生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(58) 中央道笹子トンネル

2019年10月31日 07時08分04秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(58)

題名;中央道笹子トンネル
場所;山梨県 年月日;R1.10.20
テーマ;何度も通う道   作成日;R1.10.30 
                           
 カテゴリー5クラスの強力な台風19号が東日本を襲ってから10日後の10月20日に八ヶ岳南麓の一紀荘に向かった。335回目のドライブだった。あれこれ数えると、約700回も笹子トンネルを通過したことになる。中央道と甲州街道の二通りがあるのだが、ほぼ半々だったと思っている。しかし、あの中央道のトンネル事故以来は、90%以上は甲州街道を利用することにしている。大月から勝沼までの20号線は、全て追越し禁止区間で時間がかかるのだが、沿道の景色は何度通っても飽きない。JRの線路と並ぶこともあるので、特急あずさがゆっくりと走る姿が映れば、なお良い。
 
 しかし、今回はやや事情が異なる。前日の夕刊に「中央道通行可能に」の記事が載った。つまり、台風で山肌が崩れてずっと通行止めだったのだ。そうなると、御殿場、河口湖経由になってしまう。「その場合には、所定の方法により料金の調整を行います」と国交省と高速道路会社の連名の通達があったので、これを頼りに向かうつもりだったが、その必要はなくなった。
 
 一方で甲州街道は、初狩で橋げたが沈み込み通行不能が続いている。談合坂SAで尋ねると「相当迂回が必要なようです」との返事で、詳細は分からなかった。そこで、久しぶりに中央道で笹子トンネルに向かった。途中に初狩PAがある。めったによらないのだが、久しぶりに景色を眺めようと思い、立ち寄ることにした。
 ここの景色は、視界が開けていて一見の価値がある。



 驚いたことに、いつの間にかPA全体が改修されており、一番奥に慰霊碑が建っていた。



 また、「記帳処」の建物があり、思わず中に入った。そこには、千羽鶴がびっしりと飾られている。


 

 窓脇に折り紙が置いてあったので、一枚とって折ることにした。そして、隣にある箱に入れる。これが記帳の代わりにもなる。
 横の壁には、何枚かの額があり、写真と文章が示されていた。その一枚に「設計に係わる事項」、「施工に係わる事項」などの文面があり、ゆっくり読むために写真に収めた。




 写真を解読した結果は、以下の様だった。

・設計に係わる事項
 笹子トンネルの天井板は他のトンネルに比べると非常に高さの高い隔壁板を有していたことや、採用されていた隔壁板とCT鋼の接手構造では、水平方向の風荷重がCT鋼に伝達され、CT鋼が変形することから、水平方向の風荷重によって天頂部接着系ボルトに生ずる引張力は、天頂部接着系ボルトの設計において無視できない大きさであった可能性がある。他方、このような挙動は、天頂部接着系ボルトの設計で見込まれた引張力として反映されなかったものと考えられる。
また、設計計算においてはCT鋼内に配置されたボルトが均等に引張カを負担すると仮定していたが、各ボルトが負担する引張力にばらつきがあったと考えられる。これは、ボルトによっては、経年の持続荷重に対する強度の余裕を結果として小さくしたと考えられる。

材料・製品に係わる事項
 建設当時の製品カタログ、施工原理の前提条件となる施工仕様、品質管理規定の記載が明確でなかった。これは、接着系ボルトについて、削孔深さと埋込み長が一致しないまま施工された理由の一つと考えられる。
 また、現在まで、長期耐久性について十分な知見が得られているとは言えないが、当時のカタログには「変質、老化の心配はない」と記載されていた。これは、長期耐久性について十分検討しないまま施工された理由の一つと考えられる。なお、耐久性に関する知見としては、たとえば今回の事故に関連するものとして、35年を超えて長期に暴露されたのちの接着剤引抜強度の試験結果が少なくとも我が国ではこれまでに見られない。また、接着剤樹脂の疲労や加水分解の程度と付着強度の低下の関係の考察に必要な知見も十分で無い。』

 引張り力ばかりが書かれているが、私はむしろ振動が問題だと思う。大型車両の通過時の瞬間的な風圧により圧縮力を受けるし、音響振動もばかにはならない。確かに問題はあるのだが、当時としては、やむを得なかったのかもしれない。バブル時代の土木工事はとにかくひどかった。しかし、生涯設計に携わった私には、このような結論は大いに不満が残る。つまり、もっと根本的なことが抜けている。
それは、「なぜ、天井板が必要だったのか」と、「なぜ、当初に点検方法が決められたいなかったのか」だ。
 甲州街道の笹子トンネルの方は、狭いが天井板はない。中央道も、天井板を外した後の方が快適に走ることができる。両方ともに、排気ガスの匂いで不快になることはない。天井板は、そもそも必要なかったのだ。
 
 長期間使い続けるものは、大小を問わず設計時に点検方法を決めるべきとの私の説は、メタエンジニアリング・シリーズ第22巻の「大事故」の項目にこのように書いた。『笹子トンネルの天井板の事故について検証してみる。トンネルの天井板崩落事故に関連して、特にその維持管理について、本来ならばトンネルの設計時に行うべきであったことを考えてみる。
 
 高速道路のトンネルの主機能は、『安全で快適な車の流れを保ち続ける』であり、この機能を継続させるには、メインテナンスの具体的な方法と、劣化に対する対応策が必要です。従って、そのいずれも、当初の設計者によって具体的な指示がなされなければならない。メインテナンス業者の一存で決められては、たまったものではない。トンネルに限らず、公共施設にはメインテナンスに関する規定があると思うのだが、それはあくまでも共通の最低限の事項であり、それに対して設計者が個別に細目を追加する必要がある。規定さえ満足していれば、事故は防ぐことができる、との考えは明らかに間違えている。

 例えば、どのような人工物にも機能が正しく働かなくなる寿命というものがある。この寿命の最初に現れるところが、どこでどのような形で現れるかは、設計者のみが知ることのできることと思う。そのことが、あまりにも軽視され過ぎている。
さらに、再発防止策としては、「橋・トンネル点検義務に」として、日本経済新聞(H28.1.3)の第1面の筆頭の見出しに示された。新たな年の最初の編集である1月3日の最初のニュースなので、この新聞社が年頭にあたって最も重要と判断したものと推測される。見出しのあとの3段抜きの文章には、次のようにある。
 
 『国土交通省は2014年度から道路や橋の定期点検を地方自治体に義務づける。5年ごとに施設の健全性を4段階で評価する全国統一基準を導入する。危険と判断すれば、通行規制を命令できるようにする。(以下略)』
 ここでの問題点は、「5年ごと」と、「全国統一基準」である。「5年ごと」ということは、「次の5年間は点検をしなくても安全であることを保障する」と同意語なのだが、はたしてそのような全国統一のデータや点検技術があるのだろうか。また、「全国統一基準」はやむをえないとしても、この基準さえ守れば安全が確保できると考えてしまっては、かえって全国各地の事情によって多様に存在するケースが危険になりはしないかといった疑問が生じる。やはり、個別ケースを熟知した、最初の設計者が責任をもって点検基準を作ることまで、義務化するべきであると考える。』
 
 最近思うことは、「今の日本は、何事においても中途半端に終わらせる」だ。すこし大げさかもしれないが、その傾向はますますひどくなっているように思ってしまう。


メタエンジニアの眼シリーズ(144)スポーティーゲーム 

2019年10月30日 07時15分57秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(144) 
TITLE: スポーティーゲーム

書籍名;「スポーティーゲーム」 [1998] 
著者;J.ニューハウス、監修;石川島播磨重工広報部、発行所;学生社
発行日;1998.12.20
初回作成日;R1.8.14 最終改定日;
引用先;民間航空機用エンジン技術の系統化
 
このシリーズは経営の進化を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



副題は、「国際ビジネス戦争の内幕」で、原著は1982年にアメリカの週刊誌New Yorkerに4回にわたり連載された「A Sporty Game」。当時はBoeing747が盛んに飛んでいた時代だが、ダグラス社のMD10,ロッキード社のTristar(L1011)としのぎを削っていた。ちなみに、このTristarのエンジンに採用されていたRolls-RoyceのRB211エンジンは、複合材製のファンブレードの開発に失敗し量産が約1年間遅れた。そのために、倒産し1971年に国有会社となってしまった。国有株が放出されて、民間会社に復帰したのは1988年で、17年間を要した。

 この著者は『高いリスクと低落一途の収益』と題して、このビジネスの特異性を語っている。つまり、『民間航空機ビジネスを、他のビジネスと違ったものにしているのは、それに付帯するけた外れのリスクと、巨額のコストである。』(pp.17)としている。このことは、40年近く経過した現在でも変わりがない。

 しかし、『計画が達成された場合の報酬は巨額なうえ、世界的スケールのパワーと影響力をもたらす』と記している。『10億ドル単位の開発費を投入してた機体やエンジンが市場で競争に敗れ、はかなく消えて行き、開発を担当した会社の命運を決めてしまった事例は少なくない』(pp.3)
『1952年の英国デ・ハビラントのコメット機(金属疲労による事故で二機が空中分解を起こした)以来、22機種の民間ジェット機が作られているが、これまでに利益を上げているのは、そのうちわずか二機種であると信じられている。』(pp.19) これは、Boeing707(長距離機)とBoeing727機(中距離機)を指している。
 
 さらに、技術的には『ジェット旅客機ほど冶金工学やエレクトロニクスおよびコンピューター等のハイテクノロジーが結合された技術手法で進歩と改善が行われている工業製品は他にあるまい。』(pp.22)とあり、これも現代に通じる。
 世界最先端の技術を必要とし、かつ世界市場と巨大な開発資金を手に入れなければならない事情から、この分野では国際共同開発が古くから定式化している。『すべての大手機体メーカーとその政府は、自分たちの製品から国籍上の色彩を薄めることを認めている。』(pp.25)、がこのことを明確に示している。

 エアラインが新たな機体の導入を決めた後に、エンジン選定が行われる。その際に、エンジン・メーカーは巨大なコンセッション(値引きなどの優遇条件)を強いられることになる。しかし、それを受け入れられる条件がエンジン・メーカーにはある。『エンジンは、高価なうえに複雑でおまけに傷っきやすい。 エンジンの補修の頻度は、他の部品での割合よりもずっと高い。つまりエンジンは非常に高度なアフター・サービスを要するのである。これはプロダクト・サポートと呼ばれている。エンジン・メーカーは、補修用の予備部品の販売により、機体メーカーよりもずっと大きな金を稼ぐ。エアラインが保有機材に費やす額の半分以上が、エンジン・メーカーに支払われる。旅客機の価格の四分の一が搭載エンジンと多数の予備部品である。しかし、一五年あるいはそれ以上の旅客機の寿命を通じて、エアラインはその搭載エンジンと予備部品の価格の二倍ないし三倍の金額を支払うことになる。』(pp.123)

このために、エンジン・メーカーと機体メーカーの中はあまりよくない。機体の性能が思ったよりもよくない時の問題がそれである。
『エンジン・メー力ーが競争提案の中で提唱するエンジンの推力と燃料消費量に関する主張には慢性的な論争が存在している。ボーイングはエンジンも含め旅客機全体の性能を保証しなければならない。だから、エンジン・メーカーの主張をう呑みにせず懐疑的に取り扱う。エンジンの推力は正確に測ることができないので近似値に過ぎないし、おまけにエンジン・メーカー三社はそれぞれ違ったやり方で測っている。ボーイングの技術者は”エンジンの推力にはハートフォード・ポンド(P&W)、シンシナティ・ ポンド(GE)およびダービー・ポンド(RR)の三つがある“と厳しく指摘する。(訳注ー通常、エンジンの推カはポンドで表示される)。』(pp.124)というわけである。

・エンジン技術の系統化の大きな流れ

 第2次世界大戦中に活躍をしたのは、プロペラ機であったが、戦争中に各国で開発されたジェット機は、終戦後まもなく民間航空機として驚異的な発展を遂げた。ジェット機は、プロペラ機に比べて、巡行飛行速度を2倍に、1マイルを飛行するための座席当たりのコスト(座席マイル・コスト)を半分にしたからであった。
 さらに、エンジンの前面にファンを取り付けるアイデア(ターボファン・エンジン)は、エンジン性能を飛躍的に向上させた。このアイデアは、ジェットエンジンの生みの親のホイットルにより1940年代に示されていた。このエンジンために、効率の向上と共に、エンジン推力の巨大化が可能になった。それを実現したのが、米軍の輸送機ギャラクシー(C-5A)プロジェクトだった。要求されたのは、当時の最大推力エンジンの約3倍であった。このために最も重要であったのは、タービンの高温化であり、タービン翼の冷却技術の研究と開発が一気に加速された。(pp.251-254)
 この時開発されたエンジン技術を、民間機に適用してB747のエンジンが生まれた。、

・日本のエンジン・メーカーの国際共同開発への参加(その時代の国際間の事情)

 『あらゆる新しい旅客機プログラムは、他の何にも増して、高額の賭け金のかかったポーカー・ゲームに似ている。そして、一五〇席機の賭け金は最終的にはかつてないほど高いものになるかもしれない。この特別なゲームで、もし切り札があるとすれば、それは日本である。米国と欧州の三大機体メーカーは、いずれも日本の政府および業界と真剣な交渉を行ってきている。前にも述べたように、米国も欧州もたがいに、相手が日本とパートナーシップを組むのを思いとどまらせようとしている。 大型の民間航空機にかかわるゲームに日本が参入しようと決意していることを疑う者は誰もいない。民間航空機は、日本がこれから獲得せねばならない最先端技術を結集したものである。これに挑戦すること、すなわち、先端技術を組み合わせることを十分マスターすることは、日本の他の先端産業に大きな利益をもたらし、その結果、日本経済を全般的にバックアップすることにもなろう。日本は、自国の経済とその永続性に効果のある事柄については、戦略的に考えている。』(pp.493-494)

 これはまさに、当時の通産省の考え方だったと思われる。
さらに日本については、『米国のパートナーと仕事をしたいと望んでいる。おそらくもっとも重要だと思われることは、日本が旅客機ビジネスのあらゆる面、すなわち、設計、組立、マーケティング、プロダクト・サポートのすべてにわたって学びとろうと望んでいることである。世界中で数社の企業は、これらのうちのいくつかの点ではボーイングと同じくらいにうまくやっているが、全部にわたって同じようにやれるところはないのである。』(495)
 
また、『日本は米国同様、強情なまでに独立心が強く、また自信も強いので、ボーイングにとって日本とのパートナーシップは両刃の剣である。それを避けることは、競争相手に大きな利点をくれてやることになるし、日本を受け入れることは、日本が次に来る旅客機でボーイングと競争するのに必要なすべて手法を学ぶのを手助けすることになる。パートナーシップは、両者が競争するよりも一緒に仕事をしたほうがお互いに大きな利益になる場合にこそ、長続きするものである。しかし、米国の航空機メーカー達は、日本がこの難しいビジネスをマスターしたあと、独力でやり出すのではないかと考えている。』(pp.497)
 
そして、米国が持ち続ける日本に対する脅威としては、明確にこのように述べている。
 『日本は、先端技術産業の分野で主要な勢カになるための、そして潜在的には支配的勢力になるための 、たしかな技術を持っている。MITIの名前で知られる日本の通商産業省は、新しい分野へ進出するために数社の大企業を選び出し、その初期段階では、これらの企業のやることの大部分に資金援助を行う。技術は海外から買い入れるか、あるいはMITIによって奨励された合弁企業により吸収する。やがてこれらの企業は、少なくとも欧米のそのうちのいくつかはこれまで日本を手助けしてきた。同種の先発企業と同等の技術力を身につけ、同じ競争力を持つようになる。』(pp.497)
 
 この著書が発表されてから40年近くが経過した。その間に、民間航空機製造の分野は驚異的な技術革新を経て、十分な採算性を得るに至った。それに伴って、『計画が達成された場合の報酬は巨額なうえ、世界的スケールのパワーと影響力をもたらす』は実現した。
一方で、「米国が持ち続ける日本に対する脅威」は当たっていた。繊維に始まり、鉄鋼、造船、家電、自動車、エレクトロニクスと次々と日本のメーカーは必要な技術と市場を獲得した。しかし、最後の砦となる民間航空機に対する欧米の防御は堅く、日本は、特にエンジン分野では、もはや覇権争いに参加することは不可能な状態に押しやられた。


メタエンジニアの眼シリーズ(143)メタ倫理学

2019年10月27日 09時06分51秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(143)
TITLE: メタ倫理学

書籍名;「メタ倫理学入門」[2017]
著者;佐藤岳詩 発行所;勁草書房
発行日;2017.8.20
初回作成日;R1.10.22 最終改定日;
引用先;メタエンジニアリング

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。


 
 副題は「道徳そのものを考える」で、まさに「メタ」という言葉の意味と価値を知るのに良い書のひとつとして選んだ。
 「はじめに」では、メタ倫理学は『おおざっぱに言えば、倫理について後ろに一歩下がってあれこれ考えてみる、というのがメタ倫理学である。』(pp.ⅰ)としている。メタエンジニアリングも、「エンジニアリングについて後ろに一歩下がってあれこれ考えてみる」という言い方が、正しいのかもしれない。

 続けて「悪いこと」についての卑近な例について述べている。
『詐欺犯が悪入なのも当たり前だ。しかし現に世の中にはいじめも詐欺も存在している。彼らはそれらが悪いことだとわかっていないのだろうか。それとも悪いとわかっていてやっているのだろうか。悪いとわかっているのなら、どうして彼らはそんなことをするのだろうか。
こうしたことを考えるためには、悪いことをしてはいけないのはなぜ、どういう意味で当たり前なのか、ということを問う必要がある。そして、そうした問題を扱うのが、メタ倫理学だ。そのため、本書は倫理学を扱う著作ではあるが、「いじめは悪いことだからやめよう」などの直接的な主張を行うものではない。代わりに、本書で扱う問題は以下のようなものである。』(pp.ⅱ-ⅲ)

そして、倫理一般に広げて、『「善・悪、正・不正、~すべき、などといった倫理にかかわる言葉は、本当はいったい何を意味しているのだろうか。」「「これは善いことなのだろうか」とか「これは間違ったことなのだろうか」「私はどうすべきなのだろうか」のような倫理や道徳の問いに正しい答えはあるのだろうか。」
「正しい答えがあるとすれば、それはどうすればわかるのだろうか」』(pp.ⅲ)

つまり、「道徳的なもの」について、一歩下がって考え始めるというわけである。著者は、あえてこの書の中では、肯定的な意見と否定的な意見を併記して、結論は求めないとしている。

「メタ倫理学は何の役に立つのか」と題して、その役割を二つに纏めている。役割の第1は「議論の明確化」。議論のために、その土台を整理しておこうというわけである。捕鯨に対する賛否両論の存在について述べた後で、

有名な、捕鯨の良し悪しの議論については、
『両者の前提としている道徳の理解が違っているせいで、議論がかみあわないということがしばしばある。 たとえば、前者が「文化や時代を超えてどんな人でも従わなくてはならない共通で普遍的なもの」を想定し、後者が「人や文化によってそれぞれ違うもの、別の文化に属する人々に自分のものを押しつけてはいけないもの」を想定して、それぞれ道徳という語を用いているとすれは、二人の「捕鯨は道徳的に許容されうるか 」という議論はかみ合っているように見えて、実際にはまったくかみ合っていない。
この場合にまず考えねばならないのは、鯨を食べること自体の是非以前に、道徳は文化を超えるようなものであるのか、いい換えれば普遍的なものであるのか、である。』(pp.10-11)

 役割の第2は、「自分たちの道徳の見直し」としている。ときとして暗黙の了解としている、固定観念、偏見、先入観などでは、否定的なものが多い。そのことが、日常的な事柄に影響をしているというわけである。「何々をすべきだ」という言い方は、本当に正しいのだろうか、ということを掘り下げようとしている。

面白いのは、第9章の「そもそも私たちは道徳的に善く振る舞わねばならないのか」という命題を、次の文章で始めている。
『本書ではこれまで「道徳的な問いにはそもそも答えなんてあるのか」「そもそも道徳的に善いとはどういう意味なのか」「そもそも道徳判断とは何なのか」等々、様々な「そもそも」を論じてきた。本章では、そうした議論を踏まえつつ、最後に「そもそも私たちは道徳的に善く振る舞わねばならないのか」「そもそも道徳は大事なのか」という問題を取りあげる。』(pp.278)

倫理学には、大きく分けて「規範倫理学」と「応用倫理学」がある。前者は通常の倫理学で、何が善いか悪いかの問題。後者は、規範倫理学を受けて、例えば色々な職業の人たちが倫理的に善く振舞うには、どのようにすべきかを論じる分野としている。つまり、われわれは応用倫理学の中で、判断をして生活をしているというわけである。それは本当に正しいのか?

ここで、話は西欧に移る。プラトンの対話篇の中のソクラテスとグラウコンの対話に出てくる「キュゲースの指輪」の逸話だ。その指輪は、嵌めると透明人間になり、自由に悪事を働くことができる。そのとき自分はどうするか、少しぐらいの悪事はやってみたくなるのではないか、といった話になる。このことは、英語では「Why be Moral」問題として扱われる。
そこでは、「道徳的な良し悪し」ではなく、あることが道徳に係ることか否かになる。「経済的に」、「宗教的に」、「美的に」というときには、問題がはっきりするが、「道徳的に」といった時には、曖昧になってしまう。それを突き詰める知、「道徳的に善く振る舞うべき理由などない」という意見も出てくる。

次に『非実在論者はそもそも道徳は実在していないと考える。善いことも悪いことも本当はこの世界にはないのだ。そのためそれに従う理由も直接には与えられない。中でも道徳全廃主義者のような人々は、存在していない道徳について、さもそれらしく語ることは百害あって一利なしなので、道徳に従う理由などこれっぽっちもないと主張する。』(pp.283)
 『最後に、科学主義的な考え方によれば、道徳とは私たちが生存戦略として身につけてきた反応の一種に過ぎない。こういった考え方は、道徳の正体を暴露するという意味で「暴露論証」(debunking theory)と呼ばれることがある。 たとえば、道徳を身につけて相互に助け合う種は、他の種よりも過酷な環境で生き抜くことができたかもしれない。』(pp.283)との説を紹介している。

 それでは、理性主義に基づいて「ヒトとしの最終価値」という立場で考えるとどうなるか。「道徳は、何かの手段ではなく、それ自体が重要かつ尊いものなのだ」と感がる。例えば、「カント主義」で言われる、「人間は理性による反省の働きで、尊重に値する唯一の存在」とすると、道徳が基本原理になる。一方で、「アリストテレス主義」的には、「そもそも、道徳と理性は切り離せない」として、「理性を正しく働かせれば、自ずと道徳的になる」というわけである。

 しかし、そこの反論は存在する余地がある。
『むしろ「人として」欠けたところがないことにどれだけの重要性があるだろうか、と道徳に懐疑的な人
は再反論できるのではないだろうか。皆が外道をいくのなら、自分だけが必死になって正道を歩む意味がどれだけあるのか。結局は、「人として」完璧であることを目指したい聖人だけが、道徳を大事にすればいいんじゃない?と反理性主義者は言うかもしれない。』(pp.298)

 そこには、「直観主義者」が存在する。つまり、道徳はいちいち理性の判断を必要とするものではなく、ことにあたって善くあるべきことを直観的に判断することができる、というわけである。これらの議論には、結論はない。
 
 この書の内容を、アリストテレスの「ニコマコス倫理学」の内容と比較すると、現代の人文科学が細分化されているための迷路を強く感じる。アリストテレスは、個々の疑問に対して、断言を加えている。さらに、その先の「形而上学(この日本語は好まないのだが、書籍の名称がそうなっているので、仕方がない)」の記述も、言葉の定義を含めて明快になっているように思う。現代は、個別最適解を求めるが故の議論が多すぎる。それはそれで、優れた論文として評価されるのだが、そのような状態はいつまで続くのだろうか。
やはり、「メタ」の視点は、一歩下がるのではなく、一つ上の次元で考えた方が良いように思う。


メタエンジニアの眼シリーズ(142)賢者たちのダイアローグ

2019年10月26日 14時52分32秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(142)
                                                            
書籍名;「賢者たちのダイアローグ [2019] 編者;野中幾次郎・紺野登 発行所;千倉書房
発行日;2019.5.12
 
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。



副題は「トポス会議の実践知」とあり、12回(2012~2018)にわたる会議の内容を示している。各回のテーマに対する発言の概要と、120人の講演者の代表者の短文が載せられている。項目が多いので、キーワードの列挙にとどめた。

0. はじめに;「形式知万能主義の崩壊」野中幾次郎
 ・人間の知力はIQではなく、意欲、自制心、やり抜く力、感謝などの暗黙知系で育つ。
 ・未来の創造は、経験(暗黙知)の本質を言語化、理論化、コンセプト化して普遍性を持たせる。
 ・マネジメントの究極の考え方は、アリストテレスの「共通善」という価値基準。
 ・全世界的な視点で「善」とは何かを考える場所「トポス」が必要と考えた。

1. 人間の知性とコンピューター科学の未来
 ・195手詰め将棋、プロで2日かかるが、コンピューターは0.1秒で解いた(米長邦夫)
 ・「みる」は見、視、観、看の4種類あるが、「観」は人間だけのモノ。(米長邦夫)
 ・シンギュラリティー大学教授として毎年講義、これを信じる学生は5%だけ。(Paul Saffo)
 ・人間の最も根本的な欲望は、協力し合い、話し合い、新しいことを発見すること。(Paul Saffo)
 ・ダイナブックのBOOK(Basic Organization of Knowledge;知識の基本的な統合)。(Alan Kay)
 ・ソクラテスは自分の教えを文章に残すことに反対した。(同上)ブッダ、キリストも同じだった
 ・感情が冷めると知性も機能しなくなる。AIの核心は「マシンと脳の相互可塑モデル。(Cath. Malabou)
 ・「AI(After Internet)の9原則。地図⇒羅針盤、教育⇒学習、強さ⇒回復力、安心性⇒リスク(伊藤穣一)

2. ソーシャル・イノベーションと21世紀の資本主義
 ・企業は、経済機関としてではなく、社会機関としての活躍が求められる。
 ・資本主義が変容して、企業が社会的活動で利益を生む時代が訪れる。
 ・エピステーメ(科学的知)、テクネー(技術的知)は無目的で、フロネシス(実践知)で選択し活用。
 ・CRS(Corporate Social Responsibility)⇒CSO(Opportunity)。 責任⇒機会へ。
 ・ドイトン開発プロジェクト、健康・生計・教育の自助努力を援助で半世紀活動。(Disnadda M R Diskul)
  阿片農民⇒林業労働者(コーヒー、ナッツ)で毎日の現金収入へ

3. 日本の安全保障とグローバル・ビジネス
 ・必要あれば戦うことが安全保障 ⇒ロボットの役割(覚悟への言及がない日本)(Martin Creveld)
 ・グローバル・リスク;アメリカの殺人事件は日本の5.7倍、強盗事件は39.6倍(大越 修)
 ・問題が発生した時に国民をどう守るか。沖縄の第3海兵遠征軍の広大なカバー範囲 (Michael Green)

4. イノベーティング・イノベーション
 ・イノベーションの本質は、脱国家主導、脱サプライサイド経済。
 ・システム全体を把握して、リニアモデルからコンカレントで螺旋状に課題解決を。(国井秀子)
 ・米国の復活と日本の課題。相手の持っていないものへの集中とビジネス戦略(安藤国威)
 ・若い世代の活用法;知識に執着せずに、現在関係ない他のメソッドの活用を。(Alan Kay)
 ・戦争に対する懸念 ⇒製造過程で色々得られて、多くは民分野で応用可能(同上)

5. 日本のソーシャル・ランドスケープを構築する
 ・地形を読み、土地の有する潜在力と社会資本を統合して、新たな社会基盤を創造する。
 ・無限から有限(ベルサイユ宮殿)と有限から無限(竜安寺)の根本的な違い。
 ・意識(経済)・潜在意識(教育)・無意識(家族観)の3レベルで考える。(Emmanuel Todd)
 ・日本とドイツは、教育の高度化と家族レベルでの生活の仕方に矛盾がある ⇒出生率の差。(同上)
 ・都市経済学+地域経済学+国際経済学 ⇒全体を包括した空間経済学へ。(藤田昌久)
 ・頭脳の多様性と自立性(個人、企業、教育、大学、都市、地域での蓄積で相乗効果を)(同上)

6.エイジング3.0
 ・エイジング1.0;ただ歳をとる。 エイジング2.0;近い将来直面する課題を取りざたする
 ・エイジング3.0;2050年に向けた賢者の域から、働き方、知のありかた。⇒社会システムと実体の乖離の中で 
     ⇒人生における本当の目的 (アリストテレス的発想)⇒自分自身、真の目的。
 ・テイツアーノ「賢慮の寓意」ライオン、オオカミ、犬 ⇒男性、老人、若者を示す ⇒賢慮のありか
 ・知のペアリング;長老のうろ覚えと若者の検索力 ⇒フラットなネットワーク、新たな知の生成

7. 賢慮資本主義宣言
 ・新しい資本主義のあるべき姿 ⇒日本発の資本主義を構想する
 ・長寿企業の実践知経営が日本型の資本主義の原点 ⇒賢慮の視点
 ・経済成長(パイを大きくする)と所得配分問題 ⇒不平等の肯定と否定論(吉川 洋)
 ・ハイエク思想;自由な条件下での歴史的発展の事実(暗黙知の中にある)⇒知の結合(太子堂正称)
 ・プルーラル・セクター(多元的部門)による官民バランスの創造と維持(ヘンリー・ミンツバーグ)
 ・今の資本主義ではバランスは保てない。自立・独立性のあるプルーラル・セクターに期待(同上)・
 ・政府が資本主義の転換期を認めていないのは異常(J.K.ガルフレイズ)

8.「産業・社会・環境」革命の衝撃
 ・哲学・倫理学、歴史・文化から未来を考えるための実践知を知ること
 ・IOTではなく、IOE(of everything)と考えるべき。
 ・次世代はハイパー・コネクテッド・ワールドで、ビックデータで全てが繋がる。(佐伯秀幸)

9.都市のイノベーション
  ・グーグルの都市イノベーション、「サイドウオーク・ラボ」と「インターセクション」活動
  ・都市内でのface to face交流がより重要になる。(ジョエル・ガロー)
  ・グロバル・シティーの主要機能は仲介、経済の媒介(サスキア・サッセン)

10.人新世のヒューマン・ビルディング、次世代を拓く人間の創造
  ・「現象学」は、アートとサイエンスを綜合する哲学であり企業経営に有用
  ・人間の主観は共感から生まれたとする現象学の次世代への影響(野中郁次郎)
  ・社会にとっての教育の意味と重要性が増す。(ヤン・スターマン)
  ・世阿弥の「初心忘するべからず」は、歳をとってから過去は捨てることによる初心(安田登)
  ・薪能の現象学は、雨が降りそうになると、合図も無しに最後の場面に飛ぶこと(同上)

11.21世紀にふさわしい日本的経営を構想する
  ・「効率とは物事を正しく行うこと、効果とは正しいことを行うこと、byドラッガー(R.ストラウブ)
  ・ドラッガーは経営について考えるときは、つねにwhyから始めていた。(同上)
  ・日本は米国型モデルは中途半端で良い、新たな現実(高齢化、モジュール化)へ(S.K.ヴォーゲル)

12.社会への満足度を高めるオルタナティブ創造社会への挑戦
  ・米国と中国との中間型市場経済の日欧(加護野忠男)
  ・中間型はライン型資本主義で、株主第一ではなく、様々な利害関係者への配慮(同上)
  ・京セラの強みは、平凡な技術から非凡な結果を出す仕組み。新技術では勝てない。(同上)


メタエンジニアの眼シリーズ(141)「動的平衡」

2019年10月16日 08時32分20秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(141)
TITLE: 「動的平衡」
書籍名;「動的平衡」[2009]
著者;福岡伸一 発行所;木楽舎
発行日;2009.2.25
初回作成日;R1.10.11 最終改定日;

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 この本は、一時期話題に上ったが、その後は忘れていた。当時は、言葉の真意が良くわからずに、読むこともなかったのだが、近年(2017)小学館から新版が発行された。そこで、最初の版を読んでみることにした。その前に、「動的平衡」の意味を確かめる。色々な意味があるようで面白い。Wikipediaには次のようにある。
 
『動的平衡(dynamic equilibrium)とは、物理学・化学などにおいて、互いに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、系全体としては時間変化せず平衡に達している状態を言う。
系と外界とはやはり平衡状態にあるか、または完全に隔離されている(孤立系)かである。 なお、ミクロに見ると常に変化しているがマクロに見ると変化しない状態である、という言い方もできる。これにより他の分野でも動的平衡という言葉が拡大解釈されて使われるが、意味は正確には異なる。これについては他の意味の項を参照。』
とある。そこで、「他の意味」も引用する。

『他の意味;動的平衡という用語は、分野によっては、むしろ物理用語でいうところの「定常状態」を使うべき場合もある。定常状態とは、系が平衡状態にない外界と接している場合にのみ起こり、流れがあるが時間変化が見られない、すなわち系への出・入の速度が等しい状況をいう。
たとえば、経済において、資本のフローが一定であれば、安定した市場が成立する。また、生物の出生率と死亡率が同じ場合、個体数は変化しない。このように、経済学・生態学・人口学でも、本来とは少し異なる意味で、動的平衡という言葉が使われている。』

つまり、自然科学と人文・社会科学の両方にまたがる言葉なので、そこが面白い。ついでに、著者の福岡 伸一(日本の生物学者。青山学院大学教授。専攻は分子生物学。農学博士)についての記述もある。「福岡伸一の動的平衡」の項目がそれである。

『ルドルフ・シェーンハイマーの提唱した「生命の動的状態(dynamic state)」という概念を拡張し、生命の定義に動的平衡(dynamic equilibrium)という概念を提示し、「生命とは動的平衡にある流れである」とした。生物は動的に平衡な状態を作り出している。生物というのは平衡が崩れると、その事態に対してリアクション(反応)を起こすのである。そして福岡は、(研究者が意図的に遺伝子を欠損させた)ノックアウトマウスの(研究者の予想から見ると意外な)実験結果なども踏まえて、従来の生命の定義の設問は浅はかで見落としがある、見落としているのは時間だ、とし、生命を機械に譬えるのは無理があるとする。機械には時間が無く原理的にはどの部分から作ることもでき部品を抜き取ったり交換することもでき生物に見られる一回性というものが欠如しているが、生物には時間があり、つまり不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度おりたたんだら二度と解くことのできないものとして生物は存在している、とした』

冒頭の「青い薔薇―はしがきにかえて」の短文が示唆に富んでいる。Fハカセが赤い薔薇をツユクサのような鮮やかな青に変えたいとして、遺伝子などをいじくりまわす。青くするための酵素群、赤くするメカニズムの除去、青を拒絶する酵素の除去、青い色素を安定化させる細胞内環境などである。
その結果、Fハカセは鮮やかな青い薔薇を咲かせた。しかし、ハカセはそれがどこから見てもツユクサだったことに気づかなかった、というわけである。この話は、生物が「動的平衡状態」でなければ成り立たないことを示しているように思う。

 「プロローグ」として、「生物現象とは何か」が14ページにわたって書かれている。彼がアメリカ滞在中に実際に出会った様々な高名なバイオ学者の成功・失敗の実話だった。そして、最後にこのように結んでいる。バイオの先端研究は、とてつもない利益が期待されるベンチャーを育てるが、多くの場合それは一時的なものであった。

 『しかし、それはどこまでも一時のニュースであり、多くの場合、まもなく色槌せたものとなり、次のニュースによって塗り替えられる。なぜだろうか。 それは、端的にいえば、バイオつまり生命現象が、本来的にテクノロジーの対象となり難いものだからである。工学的な操作、産業上の規格、効率よい再現性。そのようなものになじまないものとして、生命があるからだ。 では、いったい生命現象とは何なのか。それを私はいつも考える。』(pp.23)

 生命体、すなわち人間はとてつもない数の細胞からできている。そして、その細胞は常に新しものと入れ替わっている。つまり、

『生命現象が絶え間ない分子の交換の上に成り立っていること、つまり動的な分子の平衡状態の上に生物が存在しうる』(pp.32)
 この文がすべてを語っているように思う。そこから、「記憶とは何か」の論議が始まる。当時は、脳の中の記憶物質を突き止める研究が盛んだったのだが、それを真っ向から否定した人物がいた。それが、先に挙げた、ルドルフ・シェーンハイマーの提唱した「生命の動的状態」という概念であり、この著書は全体としてこの理論にそっている。

 『すこし冷静に考えれば、常に代謝回転し続ける物質を記憶媒体にすることなどできるはずもない。だから、音楽やデータを記録する媒体として、我々は常により安定した物質を求め続けてきた。レコード、磁気テープ、CD、MD、HD……。 ほんの数日で分解されてしまう生体分子を素子として、その上にメモリーを書き込むことなど原理的に不可能だ。記憶物質は見つかっていないのではなく、存在しようがないのである。ヒトの身体を構成している分子は次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。それは脳細胞といえども例外ではない。』(pp.34)

 この論理からは、自分自身の「昔の記憶」について、面白い論理が展開されている。頭のどこかに記憶が刷り込まれているのではない。頭の中は、クリスマスツリーの豆電球のように考えればよいそうだ。
 豆電球の回路が無数にあって、ある回路に電流を流すと、星座のような形が出てくる。それが昔の記憶だ。豆電球は古いものではなく、新しいものに取り換えられている。だから、記憶は過去のものではなく、現在の頭で新たに生成されたものということになる。

 つまり、こういうことなのだと主張している。

 『そこには因果関係があるのではなく、平衡状態があるにすぎない。私たちが「記憶の想起」と呼んでいるものも、実は一時点での平衡状態がもたらす効果でしかない。
大半の方がそうだと思うが、私たちは五年前や10年前の一年の過ぎ方がどうだったかなどと思い出すことすらできない。過去は恐ろしいほどにボンヤリしたものでしかないのである。 仮に「五年前にはこんなことがあり、1〇年前にはあんなことがあったなあ」と思いだすことはできても、それは日記なり写真なり記念品があるから、それを手がかりに過去の順番をかろうじて跡づけられるのであって、感覚としては、1〇年前のことが五年前のことよりも、より遠い昔のことだという実感を持つことはできない。』(pp.35)

 このことが理解できると、後の章はその展開になっている。詳細は割愛する。
  『汝とは「汝の食べた物」である、「消化」とは情報の解体』(pp.61)
 『骨を調べれば食物がわかる』(pp.62)
  『体重を増やさない食べ方』(pp.96)
 人間の食物はすべて、かつては他の生物だった。その生物のたんぱく質が分解されて、新たな形に合成されて人体の細胞になる。そのことを色々な角度から述べている。このことから、『もう少し謙虚になるべきなのだ。私たちは、たとえ進化の歴史が何億年経過しようとも、中空の管でしかないのだかないのだから。』(pp.74)

そして、再び生命論に戻る。
 
『では、それを機械のように組み合わせれば、生命体となるだろうか。否である。合成した二万数千種の部品を混ぜ合わせても、そこには生命は立ち上がらない。それはどこまで行ってもミックス・ジュースでしかない。 ところが、私たち生命はその部品を使って現にいま生きている。ミクロな部品が組み合わさって、動き、代謝し、生殖し、思考までする。その生命現象においては、機械とは違って、全体は部分の総和以上の何ものかである。1+1は2ではなく、2プラスα。その プラスαは何か。それはどこから来るのか。』(pp.136)

『生物は死ぬと「生気」が離脱してその分、体重が軽くなるといったことが、かつでは真面目に議論されたのである。
もちろん、生気などというものはない。だが、プラスαはある。プラスαとは、端的にいえば、エネルギーと情報の出入りのことである。
生物を物質のレベルからだけ考えると、ミクロなパーツからなるプラモデルに見えてしまう。しかし、パーツとパーツの間には、エネルギーと情報がやりとりされている。それがプラスαである。』(pp.136-137)

このことは、テレビに例えられている。テレビを分解してもテレビの機能を理解することはできない。なぜならば、テレビは電気エネルギーと番組という情報が加わるからだ。

最後に「デカルトの罪」を述べている。
デカルトは、生命現象はすべて機械論的に説明可能だとした。(pp.226)
その考え方は、全世界に広がり、そこから、細胞操作や臓器売買が始まった。そして、ES細胞の激しい先陣争いが始まってしまった。

『果たして私たちの未来を幸福なものにしてくれるのだろうか。』(pp.228)
 これが結論のように思えてくる。好きな区とも、人間が動物として生きられなくなることは、幸福とは思えない。

メタエンジニアの眼シリーズ(140)「シュライエルマハー」

2019年10月15日 07時42分42秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(140)
                                                            
TITLE: 「シュライエルマハー」
書籍名;「哲学の歴史7」 [2007]
著者;山脇直司  発行所;中央公論社
発行日;2007.7.10
初回作成日;D1.10.15 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Exploring

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 中央公論の2019年8月号の特集記事「文系と理系がなくなる日」の中の佐藤 優の文章の一節,「シュライエルマハーの言説」から引用を確認するために、その出所をあたることにした。この「哲学の歴史」という本は、中央公論新社の創業120周年記念として出版された13巻の全集の中の一冊になっている。第7巻は18-19世紀で加藤尚武氏の責任編集で、その中に、表記の項目がある。
 冒頭には「驚くべきアクチュアリティー」と題して、彼の広範な業績が語られている。文末の結論はこうである。
 
『宗教哲学、倫理学、対話的弁証法といった分野で、シュライエルマハーの業績は、現代哲学が失った多くのヴィジョンをわれわれに喚起させてくれる。以下では、そうした彼の哲学的業績に焦点を合わせることにしたい』(pp.589)

 具体論の最初は、「諸宗教の普遍性」として、宗教の本質を語ろうとしている。まさに「メタ宗教」になっている。
 
『宗教の本質は、「有限な個別者」の中に「無限の宇宙」を各自が直観し感じ味わう」ことによって成り立つ。「字宙を直観し感じる心」こそが、形而上学的思弁や道徳と区別された宗教のキー概念である。カントにとって、宗教はどこまでも道徳的な実践理性に従属するかたちでのみ語られたが、それでは、宗教の普遍性が矯小化されるとシュライエルマハーはみなす。』(pp.590)

 これは、日本の神道や仏教に通じることで、この時代の西欧人の主張としては興味深い。さらに続けて、

 『人間は、デカルトやカントが考えたように自然と対立する存在ではない。人間は、「無限の宇宙の一員」であり、
そのことの自覚こそが人間の自由な生命力を形成する。しかしまた、人間は所与の自然に安住する静的存在者でもない。宇宙はつねに活動しており、その一員としての人問は、外的自然のみならず、みずから自然本性を含めた宇宙を、さらに発展させるよう行為しなければならない。そのような行為によって、人間は宇宙の一員としての自己をますます自由な存在者と感じとれるようになる。』(pp.590)

 彼は、多くの個所でカントの説を根本的に否定している。巻末の年表によると、1804年にカントが80歳で死去した時、彼は37歳だった。まさに、批判するには格好の歳の差のように思える。

 宇宙を直観するとは、どういうことだろうか、彼は、「他者と分かち合う」ことを主張している。
 
『宇宙の社会性(公共性)は、ある特定の民族や宗教に限定されて語られるようなことがあってはならず、つねに人類というレベルで語られねばならならない。この人類レベルでの公共性は、画一的な宗教観を否定する。キリスト教を信じるシライエルマハー にとっても、宗教の画一化ほど忌まわしいものはなかった。彼は、「諸宗教に通底する普遍性」を宇宙を直観し感じる心に見出し、その相互承認というかたちでのみ、人類の調和は可能とみなす。また、宗教という名が用いられていても、そこに人間の自由や社会を基礎づける宇宙を直観し感じる心が欠けていれば、それ宗教の名に値せず、逆に無神論が標榜されていても、宇宙を直観し感じる心に達していれば、それは宗教的だと彼はみなすのである。』(pp.590-591)

 まさに、「現代哲学が失った多くのヴィジョンをわれわれに喚起させてくれる」を感じる部分だった。そして、個人と国家の関係へと話は広がってゆく。

 『個人の自己実現のためには、「他者への愛」という感受性が不可欠である。他者への愛という普遍性を兼備してこそ、個人の自己形成は本物となる。自己実現する「個の独立性・特殊性」と他者理解のための「愛という普遍性」の相互作用によって、入間は強く美しい生命力を得るのである。
個と他者のこのような関係は、社会関係一般にまで拡げられなければならない。そのさいに重要なのは、個の自由を阻害せずに促進するような社会関係を創り出すことである。とくに「国家」と「言語」のあり方は、人間関係を左右するがゆえに重要である。』(pp.592)

 この言葉は、彼の「翻訳論」を読んだ後なので、理解できる。
 次に、具体的なカント批判(カントだけではなく、同様に人と自然の二元論にもとづく諸説を主張する当時の哲学者の多くを敵に回している。
 
『カントに対してシュライエルマハーは、力ントが理性の構築体系を少なからず語っているにもかかわらず、彼が「自然と道徳の二元論」から出発しているため、すべてに知を統合するような学問体系を提示できなかったと批判する。論理学、自然学、倫理学というストア学派的な三分法を踏襲するかたちでカントが行ったのは、諸学間の分類であり、統合ではなかった。』(pp.594)
 
 さらに続けて、『世界を初めから自然界と道徳界に、また人間を認識主体と実践主体にそれぞれ二分し、そのうえで後から双方の結節点を探るというカントの方法は、承服しがたいものであった。世界とその認識主体たる人間は、根本的に分割不可能であり、学問体系もそうした分割不可能な世界観と人間観に立脚したものでなければならない。』(pp.594)

 そして、教育論と国家論、およびそのあるべき関係についての論議が始まる。
 
『シュライエルマハーは哲学を根幹に置き、自然学と倫理学を二大部門とし、教育学や国家学を倫理学の各論として歴史的諸学問とするヴィジョンを提示する。』(pp.597)

 ここでいう「倫理学」とは、人間社会全体のことであり、エッケルトの「文化科学」と同じ内容と思う。
 当時のヨーロッパはナポレオンによって支配されており、大学と教育はまさに、明治維新の日本と同様な国家中心の実学であった。そこに彼は、真っ向から反論した。1808年「ドイツ的意味における大学に関する書簡」がそれであった。

『 実用教育と峻別された学問研究の場たる大学は、人が何らかの専門研究機関で本格的な研究を始める前に、その専門研究が他の学問領域とどのような関係にあるかを認識し、それを素人にも説明する能カを養う場と位置付けられる。従来のヨーロッパの大学は、法学、医学、神学を中心に編成されてきた。しかしそれらの学問は、そもそも国家の庇護のもとに営まれてきた学間であり、知の諸連関と包括的な体系を認識する学問とはなりえない。 それに対し、国家から独立して発達した歴史的諸学問や自然的諸学間を統合し包括するような哲学こそ、大学での中心的役割を演じるにふさわしい学問である。』(pp.599-600)
 
佐藤 優氏が引用したのは、この文章の前に置かれた11行の部分なのだが、そこは「学問と国家の癒着」についての記述であり、割愛した。

 そして、哲学の在り方についても明言している。
 
『シュライエルマハーによれば、「諸学問を媒介する学問」としての哲学は、専門的諸学間とともに学ばれて初めて意義をもつ。したがって大学の教師は、哲学を純粋思弁としてではなく、個々の専門科目と連関させて教えるよう要求される。そのさい、教師は、つねに新鮮な対話能力をもって学生に働きかけなければならない。講義は、学生への一方通行だったり、毎年同じ内容の繰り返しであってはならず、学生からの質問にも触発されて年々豊かになっていかなければならない。』(pp.600)

 この教育法がまさに、メタエンジニアリングの基礎のように、私には思える。また、日本ではカントの研究のみが盛んで、シュライエルマハーの名前さえ聞くことがないことは、大いに嘆かわしい。もし、逆であったならば、現代日本は西欧的な人間独尊ではなく、むかしからの自然崇拝の歴史が受け継がれていたように思われる。

メタエンジニアの眼シリーズ(139)「翻訳のさまざまな方法について」

2019年10月13日 15時37分19秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(139)

TITLE: 「翻訳のさまざまな方法について」
書籍名;「思想としての翻訳」[2008]
著者;シュマイエルマッハー 発行所;白水社
発行日;2008.12.5
初回作成日;R1.10.11 最終改定日;

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。


 
中央公論の2019年8月号の特集記事「文系と理系がなくなる日」の中の佐藤 優の文章の一節、「シュライエルマハーの言説」と題して、彼の著作の中からの引用を精読する前に、シュライエルマハーの2冊の著作を読む羽目になった。それらを読んで気づかされたことがある。
われわれは、現代の海外著名人や過去の偉人の著作を多数読み、そこから何かを得る。しかし、それは、本当に彼らの言説を正しく理解しているのだろうか。シュライエルマハーの「解釈論」と「翻訳論」を読むと、そのことが分かってくる。

この書の副題は、「ゲーテからベンヤミン、ブロッホまで」となっており、その時代の哲学者などが残した翻訳に関する著作を集めている。編訳者は三ツ木道夫。その中に、表記のシュマイエルマッハーの文章がある。
 
シュマイエルマッハーの著書の2冊目。1冊目の「解釈学」に続くテーマで、翻訳の技法に関する著書になっている。この頃、彼はプラトンの原書を四半世紀にわたって翻訳していた。古代ギリシャと近代ヨーロッパでは、あまりにも生活環境が異なる。まして、プラトンの表現は難しい。それらを乗り越えて、読者に真意を伝えるのは、どのような翻訳が良いのかといった内容になっている。
 
冒頭には編訳者による彼の紹介記事がある。「宗教論(1799)を書いた神学者・宗教家」、「一般解釈学の始祖」、「教育学者」そして、「プラトン翻訳(1804~1828)」の著者としている。
 この書は、「ベルリン王立科学アカデミーで1813年に行われた講義」を表しており、次の文で始まっている。
 
『私たちは、ある言語の言説が別の言語へ移し換えられるという事実を、またそれが多様きわまりない形をとるのを、いたるところで目にします。一方では、もともと地球の裏と表ほど隔てられている人々までもが、これをつうじて触れ合うことができ、また数百年前に死滅してしまっている言語が産み出したものでも、ある言語に取り入れることができます。しかし他方で私たちは、一言語の領域を越え出なくともこの現象に出会えるとは言えないでしょうか。』(pp.25)

 同じ国民でも、部族によって言葉が異なり、正しい理解を得るのは難しいと、解釈学の続きのような表現がある。

 『まったくの同国民でありながら考え方、感じ方が違うため、私たちはその他者の言説をまず翻してみなければならない、そんなことはしばしばではないでしょうか。つまり、私たちは同じ語を口にしているのに、他者の口に上るとまったく別の意味をもってしまう、そうとまで言わなくともある時はそれより強い意味を、ある時は弱い意昧をもつのではないかと感じる、あるいは、その人が言ったのと同じことを表現するのに、自分ならまったく別の語や言い回しを使うだろうと感じる場合です。私たちが自分でこうした気持ちをより詳しく規定し、これをとくと考えてみると、どうやら私たちは翻訳をしているのです。』(pp.26)

 つまり、自分自身の言説でさえ、それを本当に自分のモノにするためには、翻訳が必要というわけである。
 外国語を翻訳する際に、事実を伝える新聞時事や旅行記の翻訳者は、通訳者と見なすことができる。しかし、真の翻訳者はそれとは異なる。

 『逆に表現の中で書き手の独自な物の見方や結び付け方が優勢になってくる、つまり自発的に選びだされた、あるいは印象に因るような、何らかの秩序に従う度合いが高まってくると、すでにその仕事は芸術という高次の領域に入り込んでいき、そして翻訳者もまた、自分の仕事に別種の能力や技巧をつぎ込まねばならず、通訳者とは違った意味で著者とその言語に精通していなければなりません。』(pp.28-29)というわけである。

 さらに、交渉事の翻訳には、もっと上の能力が要求される。

 『起草の段階からすでにいっそうの学識と目配りが要求され、翻訳者の方もますます自分の仕事のために専門知識と語学上の知識を必要とすることになります。それゆえ階梯をこうして二段上がることで、翻訳者はいよいよ通訳者を経て、そのきわめて独自な領域、学芸が産んだ精神的産物へと上昇していくことになります。』(pp.29)

 さらに、学芸に関する領域では、事柄よりは思想が言説の主であり、さらに上の能力を要求される。つまり、こういうことになる。
 
『自由で高次な言説とは、それゆえ、ふた通りに理解してやらねばなりません。言説は言語のもつ諸要素 からできているのですから、ある意味ではその言語精神から生じ、この精神によって拘束され条件づけられたものとして、また言葉を発する人間において生命を得た表現として理解されねばなりません。他方、言説とは言葉を発する人間の心情から生じた行為としても、まさにその人という存在からのみ生まれ説明のつくものとしても、理解されねばなりません。この種の言説が理解されるのはいずれも、語の高次の意味においてであり、つまり言説のこうした二つの関係がともにあり、また真の関係においては相反するものだということが把握され、その結果二つのうちのどちらが全体もしくは個々の部分で優勢かが知られる時なのです。
』(pp.33-34)

 さらに高度な翻訳については、
 
『さて、それでは対立する翻訳方法はどんなものでしょうか。つまり読者に苦労や骨折りを要求しないまま、魔法のように著者を読者の目の前に出現させ、著者が読者の言語で書いていればこんな風だろう、とばかりに作品を示そうという方法です。これこそが真の翻訳者に向けられねばならい要請であると明言されることも多く、・・・。』(pp.54)

それらを突き詰めると、このようになってしまう。

『言ってみればこの目標、つまり著者がもともと翻訳者の言語で書いていたかのように訳出するという目標は、単に達成できないばかりでなく、それ自体が空疎なのです。というのも言語の形成力の存在、またこの力がどれほど国民の独自性とーつになっていることか、それを認めた者はこう言わざるを得ないからです。すなわち、いかに優れた人間といえども知識や知識全体を描き出してみ せる能力は、主にその言語と共に、また同時に。言語をつうじて身につけるものなのだ、と。』(pp.56)
 
 この書は、さすがにドイツ人と言わざるを得ない正確さで、翻訳の技法を示していると感じる。内容は、まさしくメタ翻訳ということでした。
 

メタエンジニアの眼シリーズ(138)「解釈学の構想」

2019年10月12日 09時10分57秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(138)

TITLE: 「解釈学の構想」
書籍名;「解釈学の構想」[1984]
著者;シュマイエルマッハー 発行所;以文社
発行日;1984.5.1
初回作成日;R1.10.11 最終改定日;

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 シュマイエルマッハーという名前には、あまりお目にかかることはない。しかし、メタエンジニアリングにとっては、なかなかに面白い人物のようだ。Wikipediaの冒頭の紹介記事には次の様にある。
 
『フリードリヒ・ダニエル・エルンスト・シュライアマハー(ドイツ語: Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher, 1768年11月21日 - 1834年2月12日)は、ドイツの敬虔主義の影響にある神学者・哲学者・文献学者。日本語ではシュライエルマッヘル、シュライエルマッハー、シュライアーマッハー、シュライアマッハーとも表記されるが、日本シュライアマハー協会は、原音に近い簡明な日本語表記として「シュライアマハー」で統一しようとウェブサイト上で提案している。』

 彼の名前に出会ったのは、中央公論の2019年8月号の特集記事「文系と理系がなくなる日」の中の佐藤 優の文章の一節だった。「シュライエルマハーの言説」と題して、彼の著作の中から引用をしている。内容は、大学と学問のあり方についてなのだが、その内容は別途紹介することにして、この書は、彼の思想の原点になった「解釈学」を先ず理解することにした。
 
 彼は、もともとは神学者だったのだが、当時のカトリックの教義のもとである聖書の解釈に大きな変更を加えた。解釈学の「序論」は、次の言葉で始まっている。
 
『聖書の解釈という最も限られた目的から出発することにすること。』(pp.73)
 さらに続けて、『霊感的解釈に関するカトリック教的教説。しかし何故に彼らは、その解釈のために、聖職者のみを採用するのであろうか。(中略)聖書は、その特殊な性質に応じて、一つの特殊な解釈学をも有するのではないか。』(pp.73)
 
つまり、専門家による学問の囲い込みや、その弊害について述べようとしている。
 そして、『特殊はただ普遍によってのみ理解されうる。』(pp.76) として、解釈学の説明を始めている。

『(a) 解釈学に関する通常の見解は、共にーつの全体を成してもいないものを結び付け、そしてそれゆえに、余りにも多くを包括しすぎる。他者に対して理解を表明することも、やはり再び表現することであり、それゆえに陳述することであって、したがって解釈学ではなく、解釈学の対象である。この誤解は、解釈学という名称から由来している。』(pp.76-77)
つまり、「解釈」というものの純粋かつ根本的な意味(定義)を、まず求めているように思われる。
 そして、「誤解」、「理解」、「分析」について語っている。これらを通じて、『解釈は技術である』(pp.77) と明言している。「技術」であるということは、正しい知識と論理に基づいて、新たなものを創造するということなのだから、「正しく解釈する」や「新たな解釈をする」ことは、確かに技術と云える。

 語義は、いかにして捕捉されるのか。如何にして正しく理解することができるようになるのか。この命題に対する説明を、彼は幼児のモノの名前を覚えることから始めている。

『連関と、特殊なものの比較によってのみ、人は内的単一性に達する。その内的単一性は、直観にとっては、あらゆる特殊の内に現示しうるものである。しかし、特殊なものの全体性は決して獲得されえないのであって、それゆえにこそ目下の課題は、無限の課題なのである。』(pp.94)というわけである。
この言葉は、例えば幼児が「犬」をきちんと認識できるようになる過程を示しているように思う。犬を正しく認識しても、犬に関する全体的な知識は持ち合わせることはない。

さらに、「単語の単一性」については、多くの民族の言語の歴史から、次のような段階の変化を示している。
 
『それゆえに、どんな言語せよ、或る言語がその全目標に到達するには、三つの時期があることが明らかになる。(1)その言葉が、自らの単語の単一性を未だ明噺には意識していない時期。(2) 意識が、その言語に完全に透入した時期。⑶この充実が、再び混乱と誤用を生み出す時期。
かくて、それにもかかわらず単語の単一性もまた、或る歴史的なものであって、その開花期を有している。』(pp.96)
彼の目的である「聖書」の解釈についていえば、彼は、⑶の時期に来ていると言いたいのであろう。

 この発展時期の段階にしたがえば、「辞書」の記述も、必ずしも正しいものではない。その時代のもっとも使用頻度が高いものを示しているにすぎないというわけであろう。

 「解題」と称して、古代ギリシャ時代からの解釈学を纏めているが、その中ではシュライエルマハーのこのような業績を次のように評している。
 『個別的な解釈術から普遍的な解釈学へという近代的な歩みを遂げてゆく中で、その転向の決定的な意義と役割を果たしたのが、シュライエルマッハーの解釈学的構想である』(pp.139)

 このことを通じて、少なくとも彼の著作が厳密な言語の使い方の元に行われていることは、理解される。そのことは、次の著書である「翻訳」につて明らかになる。そして、その後に初めの問題の「学問と大学」についての著作をあたることにする。


 

メタエンジニアの眼シリーズ(137)「メタ思考トレーニング」

2019年10月04日 16時10分23秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(137)       

書籍名;「メタ思考トレーニング」[2017]
著者;細谷 功 発行所;PHP研究所
発行日;2016.6.1
初回作成日;R1.10.4 最終改定日;

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 PHPビジネス新書で、副題は、「発想力が飛躍的にアップする」とあり、後半には34の設問がある。ここでは、設問の部分は切り離し、主題の「メタ思考とは何か」に限って纏める。

 接頭語の「メタ」には、いくつかの意味があるが、ここでは「一つ上の視点から」としている。つまり、「メタ思考」とは、「一つ上のレベルから考える」こと。「はじめに」ではこのように述べている。
 
『例えば「もう一人の自分の視点で自分を客観視してみる」ことが重要だと言われることがあります。このように自分自身を「幽体離脱して上から見る」ことは「メタ認知」と呼ばれ、視野を広げて自分を客観視するために必須の姿勢であると言われています。』(pp.3)

 メタ思考の主なメリットを三つ挙げている。
・気づいていない領域に思考範囲が広がるため、通常よりも多くの「気づき」を得られる。
・思い込みや思考の癖から脱することができる。
・「何故?」という問いかけで、発想の広がりから創造的な発想が得られる。

 メタ視点で考える5つの具体的な方法としては、
① 自分を客観視する
② ソクラテスの「無知の知」を脱するのは、他人の力ではできない ⇒本を読むことなど
③ 「OOそのもの」を考える
④ 上位の目的を考える
⑤ 抽象化する
を挙げている。

 このためのトレーニングとして、「Why型思考」と「アナロジー思考」を詳しく述べている。
・When, Who, Where ,Howは、具体化のための疑問詞で、Whyだけが目的を問う疑問詞。
・Whyを追求すると、①真の問題が分かる、②上位目的を考えることで、より多くの解決方法が分かる。
・戦略と戦術の違い。戦略とは、「メタの作戦」のこと。

 Whyだけが、関係性を表す疑問詞として、次のように述べている。
『Why=「なぜ?」という言葉は便利な言葉です。過去に向けて「なぜ?」を問うことで、結果に対する原因という「因果関係」をを問うことができる一方で、未来に対して問いかければ「手段―目的」を問うことができます。つまり、Whyというのは現在と過去、現在と未来を繋ぐ時間を超えるための手段ということができるのです。』(pp.46)

・Whyだけが、何度も繰り返すことができる疑問詞。
・与えられた問題に対して、「そのままアクションする」と、「why(真意)を考えてからのアクション」の違い。
・頻発する「手段の目的化」を防ぐためには、常に上位の目的を考えること。
・アナロジー思考とは、「類似のモノから推論する」こと。一旦、抽象化してから具体化をする。
・アナロジーは、一般の論理思考にはない「不連続な発想」を生み出す。


メタエンジニアの眼シリーズ(136)ジャポニズム入門  

2019年10月03日 18時54分27秒 | メタエンジニアの眼
『ジャポニズム入門』 [2000] 

著者;高階秀爾 発行所;思文閣出版
発行日;2000.11.15
引用先;文化の文明化のプロセス Converging

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



ジャポニズム学会が編集した10名の記述があるが、冒頭の高階秀爾氏の文章のみを引用する。なぜならば、意外な事実を知らされ、さすがだと感心したからなのです。
 
冒頭の4行が目を引いた。「ジャポニズム」は一般的な言葉だと思っていたのだが、広辞苑の第3版(1983)には載っていない。第4版(1993)でようやく載せられた。そこには、意外な解説が付けられている。
 
『かつては「ジャポネズリー」という言い方が好まれた。 一九世紀後半、日本趣味が盛んであった時代は特にそうである。事実、「ジャポネズリー」と言えば、一八世紀ロココの時代に中国の風俗、工芸、装飾モティーフなどへの噌好が「シノワズニムス」と呼はれたように、異国の珍しいものへの関心を特に強調するニュアンスが強い。 それに対し、「ジャポニズム」と言う時には、むろんそこにエキゾティスムの要素が大きな部分を占めているとしても、それのみにとどまらず、 そこにみられる造形原理、新しい素材や技法、その背後にある美学または美意識、さらには生活様式や世界観をも含む広い範囲にわたる日本への関心、および日本からの影響が問題とされる。』(pp.3)

 二つの言葉の違いが明確に語られている。例えば、ゴッホが広重の絵を油絵で模写したのは、「ジャポネズリー」で、その後に強烈な原色表現を使うようになったのは、「ジャポニズム」というわけなのだ。

 フランス人の美術評論家の発言が引用されている。

 『作品の源泉をどうしても知りたいというのなら、そのひとつとして、昔の日本人たちと結びつけてほしい。 彼らの稀に見る洗練された趣味は、いつも私を魅了して来た。影によって存在を、断片によって全体を暗示するその美学は、私の心にかなうものであった。』(pp.4)
 つまり、単なる日本趣味ではなく、もっと基本的な美学の問題としている。異国趣味の一種ではなく、造形原理、構造様式、価値観の新たな分野で、日本とは全く関係のない分野や主題にも用いられるようになった、ということなのだった。

そこから、『マネの平面化への志向、ゴッホの強烈な色彩、ゴーガンの色面構成、トウールーズ・ロートレックの奔放流麗なデッサン』(pp.7)などが生まれてきたというわけだ。

モネの晩年の睡蓮の絵を見て思ったことは、「目が見えにくくなったためにこのようになった」と感じていたのだが、それは間違えだった。それは、次の言葉で表されている。

『例えば画面構成について言えば、人物像にしても、樹木やその他さまざまの対象にしても、その全体像を示さず、画面の縁でモティーフを切って 一部分だけを見せるという遣り方を好んで用いる。つまり画面の世界はそれだけで完結せずさらに画面の外にも広がっているということが暗示される。モネが「影によって存在を、部分によって全体を暗示する」と述べたのは、まさにそのことに他ならない。』(pp.7)

人物画が主流だった西洋画で突然風景画が盛んになったのも、日本的な自然観が影響しているようだ。また、「 用の美」すなわち「生活の中の美」も開国時代にもたらされた大量の日本製の陶磁器、漆器、木工・金工の家具や調度品。それらはすべて日本の日常生活で使われるものなのだが、これらのモノは「西欧の人びとに新たな価値の体系をもたらした」とある。
『日本では生活用具と芸術の間に境界線がなく、生活そのものが芸術化されていることへの驚きである。』(pp.10)

最後に、当時のフランス人記者の記事が紹介されている。
 『この民族(日本民族)の趣味について述べるならば、それは芸術作品が示しているのと全く同じものが芸術以外の面でも認められると言える。すなわち何よりも実用的で実際の役に立つということをまず目指しながら、その実用的な形態にきわめて自然に、ほとんど直感的に、豊かな驚きと楽しさに満ちた巧妙な装飾がつけ加えられているのである。』(pp.10)

ここ数年の外国人観光客の増加も、異国趣味の「ジャポネズリー」ではなく、「新ジャポニズム」に発展してもらいたいと思ってしまう。              その場考学半老人 妄言