近江八景の一つに「唐崎夜雨(からさき の やう)」で知られる唐崎神社が湖南地方の大津市にありますが、その神社とは違ってこちらは琵琶湖の湖西地方の高島市にある唐崎神社のことになります。
同じ名前の2社に継がりがあるのかどうかは知りませんが、共に琵琶湖の湖畔近くに建つ神社ということでは共通点があります。
創立年代は不詳とされていますが、天智天皇(626~672年)の時代には既に鎮座されていたとされる古社で、延喜式内社(927年にまとめられた全国の神社一覧)にも記載されていた神社のようです。
その当時は大川神社という社号で延喜式神名帳に記載されていたそうで、その大川神社が現在の唐崎神社だと伝えられています。
神社が立地するマキノ町知内には知内川・生来川・百瀬川の3本の川が流れており、かつては川につからないと行くことの出来ない斎場であったようです。
参拝の前に川を渡りますから、自然と禊をして身を清めることが出来るようになっていたと由緒書きにあります。
また湖上交通による参拝も盛んであったとされていますが、湖周道路や川岸整備された現在の地形からはちょっと想像がつきにくいですね。
石碑には「川裾宮」と彫られていますが、唐崎神社は創始時は「大川明神」と呼ばれ、その後「日月星三光明神」「川据大明神」と社号の変遷があったようです。
現在は「川裾宮 唐崎神社」が正式名となっておりますが、地元の人には通称「川裾さん」として親しまれているそうです。
鳥居を抜けて参道を歩いて行きましたが、参拝者は自分以外に誰もいず小鳥の声だけがにぎやかな参道でした。
小ぶりな実のなった柿の木にはツグミやヒヨドリ・シロハラの姿が実をついばみながら飛び交う、ひっそりとして自然に恵まれた杜でした。
唐崎神社の御祭神は「瀬織津比咩神」「速開都比咩神」「速佐須良比咩神」の3柱ですが、神様はやはり難しいですね。
「瀬織津比咩神」は「水」を司る神で自然界の浄化の神様。
「速開都比咩神」は水戸(ミナト。水と水、流れと流れの出会うところ)のお祓いの神様。
「速佐須良比咩神」は根の国、底の国の浄化の神様。
地上にある罪や穢れを「瀬織津比咩神」と「速開都比咩神」が運び、最後は根の国・底の国の神である「速佐須良比咩神」が祓うということなのでしょうか。
3本の川が琵琶湖へ注ぎ込む下流の地にある神社ですので、そんな思いも浮かびます。
神社の後方には古墳時代(7世紀)の円墳があったと言われているそうです。
また安土桃山時代には「知内城(知内浜城)」が築かれていたとされ城跡があるようでしたが、どれがその痕跡かは結局分らずじまいでした。
本殿の横には磐座のような苔むした岩が置かれて結界が張られていましたが、これも何を意味しているかは分りません。
かつて御神木でもあったかのような大きな切株があり、ほとんど朽ちかけてはいるのですが一部から新葉が出てきています。
樹木の強い生命力を感じてしまいますね。
御朱印は境内にある宮司さんの家で頂きましたが、“唐崎神社は古くからの神社であるとともに「西近江七福神」の一つでもあります”と説明して下さりました。
「西近江七福神」は、北は海津の大崎寺から南は白髭神社までの7ヶ所になっていますので、七福神巡りを目的に湖西を巡るのも面白いかもしれませんね。
同じ名前の2社に継がりがあるのかどうかは知りませんが、共に琵琶湖の湖畔近くに建つ神社ということでは共通点があります。
創立年代は不詳とされていますが、天智天皇(626~672年)の時代には既に鎮座されていたとされる古社で、延喜式内社(927年にまとめられた全国の神社一覧)にも記載されていた神社のようです。
その当時は大川神社という社号で延喜式神名帳に記載されていたそうで、その大川神社が現在の唐崎神社だと伝えられています。
神社が立地するマキノ町知内には知内川・生来川・百瀬川の3本の川が流れており、かつては川につからないと行くことの出来ない斎場であったようです。
参拝の前に川を渡りますから、自然と禊をして身を清めることが出来るようになっていたと由緒書きにあります。
また湖上交通による参拝も盛んであったとされていますが、湖周道路や川岸整備された現在の地形からはちょっと想像がつきにくいですね。
石碑には「川裾宮」と彫られていますが、唐崎神社は創始時は「大川明神」と呼ばれ、その後「日月星三光明神」「川据大明神」と社号の変遷があったようです。
現在は「川裾宮 唐崎神社」が正式名となっておりますが、地元の人には通称「川裾さん」として親しまれているそうです。
鳥居を抜けて参道を歩いて行きましたが、参拝者は自分以外に誰もいず小鳥の声だけがにぎやかな参道でした。
小ぶりな実のなった柿の木にはツグミやヒヨドリ・シロハラの姿が実をついばみながら飛び交う、ひっそりとして自然に恵まれた杜でした。
唐崎神社の御祭神は「瀬織津比咩神」「速開都比咩神」「速佐須良比咩神」の3柱ですが、神様はやはり難しいですね。
「瀬織津比咩神」は「水」を司る神で自然界の浄化の神様。
「速開都比咩神」は水戸(ミナト。水と水、流れと流れの出会うところ)のお祓いの神様。
「速佐須良比咩神」は根の国、底の国の浄化の神様。
地上にある罪や穢れを「瀬織津比咩神」と「速開都比咩神」が運び、最後は根の国・底の国の神である「速佐須良比咩神」が祓うということなのでしょうか。
3本の川が琵琶湖へ注ぎ込む下流の地にある神社ですので、そんな思いも浮かびます。
神社の後方には古墳時代(7世紀)の円墳があったと言われているそうです。
また安土桃山時代には「知内城(知内浜城)」が築かれていたとされ城跡があるようでしたが、どれがその痕跡かは結局分らずじまいでした。
本殿の横には磐座のような苔むした岩が置かれて結界が張られていましたが、これも何を意味しているかは分りません。
かつて御神木でもあったかのような大きな切株があり、ほとんど朽ちかけてはいるのですが一部から新葉が出てきています。
樹木の強い生命力を感じてしまいますね。
御朱印は境内にある宮司さんの家で頂きましたが、“唐崎神社は古くからの神社であるとともに「西近江七福神」の一つでもあります”と説明して下さりました。
「西近江七福神」は、北は海津の大崎寺から南は白髭神社までの7ヶ所になっていますので、七福神巡りを目的に湖西を巡るのも面白いかもしれませんね。
祓戸大神は瀬織津比咩、速開津比咩、気吹戸主、速佐須良比咩の四柱一組です。一組揃って祀られている場合もあり、単独で祀られている場合もあります。
瀬織津比咩は、瀬織津姫命とも呼ばれ、川の瀬が織りなす所に坐すという意味で、川の瀬の神様で、国土で生じた罪や穢れを掻き集めたのを、海まで流すそうです。
速開津比咩は、速秋津姫命、速秋津日命とも呼ばれ、川と海の合流地点に坐すという意味です。海に運ばれてきた罪や穢れを大呑み込みしてしまう神様で、その意味での速開都比咩とも呼ばれてます。
気吹戸主は、気を吹く神という意味で、海でまとめられた罪や穢れを、最終地点である根の国底へぶち込むそうです。
速佐須良比咩は、根の国底の国の神様で、凝縮されてぶち込まれた罪や穢れを、ぐるぐるとかき回しながらすっかり浄化するそうです。
近江の大津宮に在居されていた天智天皇は、近江に七瀬の祓所を選定しました。天皇の災厄を負わせた人型(ひとがた)を持った七人の役人が七か所の祓所まで行って、川に流すというのをやっていたそうです。
大津の唐崎神社も、高島市の唐崎神社も、かつて七瀬の祓所であったそうですよ。
この四柱揃って御祭神という神社が、大津市大石の瀬田川沿いに佐久奈度神社があります。七瀬の祓所でもあります。お札も四柱分あるそうですよ。
「七瀬の祓所」の話は初めて知りましたが、七瀬を辿ってみるのも面白いかもしれませんね。先々の楽しみが出来ました。