生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

第12章 ジェットエンジンの原理と初期の歴史(その5)

2023年06月14日 07時06分05秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第12章 ジェットエンジンの原理と初期の歴史(その5)

12.3.3 史上初の飛行
 一般には、上記のホイットルエンジンによる初飛行が有名だが、実際には、それに先行したジェット機があった。それは、ドイツのハンス・フォン・オハインが主導したHeS3Bエンジンを搭載したハインケル社のHe178機で、初飛行は1939年8月27日だった。英国よりも2年先行していたことになる。
 しかし、第2次世界大戦に実戦配備されたのは、ともに1944年の半ばであり、ドイツの2年間の先行は、独国の敗戦もあって独国航空機産業にはあまり生かされなかった。彼が製作に関与したHe280が独空軍に採用されずMe262が採用されたために、ジェットエンジンの実用化が進まなかったのであった。
一方で、次項で述べるように、日本のジェットエンジン技術開発の黎明期に独国のジェットエンジン断面図がもたらした恩恵は大きなものがあった。彼は後に米国空軍航空宇宙研究所で所長としても活躍し、数件の先端的な米国プロジェクトをリードし、退職後はデイトン大学で研究室を創設・維持して後進の米国若手技術者を指導した。

12.3.4 日本における初期の研究
 わが国におけるジェットエンジンの開発は、種子島時休(1902-1987)海軍大佐の夢から始まったと伝えられている。彼は昭和9年(1934)に「航空ガスタービン」という論文を発表し、それをもって昭和11年からパリ駐在の航空監督官として2年間在欧した。
 昭和13年に帰国後、直ちに海軍航空技術廠発動機部で試作エンジンの研究を開始した。しかし、実機の製作に取り掛かれたのは、昭和17年からであり、翌年ようやく自立運転に成功した。この時のエンジン名はTR-10(後にネ10と改称)で、「エンジンは外部からの送風を止めても、見事に自力で回転を続行した。この瞬間が日本で最初のジェットエンジンの産声であった」(9)と記録されている。自立運転への到達が、いかに困難だったかが分かる。
 ネ10エンジンは、その後回転数を落とすなどの改良を加えて、ネ12Bとして30台の生産が決定されたが、間もなくドイツから実用機の図面が入手できるとの情報があり、中止された。


図12.13 TR-10 ジェットエンジン概念図(2)

次回は、第13章 ジェットエンジンの成立

縄文土器と土偶のその場考学

2023年06月11日 13時05分01秒 | メタエンジニアリングと文化の文明化
メタエンジニアリングによる文化の文明化(20)
題名;縄文土器と土偶のその場考

 縄文土器と土偶の関係をメタ思考する。私は、縄文時代に大いに興味があり、関係本を何冊も読み、遺跡や博物館巡りも何回かした。それは、その時代が日本の文化の発祥だからである。そして、縄文時代には、驚くほどのイノベーションとその合理化が行われ続けられていた。だから、一万年以上も持続した。
特に、イノベーション指向は、弥生時代のそれを遙かに上回ると考えている。弥生時代になると、社会が稲作に拘って、新たなイノベーションはむしろ停滞したように思う。

 先日、松本市の小さな考古館で、いろいろな土偶を楽しんだ。特に、小さな土偶の顔や胴体の表現は、千差万別で面白い。


松本市立考古博物館の土偶(胴体部)

 10年以上前に青森で立ち寄ったある考古館では、物置のような建物を開けてもらい、岩木山北麓から発掘された山積みの土器と、その破片を見せてもらった。帰りがけに、「遠くからいらしたのだから、お土産に一つ気に入ったものをお持ちください」と云われて、一つ手に取ると、「それは面白くない、之をあげましょう」と言われて、頂いたのがこの土器片だ。
上縁の一部なのだが、以来、これと同じ文様を探しているのだが、まだどこの博物館でも図録でもお目にかかったことはない。



 ちなみに、この場所は室内の階段の曲がり角で、土器と土偶を並べてじっくりと見ることができる。
国宝級の土偶は、手に取って細部を見ると、その素晴らしさが何倍にもなってくる。

 本題に戻る。なぜ、「縄文土器と土偶の関係をメタ思考する」のか。それは、ほぼすべての専門家が、縄文土器は土器として、土偶は別の呪術的なものとして、別個に扱っているからです。この二つは、同じ時代に、同じ社会内で、同じ素材と製造方法で、同じ場所で作られた。つまり、エンジニアリング的には全く同じものになる、と考えるからなのだ。「いや、素材も製造方法も製造場所も違う」といわれれば、それまでなのだが。

 私は、土偶の始まりを子供のおもちゃと考えている。親が土器を作っている傍らで、遊び相手のいない子供が、粘土の余りをもらって、お人形さんを作る、というわけである。子供の絵を見ればわかるのだが、初めて絵を描く子供は、先ず顔を描く、そのときの目鼻は、大人の目にはひどくかわっている。やがて、胴体と手足を描くが、これも異常な形が多いし、千差万別になる。
 子供が人形遊びを始めると、すぐに首をもぎ取ったり、手足をバラバラにする。このことは、多くの土偶が破壊されていることと符合する。別々の場所で発見されるのは、子供があちこち持ち歩くからだ、別の部落に、体の一部が存在するのは、子供同士の友情の交換の結果と思う。墓にあるのは、早くに亡くなった子供の形見として、親が終生持ち歩いたか、子供とともに葬ったのだろう。
 数百年の間には、子供達の創造性の優れた才能に親が気がつき、生活に余裕が生まれると自分で芸術作品としての土偶を作り始める。それが、土偶の歴史のように思うのだが。

 芸術作品となった土偶には、それに適した置き場所が問題になる。我が家では、居間や通路に置いてあるのだが、トイレにふさわしい土偶もある。



八戸にある国宝の土偶はトイレに置いた

 このような、勝手な想像を巡らすと「土偶は、縄文土器をつくる、その場で作られた」となる。陶芸は、一度捏ねた粘土で一気に原型を作り上げる。だから、その場でなくてはならないのだ。

文明を文化人類学からの視点で考える

2023年06月10日 09時21分19秒 | メタエンジニアリングと文化の文明化
文化の文明化(19)

題名;文明を文化人類学からの視点で考える

 現代文明が揺れている。特に、経済と政治の面で揺れている。現代社会の持続性を考えると、文明から一歩下がって文化のレベルから考えるのがよいように思う。そこで、祖父江孝男「文化人類学入門」中公新書(1979)から初めて見ることにした。

 著者は、文化人類学の大御所とも思われる方で、この著書も、初版は1979年に出版されて、19版を重ねた。そして、1990年に改訂増補として再出版され、2022年に第37版が発行された。累計では56版目になる。これだけの版が重ねられれば、名著の部類に入るのだろう。



 入門書なので、「文化人類学の世界」を概観した後で、「人間は文化をもつ」として、文化の内容を説明した後に、「文化の進化」、「文化の伝搬」、という一般論を終えて、文化を支える各種技術と各種文化の歴史の各論が続く。
 「人間だけがもつ文化」の項目で、『人間と動物のあいだの本質的な差異を示すために、人類学者が考えだした概念が「文化」である。』(p.38)としている。

そして、続けてこの様に述べている。『もともと文化という語は、「武化」に相対することばであり、「武力ではなく、学問の力で感化すること」の意であった。』(p.38)
 これには驚かされた。何故ならば我が意を得たり、だったからだ。私は、「文明」に対して、「武明」という言葉を勝手に使っている。現代の過去の多くの文明、特に現代の西欧文明は、文明というよりは武明の傾向が強いように感じているからだ。つまり、武力や権力によって発達し、伝搬された傾向が強いように思われるからだ。
しかし、武明という言葉は、どこにも見当たらない。では、「武化」はどうだろうか。検索をしても、なかなか見つからないのだが、唯一このような記事を見つけた。明星大学 人文学部 日本文化学科の「ことばと文化のミニ講座」の中にある「文化という語の複層性」の中の記述だ。
 『これまでの研究によって明らかにされた「文化」という語の来歴を踏まえると、その意味がさまざまに解釈されるのも無理からぬ話だと思えます。
冒頭で取り上げた柳父章氏の著書によれば、「文化」は中国古典から日本語に採り入れられたもの。したがって、その意味は「文」と「化」の組み合わせであり、「文化」とは「文」によって人民を教え導いていくこととなります。日本最大の漢和辞典である諸橋轍次『大漢和辞典』では、「刑罰威力を用ひないで人民を教化すること。文治教化。」と説明しています。ここでの「文」とは「武」に対するもの、すなわち非武力ということが重要な要素になっています。現代では、この用法はほとんど見られなくなっているのかもしれませんが、校訓などで使われる「文武両道」の「文」を思い浮かべてもらえれば、その片鱗はまだ感じ取れるのではないかと思われます。
これに対して、近代の翻訳語である「文化」は、ドイツ語「クルトゥール(Kultur)(=英語のcultureに相当)」の訳語としての「文化」、こちらは人間の精神的活動やその所産を示し、現代ではおおむねこちらを意味すると受け取られるでしょう。しかし、KulturまたはCultureが日本に輸入された当初は、必ずしも現代語の意味での「文化」に翻訳されていたわけではないことはよく知られた事実です。』とある。

実は、「文明」についても、全く同じことがいえる。明治維新の「文明開化」が縮められて「文明」になったという説だ。しかし、「文明」という語の語源は、「易経」の次の言葉にあるというのが、日本の歴史家の通説になっている。
六十四卦の中から「文明」について記されているものを探すと、「同人」の項に、「文明以健、中正而応、君子正也」という言葉がある。
「同人」は同人雑誌の同人、志を同じくすること「天火同人の時、同じ志を持った者同志が、広野のように公明正大であれば通じる。大川を渡るような大事をして良い。君子は貞正であれば良い」が全体の意味で、そのときは「文明にしてもって健」ということのようだ。

 二つの象の上下が逆になると。「大有」となる。その中に「其徳剛健而文明」の言葉がある。「その徳剛健にして文明」との状態。全体としては、「大有」火天大有(かてんたいゆう) 大有とは、大いに有つこと。 大きな恵を天から与えられ、成すこと多いに通ずる時。 天の上に太陽(火)がさんさんと輝いている状態。

 また、上が坤で下が離だと、「内文明而外従順」となり、これは、「内文明にして、外従順、もって大難を蒙る」とある。周の文王が殷の紂王に捕らえられた様をあらわしている、とある。
 しかし、下が離でも上が兌だと、「文明以説」で、「文明にしてもって説(よろこ)び」となる。
 易経では文明はこのように扱われている。

 著書のなかでは、文化の進化について色々な説が紹介されているが、もっとも古いものが、ルイス・モルガンの社会進化論に基づく分類になっている。彼は、ニューヨークの弁護士で、インデアンの権利の擁護を訴えて勝訴したのだが、その際にインデアンの文化を徹底的に調査している。彼の著書を境に、米国におけるインデアン差別が、徐々に廃されていった、とある。
 『Ⅰ野蛮時代
1 下期野蛮時代 文化の始まったときから次の時代まで。
2 中期野蛮時代 魚を食べることと、火の使用が始まったときからあと。
3 上期野蛮時代 弓矢の発明からあと。
Ⅱ未開時代
1 下期未開時代 土器の発明からあと。
2 中期未開時代 東半球では家畜の飼育が始まったときからあと。
西半球では濃概耕作によってトウモロコシなどの栽培が始まったときからあと。
 Ⅲ文明時代
  文字の発明と使用が始まってから現代に至るまで。』(pp.45-46)

 このように年代を連ねてゆくと、文化から文明に進化したことが明白になる。つまり、文化が発達しないところに、文明は起こらない。そして、技術の無いところに文化は起こらない。
 逆にいえば、なんらかの技術が発展して文化が起こり、文化が様々な技術により文明に進化すると云うことができる。従って、技術を実社会に活かす術、すなわちエンジニアリングが、すべての根底にあることになる。