室の御祈願所であったという。
2代将軍徳川秀忠より寺領30石が寄進され、寺紋には徳川家の家紋と同じ葵の紋を掲げる事が許された寺院だといい、現在の本堂は1863年に造営されたものだといいます。



写真は本堂前のほか、庫裡や座禅道場などの前にも展示されています。
洞壽院での展示は人物写真が多かったのですが、写っている人の表情を見ると、いかに吉田さんが集落の人々の中にとけ込んでいたかが分かるような自然な笑顔が見られます。



写真展に来られている人は年配の方が多く、話されている内容からすると離村された方や集落の方と付き合いのあった方のように聞き取れます。
“○○さんは写真で見ると思い出すなぁ。”、“この写真の辺りに○○があった。”、“懐かしいだろうから家のばぁさんを連れてきてやろう。”など。



昔を懐かしむような会話が多く、会話から悲壮感は全く感じませんでしたが、聞いているこちらの方がなぜか切なくなってくる。
もう戻れない、もう戻ることもない、もう何も残っていない。
貧しくとも人のつながりや自然の恵みに助けられながら暮らした祈りの村は「地図から消えた町」となった。



余談になりますが、変な虫がいたのを発見!
からじ結いの髪形に大笑いしたような顔に見える虫。こいつ何て虫だろう?
(後日判明。アカスジキンカメムシ終齢(5齢)幼虫でした。)





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