生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(77) 銅鐸の謎(その3)

2018年08月24日 09時10分05秒 | メタエンジニアの眼
TITLE: 銅鐸の謎(その3)
書籍名;「銅鐸の秘密」 [1986] 

著者;臼田篤伸 発行所;新人物往来社
発行日;2005.3.10

初回作成年月日;H30.8.16 最終改定日;H30.8.24 
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 著者は、歯科医師で風邪に関する何冊かの著書があるが、銅鐸民族に深い興味を持っており,他にも「銅鐸民族の謎」がある。全体を通して、二つのことを強調している。銅鐸は銅矛とともに、戦争用具であることと、埋められたのではなく、長い年月によって埋まってしまった、というわけである。北九州を支配していた銅鐸民族が、天孫族により滅ぼされて、次第に東へ移動し、その都度銅鐸の様式も少しずつ進化してきたという説である。
 また、関連する多くの著書の中身を紹介して、賛成、反対を明確にしている。そして、歯科医師らしく、その根拠を示している。このような手法は、メタエンジニアリング的と言えるのではないかと思う。
 
 著者は、自らの手法を「ゲリラ考古学」と称して、常識的な目を通して、出土品を調べてゆくとしている。銅戈と銅鐸は情報伝達を含む武器であり、出土地は民族紛争の結果として、敗者がその地に放置したものだったというわけである。その経路を次のように説明している。

・銅鐸民族玉砕の地

 著者は、弥生時代の初期に、青銅器の鋳造技術を持った「銅鐸族(国津神族)」が北九州に定住し、紀元前後から「天孫族(天津神族)」により、東に追われたと仮定している。
 『わが国に銅鐸民族が最初に侵入した地域には、主として福田型銅鐸が存在していたことが明らかとなっています。ところが、この銅鐸は天孫族の北部九州侵略で紀元前後にはすでに断絶してしまいました。この戦乱とは、「天孫降臨」から「倭国の乱」に至る過程に起きたものです。弥生初期に製作されたこの銅鐸は、高度先進技術だったがゆえに、天孫族によって徹底的に破壊されました。北部九州からは銅鐸本体はほとんど出土していません。しかし、石製の鋳型が六カ所から、それもバラバラに壊れた状態で見つかるのは、そのためでです』(pp.114)

 さらに続けて、『出雲から東の地方で出土した銅鐸群は形や文様が福田型とはつきり違っています。右の戦乱のあと、銅鐸民族は共同体国家を守るため、新たな製造体制を整える必要に迫られたものという 推察ができるのです。』(pp.115)

 そして、最終的には、『信州では、大型の二遠式銅鐸が塩尻市と松本市の二か所から出上しました。この銅鐸は銅鐸勢力の中心とおぼしい諏訪湖周辺地域からの出土です。近畿式銅鐸と同様に製造技術発達の最終段階とでもいうべき派なものです。このあたり一帯が銅鐸民族の東の司令部が存在した地域と推察されるのです。』(pp.115)
 天孫族に追われて東へ逃げ延びるたびに、新たな銅鐸技法を創り出し、農耕民としての定住を図ろうとした。そして、諏訪大社に祀られる大国主の息子のタケミナカタは、銅鐸民族の最後の拠り所の首領だったというわけである。

 後半は、様々な著書の紹介が続いている。

・古田武彦説については、

 長く九州王朝を主張している古田説については、
 『古田さんの判断は、次のようになったのです。「九州王朝は、銅矛圏の王朝。だから、その歴史に銅鐸が出てこなくても、何の不思議はない。その歴史の多くを、天武王朝がそっくり盗用したとすれば、『記・紀』に銅鐸が出てこないのは、むしろ自然なことである」 筆者も、この説を採りたいと思います。』(pp.119)
 著者の説によれば、天孫族は銅鐸を壊す理由はあったが、銅矛を破壊する必要はなかったということなのだろう。
そして、特に彼の法隆寺の歴史説に賛同している。
 『正倉院の財宝……九州王朝のもの(推測)。
法隆寺の釈迦三尊像・・…九州王朝のもの(三尊像は鋳造。当時の鋳造技術は九州が断然上)。
法隆寺の心柱……観世音寺の五重塔心柱(右に述べた測定)。
近畿王朝の神話……九州王朝のもの(かなり裏づけのある推論)』(pp.120)
つまり、すべては青銅器鋳造技術民族の遺産というわけである。

・森浩一説については、
 「温厚な感じの人」とだけ記している。

・原田大六説については、
 
 彼の、大国主の銅鐸説に賛同して、文字を使用しなかった銅鐸民族が,後世天孫族により、勝手に差別的名称を付けられたとしている。
『原田さんは「大穴」の穴とは銅鐸の空洞であること、としています。この説と大国主を表す巨大銅鐸、この二点から銅鐸そのものがご神体と説いたのです。原田さんが着目したのは『古事 記』にある大穴牟遅を『日本書紀』では「大己貴」読ませていることです。本来なら大穴貴(おほあなむち)でしょう。この大穴こそが神の正体を知る手がかりになるというのです。大穴のある青銅器は何かと問えば、 むろん答えは銅鐸です。この穴が大穴であれば、巨大銅鐸そのものということができるというわけです。』(pp.142)


・藤森栄一説については、
 
『精力的にフイールドワークをこなし、 鋭い直観力で銅鐸の謎への入り口を見つけ出した、ということです。既存の説や見解に疑間を投げかけたこの本がーつのきっかけで、常々埋納一辺倒に疑問を抱いていた筆名も、銅鐸の世界に足を踏み入れることになったのでした。』(pp.143)として、著者の「自然に埋まってしまった」説の元となったポイントを列挙している。

・大羽弘道説については、

 『「銅鐸の謎」(光文社)は一九七四年に出版されました。この本は一年で四〇余刷りを重ねるヒット作でした。銅鐸絵画に対し、絵文字説を初めて具体的に述べたことが、強いインパクトを与えました。これはーつの足跡です。』(pp.145)
 私も、愛読した一人なのだが、文字と解釈しての読み方に「歴史認識の甘さが目立つ」として、否定的になっている。しかし、しこから「原田大六説」が生まれたようにも思ってしまう。

・他に4名の著書も挙げている。

・銅鐸の用途については、
 
『通常は集落に面した山腹から一~二個の出土というケースが大半です。この出土状況から察し、筆者は銅鐸の主な使途を、平和時は集落内部や集落間の連絡用、そして戦闘の際には戦術のコミュニケーションの具として使われた、と考えます。』(pp.188)
 として、現代の「火の見櫓」の原型としているのだが、そうだとするならば、置いてある場所が全く異なっている。山影では、見通しがきかない。

 最後に、『文字をベースにした天孫族と総合的な総力戦を戦うには、銅鐸は無力に近かったのです。戦略のない戦術は、しょせん、戦略を持った相手には勝てなかったのです。 別の表現をすれば、銅鐸は、アコースティック的、瞬間的、その場的、再聴不能です。』(pp.193)として締めくくっている。ここにも、メタエンジニアリング的な視点を感じる。

 

メタエンジニアの眼シリーズ(76)銅鐸の謎(その2)

2018年08月23日 07時31分46秒 | メタエンジニアの眼
TITLE: 銅鐸の謎(その2)
書籍名;「銅鐸への挑戦 3」 [1980] 

著者;原田大六 発行所;六興出版
発行日;1980.9.30
初回作成日;H30.8.18 
最終改定日;H30.8.22 

引用先;文化の文明化のプロセス Implementing

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 三部作の最終巻で、副題は「誇り高き銅鐸」としている。万葉集の中の古代歌を詳しく解読し、古代日本の神々が、銅鐸の文様と絵に表されているという独自の説を主張している。江戸期から現代までの古代史の研究家は、神々の名の漢字に拘っているのは誤りで、カタカナで解釈を進めると、多くの銅鐸の文様の絵と一致するという説明となっている。大変興味深い解釈だと感じた。

 文章は、次の文語で始まっている。
 『銅鐸の謎と秘密は遂にこの巻で完全に解き明かされる。読者の方々は、次の神名を何と思われるだろうか。二神とも古事記の、大国主の系譜を語る中に名前を出している。
布波能母遅久奴須奴 (フハノモヂクヌスヌ)
天之都度閉(麻)知泥(アメメノツドヘマチネ)
フハノモヂクヌスヌ、アメノツドへ(マ)チネとは一体何のことか、何者か、神と称されるのだから自然神か、神格化された英雄か、栄誉ある祖先なのか、貴重な宝物の擬人化か?だが容易にはわかるまい。それはそうだ。古事記が和銅五―七一二年に成立して以来。なんぴとにも解けなかったのだから。本居宣長が、一生を費やしてまとめた「古事記伝」も、文化勲章を受けた津田左右吉の「日本古典の研究」も、今日盛んな神話関係出版物も、神名解読という基本的な作業については完全に不毛、収穫皆無なのである。』(pp.4)

 さらに続けて、神々の名前の解釈の説明に移る。
『どの民族のどの神も、その属性、能力、権限、名称の由来、形態などがよく知られている。
だが日本の八百万の神々はお気の毒にもすべて神名未詳で、お姿はもとより性格も見えて来ない。神話の主役は神々。その神々の神名不詳では神話というドラマの主役は勤まらない。よくぞここまでこの重大な問題が無為に放置されて来たものである。
原田大六氏の神名解読成功は、先のフハノモヂクヌスヌとは、「連続背反巻葉文銅鐸」
アメノツド((マ)チネは、「洪水避難絵画のある濁流文銅鐸」であると断定している。 何故そうなのかは、本文を読んで「うむ、なるほど」と、その論理の見事さに自身接していただくほかはない。』(pp4)
として、日本神話は弥生時代の忠実な伝承であるとして教育や多くの学問分野での訂正を主張している。

 本文は、第3巻なので第12章「犠牲の牛と種子」、第13章「尾根の大怪蛇との対決」、第14章「銅鐸の製造工場」、第15章「銅鐸の系譜と構成」と続き、確かに論理だった解釈が並んでいる。(一部に、飛躍がある個所も見受けられるが、)
最後の「銅鐸の系譜と構成」では、「大国主」が、様々な神を統合した集合体の名前であるとしている。この解釈は、漢字名からは表れることはなく、ひらがな(和ことば)を元に解釈を進めると自然に表れてくるというわけである。

 著者は、「スナノオ」を台風神としている。スナノオの追放は、台風の忌避に相当する。
『スサノヲと称された青銅広形武器形神を対馬へ追放したのは、伊都国だけであって 、東の奴国はこれに参加していない。これはどうしてかというと、奴国はその石製鋳型の出土が多いことで知られるように、神像鋳造集団の密集地であった。』(pp.15)
さらに続けて、『スサノヲは人間ではない。台風である。青銅広形武器形神である神話で人間のように語られているのは擬人化である。新しい伝承では、台風という正体を忘れ、青銅器の姿をしていることを忘れ、擬人化されているのも忘れて、僅かに残骸として遺しているのが何とも素姓の知れぬ人間スサノヲである。』(pp.15)

 古代中国の殷と古代朝鮮の風習などを説明した後に、日本での初期の農耕と青銅器文化の話に移る。当時の日本では、青銅は貴重品であり、銅鐸は農耕生活を守るための神としてつくられたという解釈になっている。学会的には、すべての銅鐸には「学名」があり、「文様名」も固定化している。しかし、著者はそれらをすべて覆そうとしている。銅鐸の文様と絵は、それぞれの神の名前を示しているというわけである。

・学名「袈裟襷文銅鐸」について
 
 そもそも、弥生時代の銅鐸に「袈裟」という仏教用語を充てることの間違いの指摘から始まっている。仏教伝来は、500年もあとのことだ。彼は、これを「奇稲田文」(くしなだもん)としている。銅鐸の全面が太い幅の線で4つに区切られているのは、当時の想像以上に頑丈な畦畔を示し、4区画内のそれぞれの絵は、豊作のシンボルであるとの説明になっている。
『その田面に当るところに、豊年のシンボルであるアキツ(赤トンボ)、水稲の保護をするカエル、夏を告げる鳥の白サギ、イケニエの牡鹿、臼を置いて脱穀する女性などが描かれている 。これらからしても、豊年を祈願し、豊年を祝う姿が窺われる。』(pp.86)
このような、銅鐸面の文様の説明には、脱帽するしかないように思える。

また、当時の巨大な自然災害に際して、少女を生贄にした文化を殷や古代朝鮮から引き継いでいるとして、その説明と銅鐸の絵を結び付けている。更にそれは、円筒埴輪の原型の吉備の「特殊器台」の成り立ちの説明にもなっている。それは、伊都国文化と吉備文化の合体の証であるという。生贄風習については、卑弥呼の死亡時の話や、日本書紀の倭彦の葬儀の様子が使われている。当時の生贄は「埋めて立つ」と記されているからである。このことは、日本史学会では全く認められていないようだが、私は彼の説を支持したい。

各地で使用されていた甕棺が、伊都国だけで余命を続けていたことに触れて、
『今のところ伊都国だけのことらしいので、伊都式甕棺と称してよい。これには、等間隔に配したタガ状突起帯がめぐらされている。これが吉備(岡山県)で、日常使用されていた上東式器台と複合してできたのが、吉備の特殊器台であり、壷も同様に複合してできたものと考えられる。こうして、甕棺と配膳の器台と結びついたものは、供献用埴棺として再形成されたものと考えられる。』(pp.98)

「犠牲にされたのは、奴隷の少女」であるとして、それに吉備の特殊器台が使われてという説明である。
『その巨大さのわりに、円筒の胴壁は厚さが六ミリメートル内外の薄さまで、内面からきれいに削り取られていることである。土器の焼きは、それだけでももろい素焼きの弥生式土器で、その上に、各所に透孔がいくつもあって、もろさを更に助長している。出土状態と器台底部の構造とから判ることは、これは底を埋めて固定したのではなく、地面を平らにして、ただ据えおいたものであった。』(pp.99)
「円筒の胴壁は厚さが六ミリメートル内外の薄さまで、内面からきれいに削り取られている」ことの目的は、何だったのだろうか。やはり、何かを入れるためとしか考えられない。では、何を入れたのであろうか。

同じ思考法で、ヤマタノオロチの解釈が語られている。実際に少女の生贄が、野獣に食べられているというわけである。
『自分達で育てた奴隷の少女を、こうしてイケニエとして生きたまま緊縛し、供献用埴棺に詰めて、人里離れた共同墓地に立てるという、世にも怖ろしい残虐物語が、弥生時代の吉備地方では 盛んに行なわれたのであった。その生きた少女の入っている供献棺に、宵闇が迫ると、待ってましたとばかり、魔神の狼群は襲いかかり、棺を押し倒し、壊れた中から、生きながらに抵抗もできずアョーアョーと泣く少女を引きずり出して、ずたずたに引き裂き争って食った。
尾根の大怪蛇ヤマタノヲロチが少女を食うという神話はこうして吉備地方に実在したのであ った。』(pp.101)

・「素戔嗚」についての解釈

『スサノヲは青銅広(平)形武器形神であった。考古学上の名称でいえば、広形銅矛・広形銅戈、平形銅剣である。クシイナダヒメは青銅鐸形神に関係した奇稲田文に出た神名であった。この場合は、これから青銅製の神像の鋳造がはじまろう、というのだから、その「宮」は青銅器鋳造の宮、いいかえると神像を造る青銅器鋳造工場のことなのである。』(pp.144)
 さらに、「須賀」という地名は、神像である銅鐸を鋳造する場所としている。
『古代では特定一箇所の地名ではなく、銅鐸の鋳型が出土した上高野・ 名古山・今宿丁田・東奈良・唐古は、すべて古くは「須賀」(すが)といったのであろう。』(pp.147)

 ここでは、多くの万葉集の歌が、この解釈方法の基に、新たな解釈として説明されている。それぞれに、筋が通っているようにも感じられる。しかも、もっとも有名な歌の一つに、
『八雲立つ出雲八重垣妻寵め(み)に八重垣作るその八重垣を(ゑ)』(pp.154)がある。
この解釈は、『多くの炭焼きの煙が立ちのぼっている旧出雲の、八重垣に囲まれた工房に、妻の鋳造師を龍らせて青銅の御神像(銅鐸)を鋳造させる八重垣を作ろう。その神聖な八重垣を。 これが、この短歌五七五七七の意訳である。それは「物」ではない、「神」たる銅鐸の誕生を礼讃する歌であり、農業共同体を構成していた農民の至上にめでたい歌謡であった。』(pp.155)
としている。
この歌が古事記では大きく取り上げられているのに比べて、日本書記では軽く扱われていることも、一つの説明の根拠としている。

・「大国主」についての解釈

『大国主の系譜とは銅鐸の系譜であった。 難題中の難題である神々の系譜に、私は第二の挑戦をかける。一三という新しい神名が、キラ星のように並んでいる。全体から観察して、何ごとであるかをつかまねばならぬ。私は第一巻第二章「青銅器の神話化」において、オホアナムヂとは銅鐸のことではないかと、ヒントを与えておいたが、その別名である大国主が、最後にでんとひかえている。また私は、稲田宮主須賀之八耳を銅鐸鋳造工場長名と見てきた。その「耳」がこの神名中にも見られるだけでなく、「花」「河」「水」「豆怒」(角)など、銅鐸の文様に関係のありそうな文字が神名中に並んでいる。私はこの神銅鐸神神の系譜は、銅鐸神の系譜なのであり、それはまたある銅鐸神の綜合に到る構成と考えたのである。 ではその部分をなす、各々の神名は私の見るように銅鐸の系譜を実証するであろうか。』(pp.181)として、そこから説明を始めている。

 先ずは、有名な「流水文」についてである。曲がりくねった文様は清流ではなく、大雨の後の濁流を示している。つまり「濁流文」とすべきである。すると、そこに同時に示される絵は、すべて濁流に関連したものになっているというわけである。

例えば、「ヒカワヒメ」と呼ばれる神に相当する銅鐸の文様は、『「流水文」は清流ではなく、荒れる水蛇の表現であった。それは 変化常なき河川であり、洪水の濁流を表現したのであり、それを「霊河」といったのである。考古学者のように「流水文」と澄ましていえばそれは普通清流を考えている。しかし清流はあんな流れ方はしない。それは濁流の流れ方であり、洪水が 何も彼もを巻きこもうとする恐怖の表現である。』(pp.195)となる。
確かに、銅鐸に記された文様を眺めていれば、この説明には納得せざるを得ない。単なる流水では、流れ方が不自然に見えてくる。

また、「フカブチノミズヤレハナ」(学名は流水文銅鐸)は、『洪水は水田すべてを濁流下にしてしまったというのである。水稲と共に水田は、冠水し濁流下になっているという図象である。
』(pp.198)となっている。
更に、『洪水をモチーフにした濁流文銅鐸に限って、その天部である舞(鐸身の上部で水平になっている部分)あるいはその上に立ちあがっている録の部分に、動物群や人物群像が鋳出されているのがかなり存在する。』(pp.200)
これらは、洪水から高台に非難をした人と動物群というわけである。
これらの解釈の方法に従えば、複雑な絵もすべてつじつまが合う解釈ができるというわけである。例えば、4つの流水文に囲まれた「手を挙げた一人の人」は、洪水で孤立した場所に取り残された人を表している。

 同じ方法で、異なる流水文銅鐸の絵は、それぞれに大国主の別名や配下の神々の名前を表していることになる。

最後に、「大国主」の解釈が述べられている。
『オホクミヌはオホクミナスということであり、それは、「大きく構成されている神」という意味であった。 それがどうした構成体かというと、 銅鐸図文の部分名称としてでてきた、 布帝耳フテミミ(太上耳)、天之冬衣、アメノフユキヌ、 刺国大(刺組太)、刺国若比売(刺組若姫)が寄り集って構成されてというのである。』(pp.224)
 そして、結論的にはこう述べている。
『過去のすべての学者達は、「大国主」の「国」や「主」を漢字からのみ見てきていた。そうした表面的観念的解釈は、すべて崩れ去ったのである。『古事記』 研究の歴史上の大人物と過去評価されてきた本居宣長も、全遺稿と共に崩壊する運命をここに迎えたのである。』(pp.225)
というわけである。

全体を通して語られていることは、銅鐸は大和朝廷によって滅ぼされた旧農耕民族の神を象ったものであり、したがって、大和朝廷や日本書記からは徹底的に排除されたが、神話と万葉集の中にその痕跡が、明瞭かつ具体的に記されている、ということであった。

メタエンジニアの眼シリーズ(75) 銅鐸の謎(その1)

2018年08月22日 07時21分21秒 | メタエンジニアの眼
TITLE: 銅鐸の謎(その1)

書籍名;「消えた銅鐸族」 [1986] 
著者;邦光史郎 発行所;光文社

発行日;1986.4.30
初回作成年月日;H30.8.12 最終改定日;H30.8.21 
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing

 人類最長の歴史を誇った「縄文文明」が、終焉を迎えて金属器の時代に入った。青銅器文化がそれなのだが、日本では銅鐸圏と銅鉾圏が明確に分かれている。銅鉾は使用目的が明らかで、特に文様などもない。しかし、銅鐸には文様があり、使用目的も諸説あり特定されていない。そこで、「銅鐸の謎」に関する多くの歴史著書がある。銅鉾文化は文明化しないが、銅鐸文化は文明化する要素を含んでいる。それを読み進めてみる。



 先ずは、気楽なものから始めることにした。著者の邦光史郎氏は、著名な推理作家なのだが歴史推理小説が多い。1986年の発行は微妙であり、副題も「ここまで明らかになった古代史の謎」
とある。要点のみを箇条書きにする
 
・史書によって隠された敗者の歴史を修復する。
・歴史の欠けた部分、いわば月の裏側を浮かび上がらせる。
・騎馬民族と銅鐸族、海人族は、共通語を持っていなかった。
・日本列島は、各種の種族と文化の吹き溜まりで、ここから先へは太平洋があるので、進めない。
・神武天皇の大和入りに、土蜘蛛と会話ができたのは、おかしい。
・「日本書紀」の世界は、やはり天武王朝を中心としたもの。
・推古女帝以前のことは、人物も事件も定かではない。 
・越と出雲は、ツングース族が支配していた。
・赤い眼の大蛇や、體に蔦や檜が生えていたのは、体毛が豊かな北方民族を指す。
・鉄器文化のスキタイに追われて、青銅器文化のツング族が、裏日本に移住した。
・阿倍比羅夫は、斉明4年(658)に越の国の国司になり、津軽半島まで進出した。
・小銅鐸が、朝鮮から北九州に入り、近畿地方に入ってから大型化した。
・銅鐸は、紀元前300年から、紀元後200年まで500年間使われた。
・トンボやチョウの文様は、南方系の文化を表している。
・中国の「編鐘」とは、音色が異なり、全く違う目的の物。
・銅鐸の絵文字を呪文として、何を祈ろうとしたのか。
・文様のある区画だけ打ち抜いたものは、かつて祭祀に使われたことを示すのか。
・銅鐸には、中国の饕餮文のような怪獣は描かれない。
・温厚な、農耕民の文様に限られている。
・銅剣や銅鉾は死者とともに埋葬されるが、銅鐸はそうなっていない。
・なぜ一か所に纏めて埋められたか、非常事態に慌てて隠したのではないだろうか。
・銅鐸は、日本書紀には一切登場しない。
・銅鐸は、彼らの史書であり生活記録であり、タイムカプセルなのかもしれない。(結言)



メタエンジニアの眼シリーズ(75)

2018年08月21日 10時15分20秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(75) 銅鐸の謎(その1)
          
書籍名;「消えた銅鐸族」 [1986] 
著者;邦光史郎 発行所;光文社
発行日;1986.4.30
初回作成年月日;H30.8.12 最終改定日;H30.8.21 

引用先;文化の文明化のプロセス Implementing

 人類最長の歴史を誇った「縄文文明」が、終焉を迎えて金属器の時代に入った。青銅器文化がそれなのだが、日本では銅鐸圏と銅鉾圏が明確に分かれている。銅鉾は使用目的が明らかで、特に文様などもない。しかし、銅鐸には文様があり、使用目的も諸説あり特定されていない。そこで、「銅鐸の謎」に関する多くの歴史著書がある。銅鉾文化は文明化しないが、銅鐸文化は文明化する要素を含んでいる。それを読み進めてみる。

 先ずは、気楽なものから始めることにした。著者の邦光史郎氏は、著名な推理作家なのだが歴史推理小説が多い。1986年の発行は微妙であり、副題も「ここまで明らかになった古代史の謎」
とある。要点のみを箇条書きにする


 
・史書によって隠された敗者の歴史を修復する。
・歴史の欠けた部分、いわば月の裏側を浮かび上がらせる。
・騎馬民族と銅鐸族、海人族は、共通語を持っていなかった。
・日本列島は、各種の種族と文化の吹き溜まりで、ここから先へは太平洋があるので、進めない。
・神武天皇の大和入りに、土蜘蛛と会話ができたのは、おかしい。
・「日本書紀」の世界は、やはり天武王朝を中心としたもの。
・推古女帝以前のことは、人物も事件も定かではない。 
・越と出雲は、ツングース族が支配していた。
・赤い眼の大蛇や、體に蔦や檜が生えていたのは、体毛が豊かな北方民族を指す。
・鉄器文化のスキタイに追われて、青銅器文化のツング族が、裏日本に移住した。
・阿倍比羅夫は、斉明4年(658)に越の国の国司になり、津軽半島まで進出した。
・小銅鐸が、朝鮮から北九州に入り、近畿地方に入ってから大型化した。
・銅鐸は、紀元前300年から、紀元後200年まで500年間使われた。
・トンボやチョウの文様は、南方系の文化を表している。
・中国の「編鐘」とは、音色が異なり、全く違う目的の物。
・銅鐸の絵文字を呪文として、何を祈ろうとしたのか。
・文様のある区画だけ打ち抜いたものは、かつて祭祀に使われたことを示すのか。
・銅鐸には、中国の饕餮文のような怪獣は描かれない。
・温厚な、農耕民の文様に限られている。
・銅剣や銅鉾は死者とともに埋葬されるが、銅鐸はそうなっていない。
・なぜ一か所に纏めて埋められたか、非常事態に慌てて隠したのではないだろうか。
・銅鐸は、日本書紀には一切登場しない。
・銅鐸は、彼らの史書であり生活記録であり、タイムカプセルなのかもしれない。(結言)



八ヶ岳南麓の24節季72候 3回目のピザつくり

2018年08月21日 09時29分21秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
八ヶ岳南麓の24節季72候

寒蝉鳴 (立秋の次候で、8月13日から17日まで)

3回目のピザつくり

 ここは、標高1130mの八ヶ岳南麓。今年は蝉の当たり年で、林の中を歩くと耳が痛くなるほどに数が多い。明け方の門柱にまで、蝉が脱皮をしているのだから、地下もかなりの混雑なのだろう。




また、夕立も当たり年のようだ。石窯の3回目の挑戦のための材料をそろえたのだが、午後は毎日のように夕立の予報。ところで、昔は夕立の後には空が晴れ渡り、虹を見ることができたのだが、今年は、止んだと思うと1時間ほどするとまた降り始める。これも、気象変動なのだろうか。
 
我が家の石窯は、耐火煉瓦が濡れるのを避けて、ベランダの下の隅っこに設置した。なので、少々の雨ならば差し支えない。そのつもりで、前日の夜に「ピッツア玉」の解凍を始めた。この季節は、冷蔵庫が満杯なので、クーラーボックスに保冷剤を入れて、並べることにした。幸い4つを並べても余裕がある。
 



午後になって、火焚きを始めようとしたが、夕立が来た。ネットで雲の動きを調べると1時間ほどで止みそうなので、待つことにしたのだが、次の雲が次第に成長して、雷も伴っているようだ。そこで、今回は石窯をあきらめて、台所で焼くことに決定。焼き方は、オーブンレンジとフライパンの同時並行にした。色々と焼き方を研究中なのだ。
 幸い、お盆休みで親子3代の女手がそろっているので、同時並行が可能なのだ。トッピングは、それぞれ自分の好みで盛り付けている。4つもあるので、いろいろな組み合わせを楽しみながら進めることができる。




 ちなみに今回の生地は、石窯メーカーから送ってもらったもの。第1回は、強力粉と薄力粉を1時間かけて発酵させた。第2回目は、前回の手間に懲りてスーパーで買ってしまった。毎回、生地の違いも楽しむことができる。結論を言えば、どれも一長一短で、その時の期間と人手によると云うことで、どれもそれぞれに楽しむことができるようだ。



 オーブンレンジとフライパンの出来栄えについては、勿論味は変わらない。しかし、生地の触感は全く異なる。フライパンだと、柔らかい生地と、クラッカーのような硬い生地が自由にできる。しかし、オーブンレンジは時間と温度を設定すれば、後はお任せなのだが、フライパンはしょっちゅうチェックが必要になる。やはり、一長一短なのだった。



メタエンジニアの眼シリーズ(72)「アングロサクソンと日本人」(その2)

2018年08月05日 14時47分51秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(72)                    
TITLE: 「アングロサクソンと日本人」(その2)

書籍名;「アングロサクソンと日本人」 [1987] 
著者; 渡部昇一 発行所;新潮新書
発行日;1987.2.20
初回作成年月日;H30.8.1 最終改定日;H30.8.5 
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。




本の帯には、著者の言葉として次のことが書かれている。
『イギリス人はドイツ人であり、木の家に住み、先祖神をまつり、神木をあがめ、死んでも生まれかわって子孫に出てくると信じているーーーと言ったら阿呆と言われるだろう。しかし日本に仏教が渡来する頃までのイギリス人はそんなものだったと知った時の驚きは、30年後の今も続いている。 ではどうして今ではお互にこんなに違ってしまったのだろうか。』

イギリス人を元のゲルマン人だとして、日本人との共通性をさらに探ってゆく。

・漢字もはじめは発音記号だった。

 『日本語における発音記号としての 漢字
何故、こういうことがいえるのか。たとえば『日本書紀』は、本当は、これは完全に漢文で書いてある。これは当時の中国や朝鮮に向って「わが国にもこんなに立派な歴史がある」ということを示すために書いたわけだから、堂々たる漢文で書いてある。しかし日本の国々の名前、土地の名前、神様の名前が出てくると、漢字をすぐに発音記号として使う。特に重要なことは和歌―長歌でも短歌でも―が出てくるとすぐに漢文でなくなる。漢字は要するに発音記号としてしか使われない。漢字を発音記号としてしか使えない言葉が日本にはたくさんあった。このことは何を示すかといえば、大和言葉という意識がきわめて鮮明、明瞭に当時の人たちの頭の中にあったからだと考えられる。』(pp.70)というわけである。云われてみるともっともまことなのだ。

つまり、日本人は「漢字」を発音記号としても、表意文字としても使った。いわゆる日本独特のハイブリッド指向だった。
この項では、「大和言葉」と「漢語」を明確に区別をしている。和歌には伝統的に大和言葉しか使われなかった。万葉集の中でも、たった2語、「菊」と「衛士」だけだそうだ。明治以降に漢語が使われ始めたが、現在でも、天皇・皇后の歌には「漢語」は使われていないという。

・日本語が消
えた


 イギリスでは、1066年のノルマン・コクェスト以来1362年まで、英語が完全に地下に潜り、公式の場ではフランス語しか使われない時期があった。その事情は、日本にもあてはまるという。

『「万葉集」以後百三 四+年間、日本語 の勅撰集が出ない
「万葉集」が出てから、百年以上もの間、文学史に残るような日本語で書かれたものが何も出ない。たしかに百三、四十年間、何も出なかった。その間に勅撰集が出たが、それは漢詩の勅撰集であった。普通“勅撰集”というと、和歌の勅撰集を考える。日本の勅撰集としては和歌のほうが早く出たろうと思うわけであるが、本当は日本では漢詩の勅撰集のほうがずっと早く、それが何冊か出てから、初めて『古今集』が出た。
文学史上、われわれはなんとなく気がつかないで、単純に「万葉集」の次は「古今集」といっ てしまいがちだが、ドナルド・キーン氏のような外国人はさすがに、こんなところに一番鋭く気 がつく。彼らは“日本文学が消えた”というようなことをよく指摘する。それは、彼らにすると、 英文学のほうからの連想が働くのではないかと思う。』(pp.73)

 しかし、ここで「日本とイギリスにおける国語の消え方の違い」が強調されている。確かに、文学としてはある期間消えたのだが、日本は王室が変わらなかったので、宮廷内の言葉はすべて大和言葉のままだった、というわけである。

 また、この消えた大和言葉の和歌を復活させたのは、菅原道真だそうだ。
『菅原道真が天神様として広く国民的崇敬を集めた理由のーつは国語を復興させてくれた人、もう一度和歌の世界をつくり出してくれた人ということがあったのではないだろうか。和歌というのは大和言葉であるから、これを覚えるには別に教養はいらない。学間はいっさいいらない。お母さんの膝の上で覚えたような単語を並べても名歌はできうるのであって、漢字をうまく使ったから偉いということはない。ところが漢詩であると、教養が徹底的にものをいって、学問がないと全く手が出ない。道真は、和歌には学問を必要としないという文学的伝統を復活させてくれた人だった。』(pp.76)
 このことは、和歌の世界では常識かもしれないが、面白い事実だと思う。それにしても、昔の「校歌」はいずれも漢語だらけのようだ。

・排他的、能力無視の農耕型民族

 ここでは、彼独特の歯に衣着せぬ表現が続いている。

『日本の社会自体が非常に農耕的だということである。農耕社会というのは元来が排他的で、耕す者が増えれば土地が減るという風に、よそ者をきらうことに関しては、それは大変なものである。年輩の方々の中には、戦争中疎開して非常に不愉快な思いをされた方がたくさんいると思うが、よそ者には不愉快な思いをさせる。今でも帰国子女などは、外国から帰ると、同じ日本人なのにひどく嫌な思いをさせられることが多いようである。』(pp.93)
 理由は、ただ不愉快なだけなのだそうだ。

『つぎに農業というのは、能力を必要としないのを建て前としている。もっと正確に言えば能力があってもなくても大して変わらないという建て前である。しかも、土にすがりついていれば安全だという、安心感がある。騎馬型のほうは、土の上に安心感がない。有能なリーダーについて いない限りはいつ殺されるかわからない、いつ滅びるかわからないという不安感がある。ところが農業は、土を耕していればなんとか食べていける。』(pp.94)
 このような基本的な文化は、現代社会でもそこここに見ることができる。農耕社会は、これからの真のグローバル社会でも、決して悪いことではないのだが、「農耕社会というのは元来が排他的」という面は、どのように改善されるのであろうか。車を運転していると、日本式の住居表示や、町中の道路案内板を見るたびに、そのことを思ってしまう。その点、イギリス人はうまく変身した。

このことに関連して、もう一冊の本を覗いてみた。                                                          
                                                                  書籍名;「文明の余韻」 [1990] 
著者; 渡部昇一 発行所;大修館書店
発行日;1990.6.15

 この書は、「渡部昇一エッセイ集」とある。月刊「英語教育」という雑誌に200以上投稿した中からの選集らしい。その中に、日本と英国の文字の歴史を比較した面白い文章があった。

・三層の語彙

 『英語の国際語としての地位は揺るぎないもののように見える。それで今日の英語を見る人は、英語は昔から今のように有カな言語であったかの如く錯覚しやすい。しかし実際のところ、英国は西ョーロツ パにおける後進国と見られていたのであり、その言葉もむしろ侮蔑の目で見られていた。イタリァ人や フランス人のような「先進国」の人たちがそう思っていただけではなく、イギリス人自身がそう思って たのである。』(pp.300)
 で始まる3ページばかりの短文であった。

 事情はこうであった。16世紀のイギリスのことだ。
『チヨーサーの頃にすでにイタリアにはボッカチオやペトラルカがいたのだ。その後、ラテン語古典文学やギリシァ語古典文学のほとんど全部が十五世紀中に出版されている。一方、イギリスはと言えば、バラ戦争で学芸の支授層を失い、一般に不振である。イギリスの古典学者はギリシャ語やラテン語の豊かさに圧倒され、自分たちの母国語である英語の貧しさを嘆いた。それで真剣に英語の単語を増やそうと努力した。借用によってヴォキャブラリを増大するということ は、英語にどしどし古典語を混入することである。このようにしたおかげで、一五六〇年頃になると、「英語も豊かになった」という実感がイギリス人の物書きの間に生じた。 シェイクスピアが生まれたのは正にこの時期であったことを忘れてはなるまい。』(pp.300)

シェイクスピアの名声は、その時代背景によっても大いに恩恵を受けたようである。

 つまり、現代英語は三層構造になっている。第1層はアングロ・サクソン語で、第2層はノーマン・コンクエスト時に導入されたフランス語系の語、第3層は古典語系となっているというわけだ。
 日本には、大和言葉と漢語と外来語がある。そこを対比して、次のような例を挙げている。

『具体的な例で言ってみよう。ゲルマン系(アングロ・サクソン系)の単語でtime は、フランス系ではage であり、古典語系ではepoch である。これは日本語の場合、大和言葉系では「とき」と言い、漢語では「時間」といいヨーロッパ語系では「タイム」というのに相当すると言えるであろう。その順序で古いのである。そして特に、最新の層の語葉が入る時には知識層からも批判があり、そのため辞書も出てきた。』(pp.301)

日本でも、現代用語辞典などは、外来語の羅列になっている。面白いところに日本とイギリスの文化には共通性が潜んでいる。日本は、ユーラシア大陸の東の果てで、イギリスが西の果て、どちらも辺境の島国なのだ。


メタエンジニアの眼シリーズ(73)「ニュートン自然哲学の系譜」

2018年08月04日 09時39分19秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(73)
TITLE: 「ニュートン自然哲学の系譜」

書籍名;ニュートン自然哲学の系譜 [1987] 
著者; 吉田 忠 発行所;平凡社
発行日;1987.11.19
初回作成年月日;H30.8.3 最終改定日;H 
引用先;メタエンジニアの歴史

このシリーズはメタエンジニアの歴史を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。


 
 本の副題は「プリンピキアとオプティックスまで」とある。オプティックスとは「光学」という書であり、後半ではこれをめぐって光の粒子説と波動説が激しくぶつかった経緯が示されている。
 1987年はプリンピキア出版の300年の記念の年で、世界各国で種々の行事が催されたと冒頭に説明があった。つまり、300年間にわたる評価の変遷が主題になっている。

 「はじめに」では、
 『本書の各章は、力学、天文学、数学、時空論、光学、物質論という各分野におけるニユートンの科学研究の諸相と系譜の紹介・分析と、それらを理解するための補助として『プリンキピア』および『光学』の成立と普及の概観に当てられている。』(pp.4) と説明をしている。そして、これらを纏めて「自然哲学」としている。まさに、メタエンジニアの世界だ。

「プリンキピア」の成立については、
『プリンキピア』(一六八七)の成立は、一六八四年のハリーのニュートン訪間から説き起こされるのがふつうである。すなわち、同年八月(五月という説もある)ニュートンを訪れたハリーが、座談の途中、太陽からの引力が距離の二乗に逆比例するとすれぼ惑星の描く軌道は何かと問うたところ、楕円だとニュートンは即座に答えた。喜びまた驚いたハリーが、それはどうしてわかるのかと重ねて尋ねると、計算したことがあるからというのがニュートンの回答であった。』(pp.10) 
その時から、いろいろな議論が巻き起こって来る。

『『フリンキピア』が出版されて後一年の間に四編の書評が出された。一つは英語、二つはフランス語、残りのーつはドイッ語によるものである。英語のそれは王立協会の機関誌『哲学紀要』 Philosophical Transactionsの一八六号(一六八七)に載せられたもので、その著者はほかならぬハリーであった。『プリンキピア』に熱烈なニュートン賛美の頒詩を献げた彼は、「無比の著者」の業績により後に続くものがなすべきことはほとんどなくなったと指摘したのち、簡単に同書の要約を行なっている。グレゴリーは刊行から約ニ力月のち、幾何学で強力な改良を行ない、それを物理学に適用して予期せぬほどの成功を収めたこと、それゆえ現代および未来にわたって最良の幾何学者かつ自然学者(Naturalists)という賞賛に値すること、と絶賛の言葉をニュートンに書き送っている』(pp.24)
という具合に、先ずは平穏であった。
ここでは、「幾何学者かつ自然学者」という表現が適切に使われていると思う。つまり、「力学、天文学、数学、時空論、光学、物質論」などは、自然学なのだ。

ところが、ニュートンの説を裏付ける実験に、だれもが成功しないという事態が生じた。
『ニュートンは自然学者ではないが、自然学の正しい原理を身につけた人々にもその本は面白く有益だし、また優れた数学者であると評して、前掲の評価と同じ立場をとっている。そして、光の性質に関するすべてはニュートンの実験によく当てはまる、と続けている。マールフランシュ自身はニュートンの実験を試みず、そのまま信用したようであるが、一七〇八年ころマールブランシュのサークルの問で追試が行なわれ、ニュートンの実験成果の確認に失敗したことがライプニッツの手紙から判明する。問題は「決定実験」の確認に誰も成功していないことにあった。しかも、前記のマリオットにより、これを否定する論文が公表されていたのである。』(pp.28)

 そして、この議論は延々と続き、ニュートンの死後20世紀にアインシュタインが波動性と粒子性のという津的解釈をするまで300年間も続いた。
『光線が色によって屈折性を異にするというニュートンの見解は、確かに光学史上の大きな達成であった。フックはこの点を承認した。しかし、彼はニュートンの粒子説を認めはしなかった。一方、ニュートンはあくまで光を粒子としたが、 薄膜の現象を説明するために光に随伴するエーテルの振動の存在を承認した。フックとニュートンの対立はこれ以降も続いた。』(pp.217)

 『『光学』に対する評価は時代とともに変遷していった。出版の直後には、まだ波動説も残存したが、光の粒子説が支配的になった十八世紀にはその模範とみなされた。しかし、十九世紀になって、ヤングやフレネルの波動説が盛んになると、偉人の誤りの例とすらみなされるようになった。このような ニュートン理論の栄枯盛衰は、すでにフックとの対立のときから宿命的なものだったと考えられる。それだけに、ニュートンの光学を単に偉大な業績と考えたり、あるいはとるに足らないものと簡単に片づける歴史記述にはいずれも反省が求められるのであろう。』(pp.219)

 現在では、ニュートンの業績は認められているのだが、英国の王立アカデミーのトップに在籍中にすら、このような状態であったことは、単なる理論ではなく、「自然哲学」が底流に必要なことを改めて思わせる。

八ヶ岳南麓の24節季72候 大暑 火おこし三段戦法

2018年08月03日 07時41分53秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
八ヶ岳南麓の24節季72候
大暑(7月23日から8月6日ころまで)

火おこし三段戦法

 庭の片隅に、新たに「石窯」を設置した。ネット通販で安価で手軽に組み立て分解ができるものがあった。
配達された十個ほどに分割された包みから耐火煉瓦を取り出し、下から順番に積み重ねるだけでよい。カタログとおりに十数分で完成した。煉瓦の寸法が正確なので、接着は一切不要。従って、簡単に分解も可能になっている。



 簡易型なので、焚口が一つ。1時間ほど余熱をしなければならない。そこで考えたのが「火おこし三段戦法」だ。第1段は、焚き火をする。夏草は、毎週刈らなければならず、木々の大枝も年に数回は切らないと生い茂って、手が付けられなくなる。特に、白樺、モミジ、クルミの木の成長は、驚くほどに早い。そこで、真夏でも月に一回は焚火で燃やす必要がある。
 ここで、熾火を作ることができる。この半分炭化した細めの丸太を石窯に運ぶ。これが第2段だ。細い薪と一緒にくべれば、団扇で扇ぐだけで、火が着いてしまうのだ。





第3弾は、バーベキュー用の炭火おこしだ。石窯の天井のレンガを少しずらして、その上に炭おこしを乗せる。すると、瞬く間に炭が真っ赤になって、上から炎が出てくる。15分もあれば、炭は真っ赤に熾る。




後は、通常のピザの焼き方に戻る。初回から結構うまくいった。



さて、いよいよ食べる段階である。  
ピザが焼きあがる時刻と、BBQの火加減が良くなる時刻はほぼ同じ、ゆっくりと食事を楽しむことができた。


メタエンジニアの眼シリーズ(71)「アングロサクソンと日本人」

2018年08月02日 13時40分06秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(71)
TITLE: 「アングロサクソンと日本人」

書籍名;「アングロサクソンと日本人」 [1987] 
著者; 渡部昇一 発行所;新潮新書

発行日;1987.2.20
初回作成年月日;H30.8.1 最終改定日; 
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 本の帯には、著者の言葉として次のことが書かれている。
『イギリス人はドイツ人であり、木の家に住み、先祖神をまつり、神木をあがめ、死んでも生まれかわって子孫に出てくると信じているーーーと言ったら阿呆と言われるだろう。しかし日本に仏教が渡来する頃までのイギリス人はそんなものだったと知った時の驚きは、30年後の今も続いている。 ではどうして今ではお互にこんなに違ってしまったのだろうか。』

 現在のロンドンは、石造りの家が多い。木造の家は見当たらない。すべての屋根には、部屋ごとの暖炉からの煙突が整然と並んでいる。ロンドンは、寒くて長い冬が昔からあるのだから当然だ、と私も思っていた。しかし、それは間違っていた。
 「西洋人、特にロンドンが石の家に住むようになったのは、1666年のロンドン大火の後だった」と書いてある、それまでは、イギリスの大都市の建物は木造だったそうだ。(pp.13)

 話は、ゲルマン民族の大移動から始まり、「アングル人」と「サクソン人」がともに、ドイツの南部に都市名として残されていることを示している。そこで、
『そこで、イギリス人といっても、ほぼ千五百年前はドイツ人であったという認識が必要である。また今から約三百、五六十年前頃からイギリス人はアメ リカに移民して、今のアメリカをつくるわけであるが、今のイギリスとアメリカのような関係が、千五百年前あたりから千年前ころ までずっと、ドイツとイギリスの間にあった、ということをまず第一に頭に置かなければならない。この前の戦争もアングロサクソン人とゲルマン人の戦いといわれたりもしたが、本当はそれは非常に不正確な言い方である。どちらも先祖を正せばドイツ人、しかもなんとなく似ているのではあるまいか、ではなくて、移民した場所も移民した年も正確にわかっている関係である。
』(pp.14)

 話は、宗教の違いから始まるのだが、死後の世界に関する古代からの考え方が語源により示されている。

『このように霊魂についての考え方は、日本もイギリス人の先祖も全く同じであったと考えられる。また霊魂という語は、ドイツ語でSeele、英語でsoulというのだが、語源は「海のもの」という意味である。ドイツ語では今でも海のことをSeeといっている。英語のほうは、現在はseaと変化してきたが、もとをたどれば古英語saeにlがついた形の古英語seawol、それが現代英語のsoulになった。元来は「海に属するもの」という意味である。だから霊魂というのは「海に属するもの」なのだ。なぜ 霊魂が海に属するかというと、古代のゲルマン人の信仰によれば、死ぬと魂は北方あたりの静かな海に集まる。そこにいったん集まっていて、また子孫として出てくる。だから何度も何度も出てくる、という感じである。』(pp.20)

 ところが、この生まれ変わりがゲルマン人には耐えられなかった。戦争が延々と続き、どの世代も戦死者が多数出るので、生まれ変わりに飽き飽きしてまった。そこで、永遠の安らぎを得られるキリスト教が入り込んだとの説となっている。(pp.23)

 また、生まれるときについては、つぎのようにある。
『プラトの対話編の中に、これと同じ話が出てくる。しかも、そのなかでプラトン、すなわちその対話に出てくるソクラテスはそれを認めている。霊魂は前世の記憶を持っている、そしてそれを忘れるのは生まれるときである、と。昔の霊魂は不滅であり、記臆を持っているのであるが、生まれるとき忘れる、という考え方は、その後西洋では忘れられてしまった。』(pp.21)そうである。
 つまり、キリスト教が広まるまでのゲルマン人の世界は、仏教伝来以前の日本と同じような考え方であったというわけである。

 そのあとは、イギリスの歴史が語られ、最後に「5つのパラドックス」が説明されている。中で面白いのが、第4の「平和市議」と、第5の「社会保障制度」で、どちらも行き過ぎるととんでもない結果が待ち受けているというものだが、文化と文明よりは政策に関することなので、ここでは省略する。

 「あとがき」には、結論的なこととして、次のように書かれている。

『ここで意図したことは、アングロサクソンの日本に対する影響でもなければ、いわんやその反 対でもない。同質の宗教と文化を持った集団が、歴史を経るにしたがって、どのような経験をし て変ってゆくものであるか、また変りながらもどれほどの類似点を残すものであるかを、いわば 合わせ鏡のようにして見てみようというわけなのである。たとえば日本の天皇の本質を外国人に説明することは難かしい。しかしキリスト教が来る前のゲルマン人の酋長は彼らの天皇のようなものであったことを指摘すれば、ある種の洞察を与えることができよう。日本の天皇を万邦無比の特殊なものと考えずに、たとえば古代ゲルマン人の世界に天皇に類似のものが多くあったのだが、それらは消えたのである、つまり日本の天皇はそれ自体がユニークなのではなく、ただ日本にだけ残ったという点がユニークなのである、というような見方は日本人とアングロサクソン人を合わせ鏡にするとはじめて出てくるように思われる。』(pp.223)

 ではなぜ、「それ自体がユニークなのではなく、ただ日本にだけ残ったという点がユニークなのである」、という文化が根付いているのであろうか。答えは簡単で、日本史上外国からの侵入を恐れる期間が僅かだった。そのために、力を持たなくても、権威だけで社会を維持できたためだと思う。現代日本人も、権威には徹底して弱い。


メタエンジニアの眼シリーズ(70)「イギリス精神の源流」 KMB3465

2018年08月01日 07時59分48秒 | メタエンジニアの眼
その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(70)
TITLE: 「イギリス精神の源流」 KMB3465

書籍名;イギリス精神の源流[1980] 
著者; バジル・ウイリー 発行所;創元社
発行日;1980.5.10
初回作成年月日;H30.7.18 最終改定日;H30.8.1 
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing



このシリーズはメタエンジニアリングによる、文化の文明化を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

 副題は、「モラリストの系譜」とある。著者は、ケンケンブリッジで教鞭をとっていた人で、1964年の退職を前にこれを纏めたと述べている。中身については、
『私はこの本で、いささかも完壁を期してはいないからである。この表題をつかう理由はほかでもない。それがここ約30年間、ケンブリッジ大学英文科優等卒業試験論文の題であり、また、その年月の間、私が当試験について行ってきた講義の題目でもあるからにすぎない。イギリスのモラリストで有名な人たちも、相当多く省かれている。ー講義概要には含まれていた人でさえ、多数抜けている。これらの人たちをいま省いてあるのは、 彼らについては、すでにほかの本で書いたからである。』(pp.ⅰ)としている。巻末には、おびただしい数の「人名索引」が付けられている。

 彼は、文学を通じてこの研究を纏めようとしており、『世界のさまざまの出来事や、心理学、経済史、社会学の新しい発見のおかげで、私たちは文学を成長と変化の独自の内面的法則を持つ孤立した現象とは考えないで、人間の生活と思考のほかのすべてのものを養いつちかってきた土壌と風土の産物と考えるのに、慣れてきている。モラリストとは、自分の時代の道徳的価値や態度を明瞭にしようとした著作家、あるいは、当代に行われている価値評価を批判した著作家のことである。』(pp.ⅲ)と、書いている。

いかにもシェークスピアの国といった感じを受ける。彼は、このためには「哲学者の思考は必要ない、文豪の作品をつぶさに調べれば十分に知ることができる」としているのだが、しかし中身を読めば、プラトンもアリストテレスもその著述を表した文筆家としているようであり、まさに彼自身が哲学者のように思えてくる。

『この種の研究に味方する考慮すべき点がいま1 つある。それは、三十年前には今ほど適切ではなかった点である。“自然科学”と同様、“人文系の学問″においても、専門化、部門化、断片化のプロセスは、いまや当時夢想だにもせぬ高度に達している。そこで前にもまして精神の鏡が必要なのである。すなわち、知的世界の全体を一望に収める見渡し、あるいは海図の必要が増してきているのであって、これによって、”全体“を全体としてつかむある感覚が達成され、保持されるのである。』(pp.ⅳ)としている。このことは、メタエンジニアリングに通じるところがある。
 全体が19章に分かれており、プラトン、アリストテレスから始まり、十数名の著作から多くの言葉を引用して、彼の批判を加えている。しかし、結論は見当たらない。それは教育者である彼が、キリスト教的観念から抜け出せずに、人間の教育から得られる知識や知恵に疑問を持っているからのように思えた。そのことは、、中半の次の部分で明らかとなった。

『「“自然”に従え」ということを、宗教的ないし倫理的命令として使おうとすれば、重大な困難と暖昧さがつきまとうのであって、その理由は、(ここまでの議論を要約すれば)もし「自 然」という言葉を、人間が介入しなくても自然界で進行している一切事象、という意味にとれば、そんな自然には、 愛、慈愛、正義等々についての教訓はいっさい見出せない―じじつ、いやしくも人間的な意味での道徳性はいっさい見出せぬからである。そしてもし「自然」とは 、人間の本性のことだとするなら、理性に従うべきか、本能に従うべきか、それとも思考・意志・情念の複合全体に従うべきか、が不確かである。理性は迷うし、本能は無秩序となるし、複合全体(「人間本性」一般)は、神学的意味で「堕落して」いないとしても、邪悪であるかもしれないからである。』(pp.85)

ここでの、「「自 然」という言葉を、人間が介入しなくても自然界で進行している一切事象」というとらえ方は、東洋的な思想の中にはない。著者は、人間も自然の一部であるとは、片時も思わないのだろうか。彼は、人間は神が自然を支配するために創造したものであるとの、キリスト教の教義に忠実になっている。

「序」の最後には、こう述べている。『私たちの道徳的伝統で、ギリシア的起源とキリスト教的起源を無視することは、(中略)およそ理にかなったことではない』と。
このことから、彼のプラトンやアリストテレスの主張と、キリスト教の預言者の言葉の間での葛藤が始まっているように思う。彼は、知的活動から得られる一切をとことん信じることができない。かといって、教育者の立場から、それを否定しきることもできない。そして、それは近代文明への懐疑の念に繋がっているように思える。その個所を、いくつか引用する。

『「善」と「正」との関係はどうなのか。“善いということ” と“正しいということ”とは、黒や白と同じように、事物の本性についたものなのか。それとも、それらは、私たち自身の主観的欲求・欲望・偏見とか、私たち自身の属する社会集団や私たちの生きている国家の欲求等とかに相関しているのか。道徳的標準は、絶対的根拠に立って(たとえば、その標準が正しいがゆえに)私たちの忠誠を要求するのか。それとも、道徳性というのは行為の結果の計算のことであって、快または苦の量でかぞえられるのか。』(pp.4)
少なくとも、「道徳的標準」は、歴史上時代や地域で大きく異なるので、絶対的ではありえない。その時々の社会が、適当に都合よく決めているように思う。主な宗教であっても、そのように思う。

『思うに、キリスト教は三つの「神学的」徳(信仰、希望、愛)を、ギリシァ人のいう四つの「元徳」 (知恵、節制、勇気、正義)に付け加えはしたが、また、キリスト教の下す制裁は超自然的であり、その 勧奨はいっそうはげしいけれども、キリスト信徒もギリシア人もともに、聖アウグスチヌスがヴァロについて述べた 評言の感情をわかちもっている。すなわち「彼は〔人間の〕本性のなかに、身体と霊魂の二つのものを見出す。そのうち霊魂のほうがはるかに優秀な部分だと、彼は言いきっている。」じっさい、この通り簡単なことである。人間は 二つのものからなる存在であって、目にみえない世界と目にみえる世界の両方に親近性をもち、二組の衝動のあいだに引きさかれている。その一方は、人間を上なる事物の探求へと促すし、他方は人間を肉の餌や魅力で誘う。道徳的であるとは、私たちの「より高き」自己、「最善の」自己の促しに従うことであり、いいかえると、私たちの本性のうちで身体的部分と対立する理性的・霊的部分に属し、肉よりはむしろ知性に、生成の世界よりはむしろ抽象的な不変の存在界に、変化し過ぎ行く“多”よりはむしろ常住な“一”に属するすべてのものに従うことである。』(pp.8)

 『ジュリアン・バンダ氏が述べたように(『聖職者の裏切り』のなかで―この本は三十五年前、T ・S・エリオット氏が私たちみなに読むように言っていた本だが)、「聖職者たち」のおかげで「人類は二千年問悪を行ったが、またよき誉も得たのであって、この矛盾は人類にとって名誉
であり、文明が世界へすべりこんでいった割目をなしたのである。』(pp.8)

過去のキリスト教会の活動を思えば、聖職者が道徳的であるとは、とても思えないのだが。

『現代の聖職者たちはソクラテスに対する有罪判決を是認する。バンダ氏の書いたところによると、「プラトンにとっては、道徳が政治を決定した。マキァヴェリにとっては、政治は道徳から独立していた。モーラス氏にとっては、政治が道徳を決定する。」』(pp.9)
つまり、人類の歴史においては、「道徳」は次第に世俗化していったという事なのだろう。

『ユダヤ人は奇跡を求め、ギリシァ人は知恵を求める。しかし、私たちはキリストを宣べ伝える―しかり、十字架に釘つけられたキリストを。これはユダヤ人にとっては躓きの石であり、ギリシア人にとっては愚かであるが、しかもキリストの召しを耳にした人々にとっては、ユダヤ人にもギリシァ人にもひとしく、キリストは神の力であり、神の知恵である。』(pp.11)

『キリスト教の教えは神学に依拠するに対し、ギリシァ人の知恵は純道徳的だ、という意見はどうだろうか。プラトンにもアリストテレスにも、その道徳の教えは、究めていけば神の観念
を中心としていることを示す個所がみつかる。』(pp.12)
 
本当にそうなのだろうか、具体例は示されていない。
 
 『『エウデモス倫理学』においては(この本は「ニコマコス倫理学」より古いとイエーガーからわかるが)、神は宇宙における第一起動者であるばかりでなく、魂においても第一起動者である。神は人間の一切の道徳的欣求精進の目的である。』(pp.14)

著者は、キリスト教の教えとギリシア人の知恵の間で葛藤して、何とか共通性を見出そうとしているように思われる。

『教育の目的、あらゆる高貴なる生の目標は、プラトンにとっては、変化し移りゆく現象の影を超え出て、魂が実在を直接しかと見る、永遠の燦然たる白光に入ることである。周知の例は、『国家』の第七巻にある“洞窟"の比喰である―人々は洞窟に住んでいて、光に背を向けており、壁にうつる影の動きを見て、それを本物とまちがえている。』(pp.17)

『プラトンの高き精神性、アリストテレスの謹厳な知恵―これらのものは神の眼には愚かなのであろうか。聖パウロは(フッカーの句をつかえば)「信仰において熟達する道は、知恵・分別において未熟なることである」と教えているのか。ラグビーのトマス・アーノルド が言ったことがある、「ラグビー校の少年たちは、大学者になる必要はない、しかし、キリスト教的紳士になることは、おおいに必要である。」しかも、アーノルドは最善をつくして学者を育てたし、またケンブリッジでは―学問をするところならどこでも同じだが―文化教養の追求、すなわち何らかの形でのこの世の知恵の探求こそ、私たちの努力の理念であり、存在理由であると思われる。それなら、聖パウロの評価では、私たちは誤った道についているのか。』(pp.19)
『聖パウロは、その回心の新しい洞察にとらえられ、熱意にあふれで、アリストテレスができそこないだとしてあきらめたまさにその人に対する救済を語るのである。』(pp.23)

『特定の時代に特定な人によって、歴史の中でなされた啓示というキリスト教的観念と、「適当な訓練をうけた個人には、つねに開かれている」無時間的な不変の真理というギリシア的観念の違いである。』(pp.27)

『アリストテレスは、知性の徳と道徳の徳のあいだの区別を提示している。道徳的生を神的なイデアの把握として表し、この把握はその必然的結果として、イデアへ近づこうとする努力を伴うと述べるかわりに、今やアリストテレスは―後述のように、それまでの立場をすっかり放棄することはしないで―私たちが「性格」とよぶ思考、意志、情念の複合体に注意を向ける。そして、人間が人間本性の内的形相原理を実現することが道徳性だと考える。こうして アリストテレスは、道徳性を宇宙の運動全体と調和させるのである。』(pp.36)

『“徳”を“知性的”と“道徳的”とに分ける区分に出くわす。この区分は、さきに私が論じた他の区分、すなわち「理論的」知識と「実践的」知識とのあいだの区分と合致している。道徳的な徳は、「性格」の徳である。だから、「人の性格について語るにあたっては、彼は賢いとか、理解力があるとか〔知的な徳〕とはいわずに、彼はやさしい、穏和だとかいうのである。』(pp.60)

『人間が文明技術によって“自然"を十分に馴致し、もはやまったく自然の言いなりにならぬと感じるようになると古い迷信的恐怖のかわりに、新たにいっそう情緒的な態度が生じる―失われた楽園、失われた家郷、失われた親に対するノスタルジアの感情が。文明があまりにも都市的となり、あまりにもその土に下した根から離れると、いつでもきまって、「原始主義」の祭儀があらわれてくる。』(pp.90)

『十九世紀には、産業主義の恐怖から起るその反動として、おおいに権威を増し加えたし、D・H・ ローレンスにおいて、新しい力を得た。ローレンスは近代文明を目して、純粋で美しい世界の顔に人間がつけた見るも無惨な汚れと見て、一切の不幸と禍の根源は、知的精神の異常発達にあるとした。―精神も、妖婦と同様、命の生血を貧り吸ったのだった。』(pp.90)

これらの文章から「イギリス人の精神の源流」をたどると、道徳性はキリスト教とも、ギリシャ哲学ともい一致せず、ましてや近代文明とは相いれないという結論に達してしまったように思える。そこには、キリスト教という一神教の影響下にある西欧的な考え方の行き詰まりを感じる。東洋的な自然観と多神教の考え方からは、このような葛藤は生まれて来ない。