生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(70) 東京みなと丸での海上徘徊

2021年12月25日 12時52分44秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(70)  

題名;東京みなと丸での海上徘徊 

場所;東京港 
月日;2021.12.23
テーマ;コンテナ埠頭の有様 
作成日;2021.12.25                              
                 
TITLE: 東京みなと丸での海上徘徊

 新視察船「東京みなと丸」という船がある。全長35m、幅7.78m、満載喫水1.3m、巡航速度13ノット、
総トン数215トンだそうだ。竹芝小型船船着場の発着で、毎日、午前と午後の2回、ネットで登録をすれば、誰でも70分の東京港巡りができる。

 この船は、一時期週刊誌を賑わした。週刊ポスト2017年6月2日号の記事をネットで見ることができる。
あらましは、この様になっている。
 『小池百合子・都知事の頭を悩ませているのは、「20億円豪華クルーザー建造」に都民の批判が巻き起こっていることだ。東京都が発注した五輪のVIP接待用の豪華クルーザーについて、都庁港湾局幹部に立腹した。』という話だ。私は、生まれながらの都民だが、新聞紙上で陸上競技場の問題は読んだが、この船の記事の記憶はない。
 
 この船は、『名目は都が保有する視察船「新東京丸」の老朽化に伴う代替船ということになっているのだが、
中身は、「メガヨット」と呼ばれる全長35メートルの外洋タイプのクルーザーだ。イタリアの大手造船会社「アジムット-ベネッティ社」に約20億円で発注され、1階甲板に同時通訳設備付きの大会議室、2階の貴賓室には京都の織物の絨毯など日本の伝統工芸の調度品が備えられ、3階が展望デッキでエレベータまで備える豪華仕様になっている。』と書かれている。東京五輪の際、VIPを羽田空港から浜離宮の迎賓館まで船で送迎する構想だったそうだ。
 その後、内装の京都の織物などを木目調のシンプルなものに変更等、予算削減で、最終的には約15億円で造られた。それが、現在は一般向けの東京港の観光船になっている。

 さて、当日の朝から始めると、下車駅は山手線の浜松町。昔からの跨線橋を進むと、窓から「芝離宮恩賜庭園」を見ることができる。階段を降りて、まっすぐに海岸へ向かう。高速道路をくぐると、景色は一変し、ホテルと海のコントラストが眼に入る。右が日の出桟橋、左が竹芝桟橋になっているが、今日は左の「竹芝小型船船着き場」へ向かう。目の前には、聊か似合わないイタリア製のクルーザーらしきものが停泊している。


    芝離宮恩賜庭園         


   インターコンチ・ホテルと東京丸

 予約はネットで簡単にでき、正面の待合室で名前を告げると、それでおしまい。乗船券も何もない。



 コロナ期間中は、定員の半分の15名のみなので、ゆっくりと楽しめる。しかし、乗船前に記念写真を撮っている間に、他の客は乗船を終えて、右側の窓際はすっかり満席になっていた。「基本的には右側の建造物を解説してゆくので、右側の席に座ることをおすすめします。」という書きものは見逃していた。だが、基本的にはどちらも変わらない。今回は、1階部分のみの使用で、この船室には左右の窓しかない。正面は、飛行機と同じで、画面が映し出されている。今はコロナ中ということで、後部のドアーが空け放されているので、そこからだけが、ガラス越しでない写真を撮ることができる。窓からの写真は、走り出して間もなく、水しぶきで、撮影には向かない。
 
 出航は、えらく静かで、走り出したことがわからないくらいだ。さすがに、イタリア製のクルーザーを感じる。日の出埠頭沿いを南へ進むと、直ぐにレインボーブリッジをくぐる。
 直ぐに、品川のコンテナ埠頭が見えてくる。続けて、大井埠頭のガントリークレーンへとつながる。この辺りまでは、赤色のクレーンがレインボーブリッジからよく見る景色だ。


 

 直ぐに、羽田空港を遠景だが確認することができる。着陸時に目安となる滑走路の延長橋で、それとわかるのだが、望遠で見ると、余剰の機体が並んでいるのが確認できる。フル稼働はいつになるのだろう。




 コンテナ埠頭でいつも感じるのは、東京港の寂しさだ。シンガポールは例外としても、アジアやアメリカでは、どの港もずら~と見渡す限りの列になっているのだが、ここでは、小さな埠頭毎に数基のクレーンがあるのみで、隣接する倉庫群も小さくて頼りない。コンテナ船も小型のものばかりで、古びた船が多い。
 ここで、大西洋から日本に運ばれるエビやアジの過半数が荷揚げされるとの説明だった。「アジ」には驚いたが、説明員の方はこの分野のベテランで、「近海のアジと、大西洋のアジは一目見ればすぐにわかる。大西洋育ちは、目がパッチリで可愛い」とか、環境決定論的には人間と同じなのだろうか。




 やがて、左舷に富士山が見えてくるのだが、写真を撮るのは旋回中に後部から見える瞬間を待たねばならない。一瞬だったが、何とか望遠で捉えることができた。ここから富士山が見えるのは、冬の午前中に限るのだろう。「今日も、午後の便では見えませんよ」と案内の人に言われた。



 
 入港する日本丸とすれ違った。富山港で見た見事な帆船だが、湾内では総ての帆が禁止だそうだ。



 折り返し点は、東京ゲートブリッジの手前。この橋のお蔭で、豊洲のIHIの造船工場は横浜に移転をさせられた。同時に、私が入社時にガスタービンの基礎試験を行った研究所の総ての施設も移転をして、今はマンションと買い物銀座になっている。この橋は、歩けるのだが、まだ一度も行ったことがない。
  この船の推進力は、高価なジェット推進で、後ろの波立ちが凄まじい。水深が浅い羽田に着岸できるように、船の喫水も1.2メートルと浅く設計されているのだそうだ。




 やがて、お台場沖を通過して、築地市場とオリンピック村の建物を見ることができる。このビル群の住宅への改造も、当初からの設計とは云え、かなり大変なようで、人が住めるにはまだ2年近くかかるようだ。先ごろ、マンションを買った客と建設会社間で裁判沙汰になっているようだ。





再びレインボーブリッジをくぐると、そろそろ終点になる。ジェット船なので、停船後に向きを180度変えている。その様子は、正面の画面で見ることができる。






 70分間、説明員の方は終始しゃべり通しだったのには驚かされた。分厚い原稿が目の前にあった。オリンピックの時には、実際にどのような活躍をしたのかは、まったく触れられなかったのは、少し残念に思う。

 

メタエンジニアの眼 204 アーリア人の侵入

2021年12月19日 15時37分46秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼 204

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

TITLE:アーリア人の侵入

初回作成年月日;2021.12.19 最終改定日;

 ゾロアスター教について、すでに多くの著書を発行している青木 健著の「新ゾロアスター教史」刀水書房(2019)では、その起源が紀元前2500年頃のアーリア人の大移動から始められている。



 私は世界の文明の始まりのうち、インダス文明に最も興味がある。文献や資料が少ないのだが、最近はいくつか新たな知見を述べる書が出てきた。大河に拠らず、東西南北に広がり、アーリア人の侵入と共に海洋に消えた文明である。南北の気候差が大きく、季節ごとに作物の交易が盛んに行われていたと云われている。
 ゾロアスター教は、その地にアーリア人が侵入した後に起こったのだが、日本の古代の神々との繋がりを感じることがある。一部が、東南アジア経由で超古代の日本にたどり着いたのではないだろうか。日本の古代人は、長距離航海をいとわない海人だった。

 「プロローグ」として、紀元前2500から約2000年間の原始アーリア人の移動の様子が、インドからトルコに至る地図で表されている。先ずは、アラル海周辺から、気候変動期に大移動が始まった。西へのグループは、ドイツ・北欧に達して、金髪碧眼の祖となった。南へのグループは、一旦イラン高原に定着したのだが、このグループに注目する。
 
 イラン高原グループは、その約1000年後に再び移動を開始した。西へのグループは、メソポタミア文明国家に阻まれて、イラン高原の西地区に定住することになった。この地域の国々の興亡は、古代ギリシア人の記録に詳しいと書かれている。最終的には、ペルシア人の祖になったようだ。

 東南へのグループは、インダス文明圏に侵入し、そこに定住した。インダス文明の衰亡とアーリア人の侵入との関係は、まだ明らかにされていない。微妙に時代がずれているというのだが、縄文文化から弥生文化への変動も、いまだに時代が特定されていないのだから、多少の時代のずれに拘るのは、どういうことなのだろう。

 この書の目的は、ゾロアスター教史なので、民族移動の話は、そこだけで終わっている。イラン高原のアーリア人が遺した「アベスターグ」と、インド亜大陸のアーリア人が遺した「リグ・ベーダ」とが、元になっているらしい。原始アーリア人には厳格な階級制度があった。神官階級・軍人貴族階級・庶民階級の3階級で、現在のインド社会にまで続いている。

 ついでなので、ゾロアスター教についても、少し触れることにする。その教祖は、ザラスシュトラ・スピターマ(白色家の老いたラクダの持ち主)という。紀元前6~7世紀の人だ。この教義は、何人かのギリシアの哲学者に影響を与えた。
 
 ヘラクレイトスへの影響は、「万物は流転する」と「火を世界秩序の要」と見なしたことが挙げられている。また、プラトンについては、実際にゾロアスター教の神官がアテネに滞在した際に行われた交流について書かれている。晩年のプラトン哲学は、その影響が強かったと記されている。特に、イデア界と現実界の二元論は、ザラスシュトラ思想との関係が指摘されている。また、ユダヤ教もバビロン幽囚中に影響を受け、バビロン解放後に大きく変容したとある。旧約聖書の中には、いくつかの類似点が指摘されている。

 第3章は、「サーサーン王朝ペルシア帝国での国家宗教としての発展」と題して、3~10世紀の間の興隆が示されている。実際に、アーリア人の神官が皇帝になっており、即位の年は、「皇帝の火の年」といわれている。

 その後のゾロアスター教は、特にインドの西海岸で隆盛を極めた。ボンベイから北は、いくつかの教区に分けられていて、それぞれの教区長は、絶大な権力と財力を保っている。

 原始アーリア人は、この歴史の過程で多くの民族に分化した。この書の付録には、それらの民族の名称と歴史、言語が一覧表で表されている。全部で11の民族で、その中には、ソグド人、パルティア人、ペルシア人、サカ族などがある。サカ族は、仏陀の釈迦族との関係が指摘されている。
 いずれにせよ、インド・アーリア語族の歴史は、途轍もなく広範に影響している。
 

 


 

メタエンジニアの眼 203 土偶の眼の謎

2021年12月17日 09時30分22秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼 203
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

TITLE:土偶の眼の謎


初回作成年月日;2021.12.17 最終改定日;

梅原猛編「東洋思想の知恵」PHP研究所(1997)には、興味深い記述が多数あった。副題は「地球と人類を救う」で、日本と中国の古代からの思想に関するそうそうたるメンバーが一節ずつ書いている。

 

 これは、1996年に上海で行われた「東方思想研究会」とういシンポジウムの講演記録でもある。そのテーマは、『行き詰った工業文明を立て直すため、また地球環境問題を解決するためには、稲作農業を基礎として発展してきた「東方思想」に基づく発想の転換がどうしても必要だということである。』(まえがきより)としている。それから20年以上経過したのだが、まだ日本では「行き詰った工業文明を立て直す」顕著な動きはみあたらない。

 この中で、安田喜憲の「森の心の新しい文明」に興味が湧く。前著「日本人の自然観」で、北緯35度を境として、約五千年前に世界中の自然環境が反転したというもので、それが日本列島でも起こっていた。土偶の数が一斉に増え始めた時期と一致する、とされた方だ。

 日本の土偶の中で、突出して不思議に思われているものがある。縄文時代晩期に東北地方でつくられた遮光器土偶である。「エスキモーの雪眼鏡」などと云われている。しかし、これは全くの間違えで、「目の信仰」の表れと主張している。

 話は、中国の長江文明から始まっている。近年では、それは黄河文明よりも古く、土木工事、都市の建設、玉器の製造に優れていたといわれている。この文明の信仰の対象は、揚子江のワニをデフォルメした怪獣で、特に目が常に強調されている。その時代は3500年前で、日本の遮光器土偶の時期と一致している。

 また、当時の三星堆遺跡からは、多くの青銅製マスクが発掘されているが、いずれも目が強調、または突出している。ヒトは、死ぬと先ず目の力が無くなる。意識がなくなったヒトは、目を開くと生気を取り戻す。つまり、『目こそ人間の命の窓』(p.63)といえる。

 当時はアニミズムの時代で、『人々は自分たちをじっと見つめる大地の神々の視線を感じ、その目を持った像をつくったのである。』(p.66)その一つが、森の文化だった。

 三内丸山遺跡で有名なのが、巨大な柱で、それは長期間育成された森から生まれた。つまり、「森の文化」と云える。弥生時代になって、大規模な森林破壊が始まった。それと同時に、目を崇拝する文化が終焉した。

 日本の神社には、必ず森がある。神社は森に囲まれている。そこが、仏教やイスラム教の寺院や教会との違いだ。私は、八ヶ岳南麓の森の中で、毎年数十日間を過ごしているのだが、森の力には毎年驚かされる。森と眼の文化には共感を覚えざるを得ない。



メタエンジニアの眼(202) 日本人の自然観

2021年12月13日 11時02分40秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼(202)
日本人の自然観

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
初回作成年月日;2021.12.12最終改定日;

 日本人の自然観については、多数の書物が発行されているが、なかでも、伊東俊太郎編「日本人の自然観」河出書房新社(1995)ほど纏まったものは少ない。



 副題は「縄文から現代科学まで」で、そうそうたるメンバーが一節ずつ20項目近くに分けて書いている。縄文・古代・中世・近世・近代それぞれで、序論は梅原 猛による「循環の世界観」だ。つまり、「メタ日本人の自然観」に相応しい。

 冒頭の、安田喜憲の「縄文時代の時代区分と自然環境の変動」も有名な論説で興味が湧く。北緯35度を境として、約五千年前に世界中の自然環境が反転したというもので、それが日本列島でも起こっていた。土偶の数が一斉に増え始めた時期と一致する。

 ここで述べたいのは、最終章の伊東俊太郎による「湯川秀樹の自然観」だ。あの中間子理論に日本人の自然観が大いに関係するという。

 湯川の発言が載っている。『20世紀になりますと原子論といってもデモクリトス流のアトミズムではなくなり、素粒子というものは、できたり消えたりするものですね。これはむしろ“諸行無常”という言葉がピッタリするものですね。あるものがなくなったり、あらわれたり、また姿を変えるということが自然のありかたですね。』(p.475)という。
 そして、原子核理論でノーベル賞をとったハイゼルベルクも、『日本からもたらされた理論物理学への大きな科学的貢献は、極東の伝統における哲学的思想と量子論の哲学的存在様式との間に、何らかの関係があることを示しているのではあるまいか。今世紀初めの頃にヨーロッパでは未だ広く行われていた素朴な唯物論的思想を辿ってこなかった人たちの方が、量子的リアリティーの概念に適応することが、かえって容易だったのかもしれない。』(p.476)と述べている。

 これらの発言が、なにを意味しているのかは明白だ。原子核が陽子と中性子から成るということが明確になると、その結び付ける力は何か、が大問題になった。しかし、欧米の物理学者が到達した理論では、大いに不足する力しか出てこなかった。
 湯川は、そこに中間子の存在を主張した。当初は、見向きもされなかったが、『今、私がここに提起するような理論で実際に核力が働くならば、電子の200倍の粒子がどこかで見つかるはずだ。』(p.469)と1934年に主張した。
 そして、1937年にアメリカで電子の100倍から250倍の質量の粒子が発見され、湯川は、「それこそが、私の主張する中間子だ」という論文を発表した。

 「なぜ」の答えはこうである。ハイゼルベルクやボーアには、陽子と電子の間で光量子がやり取りされても、陽子は陽子にとどまり、実体は変わらないとの哲学があった。それは、古代ギリシアの『デモクリトスの原子論以来、実在の根底には不変な「実体」があるとする考え方の伝統があります。ちょうどヨーロッパの建築物は石の積み重ねによってできており、これがバラバラになれば不変な構成要素としての個々の石になるように、世界は一定不変の実体から成り立っていると考えているわけです。』(p.474)
 つまり、一切が「諸行無常」との考え方は、20世紀以前のヨーロッパには無かったからだ、というわけである。近代科学が始まった西欧でも、ルネ・デカルト(1596 - 1650)の機械論が唯一の世界観だった。

 ここで著者は、「グノーモン的構造問題」を提起してる。グノーモンとは、ギリシア語の「かねざし」(大工さんが使う、L型の物差し)で、問題を2次元のそれぞれの軸からアプローチをするということに思える。ダーウインの進化論や、波動力学はこの手法(gnomonic structure of creation)によって新たな着想が生まれたそうで、そのことは『拙著「科学と現実」(中公新書 1981年)に収めた論文「科学的発見の論理」で扱っている』(p.467)とある。

 なお、「グノーモン」とは、起源的には、古代エジプトで地面に垂直に棒を立て、その地点における南中の時刻と太陽の高度を測定するために用いられていた柱だった。
 それが、ギリシアにわたり、日時計用の柱となり、さらに、直角を引くために用いるL字型をした道具に対して使われるようになった。だとすると、「グノーモン的構造問題」という言葉には、聊か違和感を感じる。

メタエンジニアの眼シリーズ(201)名画は語る

2021年12月11日 07時39分00秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(201)
TITLE: 名画は語る
初回作成日;2021.12.10

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

 名画について、特に西洋画については色々な解説本を見かける。この本も、その一つなのだが、著名な日本画家が西欧画について書いているので、ページをめくってみた。千住 博著「名画は語る」キノブックス[2015]。
 著者は、日本画家(芸大日本画専攻の博士、京都造形芸術大学学長)で、ルネッサンス以降の数枚の名画の解釈が記されている。他に「芸術とは何か」、「美術の核心」などの著作がある。しかし、私がこの書を選んだのは、そのことではない。ターナーの「雨、蒸気、スピード」という絵に関する記述を見つけたからである。
 
 ターナーとは、Joseph Mallord William Turner(1775 – 1851)イギリスのロマン主義の画家。写実的な風景画家として、同時代のコンスタンブルと並び称せられることが多い。コンスタンブル展は、Covit-19の合間の昨年春に、三菱一号館で行われたが、その時もターナーの絵が、比較対象物として展示されていた。
 この展覧会では、ターナーが並んでいるコンスタンブルの絵と比べて、物足りなさを感じて、その場で一筆(確か、赤だったと思う)加えたという逸話が述べられていたから、相当なライバルだったのだろう)

 私が、ターナーに初めて出会ったのは、多分開館間もない上野の西洋美術館の展覧会で、学生時代のことだった(半世紀も前のことなので、記憶が曖昧で間違えかもしれない)。宗教や貴族社会とまったく関係ないイギリスの風絵画が、ヨーロッパの自然主義への回帰を思わせた。
 
 Rolls Royceとの新型エンジンの共同開発中には、毎年数回ロンドンで過ごす日があったが、必ず訪れるのは、大英博物館とテート美術館だった。テート美術館は、おそらく半分はターナーの絵で、当時はターナー専門の建物を建設中で、訪問の度に新たな部屋に、数枚が移動されていた。
 また、美術館の目の前にはテムズ川の船着き場があり、そこからボートに乗ると、ロンドンの中心部の好きなところで降ろしてもらえるのも、魅力だった。
 
 先週、今年最後の大学院の授業(演題は、環境・エネルギービジネスにおける企業の進化)を行ったが、こんな画面を示して、西欧が環境倫理に目覚めて、ESGやSDGsへ発展してゆく、そもそもの始まりとして話をした。
 


 本題に戻る。なぜ、「雨、蒸気、スピード」なのか。その答えがこの書にあった。たった7ページの文章なのだが、よくまとまっている。話は、ターナーと思しき画家が、ロンドンのパディントン駅からグレート・ウエスタン鉄道(ヒースロー空港からロンドンに向かうには、必ずこの鉄道を利用する)で、西(つまりウエールズ)に向かって、当時走り始めたばかりの蒸気機関車に引っ張られる、あのイギリス独特の客車に乗って出発するところから始まる。

 それまでは、馬車で写生旅行をしていた画家は、そのスピードに驚かされる。『巨大な茹で窯の外側に大きな車輪がついているような、実に滑稽で奇妙な形をしていたのです。』(p.158)として、加速されるに従って、死への恐怖まで感じ始める。それが、「蒸気とスピード」だ。
 あまりのスピードに、終には景色が全く目に入らなくなり、スケッチどころではなくなるが、そのうちに雨模様になる。『窓の外を見る私の顔を、雨と蒸気が一緒くたになって容赦なく叩きつけます。私は目も開けられないくらいです。それでも頑張って薄く目を開けてみると、午前の光は拡散され、視界全体に光る湯気となり、形はあいまいで大気と光がごちゃごちゃになっています。』(p.161)この時の情景全体が、風景画の体で描かれているのだ。画面のほぼ中央にあるはずの列車は、蒸気機関車の先頭部分しか見えない。あとの風景は全く「大気と光がごちゃごちゃになっている」。
 左端には、わずかにイングランドとウエールズの境界にあるセヴァーン・ブリッジの一部と思しき橋が描かれていて、これでGWR鉄道であることが分かる。

 ちなみに、この書には、この橋についての記述はないのだが、私はダヴィンチのモナリザと同じで、背景の意味を探りたい。ロンドンという、当時では世界一の文明の場から、未開のウエールズに向かう道が、わずかに一部だけ、かすかに残されているのだ。それが、ターナーの希望への光のように思える。
 
 ターナーがこの絵で示したのは、『非人間的スピードで進む文明に翻弄される人間の哀れさ』であり、『動き出した巨大な文明の中、それは誰にも止められないし、もう後戻りもできないのです。自然を象徴する雨、そして科学技術を象徴する蒸気は、速度を増す文明のスピードの中、そのどちらも不鮮明になり、混濁し、ただただ終焉へと向かって、私達を乗せたまま自ら敷いてしまったレールの上を一直線に突き進むしかないのです。』(p.262)で結ばれている。
 彼が、この絵を描いてからそろそろ200年近くになるのだが、この「自ら敷いてしまったレールの上を一直線に突き進むしかない」状態は、いつまで続くのだろうか。
 
 この書には、他にムンクの「叫び」について書かれており、この絵も文明にたいする不安から、耳をふさいでいるとの解釈が示されているのだが、詳細は割愛する。
 


立冬(11月7日から21日ころまで)落ち葉;2009と今2021

2021年12月05日 14時40分00秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
八ヶ岳南麓と世田谷の20年前と今
立冬(11月7日から21日ころまで)

落ち葉;2009と今2021

 八ヶ岳南麓は、11月に入ると全ての地面が落ち葉に覆われる。道路の上をカラカラと落ち葉が転がる。この辺りは、唐松、赤松、白樺が多い。赤松は常緑樹、唐松は細かい松葉になるので、ともに落ち葉とは言えない。



 一紀荘の庭の落ち葉は、白樺、ヤマボウシ、ジュンベリー、山桜などなど種々雑多になる。芝生の上に散乱した落ち葉を集めるのは骨が折れる。しかし、これをサボると、その下の芝生は一気に元気を失ってしまう。
 落ち葉にも使い道はある。埋め込んで腐葉土にするのが最上だが、焚火をして焼き芋を焼くのも良い。南天とブルーベリーの根元は北風に弱いので、落ち葉をかなり厚く根元に積もらせておくことにしている。一方で、芝生の上の落ち葉は要注意である。以前、固まって芝を覆っていたものを、ひと冬の間ほおっておいたところ、その部分が見事に枯れてしまった。だから、芝生の上の落ち葉は、丹念に取り除かなければならない。いずれにせよ、夏の雑草と、秋の落ち葉はなかなかに大変な代物である。

 数年に一度、烏山の庭に瑠璃タテハが卵を産んでゆく。瑠璃タテハの幼虫は食欲旺盛で、一匹で2本分の葉を平らげてしまう。この幼虫はこの葉っぱしか食べないので、食べ尽くすと大変なことになる。八ヶ岳では、ホトトギスは見事に茂るのだが、瑠璃タテハはついぞ見かけたことがない。第一、あの超グロテスクなとげとげの芋虫はこの辺りの景色には似合わないと思う。



10月24日に、「ルリタテハの蛹」を投稿した。大方の幼虫が消えても、蛹はどこを探しても見当たらない。

 昨日、枯れたルリタテハの葉っぱの下から、あの見事な瑠璃色の羽根が見えたので、慌てて写真を撮った。ルリタテハは、一般に花の蜜は吸わずに、樹液を吸うという。だから、羽化するとすぐにどこかに飛んで行き、他のアゲハ蝶のように、よちよちと、庭を徘徊することがない。


 
 写真の濃度を調整すると、どうやら羽化は無事にできて、羽根も広がり乾きかけたのだが、お尻の部分が蛹の殻から外れなかったようだ。



 つまり、この蛹は、枯れたホトトギスの葉っぱと、全くの擬態になっていたようだ。だとすると、今度、幼虫が現れたときには、蛹を見つけられるかもしれない。


メタエンジニアの目(200)科学と技術と哲学, 原子力時代における哲学

2021年12月05日 08時18分04秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの目(200)
TITLE:科学と技術と哲学
初回作成年月日;2021.12.5 最終改定日;

 今朝(2021.12.5)の読売新聞の書評に、「世界は関係でできている」という書の紹介があった。著者はイタリア人の理論物理学者で、書評は日本の生命科学者が書いている。この組み合わせから、中身は想像に難くないが、量子論の誕生と、その解釈についての後の第3部について、3か所が直接の引用文になっている。
 『心的世界と物理的世界は根本的に違う、という神話を一掃することができる』、『わたしたちが観察しているこの世界は、絶えず相互作用の網なのだ』、『わたしたちは科学に哲学を順応させるべきなのであって、その逆ではない』

 今の時代、劣勢にある哲学が、科学に近づこうとしているようだが、それは真逆であると、最先端の理論物理学者が言っているのは頼もしい。ここで紹介する、國分巧一朗著「原子力時代における哲学、(2019)晶文社は、まさにその一端だ。福島原発事故から大分たった3年前の発行なのだが、もし、原発に関する科学者が、事故前に、いや原発建設前に、この哲学者を学んでいれば、事故は防げたかもしれない。



 この書は、厄介な書だ。確かに表題は正しいのだが、内容は「放下」の解説書になっている。「放下」とは、理解することが極端に難しい。つまり、「この語は、副詞であり、名詞でもある」、「この語は、能動態でも受動態でもない、中動態である」、「放下とは、意志によるコントロールを離れて、しかし思惟することである」ということなのだ。

 昭和30年代に理想社から出版された、「ハイデガー選集」の第15巻が、「放下」という題名で、主文はたったの31ページで、残りは注釈と、3者(研究者、学者、教師)の対話が延々と書かれている。その本の解説書と見るのが妥当なように思える。

 カバーの裏には、短い文章が書かれている。『哲学者でただ一人、原子力の本質的な危険性を早くから指摘した人がいる。それが、マルティン・ハイデッガー。並みいる知識人たちが原子力の平和利用に傾いてゆく中で、なぜハイデッガーだけが原子力の危険性を指摘で来たのか。』とある。
 「放下」は、英国に最初の原子力発電所が稼働する直前の1955年に、ハイデッガーが、ある著名な作曲家にたいする記念講演会で語ったことの講演録になっている。第2次世界大戦後の米ソの冷戦の中で、世間は原爆への驚異を語っていたが、彼は、原爆よりも原子力の平和利用の方が危険であると明言した。
 確かに、戦後に発生した大事故や大災害は、原爆ではなく、世界中の原子炉だった。

 しかし、哲学者の彼が指摘する危険性はそれではない。人類が、常に管理をし続けなければならない、新たな技術について、深く考えることを放棄していることが、最大の危険だとしている。例え、原爆や原子力の平和利用が、反対運動により放棄されても、人類は新たに、それに代わるものを発明するというわけである。これは、新たな技術に対して、深く思惟することを放下している、というわけである。ここで何故、中動態である「放下」という言葉を持ち出したのか。その解説書になっている。
 このことを、通常のページ順に追っていったのでは、訳が分からなくなりそうなので、逆から追うことにする。
 
 研究者、学者、教師の3者による会話が延々と続いた後に、『放下を巡っては、意志によるコントロールの排除が徹底されている。(中略)その命名を為したのは「我々の中の誰でもない」。まさしく会話をしながら待っていることで、語そのものがその場に到達したかのように描かれているのである。』(p.304)
 つまり、始めから特定の問題意識を持って会話をするのではなく、なんとなく話しているうちに(つまり能動でも受動でもない状態)ある根本的な問題が浮かび上がってくる、ということを云っている。
 
 ハイデッガーは、『能動と受動の区別を意志と結びつける。放下が能動性と受動性の外部にあるということは、それが意志の領域の外部にあるということである。』(p.304)
 このことは、新たな技術について、その危険性を深く思惟するためには、総ての意思(つまり、賛成論と反対論)を捨てた自然の対話の中から考え始める必要がある、と言いたかったのであろう。

 『ハイデッガーが恐れていたのはそのような、「思惟からの逃走」ではないでしょうか。もしそうなら、かりに脱原発が実現したとしても、何も問題は解決していないことになります。同じような問題が繰り返されることになります。』(p.267)
 続けて、『ならば何を考えなければいけないか。既に問題は見えています。それは、なぜ我々は原子力をこれほどまでに使いたいと願ってきたのかという問題です。』(p.268)
 確かに、賛成論と反対論の議論の中からは、このような問いは生じてこないのだろう。

 『ハイデッガーは、原子力のような技術が世界を支配することも不気味だけれど、それ以上に不気味なのは我々がそのことについて全然考えていないことだと言います。』(p.255)

 このことは、現代に当てはめると納得がゆく。例えばAIが人間の知能を超えた結論を導き出すこと、スマホに拠るビックデータにより、大衆の行動が決められてしまうこと、などが当て嵌まる。不気味なのだが、専門家は考えようとしないで、先へ先へと進んでゆく。

 『重要なのは、「これを考えるぞ!」という態度で何かを考えるのではなくて、何か発信されているものを受け取ることができるような状態をつくり出すことであり、それが思惟であり放下である。』(p.223)
 『我々がものを考えるためには、放下の状態に到達しなければならない。』(p.222)

 このことは、メタエンジニアリングのMiningとExploringに相当するように思われる。能動や受動の立場からMiningを始めても、見えていない課題には出会えない。やはり、「放下」の状態からスタートしなければならない。

 能動性と受動性については、『中動態とはギリシア語などにあった動詞の態で、後の言語ではそれを捨て去って、能動態と受動態の対立に支配されるようになってしまいました。(中略)何事も「する」と「される」の対立で捉えてしまいます。』(p.219)

 3者の長い会話の中ほどの科学者の発言として、『我々は思惟の本質を規定することを試みています。』(p.221)として、ここから放下に関する会話が始まっている。
 ハイデッガーの「技術とテクネ―」について、日本語の「技術」という言葉をたどってゆくと、ギリシア語の「テクネ―」にたどり着く。『テクネ―というものはいったい何だろうという問いが、ハイデッガーが技術を考える際の出発点になっています。』(p.105)
 それについてのハイデッガーの発言は、『テクネ―において決定的なことは、作ることや道具を使って仕事をすることではないし、さまざまな手段の利用ということでもなく、既に述べたような開蔵ということなのである。』(p.106)
 ここで、「開蔵」とは、「所蔵されているものを開く」ということで、核分裂でエネルギーを取り出すことを指すのだが、それは、地下に埋もれている鉄鉱石から鉄を取り出すことにも適用される。

 そもそもの始まりは、この様に記されている。原子力エネルギーの利用は、どのような形態であれ「管理し続けなければならない」。それは、イコール「完全には管理できていない」ということで、その使用をひたすら望むのは、人間の技術に対する本性であり、『この力を制御しえない人間の行為の無能を密かに暴露しているのです。』(p.85)
 これが、一連の「ハイデガーの技術論」の本質になっている。






 
 

メタエンジニアの眼(199)マキャベリーの君主論

2021年12月03日 07時39分16秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼(199)
TITLE:マキャベリーの君主論
初回作成年月日;2021.12.1 最終改定日;
『』内は、著書からの引用です。

 塩野七生著、「マキャヴェッリ語録」新潮社(2003)は、少し変わった書き方をしている。この本は、彼女のイタリアに関する本の何冊目なのだろう。奥付けの略歴を見ると、先ずは、今年の大谷翔平並みに賞を総なめしている。しかし、作家というよりは、文章家と言いたい。読んだことを直ぐに文章化しないでは気が済まないのだろう。



 生きた証をどのように残すかは、ヒトそれぞれだ。大組織に入り、社長になって勲章をもらうことは現代日本の典型に思える。ひたすら論文を書き続ける人もいる。私は、塩野派で文章に残すことがそれになっている。著者のキャベリーに対する評価もそのようだ。『マキャヴェッリにとって、書くということは、生の証し、だったのです。』(p.3)とある。

 「語録」であって、彼の思想の要約や解説ではないと、最初に断言をしている。つまり、イタリア語の原書から、忠実に翻訳をした文章を並べている。理由がいくつか述べられているのだが、その一つが「フレンツェ共和国を描くのに適切な素材」と考えたとしている。古代ギリシャ、古代ローマ、ヴェネチアを書いた後で、残されたフレンツェを書くのに適していると考えたようだ。その一つに「注釈が一切なかった」ことを挙げている。注釈がないということは、その時代のそこに住む人々にとって、注釈が必要にないほどに自明なことだから、がその理由になっている。言い得て妙だと思う。
 
 もう一つの理由は、彼の独創性にあるようだ。『彼と、五百年後の日本人の間に横たわる柵を取り払ってしまいたかったのです。書かれた当時にみなぎったいた生気を、何とかして読者にも味わってもらいたかった。』(p.7)とある。私は、文藝春秋にほぼ毎号掲載されている彼女の文章は、欠かさずに読んでいるつもりだが、毎回そのことを感じてしまう。
しかし、これを読んでも、今の日本の若年層に「みなぎったいた生気」が伝わるようには、中々に思えない。

 マキャヴェッリの特に「君主論」には、賛否両論があるのが常識になっている。彼女は、その双方に反論をして、中立を保つとしている。私は、賛成派に属するのだが、それは、冒頭の「読者に」の最後にこう書かれていることにも関係がある。
 『最後に、「君主」の原語であるプリンチペとは、現代でも、第一人者、リーダー、指導者を指す場合に用いられる表現であり、「国家」も、場合によっては、共同体とか組織とかに意訳して読んでも差し支えないというのが、西欧での読み方である、・・・。』(p.14) 、とのことで、このことは日本にはあまり伝わっていない。

 そこで、二つだけを引用する。
 第7項;『人々の頭脳をあやつることを熟知していた君主のほうが、人を信じた君主よりも、結果から見れば超えた事業を成功させている。』(p.64)とある。
 これは、「君主」を「企業経営者」と読み直すことができる。すると、現代のFaceBookやGoogleに、見事に当て嵌まる。

 第52項;『誰でも、なるべくならば容易にものごとを処理したいと願うものである。だが同じことでもたやすく実現できる人と、大変な苦労をした末にしか実現できない者に分かれるのも事実である。その原因は、あらかじめできている準備を、訪れたその機に投入すべきかまたはしないほうがよいかを見きわめる判断力にあると思う。(pp.215-216)
 これは、まさしく私がその場考学で目指していたものなので、驚いた。「あらかじめできている準備」と云われると、いかにも大変そうなのだが、実生活と会社での定型業務の中では、実は全く簡単なことが大部分なのだ。

 最近は、デジタル庁などを作って、国を挙げてのデジタル化が叫ばれている。しかし、デジタル化が目的になっていて、「容易にものごとを処理したい」という本来の目的が達成できていない。「あらかじめできている準備」が皆無のためなのだろう。


メタエンジニアの眼 198 メタ世界史論

2021年12月01日 07時25分27秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼 198

TITLE:メタ世界史論

初回作成年月日;2021.11.30 最終改定日;

 岩波講座という名の全集は色々あるが、その中で「世界歴史」は過去3回発行されている。第1回目は1969年に始まり、3年間かけて完結した。ここで取り上げたのは、第2回目の第7回配本となっている、岩波講座 世界歴史1(1998)弘文堂、である。


 
 この岩波講座は、最近3回目の配本が始まった。この3つを比べるのは、面白そうだが、それは膨大過ぎて手を出す気にはならない。岩波書店に知り合いがいれば、聞いてみたい。
 私がこの巻を選んだのは、せめてその概略でも掴もうと思ったからで、この巻の副題の「世界史へのアプローチ」でも比較しようと考えたからであった。日本の学問分野で、硬直性の筆頭が「歴史学」だと感じている。特に日本史は、大御所の過去の発言が絶対で、素人の歴史研究家の説は絶対に認められないことは有名な話だ。メタ的に考えると、それはとんでもないことなのだ。

 この巻の冒頭には、「本講座の編集方針と構成」とあり、ここに注目をする。しかし、私のメタ指向には、挟んである「栞」の村上陽一郎の文章が引っかかった。彼は、科学史の分野で色々な発言をしている。
 表題は「歴史の多元性」で、たった2頁の短文なのだが、そこにメタを感じた。彼の主張は、『「世界史」といっても結局は「西洋史」である』で始まる。その一つの根拠として、「古代、中世、近代」の時代区分を挙げている。古代が終わったのは、西ローマ帝国の終焉、近代の始まりは、デカルトやニュートンの科学時代からというわけで、このことは素人の私でも分かる。彼は、この区分を『硬直した歴史感が長くはびこってきた』と主張する。

 彼は、「学芸」の立場でこのことを考える。学芸とは、学問と芸術なので、人類の歴史にとっては、誰が支配者で、どちらの国が戦争に勝ったか、などよりはよほど重要に思う。そうすると、プラトンやアリストテレスの古代史は、東ローマ帝国に引き継がれ、さらにイスラムで開花する。つまり、西ローマ帝国の終焉とは関係がない。
 
また、「近代」は、中世ヨーロッパを支配したキリスト教の教義から学芸が離れて、独立した時期と考えると、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンは未だ近代とはいえなくなる。彼らは、キリスト教の教義から独立していたとは言い切れない面がある。科学が、完全にキリスト教の教義から独立した時に、近代は始まる。
 最後には、『歴史は歴史家の数だけある。ということは、誰でも原理的には認めている。ところが、いざ「セカイシ」となると、そんな「原理」はどこかへ消し飛んでしまって、絶対に正しい歴史が一つある、と云わんばかりに、・・・。』で結んでいる。

 つまり、世界史をメタ的に捉えると、古代・中世・近代の時代区分が大きく変化する。勿論、これが定説になることは、歴史学のなかではありえないのだが、私はこちらの時代区分を支持したい。

 本題の、この巻の冒頭「本講座の編集方針と構成」にもどる。 
 先ずは、「基本的な理念」として3つのことを挙げている。第1は「個別性と共時性」である。個々の文明圏が持つ個別性と、多数の個別史の間の相関関係の模索の双方を追求すること。
 第2は「細部と構造」とあり、歴史学も他の学問同様に「モノグラフ(個別論文)」により研究者の評価が行われてきた。つまり、細部の探求である。『しかし、無数の断片をつなぎとめるための努力として、歴史の中に、一定の構造や展開の過程を把握する可能性や課題を、はっきりと意識することは必要』としている。
 第3は、「日本からの世界史」として、従来の世界史は、日本を除外した「外国史」だったが、日本を含めた「世界」をえがくこと、としている。
 その結果、全体28巻は、通常のスタイルのA系列に加えて、『時代をこえてもつ世界史的意味を考えようとする』として、その例を第5巻の「帝国と支配」を挙げている。

 さて、このような「世界史へのアプローチ」が、今回始まった3回目の講座では、どのように変わってゆくのか、第1巻は同じ表題が付けられているようなので楽しみになってきた。