生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(133) ワールド・カフェ

2019年07月30日 08時00分54秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(133)

TITLE: ワールド・カフェ

書籍名;①「ワールド・カフェをやろう」 [2009] 
著者;香取一昭、他 発行所;日本経済新聞出版社
発行日;2009.11.12

書籍名;②「ワールド・カフェから始める地域コミュニティづくり」 [2017] 
著者;香取一昭 発行所;学芸出版社
発行日;2017.11.20

初回作成日;R1.7.25 最終改定日;R1.




このシリーズはメタエンジニアリングを考える際に参考にした著作の紹介です。『』内は,著書からの引用部分です。

 ワールド・カフェとは、1995年経営コンサルタントのアニータ・ブラウンとデイビッド・アイザックスによって考案された。カフェは、1768年にパリで初めてできたが、次のようなその特徴を引き継いでいる。
この二つの書は、表題に関する著作だが、「多様化し、複雑化する社会問題への異業種連携による対応」について、ワールド・カフェ以外の手法についても述べている。

『カフェがつくるそうした場は、他の場とどこが違うのでしょうか?カフェには次のような特徴があるのだと考えます。
・人間関係が対等である(地位の違いや、年齢の差が持ち込まれない)
・職場や家庭では出会えない人に出会える
・自由参加である
・参加者が主役である
・言いたいことが言える(ふと思ったことでも言える)
・オープンである(開放性)
・知識や価値が創造される』①(pp.4)

 つまり、リラックスした雰囲気の少人数の会話から、集合知を生み出す手段となっている。
開催は、日本よりも諸外国が盛んで、学会、研究会、地域コミュニティ、企業戦略、ビジョン作成などの場で広く使われている。

 ディスカッションとは、根本的に異なる「ダイアローグ」の場としての特性を引き出すもので、その違いを次の9つの観点で纏めている。( ディスカッション;ダイアローグ)

① 前提 自分が正しいと主張:誰もが良いアイデアを持っている
② 態度 戦闘的:協力的
③ 目的 議論に勝つこと:共通の基盤作り
④ 聴き方 反論を組み立てる:相手を理解し、意義を見出だす
⑤ 主張 自説の正しさ:再評価のための機会
⑥ 評価 相手を批判:すべての立場を再調査
⑦ 自説の扱い 自説の主張:自分の考えの改善
⑧ 相手の評価 欠点と弱点探し:相手の強さと価値を探す
⑨ 結論 自への説是認を求める:新たな選択肢を見出だす
』①(pp.185)

 その違いは、スタートの方法にある。
『両者の最もきわだった違いは、ディスカッションが相手を論破して自分の考えを通そうとするのに対して、ダイアローグでは相互理解を深めようと、相手の考えの背景を理解しようとするという点にあります。』①(pp.225)

・越境リーダー
 
『「越境リーダーシップ」とは、“想いを持った個人が既存の枠組の境界を越えて、社内外の必要なリソースとつながり新しい社会的な価値をつくる行為”のことです。そのような行動をとっている人を「越境リーダー」と呼んでいます。イキイキとした地域コミュニティにおいては、異なる組織に属する人が共通の目的を持って力を合わせて地域課題の解決に取り組んでいます。
一つの企業、自治体、NPO など個別組織だけでは取り組むべき地域課題を解決できないので、組織を超えた協働、共創による価値創造や課題解決が必要とされるようになり、越境リーダーシップが日本社会の様々な場所や機会で求められています。しかしながら、内側に閉じる傾向の強い組織で働いている人は、なかなか組織を超えた協働は難しいようです。』②(pp.33)

 日本における初期のプロジェクトは、次のようなものだった、とあります。

 『越境リーダーシップ・プロジェクトを産学連携で設立したのは、2012年10月のことでした。自分の想いを起点として越境し、社会の課題を解決する事業を共創することで、社会的なインパクトをもたらす「生き方(職業人生)」に挑戦する企業内個人の支援に取り組むプロジェクトを 進めてきました。』②(pp.34)

・OTS( Open Space Technology)

『OTSでは、参加者が検討したいテーマを提案し、それに賛同する人が集まってチームをつくり話し合います。その結果、テーマに対する理解が深まり、具体的なプロジェクトが生まれやすいのです。
ワールド・カフェの場合は、主催者がテーマを「問い」という形で提示して、それについて参加者が話し合いますが、OTSの場合は、参加者自身が話し合うテーマを決めるという点が大きな違いとなっています。』②(pp.110)

つまり、ワールド・カフェとの基本的な違いは、

 『OTSでは、参加者の内発的な動機から提案したテーマについて話し合いが行われるので、検討が深まり、具体的なプロジェクトや行動に結びつきやすいというメリットがあります。
従って、ワールド・カフェでテーマに関する理解を深め、具体的なアクションを導くためにOTSを実施するという組み合わせがよく行われています。』②(pp.111)

・フューチャーサーチ

 ワールド・カフェへの追加項目として、「フューチャーサーチ」という手法が挙げられている。

『過去を振り返る;検討するテーマにとって重要と思われる過去の出来事を参加者全員で年表に書き込みます。年表は過去10~20年をカバーし、検討対象となる組織など(ローカル)、検討対象となる組織を取り巻く環境(グローバル)、および参加者(個人)の3枚の年表が用意されます。』①(pp.224)

次に現在について探求し、さらに理想的な未来のシナリオを思い描く。

 次に、MECIサイクルのConvergingに相当することを行う。
『モングラウンドを発見する; 各グループが発表し、演じた「理想的な未来のシナリオ」に込められているビジョンについて、共通のよりどころになると思われるものを抽出します。その際、合意できないものは深追いせずに、合意できるものだけに絞って話し合いを行います。』①(pp.226)

最後に、MECIサイクルのImplementingに相当することを行う。
 『アクションプランを作る; 抽出したコモングラウンドに基づいて、理想的な未来を実現するために必要なプロジェクトを考えついた参加者が提案し、それに同調する参加者とアクションチームを編成して、フューチャーサーチ終了後も活動を継続します。』①(pp.228)

 このように並べると、ワールド・カフェはメタエンジニアリングのMECIプロセスのMとEの部分を行い、Convergingの初期段階に踏み込むまでをカバーするともいえる。しかし、きちんとした結論を出すにはダイアローグだけでは不足で、当然しかるべきディスカッションを経なければならい。

メタエンジニアの眼シリーズ(132)「多文化世界」 

2019年07月29日 13時14分15秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(132) 
          
TITLE:  「多文化世界」             
書籍名;『多文化世界』 [2003] 
著者;青木 保 発行所;岩波書店、岩波新書
発行日;2003.6.20
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、



このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です

 著者は、以前に同じ岩波新書から「異文化理解」という本を発行している。新たな著書の発行のいきさつについては、次のように述べている。
 『私が前著『異文化理解』を出したあと一続けていま新しく『多文化世界』という本を世に問いたいと思った背景には、こうした世界の加速する動きがあります。この二年間で世界が示した「亀裂」を深く受け止め、これが二一世紀の人間の生き方あるいは生きる方向に対してどういう影響を持つのか、あるいは私たちは、どういう名目であれ人間を殺戮し文化を抑圧するような「野蛮な世界」から、どうやって抜け出せるかということが、非常に大きな問題として自分の中に出てきました。『異文化理解』で展開した世界の次の段階の問題として、『多文化世界』というものを考えるに至ったのです。』(pp.26) 

 1990年代の世界の変化について、文化的な見地から次の様に述べている。
『九〇年代初めにソビエト体制が崩壊しますと、イスラム系の民族を有する五つの国が独立しました。その結果として、中央アジアにはウズベキスタン、カザフスタンなど前記五カ国があることが明確になり、いまではこうした国々もアジアの範囲として数えないとアジア全体がよくわからないようになっています。たとえば、政治的にも、アフガニスタンでの作戦のときにアメリカがキルギスに基地を設営したことによって、キルギスは一挙に世界政治の舞台に現れました。
こうした国たには、明らかにロシアの文化とも、中国の文化とも違う文化を持っている人たちがいることがわかりました。しかも、歴史的にはアフガニスタンやインド、中国ともいろいろな形で接触を持ってきた地域であり、日本にとってはシルクロードを通って正倉院の御物にいたる文化を伝えてきた地域でもあったわけです。』(pp.8)

 つまり、21世紀は文化の多様化の時代であるべきなのに、グローバル化の流れの下では、むしろ一様化、画一化の方向に流されている。
 『文化の多様性と二一世紀
すなわち、世界を同じシステムにしようとするグローバル化の流れの中で明らかになってきたことは、「文化の多様性」の認識であるかと思います。人間の世界は、表面的には科学技術の発達を共有することによる共通化あるいは一様化という現象が加速されてきたように見えますが、同時に「文化の多様性」もまた根強く存在するということが云えるでしょう。グローバル化が進めば進むほど、文化の違い、価値の違い、生き方の違い、それぞれが目標とするものの違いも明らかになってきました。』(pp.25)

 さらに続けて、 
『本当に「文化の多様性」の擁護に敵対するものは、グローバル化による―元化・画一化であり、それによって生じる、人間と社会の個性の喪失、創造性の抑圧、個人の埋没を防がなくてはなりません。
政治的・経済的・宗教的な全体主義が世界を覆い、私たちの生きる社会を乾燥した無機質なものにしてしまうことがあってはならないと考えるのです。』8pp.26)

 「文化の多様性の擁護」については、国連ユネスコでも、G7の会合でもたびたび話題になっているのだが、一方では多くの民族や言語が消えてゆく。しかし、もっと深く人類の歴史を考えれば、純粋な民族も、純粋な文化も存在しない。

 『ただ、この際に注意したいことは、文化を考える場合、地球上のどこの文化でも「純粋な文化」は存在しない、ということです。グローバル化のなかで、反グローバリズムとしてナショナリズムが、日本も含めアジァア諸国やョーロッパでも高まっていたり、アメリカでも宗教原理主義のような形で現れたりしていて、そこでは 「純粋な民族」「純粋な文化」を主張する傾向がどこかで見られますが、そういったものは存在しないのです。 地球上の文化は、すべからくどこかで雑種化し混成化するもので、人類学者のレヴィ・ ストロースも、アマゾン奥地の非常に隔絶した地域でも、そこに住む人たちは近隣の他の文化の影響を受けている、と述べています。』(pp.36)

 社会思想家のサー・アイザック・バーリン(1909-97)は、次のように結論づけている。
『最終的解決という観念そのものはたんに実践不司能というだけではない。いくつかの価値は衝突せざるを得ないという私の考えが正しいとすれば、それは矛盾してもいるのである」。いろいろな価値があり、必ずしも価値は統合できないというのが人間の現実であるとすれば、「最終的価値」というのはそれ自体が矛盾している主張であることになります。
「最終的解決の可能性は幻想であり、しかもきわめて危険な幻想であることが明らかになるであろう。というのは、もしそのような解決が司能だと本当に信じるなら、それを得るためにいかなる犠牲を払っても惜しくはない筈ということになるからである」。人類を永遠に公正で幸福な、創造的で調和的なものにするためには、いかなる代償を払っても決して高すぎることはないという主張は、現実にそれが実行されたとき、非常に間違った危険な結果をもたらします。』8pp.110)

・文化力を社会全体で高める

  一例として、シンガポールが、商業と娯楽の都市から、文化都市に変遷するさまを次のように述べている。『シンガポールはアジアの都市の中では一挙に文化度を高め始めたと言えるでしょう。それまでは、国際会議場や情報センターはつくってきましたが、文化施設にはほとんど配慮がありませんでした。いま述べたような文化施設の建設や、さらに文化としての大学という考え方も加わって、シンガポールは限られた空間ではありますが、現在、文化度を高める方向への大転換を目の当たりにしているところなのです。
こうした動きは、北京でも、ソウルでも、クアラルンプールでもあります。』(pp.180)

 そして、最後には、文化力の高まりから、ソフト・パワーの話になってゆく。
『ユダヤ系を中心とした優秀な学者たちが、ナチスの迫害を逃れてョーロッパ大陸からアメリカの大学に来て、アメリカの大学を一挙に世界的なレベルに押し上げたということも事実だと思います。その押し上げられた状態をより発展させるために、第二次世界大戦後もアメリカの大学は内部的な充実、国籍にとらわれない人材の起用を行って、いまや世界の教育と研究のメッカになったのです。
それがどうしてソフト・パワーかというと、アメリカの大学にはアジアでも最も優秀な人材がそこに集まる事実があるからです。中国でも最も優秀な学生はアメリカの大学に行くと言われています。そういう人材がアメリカ的な大学システムの中で、アメリカ的な知識を得て、研究し、学業を修めて自分の国に帰ってくる。そしてアメリカ的なスタィルをどこかで発揮しながら、国と社会に影響を与えますから、この力は大変に大きい。さらにそれが「文化の力」となって世代ごとに蓄積されていくのですから、その影響力は巨大です。これは何といってもアメリ力が持っているソフト・パワーの最たるものです。』8pp.210) 

 このように諸表現を並べてみると、「多文化社会」という表現は、むしろ現状の固定化に拘るようであり、その行き着く先は、歴史的に見るとメジャーな文化の争いになる確率が高くなるように思えてくる。
やはり、明治維新に見るような「多文化理解」を広く進めて、自己の文化をより現実的な方向へと見直してゆくことが良いのではないかと思ってしまう。

メタエンジニアの眼シリーズ(131) 「啓蒙と迷妄」

2019年07月15日 13時23分45秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(131) 「啓蒙と迷妄」
             
書籍名;『科学思想史』 [2010] 
編者;金森 修 発行所;勁草書房
発行日;2010.7.30
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、


このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

 この書は、8人の著者によって書かれているが、いずれも編者とおなじ東京大学大学院人文科学研究科の博士課程を修了して、各地の大学に勤めている。それだけでも閉鎖的な印象を受けるのだが、概読して感じたことは、日本で人文科学が理系に比べて地盤沈下したことだった。人文科学は、どのテーマにしても、先ずは人類社会全体のことからスタートするべきと思うのだが、全て微に入り、細に亘るところから出発をしている。全体とし現代社会に与える価値が明確ではなかった。その中で、一つだけ注目したいテーマが取り上げられていた。そこについて述べる。

第4章「啓蒙と迷妄」―「百科全書」の科学項目に見る誤謬理論の歴史、井田 尚

 
 百科全書との日本語が気に入らないのだが、百科事典よりはまともに思える。18世紀に纏められたエンサイクロペディアの話だ。以前、これについて書いた。、西周(にし あまね)の「百学連環」だ。なぜ、この言葉が使われなくなってしまったのか、そこには日本のガラパコス性を感じざるを得ない。西は、英国のEncyclopediaを熟読し、そこから色々な知識を得たようだが、その語源をギリシャ語に求めて、「童子を輪の中に入れて教育なすとの意なり」としている。

 『百科事典を意味する英語 encyclopediaは、ギリシャ語のコイネーの"ἐγκυκλοπαιδεία"から派生した言葉で、「輪になって」の意味であるἐγκύκλιος(enkyklios:en + kyklios、英語で言えば「in circle」)と、「教育」や「子供の育成」を意味するπαιδεία(paideia パイデイア)を組み合わせた言葉であり、ギリシャ人達が街で話し手の周りに集まり聴衆となって伝え聞いた教育知識などから一般的な知識の意味で使われていた』
 「辞典」よりは、「全書」がまだましだと思って、読み進めた。

「はじめに」では、次のように著者の思いを述べている。
 『科学の歴史の中には、発見の成功例という歴史の勝者が織り成すメイインストーリーからこぼれ落ちる無数の失敗から、科学的進歩の障碍となった無知・迷信までもが含まれるため、それらの雑多な試行錯誤が混在する歴史こそが、あり得べき科学の〈全体史〉の姿であるはずだからだ。
誤謬や迷信といった「不純」な要素を排除し、歴史の勝者たる「大発見」の系譜を整合的に語る〈科学史〉にはもうひとつの欠落がある。〈科学史〉を執筆する科学者自身は、自らの学間上の立場を正当化しようとする操作によって、特定の学派や学説に有利な記述に陥るリスクが高いことである。むろん、あらゆる歴史というものは、それを語る者の立場を離れた無色透明の客観的な叙述ではなく、逆に歴史家本人の思想的な立場や歴史観を多かれ少なかれ正当化する党派的な側面を持つ。その意味では、科学史もまた歴史の一分野に他ならない以上、いかなる党派性も持たない科学史などあり得ないのかもしれない。』(pp.188)

 このことは、自然科学とは異なる人文科学特有の見かたのように思う。さらに続けて、
 
『十八世紀のフランスで作家・思想家ディドロと数学者ダランベールによって編纂された「百科全書」(一七五一ー一七七二、本文十七巻、図版十一巻、補遺五巻)は、学芸の諸分野において、世人の目に触れることが少ない専門家の著作や学術団体の浩潮な年報等の形で散在する膨大な人間知識を系統的に分類・整理し、実用に堪えるコンパクトなサイズにまとめた画期的な百科事典として構想された。興味深いことに、編纂者の一人であるダランベールの著書「哲学の基礎」によると、「百科全書」で実現が企図された「学問と技芸の全体的・ 合理的歴史」の主要な記述対象となるのは、「知識」、「臆見」、「論争」、「誤謬」という四つの観念ないし言説のカテゴリーであった 。』(pp.188)

 そこで、著者は現代の正統的(例えば、教科書に使われるような)な科学史を正面から批判している。
 『「百科全書」の科学項目で記述される知識や誤謬の歴史は、現代の正当的な〈科学史〉にはない。人間知識の表情豊かな多様性と、時と場所が違えば変わる「真理」の相対性を垣間見させてくれる点で、実に味わい深い示唆に満ちている。以下では、そうした「百科全書」の科学項目に見られる典型的な誤謬理論の数々を取り上げるとともに、それらの誤を当時の論争のコンテクストに置き直して捉えなおすことで、「百科全書」の科学項目の歴史的叙述の特色を浮き彫りにしてみたい。』(pp.189)

 つまり、「百科全書」の価値を、その広範囲な項目についての正統な叙述だけではなく、一つの項目に対する広範囲な意見を集め、さらに当時の社会状況と照らしながら記述しているところに見い出している。つまり、科学史をメタエンジニアリング的に捉えようとしているように思える。

 先ずは、「百科全書」の「序文」に書かれた文章に注目をしている。
 『「百科全書」の序論を改めて読んでみると、ダランべールやディドロが、「百科全書」における合理的歴史と現実の違いに意識的であったことが分かる。哲学史家ミシュル・マレルブによれば、人間知識の歴史を記述する「百科全書」には、広義の歴史としての「過去の事実の収集・記録」と、狭義の歴史としての「時間の中における出来事の理解」という、二つの意味がある。マレルブによれば、「百科全書」には、過去に獲得された知識を保存する「記憶」の役割に加え、現時点で知られている限りの人間の知識を、合理的に整理して同時代や未来に伝え、読者を啓蒙する「理性」の役割があり、「百科全書」における人間知識の合理的分類は、この二重の要請から生まれたという。』(pp.200)
 
 確かに、この書が纏められた中世から近世への過渡期には、色々な解釈が林立して、このような表現が必要だったと思う。現代では、すこし不思議な気もするが、もう少し立つとフェイクニュースの真偽判断ができなくなり、再びそのような時代になるのかもしれない。

 そこから、本論の「誤謬」についての具体的な紹介が始まっている。最初は、「酵母」という項目についてだった。ここだけで8頁を費やしている。要は、「言語の拡大適用による誤謬」というわけである。当時は、酵母の働きが、人間の生殖作用にまで及ぶとしていた。そして、その問題を列挙した後での結論は、こうなっている。
『以上のように、項目「酵母」では、酵母概念の日常生活における転用はもの喩えとして許容しながらも、人間の生体を扱う医学の理論や技術が問題となる場合に、化学という他の学問領域の用語である酵母概念を拡大適用することを、有害な濫用として批判しているということが分かる。』(pp.202)

 そして当時の結論が中途半端になってしまった原因を、「不正確な拡大適用を招く述語の不足」としている。
 『 では、なぜ項目「発酵」の執筆者ドーモンは、発酵の誤謬理論たる所以を理解し、人体の生理的機能の説明の大半から発酵の概念を排除しながら、消化の機能の一部に限定する形で発酵の概念の温存を図ったのだろうか。その第一の理由として考えられるのは、消化酵素を含む唾液、胃液、膵液などの消化液の作用による消化の原理の科学的な解明が完全には果たされていなかったという当時の科学的知識の限界であろ。消化液の組成と消化の原理が科学的に解明されていないために、消化のおおよそのメカニズムは理解しながらも、誤謬理論の名残を留める発酵という用語を、相変わらず説明概念として用いるしかなかったのだろう。  
』(pp.207)

 同じような解説が「炎症」についても述べられているが、詳細は割愛して、結論のみを紹介する。
 『項目「炎症」の執筆者は、炎症の理論の歴史的変遷を紹介している。それによると、古代人は、炎症が血液の停滞や充血に起因すると考えた。この古代人の説は、医学がガレノスとヒポクラテスの影響下に置かれた十八世紀間にわたって、装いを新たにしながら受け継がれたという。
十六世紀の初めに栄え始めた化学は、医学を一変させ、塩や硫黄などの化学用語を用いる学派が続出した。医化学派のことである。医化学派の台頭とともに、人体は蒸留器に変えられ、血液は塩や硫黄などの化学物質の貯蔵庫と化した。身体のあらゆる部位には分泌を担う酵母があり、実験室で観察される沸騰や発酵などの化学現象が人間の体内でも起きていると考えられた。パラケルススなどの医化学派は、あらゆる病気を血液の構成要素同士の自然に反した結合に帰した。』(pp.210)

 そして、著者の結論は以下のように示されている。
 『以上のように、項目「炎症」の執筆者は、炎症の原因をめぐる、古代人、医科学派、発酵論者、医物理学派、アニミストらの代表的な学説を紹介し、中でもシュタールによるアニミスムを最も有力な同時代の学説として紹介した上で、炎症を引き起こす原因は、「刺激感応性」と呼ばれる、霊魂とは無関係な物質的な原理だと思われる、と反論している。』(pp.214)

 「種痘」についても、詳しく述べられている。森鴎外が在欧中に、種痘賛成論と反対論の双方の研究所に所属して、判断を下したことは有名だが、当時のヨーロッパでは、全人口問題に波及する大問題だった。従って、結論は容易に出なかった。ここでの「百科全書」の多岐にわたる内容は注目に値する。
 『こうした背景から、種痘をめぐる論争が、単に医学界の内部での理論モデルの優劣をめぐる学派間の対立に留まらず、公衆衛生や健康政策の領域にまで社会的影響を及ぼした事情は、「百科全書」の項目「種痘」 に「外科/医学/道徳/政治」という分類記号が付されていることからも、容易く想像できる。「百科全書」の項目「種痘」の執筆者は、奇しくも「百科全書」第七巻の項目「ジュネーヴ」でダランベールが、 フランスに先んじて種痘を受け入れた国として称えている、ジュネーヴ共和国出身の医学者テオドール・トロンシヤンである。項目「種痘」を読むと、種痘の導入の是非をめぐる当時の論争の最大の争点が、自然感染する伝染病の天然痘と、牛痘を植え付け、いわば人為的に天然痘を人体に引き起こす種痘の、いずれが生命にとってより危険なのかという、それなりにもっともな疑問であったことが分かる。』(pp.230)

 「外科、医学、道徳、政治」を一気に同じテーブルに取り上げたのは、まさに「百学連環」になっている。

「終わりに」には、次のようにある。
 『数々の「大発見」を道標とする科学理論の「進歩」の歴史過程を強調した「科学史」の整然とした歴史叙述への違和感から出発した我々は、十八世紀のフランスで細纂された「百科全書」の科学項目における歴史叙述のあり方に着目した。そこでは、各項目の冒頭に分類項目こそ示されるものの、ある学間や技術に関するレベルの異なる 様々な事実、理論、概念に関するありとあらゆる言説が、基本的には、アルファベット順という無差別的かつ恣意的な配列法のみを秩序として隣り合っている。
「この「百科全書」という広大にして畿蒼たる真贋の言説の森においては、人類が過去に獲得した貴重な真理たる「知識」ばかりでなく、人類の無知蒙味の根源として古来悪評の高い「誤謬」や「迷信」もまた、自然を対象とした人間精神の試行錯誤の成果に相ふさわしい場所を得ている。』(pp.249)

 最後に、話は「文学」にまで及んでいる。
 『殊に科学における「誤謬」が、広義のフィクションに対する「信」に基づく想像的な疑似理論という点において、一見無縁な文学とも境界を接している事実は、人間の知的な営みに想像力の働きが不可欠であることを暗示しているようで、味わい深い。科学における概念のメタファー的な拡大適用に起因する誤謬に論を起こし、メタファーによるイメージを生命とする文学における科学の表象をもって、科学の誤謬をめぐるこのささやかな施策の円環を閉じることにしたい。』(pp.250)

 最後に「円環」の言葉が出てきただけでも、この文章の価値を認めざるを得ない。それにしても、当時の「百科全書」が、真に百学連環であったことが良くわかった。一方で、この形が引き継がれずに、現代の「百科事典」になってしまったことが、科学と技術のどうしようもない細分化と無関係とは思えない。最近のデジタル検索では、もっと細分化が進むことになるのだろう。
 

メタエンジニアの眼シリーズ(130)「日本語の世界」(2)  

2019年07月13日 20時44分50秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(130)「日本語の世界」(2)  
                                     
TITLE:  「日本語の世界」(つづき)             
書籍名;『日本語の世界』 [1980-1986] 
編者代表;大野晋と丸谷才一 発行所;中央公論社
発行日;1980.9.15
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、


このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分

 21世紀は、西欧文明期から東洋文明期への転換の世紀と云われている。
東洋文明とは、中国文明やインド文明を指す。辺境の日本文明はどうだろうか。従来、日本文明は親類の無い孤独な文明と云われてきた。しかし、縄文時代から1万年以上も続く文明が孤独なわけがない。中国や朝鮮を親類と呼ぶのには、お互いに問題がある。日本語の起源を探せば、そこに親類が存在することになる。

前回は、本の概要を説明した。今回は、その内容。この第1巻は、日本語の成立に関してのみなのだが、その精緻さは呆れるほどだった。特に母音と子音の種類や数、組み合わせについては、エンジニアや数学者を凌ぐほどと云えるくらいに思えた。

第1、2章は「神話の時代」で、主に大洋州とアジア地域の神話と比べて、その共通性を述べている。多くの国の神話が、女神の死体を切り刻んで埋めたところから、新たな穀物が育ったことを示していることから、女性型の土偶を破壊して、バラバラに埋める祭祀を行ったとの説を主張している。また、日本には「神代文字」があるとの説は、はっきりと否定している。それぞれに、根拠となる理由を示しているのが良い。
 
第3章の「日本語の重層的成立」では、まず日本語の特質を7つ挙げている。母音で終わる音節構造、形容語が形容される語の前にくる、動詞の目的語は動詞の前に来るなどである。これら七つの条件に最も適合するのが、タミール語だとしている。同じ照葉樹林文化の地に居住するドラヴィタ族(インド北西部に居住)が、BC1600年頃アーリア人の侵略で南方へ移動したことを挙げているが、これはインダス文明との類似を思わせる。私は、従来、古代神道にこのあたりの名残があるように感じている。
 古代朝鮮語やモンゴル語との比較も、詳細に述べられているが、ある時期から導入されたもので、古代の日本語とは区別されている。
 
第5章の「音韻の変遷」が詳しくかつ面白い。古代日本語は4母音で、それが8母音になり、9世紀後半に現在の5母音になった。この変遷は、唇の開閉と舌の位置の状態から、不均衡、不安定などの理由で変化したことが説明されている。それらはすべて、その時代につくられた文献から推測されている。論理思考がまさにエンジニアのそれと同じだ。
 
第6章「日本の東と西」は、雑煮の餅の形から始まる。東は角で西は丸がはっきりとしている。これは、女性の定住率と深い関係があることを、統計値で説明している。B型肝炎の抗原基についても同じだ。東日本では沢といい、西日本では谷という。
 東西の力関係は、縄文時代は圧倒的に東で、稲作が広がって西が有利になり、鎌倉時代以降は東が有利。つまり、1千年くらいで交代が起こっている。世界文明の東西交代は600~800年なので、日本での変化はそれよりも遅いが、そろそろ日本の中心も西へ移るのかもしれない。
 
第1の東国;碓氷峠と箱根峠より東
 第2の東国;信濃、甲斐、駿河、伊豆、遠江
 第3の東国;飛騨、美濃、尾張、三河
 
この分類は、鎌倉時代から江戸時代の地域の変遷も表してているが、著者は方言や表現方法で違いを説明している。
 
「助詞のガ」の使いかたは、あまり気にしていなかったが、深い意味がある。江戸時代以降に定着したのだが、「我が国」、「我が家」など、自分を卑下したり、身内の親しみを表すという。奈良時代の東国の歌にも「ガ」が使われているが、例えば、「赤駒が」の用法は東国で、「赤駒の」は畿内人のうたであり、東国では駒が身内扱いされていたためとしている。

 第7章は「帰化人が漢字を教えた」で、第1の帰化人を漢人としている。後漢の王族の末裔で、倭漢直(やまとのあやのあたひ)と西文首(かはちのふみのおびと)と呼ばれ、それぞれ大和と河内に定住した。
彼等は、魏と晋の発音を伝えた。
 第2の帰化人は、200年後に新羅によって滅ぼされた百済、高句麗からの亡命者で、船史(うねのふびと)、津史(つのふびと)と呼ばれ、大化の改新に関与した。「呉音」は、呉から直接に伝わったのではなく、百済経由で伝わったとしている。
 漢字の訓読みは、日本独特ではなく、百済でも使われていたが、朝鮮ではその後使用されなくなり、日本独特のものになった。すでに万葉集の中に実例がある。31音の歌が、21字で表されており、そこでは「春」の字は、春の意味ではなく、「はる」の字として使われている。

 第8章は、「文章を制作しはじめる」で、古事記と日本書紀の成立の詳細を述べている。特に古事記では、『全部日本語で訓み通せるような日本の神々の物語と、その後をつぐ歴史をかきたい。』との願いから、日本式の文体が考え出された。その際には、法華経などが参考にされた。
 『編者が中国語訳の仏典を、文章の参考にするところが大きかった結果生じた言葉遣いと思われる。
このように、古事記は中国語訳の仏典を参考にしているが、今日でも古事記は、稗田阿礼の暗誦を太安麿が書き付けたのだと素朴に信じている人がある。しかし古事記・日本書紀はそれ以前の文献を集成し、文章化したものである。そこで、古事記・日本書紀以前に、神話についても文字化された記録があったのだということをいくつか立証してみよう。』(pp.209)として、神々の名前の例を挙げている。また、その際に口伝では起こりえない誤伝があり、書き写しの間違えだったことも、証拠の一つに挙げている。日本書紀との比較も精緻に行われているが、結果的には通説を踏襲している。

 第9書「ウタを記録する」は、奥が深い(すべての章がそうなのだが、ここは特に感じた)。
『ひるがえって漢宇を見ると、「詠」は「言」を「永」く引く意をあらわすし、「謡」は「言」を細長く伸ばす意であるという。また、「歌」は「可」を二つ重ねて「欠」と合わせた字で、「可」とは本来、「 型(かぎがた)に曲折する意であり、「欠」はロを大きく開く意であるという説がある。してみると、「歌」とは、ロを大きく開いて、声に曲折をつけるという意味を表わしていたと推定される。中国語には、いまーつ「詩」という字がある。「詩」は「志」と相通じる言葉である。』(pp.235)
 その後、「ウタ」がどのような経緯で成立したかを、掛け合い、神前の祝詞などの例で示しているが、最終的には、『心に湧いてきて、止めようもないこと、それを表すウタがそのまま名詞として固定された』(pp.238)としている。「ウタガフ」も、『すでに生じた事態に対して自分の以前からの用意、相手の知らない事情などを明らかにしようと述べ立てること』(pp.237)としている。

 最後に、いろは歌について述べ、弘法大師作の説をはっきりと否定している。大師の時代の音節は48または49で47文字であるのは、11世紀の京都の発音に準じているとのことが示されている。

 ここで、少しタミル語についてWikipediaの記述をあたってみる。
『タミル語は、ドラヴィダ語族に属する言語で、南インドのタミル人の言語である。同じドラヴィダ語族に属するマラヤーラム語ときわめて近い類縁関係の言語だが、後者がサンスクリットからの膨大な借用語を持つのに対し、タミル語にはそれが(比較的)少ないため、主に語彙の面で異なる。インドではタミル・ナードゥ州の公用語であり、また連邦レベルでも憲法の第8付則に定められた22の指定言語のひとつであるほか、スリランカとシンガポールでは国の公用語の一つにもなっている。世界で18番目に多い7400万人の話者人口を持つ。(中略)
南インドのタミル・ナードゥ州で主に話されるほか、ここから移住したスリランカ北部および東部、マレーシア、シンガポール、マダガスカル等にも少なくない話者人口が存在する。これらはいずれも、かつてインド半島南部に住んでいたタミル人が自ら海を渡ったり、あるいはインドを植民地化した英国人がプランテーションの働き手として、彼らを移住させた土地である。』

 しかし、現代のタミール語の発音は複雑であり、古代語の段階でどれほどの共通項があったかについては、何も記されていない。
 

メタエンジニアの眼シリーズ(129) 「日本語の世界」

2019年07月12日 16時53分18秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(129) 「日本語の世界」

書籍名;『日本語の世界』 [1980-1986] 
編者代表;大野晋と丸谷才一 発行所;中央公論社
発行日;1980.9.15
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、



このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

日本語全般についてのシリーズ全16巻。数冊が中央公論新社から中公文庫で再刊。
 この全集は、近所の図書館の放出本で見つけた。全16巻だが、その中の興味を引く7巻を自宅に持ち帰り、ページをめくっている。なぜそうなったか、それは第1巻の「序章」の最初の文章だった。
 
『日本語の力 日本語は果してヨーロッパの言語のように、厳密で精確な表現の可能な言語なのだろうか。旧制の高等学校に入学して、自由に考え、読むことができるようになったとき、私の心の底でめぐっていた思いのーつは、それであった。眼前にそびえるヨーロッパの学芸の壮麗さのただ中に飛び込む友人たちの中に居て、私は明らかに知りたかった。 日本はヨーロッパの持つ何を欠くが故に、ヨーロッパをこのように追いかけていかなければならないのか。日本がヨーロッパに及ばないのは何故なのか。ことによるとそれは、日本語という言語がヨーロッパのような思考と表現の厳密さや精確さにたえない言語だからではないか。
日本語のたしかさを求めて、私はある時は大祓の祝詞を声高く朗誦した。私はそこに日本語の力強さの泉があふれ出ているのを感じた。大伴家持の春の歌を読んでは、繊細で優しい日本語の表現の伝統を思った。またある時は、柿本人麿の挽歌の数々を読み、長歌としてたたみ上げて行く言葉の雄渾と犀利とに感動した。』(pp.2)


 
ここまでは、日本語礼賛のように思えたが、しかし、そのあとで続けて、こうも書いている。
 『「ファウスト」の韻律   しかし。義務として教室に坐って聞いていただけだったゲーテの「ファウスト」であったが、試験の前夜になって、やむを得ず森鴎外の翻訳に頼って読み始めると、読み進むに従ってその原文は波濤のように私の胸に押し寄せて来た。その韻律の圧倒的なうねりは私の心をゆすってやまなかった。ほのぼの夜の明ける頃、鴎外の訳はまるで瓦礫のように見えた。柿本人麿のあの高市皇子を傷む長歌の緊張と迫力さえも、この「ファウスト」の前には物の数ではなかった。私は長い息をついた。明治時代以来、何人もの詩人が、日本語に絶望して詩を離れ、詩を棄てたのを、その時によく理解できた。日本語の音節の構造、その配列、文法上の語順の規則ーーそれらはドイツ語の韻文に見られる美しい技巧、力強いリズ ムと脚韻の旋律とをはばんでいる。日本の詩歌が日本語の性格によって本質的に負っている技術上の制約を、私はくち惜しく反芻した。』(pp.3)

 森鴎外の翻訳を「まるで瓦礫のように見えた」とは、試験前夜の学生としては大した度胸だと思うのだが、私には、「ドイツ語の韻文に見られる美しい技巧、力強いリズ ムと脚韻の旋律」の方が、もっとわからない。
 確かに、ベートーベンの第九の合唱を聴けば、そう思わないでもないが、ドイツ人の会話からそれと同じことを感じたことはない。そこで、この書を少し読み進めようと思い立った。

 「序章」では、さらに続けてこのようにある。
 『私は、日本人は論理的な表現に弱いと聞いていた。あるいは抽象的な思考力に欠けていると聞いた。それは本当なのであろうか。』(pp.3)

 このことにも興味があるのだが、私はむしろ日本の自然や文化に根付くものだと思っていた。しかし、そのあとで、「コト」という日本語が、言葉のコトと行為のコトが「密接不可分」であると書いてある。
 この文章は長く続くのだが、例えば難解だった仏教が、鎌倉時代になって親鸞や日蓮が、当時の日本語で民衆に理解できる仏教を語った。その日本語は、それ以前の日本語と違ったのだろうか、といったことが書かれている。
 このことから、以前読んだ、中世まで全くのマイナー言語だった英語が、シェークスピアの出現により、一気に全ヨーロッパに広がったとの話を思い出した。

 全巻の表題を辿ってみると、最初の8巻目までは興味深い題名が並んでいる。
『1. 日本語の成立』(大野晋、1980年)
『2. 日本語の展開』(松村明、1986年)
『3. 中国の漢字』(貝塚茂樹・小川環樹編、1981年)
『4. 日本の漢字』(中田祝夫・林史典、1982年)
『5. 仮名』(築島裕、1981年)
『6. 日本語の文法』(北原保雄、1981年)
『7. 日本語の音韻』(小松英雄、1981年)
『8. 言葉・西と東』(徳川宗賢、1981年)主に方言論

じっくりと読み始められるのは、いつのことかわからないが、気楽に待つことにした。それにしても、この時代の全集の数と深さには、毎度感動してしまう。今どき、これほどのモノは期待できない。デジタル書籍が一般的になる中で、ますますそうなるのだろうか。

メタエンジニアの眼シリーズ(128) 拡張の世紀

2019年07月04日 15時44分51秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(128)「拡張の世紀」 KMB4123

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『』内は,著書からの引用部分です。
                                                         
TITLE: 拡張の世紀
書籍名;「拡張の世紀」 [2018] 
著者;ブレッド・キング 発行所;東洋経済新報社
発行日;2018.4.12
初回作成日;R1.6.29 最終改定日;R1.7.4



 副題は「テクノロジーによる破壊と創造」で、まさにクリスチャンセンの「破壊的イノベーション」を思い起こさせる。「訳者あとがき」には、
 『この書籍は、さまざまな業界、組織でテクノロジーの活用に携わる人たちが、自分たちが関わる以外の領域で何が起こっているのかを知り、新しい商品、サービス、ビジネスの発想を広げていくための格好の触媒となるだろう。
テクノロジーの進歩が過去に例を見ないほど速いために、ヒトや組織、産業、社会がこれから激変に直面していくことは間違いない。しかしだからこそ、キング氏のように、常にそれらをポジティブにとらえ、前向きに行動していくという心の持ち方が求められるのだと思う。』(pp.564)とある。

 巻頭の「推薦の言葉」には、このようにある。デジタルテクノロジーという一つのテクノロジーが、世の中のすべてを代えてしまう、まさにメタエンジニアリングの仕業であり、ハイデガーが予見した世界だ。
 
『本書ではキング氏得意の金融分野をはるかに超えて、モバイル、IOT、AI、ナノテクノロジー等のデジタルテクノロジーの最前線で何が起こっているのか、そしてそれらが医療、交通、金融、都市、教育と
いった分野に及ぼす影響が、テーマ別に実例を挙げつつ具体的に語られています。テクノロジーの速度が歴史上初めて人間の世代交代速度を上回った現代社会において、その破壊的なイノベーションが私たちの暮らし、仕事、生き方にどのような変化をもたらすのか。本書の特徴として、 序章では、4人のペルソナを用いてそれが生き生きと描き出されており、私たちの未来の生活のありさまが垣間見えます』(pp,002)

「はじめに」は、先ずテクノロジーの過度の拡散による問題点を明らかにしている。2008年のオバマ大統領当選を後押ししたSNSの様々な事例を紹介した後で、
『しかしそれは最近、憎しみに満ちた人種差別的な悪口雑言の存在場所を生んでもいる。ネットいじめが登場して以降、数多くの犠牲者が生まれ、有名人の詳細な私生活や政府機関の秘密が暴かれている。
これらすべてのテクノロジー進歩は、私たちにとってそれ自体が善なのか、それとも悪なのだろうか?
顕われつつある変化は、新たな黄金時代なのか、それともはるかに大きな破壊につながるものだ ろうか?』(pp.006)

 本文は先ず、1800年以降のテクノロジーの歴史に関する詳細な解説が延々と続く。そして、最新のテクノロジー競争の場面をいくつか紹介してゆく。

 『イーロン・マスクとNASAの間では、どちらが先にそこに到着するかの競争となっていて、レースのダークホースは中国だ。スペースXとNASAは係争関係にあった。両者は地球の低周回軌道では協力関係にあったが、話が火星になったとたん、マスクはNASAの技術者を引き抜くのを急ぎすぎた。そのため彼は、一般人も火星植民地化に手が届くようにするという.自分の名声をリスクに晒すことになった。スペースXは今のところ順調だが、スペースXがプログラムを加速させたことに潜むリスクのために、いくつか大きな失敗を経験するだろうとNASAは見込んでいる。
マスクのアプローチは繰り返し型で、ドラゴン計画の開始当初から、初期のプロトタイプを複数打ち上げてテストするのに前向きなことが知られていた。最初の何回かは失敗したとしても,そのアプローチを通じてチームはより早く学習するはずだという見通しに基づくものだ。』(pp,027)

これは、アメリカ人が好みそうな手法だ。つまり、最新テクノロジーの適用の歴史では、常に的確なリスクを負ったものが勝者になる確率が高い。

18世紀の「機械化の時代」が社会に与えた影響については、このようにまとめている。
『産業革命が生活の質を引き上げたことは、広く認められている。1750年以前は、フランスや英国のような一般に生活の質がよい場所でも、平均寿命は35歳程度だった。質の向上の主な要因は、農業経営および技術の改善と、生鮮食品がより広く入手可能となったことによって、食品の腐敗が減したことだ。蒸気機関の利用と工場の創造によって、例えば導管の大量生産が可能になり、それが農業や下水処理に使用された。』(pp.076)

問題の「拡張(ディスラプションは分裂、混乱だが、訳者は拡張としている。これは、分裂しながら拡散し、混乱を引き起こす現象を,一言で表そうとしている。)」については、過度な競争がその分野の急成長をもたらし、それがもとで世界各地に急拡散されてゆくプロセスについて、例を挙げて説明している。

例えば、ロケットについてはこんな具合である。
『NASAはビーク時に約40万人を雇用していて、さらにその先には世界中に2万の大学、下請企業、 製造業者がいた1960年代半ばには、米国労働力の4.5%が何らかのかたちで宇宙競争に携わっていると言われていた。これは、さまざまな業界の盛衰とその経済成長への貢献度合いの変化からみても、未曾有の異常値だった。』(pp.85)

そして、デジタル技術による急速なコスト削減が進み、新興国から、さらに全世界にも拡散してゆくというわけである。
『現在インドでは、5000ルピー(約100ドル)以下で入手可能なスマートフォンが40種類以上ある。しかしながら、プリエコノミクス社の調査では、これらの電話の再販価値は、わずか18カ月後には平均で60%以上下落してしまうと予測されている。スマートフォンの現在の普及速度から推測すれば、2020年にはほとんどの発展途上国で、初心者向けスマートフォンが20~25ドルで手に入るようになる。つまり、わずか5年のうちに、世界の85%以上がインターネットにつながるモバイルデバィスを持つことになるのだ。』(pp.95)

そして、人間の本性と拡散の関係について語っている。
 『私たち人間には、変化に対する葛藤がある。種としての私たちは、発展し、前進し、進化し、富を生み出し、知識を探索・発見・向上させて生活をリッチで豊富でよりよいものにしようと常に試みている。しかしながら、その変化の影響が自分の仕事、家や家族に個人的に及ぶとなると、私たちは怯え、まごついてしまいがちだ。例えば、より効率的な製造工程や先進的なコンピューター・ アルゴズムのために自分が余剰人員になって仕事を失うとなれば、私たちはおそらくそれを非常に腹立たしく思うだろう。その特定のテクノロジーやビジネスモデルの法的禁止や規制を求めて抗議の声を上げるか、政府に対して関税や免税を要求して、自分たちの従来型のアプローチが実質的には旧態化しているのに、時代後れの事業手段の競争力を確保しようとさえするかもしれない。これが非常に典型的なリアクションである。』(pp,109)

最近のテクノロジーについて、もっとも詳細に分析をしているのは、ロボット(アバダー)についてだ。それは、他のテクノロジーと同様に、人間にとって便利な部分と危険な部分が併存している。
 『映画『エクス・マキナ』では、女性のロボットが、わずか6回の出会いを通じて若くて賢いプログラマーを自分の虜にして、自分の発明者である地上で最も裕福な男である彼の雇い主と対立するように仕向け、億万長者の裏をかいてだますことに成功する。この物語は警鐘としで、ロボットが私たちにますます似てくると、私たちを互いに競い合わせて分断し、場合によっては私たちを征服さえすることが可能かもしれない
と告げている。』(pp,194)

 「スマートワールドの進化の仕方」として、冒頭に挙げられたあらゆる産業、文化の分野について実例を挙げて、100ページ以上にわたって丁寧に説明をしている。ここが、本書の売り処の様だが、それぞれの分野は、その専門書によって紹介されているので、割愛する。

 物の拡張だけでなく、「人間の拡張」も存在する。サイボークもそうなのだが、もっと現実的なものが多く存在する。事故で下肢を失った登山家が、最新技術で前以上の脚力を持った登山家として復帰した様子が克明に描かれている。しかし重要な問題は、人間に代わって行われる「意思決定」にあると思われる。

 『次の重要領域は、意思決定の補助機能だ。これには、状況の認識と日々の行動シナリオのナビゲーションが含まれる。情報の補強によってリアルタイムの意思決定が容易になる。そのほとんどは設定変更と選択が可能だ。以下にこの種のPHDUシナリオをいくつか示そう。
・歩行中のGPS携帯方式での道筋案内(GPSによる運転アラートは、状況に合わせてクルマのディスプレイに表示されるか、自動運転AIからのフィードバックに委ねられる)
・ドップラーレーダーのアラートによる落下物や人の往来等の警告
・天候、毒物、気温等の環境要因アラート
・運動や活動のリアルタイム・フィードバック
・小売店で手にとっているか目を留めている商品のレビュー
・支出/資金アラートによる通常外活動や購買行動のリアルタイム表示
・外国語環境における重要情報の翻訳。例えば、立入禁止区域、電気ショック危険区域、有毒物環境への露出、食物中のアレルゲン等』(pp,331)
 
 しかし、なんでも瞬時に詳細な情報が分かり、瞬時に意思決定をする社会は、安全とは言えない。さらに話は「人間の知性」に及んでくるのだが、これは更なる不安全な社会を創りだすように思える。

『私たちは数千年の間、知性の向上に取り組んできた。認知の限界の克服を目指してあらゆるものを 採用してきた。それらは、文字、言語、瞑想テクニックから現在の向知性薬までひたすらに続いている。しかし、それらのいずれも、現在店頭に並ぶものにはかなわない。
人類の一部で人工知能が追求される一方で、社会の他の部分では、私たちが生来有している知性プラットフォームの活用が探索されている。この研究領域は一般に知性増幅またはIA時代(Intelligence Amplification )と呼ばれる。この研究のゴールはシンプルで、スーパー・アインシュタインまたは過去に生きていたどんな人間よりも質的にスマートな人たちの世界を作り出そうとするものだ。』(pp.346)

そして、究極の結論としては、次のように述べている。
 『イーロン・マスクとスティーヴン・ホーキングのように、ロボットがAIを暴走させて、そのハイパーィンテリジェンスで世界を征服してしまうと予想する向きもあるが、私たちはAIとアバターが私たちと恋愛する、つまりアタマだけでなくココロまでとらえてしまうこともあると予想することも、あって然るべきだろう。これは文化面の探求が始まりつつあるということだけでなく、明らかに可能性として存在するのだ。』(pp,373)

 最期には、著者の専門分野の貨幣の話になっている。
『紙幣は現在でも競争力を有しているものの、デジタル世界が広まるにつれて、携帯電話や、より円滑な通信手段や、ビットコインのようなグローバルコミュニティーの価値交換手段としてより適切なものが普及して、時代遅れとなってしまう可能性は大きい。では、ビットコインは新たなグローバル通貨となるだろうか?最近の変化の大きさをみればそれはかなり難しそうだが、おかげでコマースにおける新たな可能性について私たちの目が開かれたわけだし、 マネー2.0の展開においてビットコインの後に続く取り組みがあることは確信できる。 ビットコインの動きから生まれてきたより興味深い展開は、実はビットコインの取引と記録を支えているテクノロジーにある。それはブロックチェーンと呼ばれるもので、スマートで取引を行うデバイスに満ちた世界に対する解答となりうる可能性が高い。』(pp,437)

そして、「フィンテック」の話になると、俄かにハイデガーの技術論と同じ結論になってくる。
 『これは、資本とテクノロジーが注入されて変革と自動化が起こった結果、どんな業界もテクノロジーベースの産業へと変貌しつつあるという根本命題を裏づけるものだ。現実には、金融サービスのような産業が有する商品や構成物は何百年前の古いものであり、その状況下ではそんなに大量のテクノロジーがなくてもディスラプションが起こる。』(pp,452)

 最後は、生活全般としての「スマートシティ」の話になる。
『スマートシティは大気汚染を討測し、先回りして対応し、それを安全なレベルに引き下げる。自治体や公益企業が意図的にデータを捏造する場合には、住民は汚染センサーを活用して、真正な報告を発信するソーシャルメディアサイトに参加すべきだ。スマートフォンに接続された大気汚染センサーによって、クラウドソーシングを通じた環境マップ作成が可能になり、それを大衆が自由に利用できる。汚染は地理的領域や時間によって変化が大きい可能性があるため、このマップは、都市全体だけでなく、大都市内の地域の汚染レベルを報告することも可能だ。』(pp.498)

この書は、10年後の世界が最新テクノロジーの拡散によって、どのように変化するかを、具体例を示しながら説明している。快適でスマートな世界になるのか、今よりも巧妙で複雑な犯罪の温床になるのか、どちらもあり得るとの結論のように思う。
最近の新聞記事に、このようなことが書かれていた。

「ディープ・フェイク・ニュース」についてなのだが、例えばアメリカの大統領の画像と音声としぐさの特徴などをAIに覚え込ませて、任意のフェイク・ニュース動画を作り、それを全世界に一斉にながす。その真偽は、動画からは誰も判断できない。このようなテクノロジーを開発する人が100人いるとすると、その真偽判断を可能にするテクノロジーの開発者は、一人という割合だそうだ。そのようなことが数年続けば、世の中の変化の方向は、自ずと決まってくるように思う。