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海軍記念日特集:日本海海戦1905年5月27日に至る歴史と勝利の果実への絶え間ない努力

2017-05-27 21:55:20 | 北大路機関特別企画
■日本海海戦と海軍記念日
 本日は海軍記念日です。この記念日に併せ、歴史を少し振り返ってみる事としましょう。

 海軍記念日、日露戦争、日本海海戦の日です。1905年5月27日、日本海軍は日露戦争の天王山、奉天方面での後世に先んじ、欧州方面のロシア海軍バルチック艦隊が太平洋第二艦隊としてロシア海軍太平洋艦隊拠点であるウラジオストック基地へ回航する途上、日本海軍主力の連合艦隊が対馬海峡においてこれを捕捉、戦艦数で劣勢ながら撃滅に成功、海軍記念日となりました。

 東郷平八郎大将率いる連合艦隊は戦艦4隻に装甲巡洋艦8隻と巡洋艦15隻という陣容、ロシア海軍はロジェストヴェンスキー中将隷下に戦艦8隻と海防戦艦3隻に装甲巡洋艦3隻と巡洋艦6隻、戦艦の戦力ではロシア側が優位にありましたが、日本海軍は上記艦艇に喪失は無く、一方ロシア海軍は大半が戦没か拿捕、巡洋艦1隻が辛うじて逃げ延びたのみ。

 日本海海戦は、日本の日露戦争勝敗を大きく左右し得るものでした、これは日露戦争そのものがロシアの満州地域浸透と朝鮮半島北部に接する遼東半島への基地建設等を進め、日本としてはロシアとの間での緩衝地帯を確保しなければ大軍を対岸に構えての均衡関係が非常に難しいと考えられていた為であり、その主戦場は満州、現在の中国北部地域です。

 満州が主戦場であったため、ロシア軍はシベリア鉄道という強力な後方連絡線を確保し自由に物資を送る事が出来ました。対して、日本は満州までの陸路が無く、朝鮮半島が日本本土へ併合されるのは先の歴史、日本海を経由し朝鮮半島を経由しての後方連絡線を維持する事が不可欠でした。そしてロシア海軍はロシア太平洋艦隊により遮断出来た訳です。

 ロシア太平洋艦隊と日本連合艦隊の決戦は黄海海戦により雌雄を決しました。ロシア海軍は装甲巡洋艦等を駆使し繰り返し日本海や黄海において我が輸送船を攻撃し、戦果を挙げており、ウラジオストック基地、遼東半島の旅順基地は強力な要塞砲に守られ、要塞砲は地面に設置する故に戦艦以上の砲を有し、日本側は有効な打撃手段を持たなかったのです。

 黄海海戦は、旅順基地がその外郭を防衛する旅順要塞そのものが我が陸軍第3軍による猛攻を受け包囲殲滅される懸念からロシア海軍太平洋艦隊が旅順を放棄しウラジオストックへ合流する艦隊転進へ時機を見い出し連合艦隊が艦隊決戦を挑んだもので、この海戦は装甲を有する帆船以外の動力艦、戦艦と定義される艦艇同士の世界海戦史上初の海戦でした。

 1904年8月10日に旅順を出航したロシア艦隊を連合艦隊は即座に攻撃を加えたものの、ロシア艦隊は旗艦が戦闘不能に陥った緒戦以降回避に終始し、そのまま包囲状況を見極めた直後に旅順へ撤退、日本はロシア艦多数を撃破し勝利を勝ち取りましたが、主力艦は旅順の奥深くに潜りこみ、結果的に旅順要塞を陸上攻撃する必要が生じ、辛酸をなめました。

 蔚山沖海戦としてその四日後、ウラジオストックから旅順基地救援へ展開したロシア太平洋艦隊巡洋艦部隊を朝鮮半島蔚山沖で日本海軍第三艦隊が捕捉、ロシア海軍巡洋艦全てを撃沈もしくは撃破し、日本側は旗艦出雲以下全艦が凱旋帰港を果たし、これが期せずして日本海のシーレーン攻撃を行っていた巡洋艦隊であった事から制海権確保に成功します。

 旅順港に撤退したロシア艦隊は、旅順港を防衛する旅順要塞が日本陸軍第三軍により遂に陥落し、その中途に旅順港内を一望する二〇三高地を確保した事でここを観測点とし、日本が攻城砲として展開させた大口径沿岸砲の長距離射撃により港内において全艦行動不能となりました。ただ、旅順港封鎖中、機雷触雷により日本海軍に少なくない被害が出ます。

 シーレーン防衛、という側面を有する日露戦争海の戦い、ロシア太平洋艦隊は陸海軍の、特に陸軍の旅順要塞攻防戦という死闘を経て確保されるに至りましたが、バルト海のバルチック艦隊が太平洋第二艦隊としてウラジオストックへ入港したならば、いつ再度制海権を脅かされるか、日本本土からの補給等連絡線が断たれれば大陸での敗北は免れません。

 日本海海戦はこうした厳しい状況を背景に展開されましたが、日本海軍は様々な努力の結果、自らが勝ち得る環境を醸成し、相手に敗北を強要する状況を構築、その上で海戦を挑みました。この結果得た勝利は冒頭に記した通りであり、結果として日本はシーレーンを維持、続く陸上での決戦、奉天大会戦に辛勝し、日露戦争を勝利へと大きく支えた訳です。

 日本海軍は、情報優位への絶え間ない努力、同盟国との絶え間ない連携と協力基盤の維持、多国間外交、戦術研究と戦力集中原則の堅持、少数ながら有力な主力艦の整備、徹底した科学主義への資材の集中、という勝利への必要な施策を着実に積み重ね、確率論では低い勝利への険しい道程を文字通りかけ合わせつみ重ねる事で、戦勝に至ったといえましょう。

北大路機関:はるな くらま
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