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その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(210)森鴎外というメタ人格

2022年05月31日 10時48分06秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(210)

TITLE: 森鴎外というメタ人格


 先日、千駄木(文京区)にある森鴎外記念館を訪ねた。
「読み継がれる鴎外」という特別展の開催中で、展示場はそれほど大きくはないのだが、多くの本と数名の作家のコメントなどの内容は、かなり充実していた。



 私は、過去に鴎外の小説をいくつか読んだのだが、短編ばかりで、彼が文豪だとは思っていなかったのだが、この展示会で全容を知り、改めて、彼のメタ人生というかメタ人格を知った。
 そこで、いくつかの文献を眺め直してみた。彼の全人生を知るうえで、最も簡潔なのは、山崎一顛著「森鴎外 国家と作家の狭間で」(日本経済新聞社[2012])と思う。



 著者は鴎外記念会会長で記念館館長をも兼ねる鴎外の第一人者で、鴎外の名を冠した著書が多数ある。その中で、この書は鴎外の一生を語り、特に軍人と医学者と作家としての葛藤を語っている。鴎外は謎の行動が多く、そのことは色々な著書を併読すると感じることができる。

 例えば、この著書にはないのだが、1909(明治42年)に、「東京方眼図」という謎めいた地図を作っている。(この地図は、千駄木の鴎外記念館で別途発売されている)秋庭 俊著「森鴎外の帝都地図」(洋泉社[2011] )には、次のようにある。
『文字や記号の謎については、これから順次、紹介していくが、 この地図では上野公園に「上」の字がなく、「野公園」とある 。馬場先門には「門」の字がなく、「馬場先」である。「い六」の
方眼には「新橋」という字が上下逆さに書かれて 、しかも、そこは「新橋」ではないのである。
さらに、白山神社や日枝神社には赤い鳥居のマークがあるが、根津神社や東照宮には鳥居がない。この地図には、赤丸や赤い三角、赤い×や旗のようなマークまであるが、それは地図記号には存在しないもので、 しかもどこにも説明がないのである。』(pp.4)
この書は、謎解きを目的としている。なぜ、森鴎外という人物が、この地図を「森林太郎立案」と書いて発行しようとしたのかという謎だ。地図は、ほぼ現在の山手線の範囲が示されているのだが、おかしな表記や記号が散乱している。つまり、地図のルールからは、かなり外れた地図なのである。



 鴎外は、上京後に東大病院の前身の医学校を卒業し、直ちに陸軍病院に勤めたが、ドイツ語の能力を買われてドイツに留学した。ドイツでは、当時感染症の研究で有名だった数か所で、細菌の培養や、検査・分析器具、実験データの統計処理法などを勉強したとある。その間の「舞姫」との逸話は有名なのだが、オペラ通いも多かった。(後に、ドイツオペラの多くを翻訳して、日本で上演されている)

 彼の帰国当時は、東京都市改造論が盛んで、不燃都市が目指されていたのだが、鴎外は衛生学上の伝染病予防策としての、上下水道の完備を主張した。しかし、経済と交通が優先されて、彼の案は実現しなかった。その場でつくられたのが、前述の地図で、赤の線やしるしは、主に江戸時代につくられた上下水道の地図と、様々な拠点(一旦貯めて、高低差を調節する場所)を示していると記されている。つまり、ある場所で伝染病が発生した時に、その感染経路と上下水の経路の関係を知るためのもののように思われる。

 また、衛生学については、帰国後に次のような主張をしている。
『一言で云えば、人の健康を図る経済学のようなものです。身体の外に在る物を身体の中に入れ,また中のものを外へ出すに当たって、その釣合を取って健康と云ふ態度が損なわれないように、勤める法を研究するのです。』(pp.33-34)
この言葉は、アリストテレスが何度も主張している、「大いなる過度が病気を引き起こすのは何故か」との問いに対する、「過度とは過超か欠乏をもたらすものであり、過超や欠乏が病気というものである」の答えと同じことに思えるいたってメタ的な発想だと思う。

 明治32年に、当時近衛師団軍医部長兼軍医学校長だった彼は、突然に第12師団の軍医部長に転出させられる。場所は小倉で、当時の山陽本線は徳山までであり、そこから先は船便の僻地だった。位は、軍医監に昇進なのだが、師団の軍医部長職はその2つも下の役職だった。そのために、鴎外は「左遷である」との認識を公に示したが、それも謎の一つだ。
 しかし、5年後の明治37年には、日露戦争に軍医部長として戦場に向かった。彼は、ドイツ留学中に軍人として、クラウゼビッツの戦争論を始めとして、ドイツ軍の多くの戦術・戦略に関する書を読んでいた。在独中に日本からの要人にクラウゼビッツの戦争論を口頭で説明したともある。(pp.40-44)
 
 この書には無いのだが、私は日露開戦を控えて、陸軍が彼に軍略に関するドイツ語の多数の文献の翻訳を密かに命じたのではないかと思う。小倉という交通上の僻地は、その作業にはうってつけだったのではないだろうか。軍の秘密作業なので、鴎外は「左遷」を敢えて口にしたのではないのだろうか。勿論、なにを翻訳したのかは、軍の機密なので公表されていない。
 しかし、帰還後の彼は、次第に作家としての道を歩き始める。そして、多くの戯曲や歴史小説を残すことになる。
 例えば、鴎外全集第6巻(岩波書店[昭和47年])は、ほぼ全巻が劇やオペラのシナリオとして書かれている。その1作目の題名は、「負けたる人」(原作者はショルツ)となっている。  

 また、「人の一生」(原作者はアンドレイエフ)は100ページ以上の長編のシナリオになっている。それは、舞台の細かい描写から始まり『見ろ。開け。お前たちの目の前で、人の一生が開けて見せられるだろう。暗い初めにはじまり、暗い終わりにをはる人の一生だ。その人は初めにはゐない。「時」の無窮の中に不思議に隠れている。』(pp.137-138)とある。
 このようなシナリオを翻訳に選んだことにも、彼のメタ人格が偲ばれる。