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【京都発幕間旅情】八幡堀,安土桃山時代の八幡城下町造営の事業は三方よし近江商人を育む

2017-07-05 20:01:06 | 旅行記
■近江八幡,水運の旧商都探訪記
 京都から東海道本線琵琶湖線を新快速で30分の先、近江八幡から路線バスで八幡山へ5分少々、ここには安土桃山時代に構築された実に6kmもの水路があります。

 八幡堀、近江商人が隆盛を極めた滋賀県近江八幡の情景です。東海道と中山道と北国街道の要衝、今日では新快速の東海道本線琵琶湖線が疾駆する立地にある近江八幡市、八幡堀の水運が育んだ商家町、碁盤目状の旧市街と日牟禮八幡宮とを大通りの如く水路が通る。

 琵琶湖の水運を活かした安土桃山時代からの美しの街並み、日本各地に小京都の呼称あり、しかしどれも単に古い町並み、と揶揄する言葉があるようですが、この美しい水路の街並みだけは京都にはありません、高瀬川や伏見水路も規模で近江八幡八幡堀にはかなわない。

 萬屋錦之介主演の多くの作品舞台、破れ奉行として江戸悪人たちに畏れられる深川奉行速水右近が大活躍の“破れ奉行”、悪人本宅へ快速鯨船で直接乗り付ける破天荒な痛快時代劇、火付盗賊改方長官長谷川平蔵が活躍する鬼平犯科帳、八幡堀は時代劇で幾度も登場しますのはご存知の通り。

 安土桃山時代、豊臣秀次が四国征伐の軍功以て近江41万石を拝領し八幡山城築城の際、ここ八幡山周囲に琵琶湖との水上交通を期して八幡堀を構築しました。近江国八幡山はかの織田信長が造営した安土城、その城下町に程近く楽市楽座の商都を継承する試みでしょう。

 豊臣秀次は城郭を平時の兵力集中拠点や戦時の防御拠点としてだけではなく、そもそもが策源地であり兵站の重要性を理解していたのでしょう。商都としての繁忙は物資集積と情報収集、接近経路の維持と拡張に不可欠で、併せて水運は後方連絡線にも資する機能です。

 八幡山城は近江八幡駅からも望見できる八幡山、その山頂に造営されましたが、城主豊臣秀次が豊臣秀吉より謀反の疑いを受け、出家の後に切腹を命じられ、家臣家老妻子稚児が連座し切腹や斬首という悲しい歴史と共に城郭は廃城となりました。しかし八幡堀は残る。

 近江商人はこの八幡堀の水運を利用し、逸品名品を近江に集め、全国へ広め、日本全国へ商いを広めました。三方よし、として売り手に買い手に世間によし、とする商業哲学、利真於勤として利益は勤勉勤労により得られるとの営利至上主義への戒め、見習う事は多い。

 高島屋は近江高島郡、トヨタ自動車は彦根出身の豊田利三郎、伊藤忠商事も近江犬上郡出身の伊藤忠兵衛創業、武田薬品工業は近江日野発祥の薬種仲買商が始り、西武グループも近江愛知郡出身の堤康次郎が創業者、と近江商人の流派は現代も広く世界で活躍している。

 水運の商都というべきでしょうか、水運は当時もっとも速度が大きく大量輸送に向いていた交通手段でした。そしてこの近江八幡は北陸と若狭へ長浜港を、東海道へ彦根港を、京都へは大津港を、それぞれ経由することで物流の拠点となり、併せて安土桃山時代に難工事を短期で実現、活用出来ています。

 江戸時代にも水運は多く利用されましたが、明治時代の東海道本線整備を経て大正時代、そして昭和の第二次世界大戦後まで、東海道新幹線と名神高速道路開通後までこの八幡堀は水運の拠点となっており、昭和中期にも150もの運貨船が運用されていたとのことです。

 昭和時代まで水路として活用されていた事で、水運業者による定期的な浚渫が為され、水路沿線住民も受益者である事から清廉が保たれていましたが、昭和後期に入ると流石に水運はトラック輸送に置き換えられ、水運業者の廃業は浚渫の終了も意味し一時荒廃しました。

 重要伝統的建造物群保存地区として今日、この八幡堀は広く観光地として知られていますが、昭和後期の荒廃に衛生上問題もあり、一時は全埋め立てと駐車場化が検討されていました。しかし、地元有志の活動で水路復権整備の機運が高まり、今日に景観を伝えているわけですね。

北大路機関:はるな くらま
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