生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

ジェットエンジンンの設計技師(4)第3話 規制緩和と設計手法の関

2020年12月31日 09時57分54秒 | ジェットエンジンの設計技師
ジェットエンジンンの設計技師(4)
作成日;H26.5.5 KTR45051
改定日;R2.12.31

第3話 規制緩和と設計手法の関係

 第2話で紹介したV2500エンジン(1987年初飛行のエアバス社のA320に搭載) の日米英独伊の国際共同開発、それとGE90エンジン(1994年初飛行のボーイング社のB777に搭載) の日米仏伊の国際共同開発に、私がChief DesignerやChief Engineerなどとして関与した時期は、まさに民間旅客機の飛行に関わる規制緩和が主としてエンジンの信頼性の向上と関連で積極的に進められた時代でもあった。

 私は、2009年にそうした経験と実績を踏まえて「初期品質安定設計法の提案と評価」を書き、博士(工学)の学位を頂いた。丁度40年間の会社勤めの定年退職直後であった。
この論文において、私はこれまでの設計法の評価と発展について分析し、それに基づいて、エンジン開発を取り囲む、技術伝承、開発機種増加、リーダーの指導力低下などの、予測される21世紀の社会環境の変化に対応する設計法として、「初期品質安定設計法」、「E-QAD」(Early Quality Assured Design)というものを提案した。提案の流れは、次の図の通りである。



「第1期の質設計」の時代は、V2500エンジンの設計の期間で、従来から開発設計に適用されていたTQC(Total Quality Control 統合的品質管理) 、SQC(Statistical Quality Control 統計的品質管理) 、QFD(Quality Function Deployment 品質機能展開)などを、より積極的に取り入れることが行われた。それによって信頼性の向上が実現された。
 こうした努力が実を結び、1953年に定められた、双発旅客機はエンジン1基停止状態で60分以内に着陸可能な空港に到着することができるルートを飛行しなければならないとするETOPS(イートップス)(Extended-range Twin-engine Operational Performance Standard:双発機による長距離進出運航規準)-60という規制が、それから約30年後の1985年に、ようやく緩和された。双発旅客機はエンジン1基停止状態で120分以内に空港に到着することができるルートを飛行しなければならないというETOPS-120に変更されることになった。そして、その後、180分、207分、240分以内にする ETOPS-180、207、240と、さらに緩和が促進されることになった。

 しかし、当初はその認定を得るためには同エンジンの実際の商用運行実績データに基づく信頼性の証明が不可欠であり、認定取得までに要する期間の長さが問題になった。

 実際、私がロンドンのヒースロー空港で見かけるB767機は、コックピットの真下に「ETOPS」との表示のある機体と、表示のない機体が並んでいた。表示前の機体は、まだ運行時間数が足りないことを意味しているので、大西洋路線には使えないことを示していいる。
そして、期間短縮のため、開発時の試験や設計プロセスなどに基づいて信頼性を立証し、それによって運行開始当初からの大洋横断飛行などの実施が求められるようになった。

 そこで、初期品質に関するロバスト性(robust 強靱・堅牢)が求められ、このためジェットエンジンの開発設計においても、いくつかの産業分野で採用が始まっていた、田口玄一博士によって体系化された技術開発の方法論「タグチメッソド」(Taguchi Methods)の広範囲の適用を行うことにした。広範囲とは、基本設計分野にとどまらずに、詳細設計と加工精度の信頼性を増すために、適用範囲を大幅に広げることだった。それが「第2期の質設計」の時代である。そうした努力が実を結び、Early-ETOPSと呼ばれる考え方が、B777の1994年の初飛行に導入されることとなった。

 以上の「第1期の質設計」の時代、そして「第2期の質設計」の時代とも、それぞれの手法の適用の時期や範囲などは、すべて設計リーダーと担当者の判断に委ねられており、その意味では、質設計の暗黙知的な適用の時代とも言えるものであった。
 しかし、21世紀に入り、社会環境の変化が顕著になり、質設計を暗黙知的に適用するのでは安全性の継続に問題が生じるとの認識が生まれた。そして、従来の設計プロセスを総合的に見直し、特に初期品質の信頼性の安定に寄与するこれらの手法の適用時期と方法を、より明確に規定すべきとの結論に至った。すなわち、適用時期と方法に関する知識を暗黙知(Tacit knowledge)ではなく形式知(Explicit knowledge)とすることだった。
 
規制緩和とETOPS(イートップス)(双発エンジン距離延長運用性能規準)

 ETOPS(双発エンジン距離延長運用性能規準)について、少し説明を加えることとする。
 工業製品に対する規制は常に強化される傾向にあると思われるかも知れないが、必ずしもそうではない。ある時期からは規制緩和が行われることになる。1980年代後半からの航空機がまさにそのときであった。航空機の利便性の向上のために規制緩和が進められることとなったのだが、それはジェットエンジンの信頼性の向上がなければ不可能なことであった。1980年以降、エンジンの設計と製造の信頼性の高まりと並行して、規制緩和による民間航空機の利便性の改善が行われた。国際機関が定めた新たな規制緩和のルールを恒久的にするためには、たった一つの事故も許されない。そのためエンジンの設計・開発・生産の信頼性技術の進歩と定着が強く求められた。そして、その傾向が20世紀の終盤まで続いた。しかし、技術者の世代交代が明らかになった2010年以降は、その形式知化された初期品質安定設計法が正しく行われているとの確証はない。筆者の眼には、多くの初歩的なミスが繰り返されているように思える事案が散見されるようになった。

 規制緩和による民間航空機の利便性の改善で重要な意味を持っているのは、双発機のエンジン1基停止を想定して、国際民間航空機関ICAO(International Civil Aviation Organization) が設けたETOPS(イートップス)(Extended-range Twin-engine Operational Performance Standard)というルールである。
 双発機は、エンジンが1基停止すれば、残りの1基で飛行しなければならなくなり、そのため、かつて双発旅客機は1基でも空港まで戻ってくることができる範囲ということで、空港から100マイル(約185㎞)以内のルートを飛行することとされていた。それが1953年、米連邦航空規則「FAR 121.161」 によりETOPS-60という規則に変更された。双発旅客機はエンジン1基停止状態の巡航速度で60分以内に、着陸可能な空港(Adequate Airport)に到着することができるルートを飛行しなければならないという形で規制されるようになった。
Sec. 121.161
Airplane limitations: Type of route.
…………
(1) Farther than a flying time from an Adequate Airport (at a one-engine-inoperative cruise speed under standard conditions in still air) of 60 minutes for a two-engine airplane or 180 minutes for a passenger-carrying airplane with more than two engines;




Boeing ETOPS Flight Operations Overview. Sep. 2009 これから計4枚の資料を引用させてもらった。
http://www.captainpilot.com/files/ETOPS/ETOPS%20Flight%20Operations%20Overview.pdf

このETOPS-60の適用を受けた双発旅客機であれば、飛行可能領域は、1時間の片肺飛行で飛行可能な距離を400海里(約740㎞)とすると、上図の緑の陸地部分と白の海洋部分になる。かなりの範囲をカバーできる。しかし、これだと、例えば、下図のように、大西洋横断となると、かなりの回り道のルートを飛行しなければならなかった。

この規定が設けられた1953年以降、航空関連技術は大幅に進歩し、とくに航空エンジンは、ピストンエンジンからジェットエンジンが主力となり、そのジェットエンジンは目覚ましい進歩を遂げた。しかし、この規定は維持され続け、それが投入路線との関連で大きな制約となってくるため、ロッキードL-1011トライスター、ダグラスDC-10の三発旅客機の開発が行われ、双発機では難しい路線などに投入されることとなった。

 米ロッキード社は1966年、3発機のL1011トライスター開発計画を発表。1967年には、受注体制が整ったと発表され、1970年には初飛行が行われた。そして1972年から実際の運行が開始された。
 日本では全日空に1974年に導入され、グアムや香港などの路線に投入された。
 米マクドネル・ダグラス社は1967年、ロッキード社に続いて3発機のDC-10開発計画を発表。 1970年には初飛行が行われた。
 そして先行する対抗機、米ロッキード社のL-1011が、搭載エンジンのロールス・ロイス社の経営問題などで混乱している間に、一足早く、1971年に実際の運行が開始された。
 日本航空には1976年に導入され、南回り欧州線やアンカレッジ経由ニューヨーク線、東南アジア線などの路線に投入された。


http://page.freett.com/nagoyaairline/japan/jal_dc10_040216.JPG
http://cdn-www.airliners.net/aviation-photos/photos/3/8/7/2020783.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/DC-10_(航空機)

 その後、1985年1月、米連邦航空局「FAA Advisory Circular 120-42」により60分が120分に拡張された。 それは1985年6月に撤回されたが、1988年12月の米連邦航空局「FAA Advisory Circular 120-42A」 により、適格空港(Adequate Airport)までの時間が、双発旅客機の機種によって、75分、120分、180分という規則が適用されることになった。




これらETOPS-120とETOPS-180の2枚の飛行可能範囲を見れば一目瞭然であろう。いずれかの認可を取得すれば、双発旅客機でほとんど世界中を飛行できるのである。現在ではさらに拡大し、北半球運航に支障がなくなる207分、南半球運行に支障がなくなる240分という規則も現れている。そして大西洋・太平洋横断の旅客機も完全に双発機が主流の世界になっている。
 現在製造中の民間旅客機の中で双発機ではないのは、エアバス社の2005年初飛行の座席数500席以上の大型旅客機A380と、ボーイング社の1969年初飛行とはいうものの、進化を続けてきている座席数がほぼ同じB747の2機種だけである。


http://www.boeing.com/commercial/products.html http://www.airbus.com/aircraftfamilies/
 
かつて日本の空を飛び回った三発機は姿を消していった。日本航空で使用されていたボーイング社のB727は1987年に退役した。全日空で使用されていたB727も1990年に退役した。

 また日本航空で使用されていたマクドネル・ダグラス社のダグラスDC-10も2005年10月に退役した。マクドネル・ダグラス社自身も1997年にボーイング社に買収され、1998年にはマクドネル・ダグラス社名での航空機販売は終了した。

 プロペラ機からジェット機へ、そしてジェット機も三発機、四発機から双発機へと姿を大きく変えてきている。  

しかし、エアバス社の大型旅客機A380と、ボーイング社の2機種も2020年に発生したCOVIT-19の世界的な蔓延による国際航空便の大幅な減便で、多くのエアラインから姿を消すことになってしまった。

今回の第4話の内容については、友人の井上利昭氏(元IHI)と前田勲男氏(戦略経営研究所)から多くの資料と助言を頂いた。文末ですが、お礼を申し上げます。

参考・引用元
http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml
http://iaenews.com/?page_id=27&album=1&gallery=13
http://www.geaviation.com/engines/commercial/ge90/
http://futurepredictions.com/2011/05/future-predictions-tomorrows-turbine-genx-jet-engine-design-and-ge90-biggest-jet-engine-of-them-all/
http://ja.wikipedia.org/wiki/TQC
http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/tqc.html
http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/sqc.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/統計的プロセス制御
http://www.icao.int/Pages/default.aspx
http://rgl.faa.gov/Regulatory_and_Guidance_Library/rgFar.nsf/FARSBySectLookup/121.161!OpenDocument#_Section3
Boeing ETOPS Flight Operations Overview. Sep. 2009 これから計4枚の資料を引用させてもらった。
http://www.captainpilot.com/files/ETOPS/ETOPS%20Flight%20Operations%20Overview.pdf
http://www.flightglobal.com/airspace/media/civilaviation1949-2006cutaways/images/8833/lockheed-l-1011-tristar-cutaway.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロッキード_L-1011_トライスター
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/20/ANA_L-1011_JA8508_itm.jpg
http://page.freett.com/nagoyaairline/japan/jal_dc10_040216.JPG
http://cdn-www.airliners.net/aviation-photos/photos/3/8/7/2020783.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/DC-10_(航空機)
http://rgl.faa.gov/Regulatory_and_Guidance_Library/rgAdvisoryCircular.nsf/8ce3f88c034ae31a85256981007848e7/2638eaf8b89680a8862569ba00751c8c/$FILE/Pages%201-15.pdf
http://www5a.biglobe.ne.jp/~bluesky/top.htm


ジェットエンジンンの設計技師(3)第2話 国際共同開発における設計ことはじめ

2020年12月30日 10時08分30秒 | ジェットエンジンの設計技師
ジェットエンジンンの設計技師(3)
作成日;H26.5.3 KTR45031
改定日;R2.12.30
第2話 国際共同開発における設計ことはじめ

 新型エンジンの開発はその競争の激しさと市場からの要求の厳しさの故に、設計手法(特に信頼性設計とコスト、調達面などの分野でのグローバリズムに優れている)と開発方法(過去40年間すべて国際共同で行われている)の面で世界の最先端を行くものと思われる、と述べた。
 
私が、Rolls Royce社と共同開発の設計を始めたのは1979年、まだ国際間のデータ通信はテレックスのみで、FAXもできなかった時代。2次元のCADはかなり使いこなせていたが、データ通信はできなかった。しかし、それゆえの智慧の出し合いや、改善の楽しみには事欠かなかった。(註1)
 先ずは、お互いの実力のレベルや、文化の違いの探り合いから協働作業が始まった。設計の各論を始める前に、全体的なご理解を得るために国際共同開発における設計の概要について述べることにしよう。話は、系統的ではなくアラカルト的になってしまうことをお許し願いたい。

先ずは、事始めともいうべき共同開発設計オフィスの開所の様子である。写真の中央の女性は万能の秘書嬢、その右側が私。改めてみると1人だけワイシャツ姿であった。反対の左側は、Rolls-Royce社のチーフ・デザイナーのT. Speak氏で、チームで唯一のケンブリッジの出身者とのことであった。


Portland Square Officeの開所記念写真

1980年2月X日、ついにPSO(Bristol市内のPortland Square )にあるビル内のOfficeの開所日を迎えた。思えば、Rolls-Royce BRISTOL事業所の中心であるWhittle HouseのMain Officeの一部屋を与えられて四方八方からの衆人監視から、門外のポータキャビン、郊外のMEO(Micreover Engineering Office) を経てようやく本格的な設計の共同作業場が与えられたことになる。
Rolls-Royceの人材も超ベテランと新進気鋭に分かれており、そのことからも、会社としての本気かげんが伺えた。

彼らの目に我々が当時どのように映ったかは、もはや知る由も無いが、「RJ500」 という日英 Fifty Fiftyの責任の下に新エンジンを開発する、何とか競合機種に対する遅れを取り戻すという熱意は40年近く経った今でも、写真から感じることが出来る。
 この開所記念日の約1年前に私自身の実質的な仕事が始まった。Rolls-RoyceとのDesign Meeting事始めである。

1979年3月26日から共同開発期間において技術と設計の作業をどのように進めるかの会議が始まった。我々は、「FJR710」 のエンジンを10年間で4種類すべてを成功裏に運転した直後であったが、Rolls-Royce流のやり方をとことん吸収すべく取り入れられるものはすべて取り入れることにして会議に臨んだ。会議は一日に数回、連日行われた。
 最初は、会議に使うノートである。ほとんど全員がA4サイズの2センチほどの罫線の入った分厚いノートを持ち歩いている。ファイル用の孔が明いており、一枚ずつ破って保存する。後で知ったのだが、マネージャークラスの自室には4段キャビネットが数台あり、中味は大抵薄いファイルが数十冊詰まっていた。従って、持ち歩くのは、だんだん薄くなる何も書いていないノートだけになる。

会議の冒頭では、私は先ずこのRolls-Royce式ノートを差し出して、相手の名前を書いてもらった。親切な人は、自分の周りの組織図まで書いてくれるので、かなり合理的だった。以来、私は従来型の日本式ノートを持ち歩くことはなくなり、その習慣は現在まで続いている。

 午前9時、B. J. Banes氏と、執務室の正確な場所(RR Ltd. Whittle House Room W1-G-4)などのTechnical Systemの話から始まった。 続いて10時から設計に使う様々な単位の話、10時半からは、エンジン入口のファン部分の性能の話、11時半からは高圧コンプレッサーの性能の話、といった具合に矢継ぎ早に攻めてくる。相手は次々に代わるのだが、こちらは連続である。幸い、一度に全てではなく、段階的に話を進める術を心得ているようで、中身は良く理解できたように思う。
一度にドッとはやらずに、順を追って適当な間隔で理解を求めてゆくという英国流は、植民地時代からの伝統であろうか。未知の人(民族)との複雑多岐な交渉の術を皆が身につけているとの印象を受けた。
 これが、その後数十年間にわたって続く(私の場合だけでも、10年間で1000回以上)、Rolls-Royceとの開発設計に関するEngineering Meetingの始まりであった。パラパラと当時のRolls-Royce式ノートのファイルを捲ってゆくと、日本に居ては決して聴けないような話が至る所に出てくる。

 エンジン設計は、知識と経験が半々に必要であるとの認識を初めて持つことになった瞬間であった。



 この写真はRolls-Royceのご好意により最近頂いたWhittle House の正面の写真である。当時の荘厳な印象とは大分異なり、明るくモダンに見える。
「ブリストルは事務所も工場も大変大掛かりなリノベーションを行い、一部を除き昔の面影が全く無くなりました。特に組み立てラインは一新され、ゴミ一つ落ちていない明るい工場になっています。昔を知る方はみなさん驚かれます。」との言葉が添えられていた。
(Nozomi "Neil" Takei、Vice President, Business Development – Japan Rolls-Royce International Limitedより)

 彼は元商社マンで、海上自衛隊の次期飛行艇のエンジンで大いにお世話になった思い出が蘇る。



 この写真は、設計室の製図板の前。当時、既にCAD は全面的に使用されていたのだが、原寸大の絵を常に眼前に示すこと、周りの仲間からも進行状況や思考過程が分かることなどの利点のために、全ての設計は製図板上で行われた。
また、日本ではトレーシングペーパーに鉛筆で作図していたが、Rolls-Royceの担当者曰く「トレーシングペーパーは湿気に弱く保存期間も短い。量産エンジンになると最低でも30年は保管する必要があるために不適当。折り目の決して付かない分厚い特殊表面処理をしたフィルムを使用する。」とのことだった。

全体設計の設計変更問題 ——— 「3ヶ月ルール」

 Chief Designerの仕事は、全体断面図を筆頭に様々なDesign Scheme(設計図)を期限どおりに出図(しゅつず)することだ。V2500 Design 1(多くのアイデアの具現化や、設計変更を示すために、主な全体図には連番を付けることにした)は、1983年8月に出図(しゅつず)された。しかし、量産設計が決まるまでには丁度40回の大変更による書き直しがあった。性能、重量、製造コスト、安全性、整備性、信頼性、耐久性のすべてを同時に満足する回答を出すことと、市場の状況(受注競争で負けが混んできたとき)により目まぐるしく変わる設計仕様のためであった。

V2500の開発製造体制

   
http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml

 途中にピンチは数え切れないほどあった。一例は、1984年に起きたDesign15の“Fan Frameストラット”の8本から10本への変更であった。“Fan Frameストラット”とはファンのケースとエンジンのコアとを結び付ける支柱である。5人の日本人設計者と5人のRolls-RoyceのSchemerがたった1つのFan Frameという部品の設計に群がり、短期間で9種類の設計図を作り、一体鋳造か溶接構造かの選択を生産技術者と激論し、別の2ヶ国混成チーム(設計図の作製はSchemer、製造用の図面の作成はDrafts Manと呼ばれ、明確に区別がされている)が100枚に及ぶ鋳造図と加工図を期限どおりに作成した。
 この変更の発端は、Rolls-Royceが担当の高圧圧縮機の翼との共振を避けるためであったので、特段の協力が得られた訳であるが、 それでもまさに国際協働の見本のような場面が展開された。

 この様な設計変更が度重なるうちに、何時の頃からか、私は「3ヶ月ルール」という言葉を使うようになった。基本設計が本格的に始まって間も無くの頃は、設計を中心にマーケティングやサービスなど異分野間の交渉が頻繁であった。何とか先行するCFM56(米国GE社とフランスのスネクマ社 の合弁会社のエンジン) に勝たねばならない。大きな商談があちこちで行われていた。
 商談は、勝つことも負けることもある。初めの頃は連戦連敗だったかもしれない。互角の勝負になった頃からであろうか、一つの商談に負けると、敗因の分析が直ちに行われるのは当然として、多くの場合にとばっちりが設計部門に来る。燃費(燃料消費率)をもう1%良くしろ、重量をもう50Kg軽くしろ、整備費を2%改善しろ。これが3ヶ月ごとにやってくる。

 考えれば当然のことである。互角の勝負の場では負けた相手が新しいオファーを準備する。そして次の商談では逆転を期する。その結果で見事逆転をされると今度はこちらが敗因分析をして、営業やファイナンスの武器では勝負に勝てないとなると設計にやってくる。この周期が大体3ヶ月ということだったのだ。

 これとは別に派生型の話が次々と起こる。概して次の受注を有利にするためのものが多かったが、5年間に大きなものだけでも15回の「Project Design」と称する概念設計が行われた。こちらは、4ヶ月に1回の頻度になる。
 その中には、特殊なものもあった。IHIのGear専門家と一緒に低圧圧縮機の回転を遊星歯車により減速し、大型ファンの回転数を最適化するエンジンの「Project Design」も行った。

 現在三菱重工が開発中の70〜90人乗りの小型旅客機三菱リージョナルジェット(MRJ: Mitsubishi Regional Jet)機 に採用が決まっているP&W社のギヤードターボファンエンジン(Geared Turbo Fan Engine : GTF)、PW1000Gの先駆けのようなものである。その後、P&W社は地道に計画を進め、今回のMRJ機のエンジンとして選定されたのであろう。基本コンセプトは変わっていないが、20年分の進歩が盛り込まれたものとなっているだろう。

 話がちょっと横道にはいってしまったが、いずれしても受注競争に勝つためには、こうした「Project Study」で示された一連の設計作業を既定の開発期間中に実現させる必要がある。即ち「Proven Technology」 として具体化することが我々設計陣に求められる仕事となる。リスクランクをより確実な方向へ上げてゆくことは、通常の設計作業とは別に「開発設計」の面白さと厳しさを教えてくれた。

 3ヶ月ルールは、ある意味机上の計算であり、実際の優劣は、型式証明を得た後の初期商業運転後に現れる。この時期の評価は後の市場占有率に大きく反映されるので、最重要課題となる。

 私が得られる情報を元に、主要パラメータ10項目について競合機種との優劣を設計の立場で6年間(1987~1992)比較した表がある(全くの自前のものだが、お見せするわけにはゆかない)。
 最重要の「初期性能」では、当初負けていたが、ついに勝ち越した。だが、2年後にまた抜かれた、とある。「性能劣化」と「排気成分」については負け続け。勝ち続けた項目は「騒音」であった。振り返って云えることは、3ヶ月ルールの結果は、「Proven Technology」化を経て実機適用となり、それが市場に反映されると2~3年の周期で優劣に反映される、との認識である。

 当時のIAE(International Aero Engines)社の識者の言葉がある。
「この業界のcompetitivenessというのは、結局はシーソーゲームで何時の時点で見るかにより変わる。明らかに差が出れば売れなくなるので必然的に同じレベルに近づいてゆく傾向にある」と。
であるから「3ヶ月ルール」は延々と周期を変えて続くということなのであろう。

註1;
 国内のFAXは漸く普及された頃で、英国も事情は同じであった。調べたところ、RRと当方のFAXのスタンダードが同じだったために、通常の国際電話で試すと、これが大成功。それまでは、テレックスで工夫をしていた図の伝送が可能になった。また、CADデータの通信も同様な手段で日英のCADデータ交換が始められた。この事実は、当時の学会で評判となり、その後他方面からの講演依頼があった。

参考、引用元
http://en.wikipedia.org/wiki/Portland_Square,_Bristol
http://ja.wikipedia.org/wiki/RJ500_(エンジン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/FJR710_(エンジン)
幸運にも、当時は当方とRolls-Royceが同じCADシステムを使用していた。しかもバージョンまでも同じとは驚きであったが、その為にエンジン断面図に現れる全ての形状はCADデータで定義することとした。それらを電送システムで適宜交換することで、インターフェイスに関するトラブルは、こと寸法に関しては全く心配が無かった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/スネクマ
http://www.snecma.com/?lang=fr
http://ja.wikipedia.org/wiki/CFMインターナショナル_CFM56
http://ja.wikipedia.org/wiki/MRJ
http://www.mrj-japan.com/j/index.html

ジェットエンジンンの設計技師(2)第1話 開発中の迅速な危機管理

2020年12月29日 08時24分24秒 | ジェットエンジンの設計技師
ジェットエンジンンの設計技師(2)
作成日;H26.4.27 KTR44271
改定日;2020.12.29

第1話 開発中の迅速な危機管理

 新型エンジンの開発はその競争の激しさと市場からの要求の厳しさの故に、設計手法(特に信頼性設計とコスト、調達面などの分野でのグローバリズムに優れている)と開発方法の面で世界の最先端を行くものと思われる。その中にあってのChief Designer やChief Engineerとしての経験からは、国内にあっては望むべくもない多くのものを学ばせてもらった、と述べた。40年間を振り返って最も重要視すべきは、開発期間中の危機管理の実例であった。大きな開発には、必ず終盤に成否を左右する危機が訪れる。件の日英米独伊の5カ国共同開発中のV2500エンジン が、多くの関係者の共通認識として、「このまま計画を進めても型式承認が取れないのではないか」と考えた時期がそれである。

 問題の発端は、Rolls-Royce社が担当をしていた高圧圧縮機なのだが、その前にRolls-Royce社の過去の危機管理を紹介しよう。当時のRolls-Royce社 は「Rolls-Royce1970」という名称で呼ばれたていた。それ以前に開発していた米Lockheed 社 の3発機L-1011トライスター(Tristar) 用のエンジン開発が約1年遅れただけのダメージにより経営が悪化して、1970年に国有化されていた企業であった。つまり、新型エンジンの開発はそれほど危険なものなのだ。この失敗を教訓に十数年後に見事に復活したRolls-Royce社の話は、別途語ることにして、今回はV2500に絞ろう。

新型エンジンの開発は、その開始条件として有力なエアラインの確定受注が前提であり、V2500も既に多くの受注を抱えていた。


V2500 http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml

 V2500エンジンは、当初日本の参加を梃子に全日空からの受注に大きな期待を寄せていた。しかし、その期待は見事に裏切られた。
 また、最大の顧客であったLufthansa(LH)による契約キャンセルの動きが、年明け早々風雲急を告げ、LHとの打合が繰り返され、LH がV2500に止まる為の最終条件として提示された項目について、フトハンザの契約を維持すべくあらゆる手段が講じられた。
この為に設計部隊にも多くの追加要求が出された。
しかし2月、LHはV2500契約のキャンセルを発表した。



 そのことは、1987年の初頭に突然起こった。5年間以上も苦労を重ねた開発エンジンの型式承認の大ピンチである。Rolls-Royce社の技術陣は匙(さじ)を投げてPratt & Whitney社 に下駄を預けてしまった。この時Pratt & Whitney社がどのような危機管理を行ったかは、永遠の教訓であろう。それは、4週間で問題にケリをつけた見事な危機管理体制とDecision Makingであった。そして私は、日本チームのChief Designerとして最も大きな影響を受ける部分の設計責任(註1)を負うことになったのだが、概略はこのようであった。

 危機管理非常体制下の活動は1週間単位で4つに分けられる。つまり、アサインされた責任者が分析をして具体案を決め、会社のTOPがそれを理解して決断を下すというサイクルが、1週間単位で4回繰り返され、見事に危機脱出計画が纏(まと)まったということである。

○ 第1週は、危機管理宣言と指導者の任命に始まり、Current Status Investigationが綿密かつ公平に行われた。そして週末には、Approach & Strategy の明示と共に Recovery Mission の合意と決定を行った。
○ 第2週は、Problem Item Definition と Risk Level Allocation である。会社は直ちに解析作業に必要な人材の提供を行った。そして週末には会社TOPに対して項目別の Risk Level の報告が行われた。

○ 第3週は、Goal と其処(そこ)へ至る Mile Stone の設定である。そしてそれに添った Program の立案と必要な Resource (Cost & Man Power) の算出が行われた。週末にTOPに対して、Program/Resource の報告が行われ、それに対してTOPは直ちにProgram の承認と Resource の保障を行った。

○ 第4週は、新たに補強された実働 Member により、誰が何をどのように何時までに実行するかの計画と Open Issue の確認が行われた。そして、全パーティーがそれに添っての活動を全速力で進め始めた。

 1987年3月27日に責任者のTom Harper氏が纏(まと)めた「V2500 RECOVERY」というたった20枚の報告書がある。

 ・Current Status
 ・Configuration Review
 ・Development/Certification Program
 ・Compliance/Production Program
 ・Open Issue
というセクションで簡潔に纏められている。

 この中でApproach/Strategy の項では、4段階のリスク・レベルに対しての記述になっており、各国が担当する部分のリスク・レベルの段階的な低減スケジュールが示されている。この報告書をスタート・ラインとして、それから約1年余りの死闘が始まったわけであるが、その中身は別の機会に譲るとして、5カ国7社が短期間に Best と思われる解決策を纏められたことは素晴らしい危機管理能力と云える。中でも特筆すべきは、次に述べる「Single Company Policy」と、「経営トップの素早いリソース決断」であった。

「Single Company Policy」
 Tom Harper氏のいつも口にする言葉は「a Single Company Policy」であった。
 今でも当時の設計仲間との付き合いが所属の会社に拘わらず続いているが、当時から「デザイン・コミュニティー」とか、「シングル・カンパニー・ポリシー」という言葉を頻繁に使っている。開発が旨く進まなかった時や、不具合をどう直すかなどを議論する会議では「ビジネスの連中は、誰の責任だ、追加の資金はどこが持つか、などといっているが、我々設計技術者は一つの会社・一つの家族の精神で乗り切ろう」というものです。これを言い出したのは米国人で、ピュリタニズムが健在なりと感じました。多国間の共同開発事業の成功の一つの秘訣だったと思う。

「経営トップの素早いリソース決断」
現状の設計の評価と、変更案の検討は各国のChief Designerが額を寄せ合って検討をするのだが、設計部隊は各国に残っている。時差の関係で、24時間連続して作業は進められるが、トップの決断を待たねばならない項目が多数存在する。しかし、それらは総て週末の間に決断が下された。この、1週間単位の仕事の中味の配分と、週末の間に正しい決断を下すトップの機能には、日本では考えられない論理性とスピード感があった。

「驚くべき偶然性を孕(はら)んだ後日談」
 しかし、当時の危機管理はそれだけではなかった。この話には、驚くべき偶然性を孕(はら)んだ後日談がある。
 V2500エンジンは正確な Recovery Plan の末に無事当初の予定通りに型式証明を取得し、商業飛行も順調で売れ行きはうなぎのぼりに上昇し、現在では歴史的なベストセラーエンジンにまで成長をした。しかし、件のTom Harper氏はその後まもなくPratt & Whitney社を離れて同じUTC(United Technologies Corporation) 内のエレベータで有名なオーチス社 へ移った。そして、まもなく消息が切れた。Texasで念願のカウボウイになったと云う人もいる。

 1999年のある日、私はナポリの空港にいた。1週間にわたるカプリ島でのFIAT社が幹事のGE社の品質に関する会合からの帰途であった。金曜日の午後であり、欧州勢は一目散に帰宅、アメリカ人の多くはご婦人同伴でスイスやオーストリアへ向かった。私はパリ経由の成田行きに乗るためにアリタリア航空のゲートにいた。しかし、待てど暮らせど来ぬアリタリア機は結局パリが悪天候でキャンセルとなってしまった。
 覚悟を決めてカウンタでの交渉が始まった。先ずは、フライトの交渉。アリタリア氏は週末のヨーロッパ各地発はJALもANA も全て満席で、たった一席だけフィレンツエ発のアリタリア便のみが予約できます、とおっしゃる。午後遅くの出発便なので、少なくとも半日はフィレンツエ見学ができるぞ。次は宿。ナポリはスリが多く一人歩きは危険だ、早朝フィレンツエに向かうには空港のそばが良い。アリタリア氏は空港から程近いホリデイインを取ってくれた。
 ヴェスヴィオス山を見ながらレストランで早めの夕食を採ることにした。客は私一人だけ。しばらくして、2人ずれの米国人が私の後ろに席を取って食事を始めた。聞くとは無しに話し声が耳に入る。Tom Harper氏とかV2500とか言っている。思わず振り向いて食事はそっちのけで飲みながらの話が弾みだした。彼らは、米国南部に居を構えるコンサルタント会社の人で何と当時Tom Harper氏から「V2500 Programから撤退するときのシナリオの作成を頼まれていた」そうである。これが、本当の危機管理である、見事なものだ。



 余談はまだある。当時この話を知った三菱重工の某部長さんが後日彼らを雇った。三菱重工が米国での機体の商売から手を引く時に雇われたそうだ。
 話に夢中になった私は、名刺入れも持ち合わせず、財布の中の予備の名刺を渡した。食後の散歩を終えて部屋に戻った私は、愕然とした。財布がない、ここはナポリだ、最悪だ。散歩ですっかり酔いは覚めたが、血の気が引くとはこのことだ。公園で子供たちのグループと話したときに、ひょっとして後ろで、などと後悔しきり。とにかくあわててフロントへ小走りで近づくとイタリア氏がにこにこしている。こちらが話し出す前に私の財布を目の前に出してきた。「さっき貴方と食堂で一緒だったアメリカ人が届けてくれました」。ああ、ホリデイインで良かった。アリタリア氏に感謝、感謝。そして、危機管理の大切さを改めて認識した次第でした。


(註1)この時の設計変更はエンジン全体に及ぶものであったが、中でもRolls-Royce社が担当の高圧圧縮機の仕事の一部を受けもつことにした日本の低圧圧縮機の設計変更は大作業であった。圧縮機の段数を増やすのだが、既に機体とのインターフェイスは全て決まっていたので、エンジンの全長はおろか、重量や重心位置も動かすことはできない。この設計変更は、Pratt & Whitney社の空気力学の専門家も加わったが、短期間で成功裏に完成したことは、日本の設計技術者の「与えられた課題にたいする回答を素早く完成させる能力」の真骨頂であった。

参考と引用元;
V2500は2軸式の高バイパスターボファンエンジンである。エアバスA320ファミリーとマクドネル・ダグラスMD-90向けに開発された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/V2500
 http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml
 http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml
http://www.rolls-royce.com/
1995年の合併でLocheed Martin社。 http://www.lockheedmartin.com/
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロッキード_L-1011_トライスター
http://www.pw.utc.com/
http://ja.wikipedia.org/wiki/ユナイテッド・テクノロジーズ
http://www.utc.com/Home
http://www.utc.com/Home
 日刊工業新聞(S63.1.12)


ジェットエンジンンの設計技師(1)はじめに

2020年12月28日 08時57分48秒 | ジェットエンジンの設計技師
ブログ原稿 ジェットエンジンンの設計技師(1)
作成日;H26.4.26 KTR44261
Reviewed; 2020.12.28

はじめに

 私は大学院では伝熱工学を専攻し、その縁で民間航空機用エンジンの設計に憧れて就職し、以来40余年その思いを貫くことができた。その大部分は世界最先端の民間航空機用エンジンの国際共同開発プロジェクトであった。協働(Cooperation)の相手は、米国のGeneral Electric とPratt & Whitney 、英国のRolls-Royce などこの業界でのビック3といわれる会社だった。

 新型エンジンの開発はその競争の激しさと市場からの要求の厳しさの故に、設計手法(特に信頼性設計とコスト、調達面などで優れていると思われる)と開発方法の面で世界の最先端を行くものと思われる。その中にあってのChief Designer やChief Engineerとしての経験からは、国内にあっては望むべくもない多くのものを学ばせてもらった。数えてみると、設計や技術に関する大小の国際会議を千回以上経験したようだが、最初の数十回の間に、「この分なら10年後には追い付き、20年後には肩を並べることができるであろう」と、このビジネスに密かな野望を抱いた。

 理由は幾つかあった。第1に若い技術者の人材の優秀さであった。日本では優秀な学生が毎年必ず多数仲間として増えるのだが、米英の事情は全く違っていた。どの会社でも、有名な理工系大学の卒業生の新卒は皆無であった。米英ではこの産業が若い技術者にとってそれほどに魅力があるとは云えなかったからであろう。第2は会社組織の違いだった。日本の場合にはジェットエンジン3社と呼ばれる、IHI 、KHI 、MHI はいずれも重工業で幅広い研究と製造の経験を手の内に持っているのだが、英米ではエンジン専門の会社になっている。ジェットエンジンは熱機関の一つであるが、その設計、開発、製造に必要な知識と経験は多種多様であり、最終的には総合力の差が現れるものだ。過去の経験では及ぶべくもないが、将来性はむしろ有利であると考えてしまった。つまり、資本やリソースの面でも重工業を背後に持っているものが有利だと感じていた。そして、何よりも当時の日本は高度経済成長の真っただ中にあったからだ。
 今から考えると、これらすべては若気の至りの一言に尽きるようで、残念至極。

 私が航空機用エンジンの分野に入ったのは1970年、丁度、通商産業省(現:経済産業省)の「大型プロジェクト」と称するスキームで、長年浪人生活を余儀なくされていた「民間航空機用エンジンの研究開発」に予算が付いた初年度であった。勿論、それは偶然ではなく、大学院での研究生活中にそのことを知り、急遽(きゅうきょ)、就職希望先を変更してのことであった。

 プロジェクトは、10年間で段階的に3種類のエンジンを設計して試作し、性能を確かめるもので、最終的には成功の暁に国産の島嶼(とうしょ)専用の短距離離着陸機や哨戒機に搭載すると云う野心的なプロジェクトであった。
 
最初のFJR710/10型では、中型機を飛ばすことに必要な推力を持つエンジンをとにかく廻すこと。3年後のFJR710/20型は、熱サイクルの圧力と最高温度とを世界的な水準にまで高めて、性能面での能力を実証すること。ただし、重量は問わないという条件であった。 さらに3年後のFJR710/600型は、性能と重量の両面で世界水準を実証すること。

そして最後のFJR710/600S型は、当時の航空自衛隊の輸送機を改造した「飛鳥(あすか)」と呼ばれる試験機に4発を搭載して、短距離離着陸の飛行試験を行うことであった。


FJRエンジン
 東京大学大学院工学系研究科航空宇宙工学専攻ホームページより
http://www.aerospace.t.u-tokyo.ac.jp/overview/facilities.html


短距離離着陸(STOL )試験機「飛鳥」に搭載された FJR710/600S
http://ja.wikipedia.org/wiki/FJR710_(エンジン)

 このプロジェクトは、人数も予算も期間も今から思えば大胆な計画であったが、全ての設計条件をクリアーし、通商産業省「大型プロジェクト」の一番の成功例として、その後、長く伝えられることになった。私の職掌(しょくしょう)は、/10型では高圧タービン部分の研究と設計の担当であったが、/20型以降は全体設計の取りまとめの様な役割であった。

 そして、FJR710/600S型の設計の最中に、突然Rolls Royce社からSir スタンレイなるこの世界の大御所が訪日されて、日英共同開発のプロジェクトを提案された。その提案は直ちに、通商産業省と日本のエンジン3社(IHI、KHI、MHI)に歓迎されて、調査チームを編成して共同事業の可否を調べることになった。私は技術チームのリーダーとして、一年余りの間Rolls Royce社の工場に隣接するMein Office内に一室を与えられ、新エンジンの設計と開発とに関する全てを学ぶことになった。そして以後約20年間にわたって、この世界に従事することになった、これが始まりである。

 それからの約20年間は、民間航空機用エンジンの国際共同開発にどっぷりと漬かった期間であった。その間に既に世界中の空で2000機以上が毎日飛びまわっているAirbus A320機やMD90機に搭載されているV2500エンジンや、現在でも世界最大の推力を誇るGE90エンジン(Boeing777機に搭載)などの日本側分担部の設計部隊のチーフを務めた。

 これらは、ともに単なる新技術を用いた改善ではなく、設計手法を含む大きな改革の成果であり、航空機用エンジンのイノベーションとも云えるものであった。そのことは、1980年代までは米国や欧州に行くためには、必ず途中(アンカレッジやモスクワなど)で燃料補給のために1回以上の離着陸を余儀なくされていたが、エンジンの飛躍的な燃料効率の向上で、同じ機体(例えばジャンボジェット)で世界中のどこへでもノンストップで行けることが可能になった。このためにビジネスマンの出張のパターンが大きく変わったことなどである。

 また、当時はエンジンが4機装備されたジャンボなどでなければ、太平洋横断はできなかったが、設計と製造の信頼性の向上で、現在では2発機で世界のどこにでも直行できる。エアラインの収益向上にかなりの貢献だと思う。
 しかし、技術力の進歩とは裏腹に、ビジネスとしての期待は全く外れてしまった。40年が経った今でも、日本のメーカーが世界に占める順位は全く変わりがなく、ビック3もそのままである。その事実は、世界を相手に活躍をしている自動車や電機産業に比べて(過去に遡れば、繊維、鉄鋼、造船、精密機械など枚挙にいとまがない)肩身の狭さを感じている。そのことは、始まって丁度20年後に開発プロジェクトのChief Engineerを卒業するときに強く予感したものだった。理由は色々あるが今はそれらのことは本稿の問題ではない。以降の私はそれ以前に学んだ事柄の専門度を高めることに興味を覚えた。すなわちビジネスを離れた設計論や技術論である。
 20世紀の最後の20年間は、他の世紀末と同様に世界が大きく動いた20年間であった。その中にあって航空機エンジンの世界には、冷戦の終結が大きな影響を与えた。ビック3の売上高は直後の数年間に亘って大幅に落ち込み、優秀な若い人材は他の産業分野へ転籍し、研究に対するリソースも大幅に減ってしまった。

 この間の世界の主要メーカーの売上高の推移を2つの時代に分けて図に示した。1990年をピークに急激に落ち込み、ほぼ5年後から急激に増加に転じた様子が明らかに示されている。




しかし、日本の場合には幸いにして、(別の観点からは、危機意識が共有されずにズルズルと時を過ごした不幸とも云える)この影響は皆無であった。民間エンジン関係は通常の景気の波による増減はあったが、官需は安定した長期計画に沿って比較的平静が保たれていた為である。このことも、夢の達成への一つの根拠であり、チャンスであったと当時は考えていた。

 一方でこの間にビック3の経営は、ビジネス面と技術面で大きな改革と進歩を遂げることを余儀なくされた。それは、組織形態にはじまり、シックス・シグマ などの代表される様々な改善手法の適用、調達方式の見直し、エアラインにとって魅力的な規制緩和への努力の集中など枚挙にいとまがない。

 我々は、世界最先端の競争の真っただ中にある開発機種に常に参加を続けたことで、その全てを実際の現場で経験することができた。この時期ならでの幸運であったと思わざるを得ないのである。

 例えば、一世を風靡(ふうび)したシックス・シグマについても、丁度、ジャック・ウエルチ の最盛期であったのだが、いち早くGE社のブラックベルト やその指導員(チャンピオンと呼ばれていた)との直接対話を重ねることができた。

 また、BPR(Business Process Re-engineering) についても、彼らの反応は早く、しかも徹底している。それらについても同時進行の渦中にあって、良いものは取り入れ、日本人の感覚では疑問に思うもののその後の推移などを知る機会も得た。その様子は、遠い昔の飛鳥や奈良時代の日本文化の基礎ができつつあるころの時代の流れを思わせるほどのものであった(これは私の趣味)。

 現在の私は、その後の10年間の変化も含めた設計論を博士論文として纏めたことを最後にこの業界から去ることになり、日本工学アカデミーという組織の中で始められた「根本的エンジニアリング」(http://meta-eng.seesaa.net/)というエンジニアリングの研究を経て、メタエンジニアリングという新たな考え方の研究に楽しみを見出している。航空機エンジンの開発設計に通じるものがあるとの確信の故でもある。

40年来の旧友の勧めで、この様な文章を書き始めることになったのだが、どんな方向へ進んで行くかは未だ確定はしていない。しかし、開発途中の危機管理、初期品質の安定設計法、長期安定調達方式の色々、ライフサイクルから求められる設計パラメータの評価法、品質管理に対する考え方の推移、技術組織のサイクル的な変化など、他の産業分野や技術者の参考になるようなことを、一話ずつ区切って纏めてみようと思う。

 最後に本稿を始めるにあたって忘れてはならないことを述べておきたい。それは1970年前後に始まる当時の通商産業省の皆さんから我々が受けた長期間にわたる配慮に対する感謝である。勿論、私意ではなく、この産業を将来の日本の柱の一つにしたいとの思いからなのだが、私はこの期待の半分も果たせなかったと思っている。その償いの一つとの思いから当時の記録の自費出版などを続けている。
 また、本稿のはじめの数回分は、私の原文に対して旧友の前田勲男君(戦略経済研究所を主宰)が加筆・校正をしたものに、いくらかの訂正を加えたものであることをお断りしておく。

注記および引用元;
http://www.ge.com/
http://www.pw.utc.com/
http://www.rolls-royce.com/
http://www.ihi.co.jp/index.html
川崎重工業 http://www.khi.co.jp/
三菱重工業 http://www.mhi.co.jp/
「Six Sigma / 6 Sigma」 各種の統計分析や品質管理手法を体系的に使用して、製品製造やサービス提供に関連するプロセス上の欠陥を識別・除去することにより、業務オペレーションのパフォーマンスを測定・改善する厳格で規律ある経営改善方法論。シックスシグマは、もともとは1980年代初頭に米国モトローラ(Motorola, Inc.)が生産プロセスを改善するために開発した手法で、当時圧倒的な競争力を誇っていた日本メーカーなどで実施されていたQC/TQCを研究して生み出された。なお、「Six Sigma」は米国モトローラの登録商標である。http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/sixsigma.html
John Francis Jack Welch Jr.(1935年〜)は、米国の実業家。1981年から2001年にかけて、GE社の最高経営責任者を務め、そこでの経営手腕から「伝説の経営者」と呼ばれた。
Black Belt 社内のシグマシックス・プロジェクトの推進リーダー。
 企業改革のために既存の組織やビジネスルールを抜本的に見直し、プロセスの視点で職務、業務フロー、管理機構、情報システムを再設計するという経営コンセプトのこと。「ビジネス・リエンジニアリング」「リエンジニアリング」ともいう。この考え方は、1990年に元マサチューセッツ工科大学教授のマイケル・ハマー(Michael Hammer)がHarvard Business Review誌に発表した論文が最初とされる。http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/bpr.html




冬至そして乃東生(夏枯草が芽を出す,冬至の初候)

2020年12月25日 07時55分27秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
冬至(12月22日から1月4日ころまで)

木が裂ける



木が裂けるということを知った。地面が雪に覆われ、天気は快晴、気温はぐっと冷え込む。そんな日に そのことが起こった。太い唐松の幹が数メートルに亙って縦に裂けたのである。木の皮一枚で、かろうじて全体を支えている。
これを見つけたのは、夕方の散歩の帰りだった。ふと見ると、真っ白な幹の中心部が見える。そして、あろうことか我が家の屋根に向かって倒れかかっている。夜中に風が吹けば我が家の屋根を直撃するだろう。



幸い管理センターに知らせると、すぐに泉郷の人が駆け付けてくれて、土地の所有者に話をして、数日のうちに伐採するという。聴くと、倒木の被害は時々あり、この場合は、幹に蓄えられた水分が急に凍結してはじけたそうだ。
伐採の時は見逃したが、次の来訪時には無事問題は片付いていた。
 
乃東生 (夏枯草が芽を出す,冬至の初候で、12月22日から26日まで)
もち米を蒸す



 年末の寒さの中での餅つきは一苦労だ。先ずは、コメを蒸すこと。庭の中央の焚火にせいろを載せて一時間も焚き続けても、コメの芯はまだ堅い。新聞紙を巻き、銀紙で更に巻き2時間近くかかって、ようやく餅つきの準備が出来る。そして、早くつきあげないと米は見る見る冷たくなってしまう。風が全く無い、小春日和の日にである。だから、年末の餅つきはめったに実現することはない。それでも、つきたての餅を一気に食べる楽しみは、続けたいことだと思う。
臼の下に丈夫な木枠を敷き、四方を杭で止める方法は友人の元通産官僚のF氏から教わった。これはすこぶる具合が良い。臼の底が汚れないのはもちろんだが、下の石で傷ついたり、一方が地面にめり込んだりと云った心配は無用で、横にずれたりもしない。臼の里には、色々なサイズの杵があり、子供用の杵をおまけでくれた。これも大層重宝している。子供には丁度良いし、つく前の米をこねるのにも良い。

八ヶ岳南麓の20年前と今 雪の日

2020年12月11日 13時34分34秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
八ヶ岳南麓の20年前と今
大雪(12月7日から21日ころまで)
雪の日(2001年)



 一紀荘が完成した冬に雪が降った。この区域では 家の周りに塀を作ることは美観上禁止されている。まだ、両隣りには家がないので、雪が積もると、隣と云わず、道と云わず境目が全く分からなくなってしまう。せめてお隣との境には植木が必要だ。
 雪は、全くのサラサラなので、風が吹くと舞う。屋根から落ちる雪を見て、上が完全な青空なのにどうして降り止まないのかと思うことも度々だ。雪の後の青空は、本当に濃い青になる。紫外線が強いので、写真に写すとなおさらだ。畑仕事をする人の顔は一年中陽に焼けている。
 しーんと静まりかえった辺りには、人の気配は全く無い。時々「ばきっ」と木の裂ける音が不気味にするだけである。
最近は、12月に雪が降ることはめったにない。お隣との垣根もそこいらじゅうで見かけるようになった。最初は、「うちは、庭で犬を放し飼いにしますので」ということだったが。

八ヶ岳南麓の20年前と今, 虹蔵不見

2020年12月10日 09時30分47秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
八ヶ岳南麓の20年前と今
虹蔵不見 (小雪の初候で、虹が見られなくなる11月22日から26日まで)
あられ


八ヶ岳の南斜面では、あられと風花が良く現れる。山の上昇気流で冷やされた水蒸気が、時々の条件によって、色々な形になって南側に流れながら落ちてくるのだろう。我が愛車は、まだ大きな雹(ひょう)の被害に合ったことはないが、この程度の霰(あられ)には、度々出会う。
 この季節には、小雪がひらひらとまるで、桜の花びらが散るように舞いながら落ちてくることがある。
そんな時は、南の空は晴天で、八ヶ岳からは北側から押しされた雪雲の先頭が僅かに顔を覗かせている。気温が低ければ、雪の結晶もゆっくりと観察することができる。落ち葉の上の霰も、なかなか解けないで形を保っている。

朔風払葉 (小雪の次候で、北風が木の葉を払いのける11月27日から12月1日まで)
雪の日の太陽


 一紀荘の難点の一つが、朝日が見えにくいことだ。北岳が朝日に輝いてから、我が家のベランダに陽が射すまでには相当の時間がかかる。冬になると東側の唐松林の葉が全て落ちるので、木々の隙間から朝日を見ることができる。雪の日の朝に新聞を買いに山を下ると、凍りついた空気の中に光の粒子が見えるような景色に出会うことがある。

そういえば、数年前まではこのような時には、必ずリスが数匹ちょろちょろと走っていた。最近は足跡も見かけることはない。この十年間で別荘の数は飛躍的に増えて、永住する人はかつての数倍になったと思われる。最近は、売れ方がぱったりと止まっているようだが、家の数はもうこれ以上増えてもらいたくない。動物たちもそう思っているのだろう。