生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(122)「欠乏の行動経済学」

2019年04月13日 14時09分38秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(122)                                       
TITLE: 「欠乏の行動経済学」

書籍名;「いつも「時間がない」あなたに」 [2015]

著者;S.ムッライナタン & E.シャフィール 発行所;早川書房
発行日;2015.2.20
初回作成日;H31.4.13 最終改定日;H31.4
引用先;文化の文明化のプロセス Exploring

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。


 行動経済学が盛んに語られるようになったが、心理学との関係が明白でない場合が多い。心理学者が推薦する行動経済学の著書をあたることにした。これは、その1冊目。米国式の書き方で、実例ばかりが並んでいるのだが、結論は、多岐にわたっている。共著者は、ハーバード大経済学教授とプリンストン大心理学教授。
 「序論」は、仕事の期限に追われたり、生活費の工面に追われたりする人たちの事例から始まる。状況は様々でも、心理状態は共通しているというわけだ。
 
『状況がまったくちがうのにこれほど似ているのは驚きだ。私たちはふつう、時間の管理と金銭の管理は別問題だと考える。失敗の結果がちがう。下手な時間管理は気まずい思いや業績不振につながるが、下手な金銭管理は課金や立ち退きにつながる。文化的背景がちがう。多忙な専門家が締め切りに遅れることと、低賃金の都市労働者が借金の支払い期限に遅れるのとは別物だ。環境がちがう。教育レベルがちがう。抱いている望みさえちがうかもしれない。このようなちがいがあるにもかかわらず、最終的な行動は驚くほど似ている。 センディルとショーンにはひとつ共通点がある。どちらも欠乏の影響を受けているのだ。ここでいう欠乏とは、自分の持っているものが必要と感じるものよりも少ないことである。センディルは急がされているように感じていて、自分がやるべきことをすべてやるには時間が足りないと思っていた。シ ョーンは資金繰りが苦しいと感じていて、自分が払わなくてはならない請求書をすべて払うにはお金が足りないと思っていた。この共通のつながりが二人の行動を説明できるのか?この欠乏そのものが、センディルとショーンをこれほど似たような行動に導いたのだろうか?』(pp.11)
 
そこで著者は、「欠乏」に共通の論理と、そこから逃れるすべを語ろうとしている。その第一が「トンネリング」という心理状態だ。現場に駆け付ける消防士が、シートベルトをかけ忘れ、カーブで弾き飛ばされて舗道に頭を打ち付け、死亡した例を挙げている。

 『ひとつのことに集中するということは、ほかのことをほったらかすということだ。本やテレビ番組に夢中になりすぎて、隣にすわっている友人からの質問に気づかなかった経験は誰にでもある。集中する力は物事をシャットアウトする力でもある。欠乏は「集中」を生むと言う代わりに、欠乏は「トンネリング」を引き起こすと言うこともできる。つまり、目先の欠乏に対処することだけに、ひたすら集中するのだ。』(pp.44)
 
さらに続けて、『「トンネリング」は、トンネル視を連想させることを意図した表現である。トンネル視とは、トンネルの内側のものは鮮明に見えるが、トンネルに入らない周辺のものは何も見えなくなる視野狭窄のことである。スーザン・ソンタグが写真撮影について語った次の言葉は有名だ。「写真を撮るというのはフレームに入れるということで、フレームに入れるということは締め出すということだ」。私たちはこの経験に相当する認知作用を、「トンネリング」という言葉で表現している。 消防士は準備を整えて迅速に火事現場に到着することに注意を集中するだけではなく、トンネリングを起こしていることがわかる。』(pp.44)

 つまり、トンネリングは「何が頭に浮かぶかが、大きく影響を受ける」というわけである。従って、思考範囲が大いに狭まってしまう。このことは、心理学の実験で多数証明されている。白いものを連想する際に、予め牛乳を見せられてしまう事例だ。
 
『列挙された目標が三〇パーセント少なかった。「牛乳」がほかの白いものを締め出したのと同じように、重要な目標が活性化されたことで、競合する目標が締め出されたのだ。自分にとって重要なことに集中すると、ほかの関心事についてあまり考えられなくなる。心理学者はこれを「目標抑制」と呼ぶ。目標抑制はトンネリングの根底にあるメカニズムだ。欠乏が大きな目標―切迫したニーズへの対処―を生み、それがほかの目標や検討事項を抑制する。消防士の目標はひとつ、火事現場に迅速に到着することだ。この目標が、ほかの考えが入り込むのを抑制する。これは良いことと言える。彼はタ食や年金について考えることなく、近づきつつある火事現場に集中する。しかし悪いことにもなりえる。』(pp.47)

 そこで、議論は「処理能力」の問題になる。「欠乏」が、処理能力に大きく影響をするというわけである。3つの事例(心配事、支払期限、店長の悩み)の紹介の後で、
 
『これらのエピソードはある重要な仮説を説明するものだ。すなわち、欠乏への集中は無意識であり、人の注意を引きつけるので、ほかのことに集中する能力を邪魔する。営業部長は娘の野球の試合に集中しようとするが、欠乏のせいで心ここにあらずの状態が続く。たとえほかのことをしようとしても、欠乏によるトンネルが人を引きずり込んで離さない。生活のひとつの分野における欠乏は、ほかの分野に回る注意や意識が減ることを意味する。注意力が鈍くなる、いわば、「うわの空」という状態については心理学者がよく研究している。心理学での綿密な研究では、この考えをとらえるのにいくつか細かい区別をするが、私たちはすべてを網羅するひとつの包括的な用語として「処理能力」を使うつもりだ。処理能力は計算する能力、注意を払う能力、賢明な決断をする能カ、討画を守る能力、そして誘或に抵抗する能力を示す。処理能力は、知能や学力検査の成績、衝動の抑制やダイエットの成功まで、あらゆることと相互に関連する。』(pp.61)

 エピソードから推論される原理は、次のようになっている。
 
『これは欠乏による処理能力への負荷である。人の気を散らすもの、心を占領するものは、外から来るとは限らない。人は自分でそれを生み出し、その雑念は本物の列車よりも集中の持続を邪魔する。この思考という列車は個人的な心配ごとという轟音を響かせる。住宅ローンは重要だから、いつまでもあなたの邪魔をする。一時的な迷惑ではなく、きわめて個人的な心配ごとだ。それは人をトンネリングに追い込むからこそ、邪魔ものである。人はしつこい懸念に心を引っ張られ、のみ込まれる。外部の騒音が明噺な思考を邪魔するのと同じように、欠乏は内因性の混乱を生む。』(pp.63)

 そして、「欠乏の罠」からの脱出手段の話になってゆく。

 『欠乏の罵から脱け出すには、まず計画を練る必要があるが、これは欠乏マインドセットには難しいことだ。計画を立てることは重要だが緊急ではない。まさしくトンネリングで無視されるものである。計画するには一歩退く必要があるが、ジャグリングのせいで人は現状にはまり込んでいる。落ちようとしているボールに集中するせいで、どうしても全体像を見ることができない。遅れを取りもどそうと躍起になるのをやめたいのはやまやまだが、やるべきことがありすぎて、どうすればいいかわからない。いまは家賃を支払わなくてはならない。いまはあのプロジェクトの期限を守らなくてはならない。長期的な計画は明らかにトンネルの外だ。』(pp.172)

 しかし、問題は簡単ではない。
 
『あげげくに、たとえ計画を練っても、実行が難しいこともある。これまで見てきたように、どんなに固い決意も実現しないことが多い。いざというとき、とくべつ魅力的なプロジェクトや商品を目の前にすると、抵抗できない場合が多い。計画をやり抜くには処理能力と認知制御が必要であり、欠乏はその両方を低下させる。』(pp.174)
 
あらかじめ計画を立てるということは、その効果を身に染みて分かっている人には、容易なことなのだが、世間ではどうもそうではないようだ。最後に示された「結論」には、以下の言葉がある。

 『人は自分の時間の予定を組んで管理するが、処理能力の予定を組んで管理することはしない。自分自身の変動する認知能力に対しては、あきれるほど配慮も注意もしない。これを体力とくらべてみてほしい。体力については、食事、睡眠、運動の潜在的影響に敏感だ。現代社会で働く人の大半がそうだが、私たちは生計を立てるために自分の知力を使うが、知力の一日のリズムについて驚くほど知らない。』(pp.290)

 『しかし、私たちは経済の認知面をほとんど何も知らない。自分たち個人の処理能力が変動するように思えるのと同じように、社会の処理能力も変動するようだ。二〇〇八年の景気後退は、認知力の大幅な後退も生み出したとわかるのだろうか?処理能力はかなり落ちたかもしれない。失業率が上昇する―方で、意思決定の質が落ちていたらどうだろう?これらの疑間に答えるためのデータはない。』(pp.290)

 対象は、個人 ⇒社会 ⇒経済成長 ⇒生産性 と広がってゆく。
 
『失業率が五パーセンートから10パーセントに急上昇するとき、それは労働年齢の二〇人に一人が新たに経済的に苦しむようになるということだ。処理能力を見ると、この増加の影響はもつと広い範囲で感じられることがわかるかもしれない。そのようなとき、結果的にお金のことを考えている人が増える可能性があるのがあるのだ。』(pp.291)

 『これは不況だけの話ではない。経済成長の推進力である生産性を考えてみよう。生産性は決定的に処理能力に依存している。労働者は効率的に働かなくてはならない。経営者は賢明な投資判断を下さなくてはならない。人的資本を築くために学生は学ばなくてはならない。これらすべてが処理能力を必要とし、今日の処理能力低下がさらに将来の生産性を低下させる可能性がある。
これは経済だけの話でもない。処理能力は核となる資源である。子育てにも、研究にも、ジムに行くのにも、人間関係をうまくやっていくのにも使われる。考え方や選択に影響する。経済が景気後退に入るとき、人々が買えるものは減る。人が認知力の後退期に入るとき、子育てや運動から貯金や離婚まで、生活のあらゆる側面が潜在的に影響を受けるだろう。』(pp.291)

 つまり、個人における計画性が、経済社会における「投資」に相当するということの様だ。ことは、逆に考えれば当たり前だ。つまり、個人でうまく計画を作って実行できれば、万事OKであり、経済社会では、投資をうまくやれば成長できるということだ。だが、実際には「欠乏」がしばしば起こってしまう。そこで、どうするのが正しいかが、問題となってくる。

『しかし欠乏の心理に注目すると、この店長は別の問題に取り組む必要があるかもしれないことがわかる。意欲を高めたり教育したり、おどしたり誘惑したりするのではなく、処理能力を高めることに重点を置くのがいいだろう。低賃金労働者は経済的に生活が不安定だ。本書はその影響を見てきた。 そしてそういう状況では、インセンティブは効果が低い場合があることも見てきた。人がトンネリングを起こしているとき、多くの報酬はトンネルの外に出てしまうだろう。それなら、労働者が家計の浮き沈みに対応するのを助け、処理能力をすっきりさせるのに役立つ、金融商品や戦略的介入、あるいは労働条件を考えてもいいではないか。』(pp.293)

 全体を通して感じられたことは、文明の進化に連れて、特に昨今のコンピュータやAIが実生活に大きく入り込んでいる現状では、あらゆることに処理能力を超えたインプットが人々に与えられ続ける。全体的な状況を把握して、脱出のための計画を練ることの重要性が、益々増えることになるのだが、そのことを認識できるかどうかが、分かれ目のように思われる。

メタエンジニアの眼シリーズ(121)「漱石の文明」

2019年04月12日 15時20分49秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(121)「漱石の文明」
              
書籍名;「漱石と文明」 [1985] 
著者;越智治雄 発行所;砂子屋書房
発行日;1985.8.10
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 様々な文明論を探る中で、ある古書店で「漱石と文明」という表題の本を見つけた。著者の越智治雄は、東大教養学部教授だが、在任中に若くして死亡した。従って、この書は死後2年たってから発行されたことになる。通読すると、漱石の文明論が語られているのは、最初の20ページほどで、後は漱石の他の著作に対する書評、他の人の漱石評、続いて多くの部分は、彼の専門である様々な戯曲家の作品評になっており、いわばオムニバス本に思える。 

冒頭から、「夢一夜」の第七夜の解説が延々と述べられているが、それが漱石の内面をよく表している。
 
『「夢十夜」の第七夜『すなわち夢の中に現われる「自分」は、乗客のほとんどが異人だという「何でも大きな船に乗つてゐて、次のように聞く。「此の船は西へ行くんですか」。西に向かう大きな汽船には、むろん激石自身の洋行の体験が変容されて語られているに相違ない。しかし、漱石自身がロンドンという確たる目的地を持っていたのに反して、夢の中の「自分」は行く先をはっきりと知ること ができない。船は黒い煙を絶え間なく吐きながら凄じい音をたてて進んでいて、「自分」はその船の中に確かにいるのだが、「何処へ行くんだか分らない」、「何処へ行くのだか知れない」という想念を追いつづけている。激石は、そうした「自分」の心理を心細さ、つまりは不安として表現しながら、一方で悲しみという。』(pp.10)

 これに対して、早速にほかの人の書評が紹介されている。

『柄谷行人氏の「内側から見た生ー『夢十夜』論」(『季刊芸術』18、昭四六・七)に次の指摘がある。「『船』が時代の象微でもあり、「この無気味な幽霊船のイメージが象徴しているのはむろん激石の生そのものであり、同時にまた明治日本の漂流感である」。確かにそうであるに違いない。「陸」、すなわち落ち着き先を見いだせぬがともかく西を指して凄まじい勢いで進むしかないのは、実は激石の存在する西洋化してゆく明治社会であり、激石自身の状況自体だったのではないか。』(pp.11)

 そして、漱石の文明批評の根底には、『「自分」をとらえて離さない不安、「自分」を襲ってくる言い難い深い悲しみ』(pp.11) だとしている。この話は、20世紀の初頭だが、21世紀の初頭の我々にも共通する感覚に思える。勿論、個人の感受性にもよるのだが、例えば、若者の自殺者の増加などにその傾向がみられる。

 さらに、漱石は「文明」という言葉は使わずに「開化」と称して、次のように述べている。

 『日本の現代の開化を支配しゐる波は西洋の潮流で其波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新らしい波が寄せる度に自分が其中で食客をして気兼をしてゐる様な気持になる。新らしい波は兎に角、今しがた漸くの思で脱却した旧い波の特質やら真相やらも弁へるひまのないうちにもう棄てなければならなくなって仕舞つた。食膳に向って皿の数を味ひ尽す所か元来どんな御馳走が出たかハッキリと眼に映じない前にもう膳を引いて新らしいのを並べられたと同じ事であります。斯う云ふ開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。又どこかに不満と不安の念を懐かなければなりません。』(pp.14)

 漱石は、松山や熊本で教師をした後、東京に戻り、まもなくロンドンに留学をしている。期間は、
1900.5~1902.12なのだが、その間に近代文明に対する強烈な不信感を持ってしまった。そのことは、ロンドン塔とその周辺の様子に細かく語られている。

 帰国後に発表された「文学論」の中では、次のように断言をしている。

『倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群にあって伍する
一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。倫敦の人ロは五百万と聞く。五百万粒の油のなかに、一滴の水となって辛うじて露命を繋げるは余が当時の状態なりといふ事を断言して揮からず。』(pp.72)
 つまり、水と油の関係だったというわけだ。

 日記の中では「煤煙の中に住む人間」と題して、このように書いている。
 
 『激石の見たロンドンは工業化を急ぐ巨大な都市であった。「煤煙中ニ住ム人間」(日記、明三四・一五)の群の中で、彼のロンドンの憂鬱は深まってゆく。
倫敦ノ町ニテ霧アル日大陽ヲ見ヨ黒赤クシテ血ノ如シ、鳶色ノ地ニ血ヲ以テ染メ抜キタル太陽ハ此地ニアラズバ見ル能ハザラン(日記、明三四・一・三)。
倫敦ノ町ヲ散歩シテ試ミニ唾ヲ吐キテ見ヨ真黒ナル塊リノ出ルニ驚クベシ何百万ノ市民ハ此媒姻ト此塵挨ヲ吸収シテ毎日彼等ノ肺臓ヲ染メツツアルナリ我ナガラ鼻ヲカミ唆ヲスルニハ気ノヒケル程気味悪キナリ(日記、明三四・一・四)』(pp.73)

また、後年の「文学評論」では、次のようにある。

 『都会は気の移り易い所である。(中略)或は痛烈な悲喜哀楽の為に駆られて、厭でも応でも一筋道に引張られる憂もなく、もしくは真率直下に人生の機微に接する神経もなく、落付いた頭で眼前の万事を商量する知欲もなく、(中略)あつちへ調和する為にここの角を磨り減らし、こつちへ調和する為めにそこの角を磨り減らし、段々磨り減らして行くうちに、角が全く無くなつて、丸薬の様な転がるに便利なものが出来上る。此丸薬を称して、其都会に共通の常識と云ふのである。』(pp.74-75) 

 明治人は、「文明」と「開化」を使い分けているように思うことがしばしばある。都市を造り、多くの人が寄せ集められ、巨大な建物の中で必死の生活を強いられる。これは、どう見ても文明ではない。しいて言えば、「開化」なのだろう。私は、「文明」イコール「都市化」という定義を常に否定する。文明は、優れたローカル文化が、エンジニアリングによって合理的かつ普遍的に成長したものだと考えている。日本では、「文明」と「開化」をくっつけて、「文明開化」にしてしまい、その後「開化」をとってしまい、「開化」イコール「文明」にしてしまった。Civilizationは「開化」であって、「文明」ではない。

その場考学との徘徊(57)題名;甲斐の国の桜(その2)

2019年04月11日 14時36分21秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(57)題名;甲斐の国の桜(その2)

場所;山梨県 年月日;H31.4.5-7
テーマ;桜の咲く順番   作成日;H31.4.10アップロード日;H31.4.11                                                      
TITLE: 桜の咲く順番(その2)

 今度は、標高1130メートルから東京へのルートだ。この季節から、土日の中央道は小仏トンネル他で午後は早くから大渋滞が発生する。大月などはとっくの昔から、東京への通勤圏なのだが、このために首都圏の仲間入りができないでいる。群馬や茨城県に比べて、距離的には近いのに、未だに富士山と武田信玄頼りだ。ちなみに、今日も甲府では「信玄公まつり」が行われている。我が家は、信玄が信濃攻略に使った「棒道」の上にある。信玄公まつりでも、武者行列を見るだけでなく、棒道での兵卒姿の進軍マラソンでもやったら面白いのではなどと考えてしまった。

 我が家から、八ヶ岳の最南端の編笠山の裾野をまっすぐに下ると、中央道の長坂ICに出る。その近くには、桜の名所がいくつかある。その一つが「牛池」だ。ここの標高は500メートルくらいだろうか。まだ、やっと開花宣言といったところだったが、南アルプスの眺めは素晴らしい。


 
池の周囲には遊歩道が整備されていて、巡るにつれて、山々の眺めが代わるのも楽しむことができる。陽当たりによっては、開花が始まっている木と、まだ蕾が固い木があり、その違いは何かを考えることもできる。池の由来書きにも、面白いストーリーが記されていた。





 さらに下って甲府盆地のほぼ中央に出る。この辺りは、土地勘が無いとわかりにくい。なにせ、甲府市の廻りには、甲州市、山梨市、笛吹市がとり囲んでいる。今回は、笛吹市の「桃源郷春祭り」を訪ねることにした。
 笛吹市と隣の一宮市は桃の名産地なのだが、一宮市では桃畑と葡萄棚が交互に並んでいる。店は時期により看板をかけ替えるのだ。
 ふるさと公園は、傾斜地に作られた大きな前方後円墳を中心にかなり広い地域に広がっている。甲府盆地の眺めは最高の立地条件なのだ。


 
眼下には、リニア新幹線の実験線がこの区間だけは地上を走っており、その全貌を見ることもできる。桜と桃の花のコントラストも楽しめる。ちなみに、山間部では桜と梅が同時開花するが、今年は、東京の我が家でも花桃と桜がほぼ同時開花だったが、梅はすでに小さい実を付け始めている。


 

 ここの銘木は「甲州蚕影桜」と書き「こかげさくら」と読む。根元が二つくっついているので、「夫婦円満桜」なのだそうだ。
今日は、地元の女子中・高生がお茶のサービスをしてくれている。窓越しの景色もなかなか良かった。



 
ここから山裾に沿って下ると、文字通りの桃源郷に入る。その中に、小さな城跡があった。「小山城址」との石碑が建っている。城主は穴山氏らしい。小さな敷地で、中央部は子供の草野球場の様だ。周囲の土塁は見事な桜並木になっていて、ここは丁度満開だった。







その場考学との徘徊(56) 甲斐の国の桜(その1)

2019年04月10日 13時36分48秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(56) 甲斐の国の桜(その1)

場所;山梨県 年月日;H31.4.5-7
テーマ;桜の咲く順番   作成日;H31.4.10 アップロード日;H31.4.10                                                      
TITLE: 桜の咲く順番(その1)

 今年は、全国的に桜の開花が早かった。東京の桜を愛でたあとで山梨県の八ヶ岳南麓の我が家に向かった。我が家の標高は1130メートルで、甲府盆地はほぼ300メートルなので、その高低差による開花の違いを楽しむことができる。ちなみに我が家の廻りは、山桜とうわみず桜なので、まだ枯れ木のままで蕾さえ見つけることはできない。開花までは、まだ1か月ほどありそうだ。



 桜の開花時期は、緯度、種類、樹齢、標高、陽当たり、冬の寒さなどの要因が重なるようで、気にしていると中々に面白いことが解る。私は、例えば、同じ品種ならば年齢の古い木の方が早く咲くように感じることが多い。このことは、今年も実感した。

 最初に訪れたのは、武川町の「神代桜」だ。これは、全国的にも有名で、縄文桜よりも古い神代の時代から生えているといわれているのだが、実年齢は2000年以上としかわかっていない。甲斐駒ヶ岳を最も美しい方角から眺めることができる。



 多くの桜は、実相寺の境内にあるのだが、昭和23年に「3年以内に枯れる」と判定されて、10年がかりで根回りの土壌改良などを行い、見事に生き返った。明治時代の記念写真が展示されているので、比較が面白い。




花は、白く小さめに見える。10年前に比べて、出店の数も駐車場の数も倍増している。根元廻りの計測値が示されていて、現在は11.8メートルだが、大正時代は13.5だったそうだが、兎に角巨大だ。




 寺の境内は広く、残雪の南アルプスや、他の花々とのコントラストが美しい。
 境内には、この桜の種をスペースシャトルに乗せ、その後植えた実験木がある。若田光一さんが持ち帰ったそうだが、一本が開花して、6~7枚の花びらがあるそうで、これも面白い。




また、身延山の有名な枝垂れ桜の苗木が移植されている。今年の身延山では3月中に満開だったそうだが、ここでの蕾は未だ堅かった。



 すぐ近くに、この地方で有名な桜並木がある。「真原桜並木」で、「さねはら」と読ませる。通常ここは1週間遅れ位なのだが、行ってみるとまだ咲く気配はなかった。以前はなかった駐車場は完備されたようで、ここもにぎやかになりそうだ。



 ここからは、甲斐駒ヶ岳を一層美しく見ることができる、撮影スポットでもある。




この季節、標高1130メートルでは未だ本格的な春には遠い。冬の間に枯れてしまった木々を調べて、早々に引き上げることにした。