生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

ジェットエンジンの技術(12)第15章 実用化初期(その2)

2024年01月29日 08時07分14秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第15章 実用化初期 1940年代までの歴史(その2)

 1919年から1930年前半は、15世紀の大航海時代になぞらえて、大飛行時代ともいわれる。コロンブス等と同じく、大西洋横断やアジアへの空路の開発が各国により競われた時代だからである。多くの飛行記録が達成され、主要国は、航空会社を設立した。その多くは、現在も存続している。その結果、航空機を持たなかったスペインとポルトガルは、中南米での権益に大きな打撃を受けることになった。
 
 速度の問題が解消されると、長距離飛行への課題はもっぱらエンジンの信頼性であった。つまり、IFSD (in Flight Shut Down、飛行中のエンジン停止) が最大の問題であった。特に点火系と冷却系に問題があったと云われているが、私の経験では、それは1950年代の乗用車と全く同じといえる。電解質である水が、銅製のラジエターと鉄製のエンジンを高温で巡るので、問題の解決には冷却液を変更する必要があった。航空機の運航会社にとっては、安全性と信頼性の確保は最重要課題であり、このための技術が次々と開発された。
 
 転機となったのは、1927年5月のC.リンドバーグのニューヨーク・パリ間の33時間5810kmの無着陸飛行の成功であった。この飛行は第1次世界大戦前に提案された「オーディグ賞」の獲得が目的で、それ以前に何人もの死者を出していたが、彼はその賞金25,000ドルと世界的
な名声を得た。

 この飛行の成功には、いくつもの理由付けがある。諸説は、彼の若さと勇気、翼型を始めとする飛行機の性能向上を挙げているが、やはり、エンジンの信頼性の進化が最大の理由であった。この機体の搭載エンジンはライト・ホワールウィンドエンジンと呼ばれ、1923年に米国のカーチス・ライト社が開発した航空用エンジンであり、一連のワールウィンドシリーズの始祖となった。1920年代のアメリカやオランダ等の多くの航空機に使用された。(5)


図15.4 リンドバーグによる大西洋横断飛行の成功(5)

 一般の旅客機としては、1933年には乗客10名を乗せることのできるBoeing247が運航を始めた。さらに、1938年には客室の与圧を行ったBoeing307が運航を始めた。このBoeingの機体はユナイテッド航空が一手に引き受けたために、TWAとアメリカン航空は、ダグラス社に依頼してDC2型機の開発を依頼して、これを導入した。

 P&W R-1340が機体に搭載されたP&Wの最初のエンジンであり、その後ワスプシリーズとして合計34,966台のエンジンが生産された。ちなみに、P&W社は1925年にF.B.Rentschlerの発案により設立された。同社が配布しているカタログの冒頭には、次の言葉が述べられている。「the best aircraft could only be built around the best engine」。また、「aviation could progress beyond a one-man show only through larger aircraft, capable of greater speed and range」として、その後のエンジン技術の発展に貢献した。
                          

図15.5 Boeing247に搭載されたP&W R-1340エンジン(Wikipedia)

 第2次世界大戦中に軍用機用に大型化されたレシプロエンジンは、終戦直前から民間機用に転用が始まった。ボーイングB-29爆撃機(太平洋戦争末期の日本本土空襲に多数導入された)を原型としてC-97ストラトフレイター輸送機が開発され、1944年11月に初飛行した。エンジンはP&W R-4360エンジンに換装された。
 さらに、大型・長距離旅客機Boeing377がC-97を基に開発、大戦後の1947年7月に初飛行し、パンアメリカン航空のニューヨーク― ロンドン線に就航した。この機体は、日米路線にも多く投入され、映画評論家の淀川長治が黒澤明の代理としてアカデミー賞授賞式に出席する際や、マリリン・モンローとジョー・ディマジオが新婚旅行で日本を訪れた際にも使用された。
また、同年初飛行のダグラスDC-6は、客室を与圧して700機を超すベストセラー機になった。この機体は日本航空にも採用されて、ジェットエンジンを搭載して1958年初飛行に成功したDC-8の登場まで長距離機として多くのエアラインに採用された。一方で、これらの登場によりクイーンメリー号などの豪華大型客船による大西洋横断航路は急激に衰退した。
このように、軍用機として開発された航空機を、直後に民間機に改修することは、新型機の開発のコストを軽減するために頻繁に行われた。この手法は、機体では続かなかったが、エンジンでは20世紀末まで行われていた。

15.2 ピストンエンジンからジェットエンジンへの切り替え

 1940年代後半では、運行中の旅客機はレシプロエンジンが主流であったが、エンジン製造会社は、次第に大型のジェットエンジンの開発に集中していった。
 P&Wは、1947年にすべてのピストンエンジン関連事業をカナダのP&Wに移管し、ジェットエンジン専門会社となった。海軍との契約で、PT2ターボプロップエンジン(出力6000hp, 4.2MW)、更に翌年にはJT3ターボジェットエンジン(出力3.7ton, 36.5kN)の開発を始めた。また、量産としては、1947年から海軍用にJ42ターボジェットエンジンを生産したが、これはホイットルのW2エンジンの発展型をRolls-Royce社から技術導入したものであった。
他方、GEはRolls-Royce社の技術を全面的に導入した。第2次世界大戦末期における、英国政府とRRの決断については、第12章で述べたが、具体的にはこのようであった。
 
 当時、レシプロエンジンで大成功を収めていた米国のエンジンメーカーは、ジェットエンジンの旅客機への採用には消極的だった。吉中 司は「アメリカ・カナダにおけるジェットエンジンの発達と進展」の中で次のように述べている。
 『1941年10月1日 , 分解されたホイットルW1-X型エンジンとPJ社の技術陣が 、イギリスから空路アメリカに到着する。アメリカ陸軍航空隊は,すでにターボ過給機でずいぶん経験のあるゼネラルエレクトック(General Electric)社をジェットエンジン製作会社として選んでおり, PJ社技術陣の助けを得てW1-X型エンジンのコピーを、GE1-Aという名称で製作し、1942年3月18日、GEのマサチュセッツ州リン市の工場で地上試験を開始している。』(p.58)(3)
 これにより、米国でのジェットエンジンの開発・製造が開始されることになった。さらに、敗戦国ドイツからはフォン・オハイン博士を始めとする大人数の科学者と技術者が米国に移住することになり、米国産のエンジンは急速な発展を遂げることができた。
 一方で、日本では空白の7年間の期間中であり、一切の航空機用エンジンに関する活動は行われなかった。

ジェットエンジンの技術(11)第15章 実用化初期(その1)

2024年01月21日 12時21分23秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第15章 実用化初期 1940年代までの歴史

 1903年のライト兄弟による動力有人飛行の成功以前にも、動力飛行機は存在した。ウィリアム・サミュエル・ヘンソン(William Samuel Henson, 1812- 1888)はイギリス生まれの発明家で、彼が1840年代に構想した「空中蒸気車」は固定翼、推進力、降着装置、尾翼など後世の飛行機の特徴の大方を備えた先駆的なものであった。この、固定翼と動力を組み合わせたのはヘンソンが史上初とされているが、実機は製作されず構想のみに留まった。

 しかし、彼の協力者であったジョン・ストリングフェロー(John Stringfellow, 1799 - 1883)は、ヘンソンが飛行機械開発を断念した後も独自に研究を続け、1848年に蒸気機関を積んだ単葉の模型飛行機(図6.1)をわずか10 ft(3 m)だが飛ばすことに成功したとされる。

 その後約20年間は飛行機開発から遠ざかるが、1馬力の蒸気機関で動く三葉の模型飛行機を製作した。これは総重量が16 lb.(約7 kg)という軽量さを実現しており、1868年にロンドンの水晶宮における航空博覧会で公開飛行に供せられた。固定翼の動力模型による、史上初の公開飛行とされている。(1)


図15.1 ストリングフェローの単葉飛行機(ロンドン科学博物館)(1)

 ヘンソンとストリングフェローは、ことにあたって国際企業「空中輸送株式会社」を起業しており、世界初の民間航空会社ということができる。これ以降、英・米・仏では膨大な数の民間航空事業への試みが行われたが、いずれも膨大な資金の調達に苦労をした。当時の技術は、現代のものとはかけ離れているので、本稿では省略をして、第2次世界大戦後の進化の歴史を10年刻みで辿ることにする。それは、エンジンの性能が、ほぼ10年刻みで飛躍的に向上したためで、その歴史を図15.2に示す。


図15.2 第1世代から第6世代までのエンジン性能の進化

 20世紀に入ると、航空機開発熱は欧米で急速に高まり、毎年多くの起業や飛行が行われた。そのすべてを列挙することはできないが、特に第1次世界大戦では、偵察機、戦闘機、爆撃機など多くの軍用機が開発された。それを受けての大戦直後の1919年と1920年の2年間の、民間航空機分野では激しい動きは、欧米の主要国間でのフラッグ・キャリアーの育成と、国際間の主要航空路の争奪戦が開始されたことを示している。
 
 それは、これ以降延々と続く国家の威信をかけた競争の前触れであった。また、様々な競技会の開催などにより、軍用機よりも民間航空用の方に圧倒的な開発熱が喚起されて急速な発展を遂げ時代でもあった。欧米各国のこのような経験の積み重ねにより、民間航空機用エンジンは製造技術と信頼性を次第に獲得し、1930年代には大型旅客機による定期航空路の開発が始められるまでに発展した。

15.1 レシプロエンジンの旅客機
 
 飛行機の開発熱は急激に高まったが、動力源としてのジェットエンジンの開発は容易には進まなかった。一方で、技術的に着実なレシプロエンジンの進化は急激に進んだ。特に1920年から1939年の間は航空機の「熟成の季節」とも云われている。現代でもそうであるが、航空機とエンジンは製造面での裾野が広い。二つの大戦に挟まれたこの期間は、鉄工業を始めとして多くの産業が育った時代であった。その中にあって、旅客機の定期航空路の成否は安定した飛行速度の獲得であった。当時の飛行機はエンジン性能が十分でなく、向かい風では大幅に速度が落ちてしまい、例えばパリ・ロンドン間でも向かい風では途中で燃料切れを起こす始末であった。そのために先ず行われたのは、エンジンの出力を増すことであった。
初期に適用された技術は、既存のエンジンを改造するもので次のものがある。(2)

① ピストン頭部を加工して、シリンダー内の圧力をあげる
② 出力上昇に合わせて、燃料の混合比をあげる
③ 過給機を装備する

 しかし、このような改善ではまだ定期航空路の開設には適しておらず、もっぱら当時盛んに行われていたスピード競争に優勝するためのものであった。その一つに「シュナイダー杯」がある。あのアニメ映画「紅の豚」に出てくる水上飛行艇による速度競争で、長期間継続された。その優勝者の記録を図15.3に示す。


図15.3 シュナイダー杯の勝者の記録(2)

 この間に行われた技術の革新は、エンジンの水冷方法と過給機(エンジンの場合には、スーパーチャージャーと呼ばれる)の改善であった。通常のラジエターでは空気抵抗が増すために、翼面に多数の真鍮や銅管を流れに沿って這わす加工が行われた。また、エンジン軸の後端に増速ギアーを介してターボ式の過給機を付けて、そこから気化器をとおしてシリンダーに燃料と圧縮された空気を送り込む過給機も開発された。(2)

続く