■妙心寺 日本最大の禅寺へ
“NHK大河ドラマ 功名が辻”が好評の内に放送を終了したが、主人公である山内一豊と千代が祀られているのが花園にある妙心寺である。妙心寺の前は週に幾度か通るのだが、中を拝観する機会は無く、大河ドラマの放映もあり、ひとつ見学しようと、友人と中に入った。
臨済宗妙心寺派の本山である妙心寺は、1337年に建立され、山号を正法山という。
その起源は花園法皇が離宮として造営したのが始まりとされ、無相大師を開山として迎えたのが始まりとされる。その後、足利義満の圧迫などや応仁の乱により一時その流れを絶たれたが、細川勝元らの支援により再興し、今日に至る。武士層からの信仰も厚く、広大な寺院には46の塔が聳えている。
妙心寺派の寺院はこの他3500あり、臨済宗の中では最大もので、勅使門より北へ三門、仏殿、法堂、寝堂、大方丈が一列に並び東側に浴室や鐘楼、経蔵が立ち並ぶ。
この並んだ一列から妙心寺はここから大きく広がっていったようで、どれも室町時代後期から江戸時代初期に建立されたものであるという。法堂の鐘は696年に造られたもので、銘が記された鐘では日本最古のものである。
私事ながら年内最後の打ち合わせが終わり、一つ時間が出来た小生は、けーと氏を誘い妙心寺へと向かった。最初は長い塀を見ているだけであったが、長い塀から凡その広さを連想したものの、中はその想像とは遥かに広かったのには驚いた。南門と北門に案内所があるのだが、案内の栞は10円で案内所にて販売している。それを読み、そこで初めて、妙心寺が禅寺としては日本で最大のものという事実を知った次第である。
勅使門をより入り、放生池とその奥にある三門を望む。赤い三門というつくりは大徳寺と共通するが、放生池と三門という位置関係は東福寺と同じものである。
ここからは木立があるため写真からは見ることは出来ないが、そのすぐ傍に1653年に建立された慈雲院や1404年に建立された退蔵院がある。後者は通年一般公開されており、ここの庭園は名勝として名高いとのこと。
三門とその向こうにあるのが仏殿、更にその向こうに法堂がみえる。
巨大な木造建築物が並んだ威容は観艦式の如くであるが、更にその奥には大方丈、小方丈、大庫裏が東西に並んでいる。
左手の松林の中には噴水のようなものがあったが、どういった謂れがあるのだろうか。ご存知の方がいればご教授いただければ幸いである。
この隣には鐘楼があり、小生一行が歩いていたときには丁度1500時の鐘が鳴っていた。鐘楼は幾つかあり、鐘の響きは前後して聞こえてくる。
見事な木造建築物であるがここのしたは自転車でもくぐることが出来る。ここをくぐれば大方丈が姿を現す。
大方丈、この隣には東海庵や小方丈が並んでいる。この東海庵の更に隣にある大心院は1479年に建立されたもので通年公開されている。
実は様々な院があるものの公開されているのはほんの一部であり、この他は特別公開として期間を限定して公開されているものや、檀家や檀家の紹介により公開されるもの、若しくは原則として非公開のものに分かれる。
こうしたところに自動車が停車しているのは不自然に感じるが、関係者の自動車の乗りいれば自由であり、また宅配業者の配達もこの中に入って来ている。
この後更に東に進み東林院に向かったが特別公開地区であったため引き返した。
上の写真から西へ進み、つまり来た道を戻ったところには蓮池がある。
この上に浮かぶようにして立っているのは納骨堂である。どういった謂れがあるかは判らないが、高貴な人のものが祀られているのだろうか。開祖の開山堂が近く、高僧の謂れを記した札が掲げられていた。また、写真には写っていないが見た目が牛のようだという牛石などが鎮座している。
経蔵だったろうか記憶が定かではないので恐縮だが、間違いに気付かれた方はご教授いただければ幸いである。
この屋根の上に更に小さな屋根のようなものが出ているのは換気用であろうか、また、瓦も上にかがんだ狛犬のようなものが象られたものがあり、独特の建築様式であった。門と塀の上に瓦屋根があり、また堂の上にも段差がありそれぞれに瓦屋根、そしてその上の換気用の屋根が並ぶ様子はユーモラスである。
妙心寺より京福線を越えて竜安寺に向かう。石庭で知られる竜安寺も妙心寺の一部であることが栞に書かれており驚いた。なお、通年公開である石庭は有料であるので、此処の裏にある山を登り、一条天皇陵を参拝することとした。
ジョキングや犬の散歩を禁じる旨が宮内庁の注意書きに記されていたが、一行は紛れも無い参拝であるため、石畳の道をどんどん登った。十五分ほどで山頂に着くが、まだ椛が残っていたのが印象的であった。
一条天皇陵、更に多くの陵墓がこの山々には築かれている。こうした山頂は見晴らしが良い分、その造営に関する労力は並ならぬものがあっただろう。
参道には石畳が並び、険しさを感じさせる道のりではない。奥にある別の陵墓までは舗装こそされていないものの印が一定間隔で地面に打たれていた。ここは1700時に閉鎖されるため永くいることは出来ない。
更に向こうには高槻市の高層建築物が見え、恐らく雨上がりなどで空気が澄んでいれば大阪の梅田やビジネスパークの高層ビル群も望見できるのではなかろうか。ここからの夜景は清水寺からのものよりも遥かに絶景なのだろうが、前述の理由でここからの夜景の眺望は不可能である。
更に宇多天皇陵へと向かった一行だが、湿った落ち葉と険しい山道、翌日には降雪に至るほどの気温の降下、曖昧な道標に阻まれ、断念。近道を降り、原谷へと着いた。原谷からの帰路の写真。北大路通りとは比較にならないほどの非常に険しい山道である。次回は改めて宇多天皇陵を参拝したいと思い、帰路についた。
HARUNA
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