生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(50) 秋の三都徘徊(その4)

2018年11月29日 07時35分10秒 | その場考学との徘徊
の場考学との徘徊(50) 題名;秋の三都徘徊(その4)
場所;兵庫県 年月日;H30.11.14
テーマ;木造の建築物の耐震性   作成日;H30.11.28 アップロード日;H30.                                                      

TITLE: 竹中工務店大工道具館

伏尾温泉からまっすぐに南へ下ると。右手に大阪空港に駐機しているJAL機の尾翼が防音壁越しに見えた。そこからさらに高速道路を進むとやがて神戸市内に入った。途中で、阪神大震災の直後に倒れていた高速道路の脇を通った記憶が蘇った。まさにそこを通っているのだ。

やがて、一般道に降りると、目の前に新神戸の駅が現れた。そこが、今日の最初の目的地であった。新幹線の新神戸駅の前後はトンネルで、地図を見てもすぐには鉄道の駅とは見定められない。バスからは、駅前の駐車場で降ろされた。六甲山へ上る空中ケーブルが数台見えた。




竹中大工道具館は、駅前のロータリーを左に折れればすぐ。入口は駅前の土地の所有者の大邸宅を思わせる風情だった。




係の人の説明は、天井の自慢話から始まった。なんでも少しカーブしていることが美点だそうだが、その曲がりはよくわからなかった。
貴重な大工道具が次から次へと紹介される。私の興味は古代建築だ。見事な五重塔が目立つのだが、そこまでの道のりはながい。

先ずは、縦引きののこぎり。丸太を縦に引くことの難しさは、山暮しで何度も経験している。10cmほどの直径でも、電動チェーンソウでは無理で、ガソリンエンジンのモノを使用する。これを手作業で薄板に引くのは、さぞかし経験と力が必要なのだろう。実際のヴィデオを見てみたかった。



続いて、興味を持ったのは手斧。神社の柱を撫でると、一見平面でも微妙なデコボコがある。それと同じ感触を得ることができた。ここでは、なんでも触れるのがうれしい。



鉋でどこまで薄く削れるかの実演は、TV番組でよく見かける。しかし、この幅と薄さには驚きだった。暑さは1ミクロンで、サランラップの十分の一だそうだ。鉋の重量だけで引くという。



様々な材木の鉋屑の見本があった。ふたを開けて匂いをかぐことができる。私の好みは檜で、木曽ヒノキの角材を彫刻刀で削りながら仏像を彫った記憶が蘇る。木工の作業には、匂いも大切だ。

組子細工の作品も見事だった。「陽ざしを繊細な文様に代えることで、空間の奥行きを変える」との説明がある。途方もない手作業が頭に浮かぶ。

最大の興味は五重塔の屋根の骨組みだ。てこの原理を使って、重たい庇を支えている。五重塔の心柱が耐震性に役立っているとの説は、スカイツリーで有名になった。しかし、私はジェットエンジンの設計の経験から、耐震性はこの複雑な組手の摩擦によるものだと思っている。そのことはログハウスの断面を見ても分かるのだが、組手には微妙な隙間が無数に存在する。ぴったりと嵌っていれば、それだけ摩擦係数は大きい。すなわち、巨大な振動を吸収することができる。



 
ジェットエンジンの部品は、どれも究極の薄さに設計をする。従ってありとあらゆる振動数で共振して寿命を減らす。だから、あちこちにダンパーの設計を盛り込むのだ。このダンパーが効かなくなると、高周波や低周波の疲労破壊を起こしてしまうのだ。超高速の回転機械なのだが、引張強度よりは、サイクル強度の方が重要視される。

 一通り見ての感想は、「飛騨の匠」との比較だった。私は趣味で高山にはほぼ毎年出掛ける。最近は、すぐ北の隣町の古川で過ごすことが多い。高山には飛騨の匠の作品が山ほどある。しかし、匠の技術と大工道具を知るには、古川が良い。特に、街の中央にある「祭り広場」の中にある「飛騨の匠文化館」の内容が素晴らしい。実際に、歴代の飛騨の匠が使った大工道具が時代順に並んでいる。高そうなものもあるが、安そうなものもある、すべて実用品だ。また、組子や特殊な細工の説明も、いちいち詳しく描いてある。
 その生なましい歴史を思い出すと、今回の見学は少し物足りなさを感じてしまった。

その場考学との徘徊(49) 秋の三都徘徊(その3)

2018年11月28日 06時18分18秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(49) 題名;秋の三都徘徊(その3)
場所;大阪府 年月日;H30.11.13
テーマ;温泉旅館の立地条件   作成日;H30.11.25 アップロード日;H30.11.28                                                      

TITLE: 伏尾温泉の朝

 京都駅で仲間21人と待ち合わせ、すぐにチャーターした観光バスで京都市内見物。夕暮れどきに大阪方面に向かった。今夜の宿は、大阪府内の伏尾温泉と聞いている。全く土地勘がなく、翌日は神戸方面なので、その中間あたりだろうとしか考えていなかった。

 バスは、京都南ICから高速に入った。大阪空港から来るときに通ったルートだ。途中から新東名高速に入ったようだ。どうやら新しい道らしい。辺りが暗くなった時に、巨大なインターチェンジを降りた。いく重にもとぐろを巻いたインターだった。あとで調べると、「簑面とどろみIC」とある。そこから渓流沿いの曲がりくねった山道を進んだ記憶だ。

地図を調べると、こんな具合だ。右の高速から入り、左の一般道に出たのだが、地図を見てもルートが分からない。少なくともループ橋を2回転はしていると思う。



また、周りの地形図はこんなもので、なんと4つのゴルフ場に囲まれている。いずれも山岳コースのようだ。
翌朝、バスが走り始めてわかったのだが、小さな丘を越えると、巨大な団地がある。温泉宿としては、面白い立地だ。



宿の前の道は、私の所有する少し古い大阪府の地図には摂丹街道と記されており、山間部の曲がりくねった道沿いに小さく「伏尾」の名がある。勿論温泉のマークはない。

Wikipediaには次のように紹介されている。

『伏尾温泉は、大阪府池田市伏尾町にある温泉。客席数は70。北摂山系の五月山より余野川沿いに北上した川岸に位置する一軒宿の温泉である。1967年(昭和42年)にボーリングにより湧出する。源泉は2箇所。大阪市内から車で30分の“大阪の奥座敷”というキャッチコピーがある。
建物は鉄筋8階建てで、和室や洋室などの客室の他、多目的ホール、ゲームコーナー、会議室などがある。浴場は4階にあり、男女同じ造りになっている。

温泉は天然ラジウム泉。ぼたん鍋が食べられるプランがある。その敷地の広さから、観光バスの受け入れも可能ということもあり、団体客の利用が多い。また2003年からは0泊2食の日帰りプランを導入しており、日曜を中心に利用があるという。インバウンド増大に伴い、外国客の受け入れも積極的に行っている。高校野球シーズンの春・夏には、複数の甲子園出場校の宿泊旅館として、利用されている。』

比較的新しい温泉で、どうやら、高校野球の宿泊旅館ということらしいが、ここに泊れる高校球児は幸せだ。

また、旅館のH.P.(https://www.fushioukaku.co.jp/blog/?p=119)にはこのように書かれている。

昭和38年、「伏尾の鮎茶屋」に鉄筋コンクリート5階建ての新館が誕生。政府登録国際観光旅館の認可も受けて新たなスタートを切った。先代・夘一郎が昭和8年に始めた料亭“鮎茶屋”、その跡を継いで旅館にした二代目社長・岡本直文(現会長)の大きな夢が実現したのであった。
 直文は考えた。「せっかく鉄筋にしたのに“鮎茶屋”ではイメージがあまりにも小さいではないか」その時、当時・伏尾の地名の由来を思い出す。
 時は平安末期、地元の古刹・久安寺に徳の高い和尚・賢実上人がいた。天皇より厚い信頼を賜る賢実上人は、皇后ご懐妊の折り宮中の名により安産を祈願。その甲斐あって元気な皇子(後の近衛天皇)が誕生する。以来、この地は不死王村と呼ばれるようになり、後に転じて伏尾村になったという。
 
「不死王つまり“死なない王様”とは縁起がいい。地名にまつわる縁もある。一回見たら忘れへん名前や。これでいこう」かくして不死王閣の屋号が誕生した。 (中略)
温泉を引き込む大浴場の工事は、昭和45年、大阪万博開催の年に完成を見る。

泊まった次の週に2025年の大阪万博が決まった。55年ぶりという。何かの縁を感じる。私自身S45年は大学院を修了して就職をした年なのだが、一人で車を運転して大阪万博の見物に出かけた記憶がある。

朝の温泉は6時から、待ちきれずにはいると、すでに先客がいた。部屋に戻ると、やや薄いが、朝焼けの空を見ることができた。



朝食は7時から。バイキングなのだが、目の前に大きな蒸篭があった。シュウマイにしては大きいと思ったが、開場までは開けられない。
始まると同時に、皆さんは所定のバイキングの料理を順序良く取り上げていたが、私は蒸篭が気になり、そちらを開けてみた。なんと、京野菜を中心にした蒸し野菜だった。これは体によさそうだ。こちらを目いっぱいよそってから、列に並んだ。





食事の後は朝の散歩。目の前は清流で赤い橋が架かっている。上流には小さな滝も見える。少し登ってみることにした。




直ぐに、「彩あいの小径」という看板が目に入り、そちらに進んだ。道は、小さな峠に向かっている。あとで知ったが、その先は大きな団地があるのだ。中学の制服を着た男の子が、もくもくと登って行った。




少し歩くと、見晴らしの良い場所に出た。昨夜バスが走った方向なのだが、様々な紅葉が美しい。眼下に、8階建てのホテルの全貌を確かめることもできる。





団地のすぐ近くなのだが、山間の清流に沿った静かな立地であり、団地を抜けると高速道路に入り、大阪空港の真横を通った。なんとも便利な立地条件なのだった。

その場考学との徘徊(48)秋の三都徘徊(その2)

2018年11月24日 14時45分13秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(48) 題名;秋の三都徘徊(その2)
場所;京都府 年月日;H30.11.12

テーマ;植物の力   作成日;H30.11.24 アップロード日;H30.11.24                                                      
TITLE: 毘沙門堂の紅葉

醍醐寺の山門を出ると、目の前は旧奈良街道で、バス停があった。駅までの1kmあまりを歩くには、少々くたびれたので、バスを待つことにした。幸いすぐに伏見駅行きが来た。どこでも路線バスは空いている、私鉄と並行するこの路線もいつまで続けられるのだろうかと思ってしまう。



伏見駅前バス停は南口で、お目当ての毘沙門堂は北へ1kmあまり歩かなくてはならない。小さな商店街を東に向かい、適当なところで北へ折れて私鉄の線路を渡る。更にJRの陸橋をくぐると、道はまっすぐに北へ伸びている。これが参道らしく、はるかこうに観光客らしき人の塊が、ちらほらと見ることができる。




やがて、小さな水路を渡る。流れはなめらかで一定の速度で京都方面に向かっている琵琶湖疎水なのだ。疎水沿いを少し歩いてみたいが、今日は余裕がない。上下の流れの写真を撮って、先へ進んだ。




まもなく、眼前に山門が見えてきた。



ところが、期待していた紅葉を敷き詰めた階段はない。
仕方がないので、その写真がついているクリアファイルで満足することにした。




しかし、大きな毘沙門天の提灯をくぐると、すぐに見事な紅葉の世界に入ることができる。





お参りをすませて、堂内に入ると、その気分は一層高まる。真っ赤よりも、このようなグラデーションの世界の方が良いのかもしれない。





早春と、晩秋には毎年植物の生命力の強さを感じざるを得ない。あの、丸坊主の枝からあっという間に芽が噴出して、緑の葉がびっしりと茂る。この紅葉は、あっという間に散り終えて、土に還る。このような素早い変化は、いかなる動物にも望めない。植物の生命力、変化力、対応力は、いずれも動物を上回ると思う。自然の中に入ると、いつもそのことを思う。


帰り際に、勅使門の前の老桜を見た。この寺の春の名物なのだが、今はよじれた幹が楽しませてくれる。これも生命力のしたたかさを思わせる光景だった。


その場考学との徘徊(47) 秋の三都徘徊(その1) 

2018年11月23日 07時38分03秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(47)  
題名;秋の三都徘徊(その1)


場所;京都府 年月日;H30.11.12
テーマ;密教寺院  
作成日;H30.11.22 アップロード日;H30.11.23
                                                      
TITLE: 密教寺院の御仏

山科の南の有名な醍醐寺に向かったのは、ようやく紅葉が始まった秋の半ばだった。

11:29 京都駅発の普通電車。



11:43 山科で地下鉄に乗り換えて発車。「醍醐」駅まで8分。

駅前の歩道橋がそのまま東に向かって真っすぐに続いている。
至って歩きやすい道で、山並みに向かうので、心も和む。



駅から醍醐寺までは1km強。古い地図には全く載っていない団地の中の広い遊歩道を進んだ。
途中の自販機で飲み物を調達。



ようやく総門に到着。人影はまばらだ。秀吉が有名な「醍醐の花見」を催した風景を空想しながら進む。広い参道はそのころからのものなのだろうか。



醍醐寺の宝物館は「霊宝館」と呼ばれている。広くて、ゆったりとしている。入口にビラが貼ってあった、「水晶内の阿弥陀仏」これがお目当ての仏像だ。



説明用のビラには次のようなことが記されている。

『水晶宝寵入り木造阿弥陀如来像(全体)快慶作か?阿弥陀如来の小像 初公開

蓮華のつぼみの形をした透明な水晶のなかに、巧妙におさめられた金色に輝く阿弥陀如来の小像。
日本の仏像の歴史上でも、ほかに例のないこのめずらしい仏像は、一時は上醍醐清瀧宮に伝わり
平成の仏像調査の機会に再発見され、10年余にわたる研究によって、その全貌が平成30年春刊行の
『醍醐寺叢書醍醐寺の仏像』第1巻如来のなかで初めて紹介されました。』とある。

まさに、数百年ぶりにお出ましになった、稀有の像なのだ。
蓮のつぼみの形に削られた水晶の中をくり抜き、その中に木造の5cm程の像が収められている。
更に説明では、

『鎌倉時代初期に造られたこの仏像は、すぐれたできばえから、当時、活躍した名仏師快慶の手になる可能性も考えられています。 阿弥陀如来像は水晶のなかで微妙なパランスで自立しているために、長距離の移動がむずかしく、これまでどの寺宝展にも出陳されたことがありません。
霊宝館では、今回、初公開となるこの仏像を、調査、研究の際に撮影された精細な画像とともに、ご参拝の皆様に公開いたします。 この機会に、貴重な阿弥陀如来像の全貌をあますところなくご覧ください。』
とあった。

さらに詳しい説明は、売店で求めた15ページにわたる「図録」に述べられている。



副島弘道氏の「解説」には、次のような記述がある。

『一燭台のような意圧一
高さ35cm、木製の蓮華形の台の上に銅製の柱が立ち、その上にのった透明なつぼみ形の水晶の中には阿弥陀如来像が金色に輝いている。蓮台には雄しべが刻まれ、その中央に銅の柱を囲んで水柱が立ち、茶色にうねる茎が柱にからんで伸びている。その先には蓮葉が付いていたはずだ。』
 残念ながら、どのような蓮の葉がついていたのかは、知る由もない。さらに続けて、

『蓮台の水柱は水晶のつぼみが今まさに水面から出現したようすを示すのだろうか。 蓮華は仏像の台座など、仏教美術にはよく見られ、古代の中央ァジアでも蓮台の上に天人や菩薩が 誕生する姿の絵が描かれた。』
とある。このような仏教美術作品は、他に例がないであろうとも記されている。

この像が発見されたのは、平成14年で、なんと22回目の調査の際に、ようやく木箱から取り出されたとある。しかし、その先がまた大変だったようだ。

『正しい姿は、水晶をとおしてでななく、阿弥陀如来像を直接に観察しないとわからない。 ところが水晶の宝甕はその下の銅筒からは簡単にははずれない。像を再び木箱に納め、再度の機会を待 つことになった。
その後、何度も木箱の中の作品を見ながら考えたが、水晶を銅筒からようやく取りはずせたのは、 発見後約10年を経た平成23年のことだった。木製の台座から水柱と銅筒をはずす。銅筒の下部にある目釘を抜いて筒を下に抜くと、中から漆塗りの細い木を5本組んで、・・・・。』



 その細い木が左の図なのだが、箱根の寄木細工の箱を思い出す。最初の動かすもの、この場合は「目釘」を外せば、後は順番にスムースに抜けるはずなのだが。
この像は、ほんとうに素晴らしかった。

続いて諸像や絵画が並ぶ奥の間に入った。ゆったりとした配置で、落ち着いてみることができる。
記憶に残るのは、「降三世明王」。売店で尋ねたのだが、残念ながら、この像の絵ハガキはなかった。
踏みつけられているのが、邪鬼ではなく、2人の菩薩なのだ。



Wikipediaには、このような説明がある。
『降三世はサンスクリット語で、トライローキヤ・ヴィジャヤ(三界の勝利者 Trailokyavijaya)といい、正確には「三千世界の支配者シヴァを倒した勝利者」の意味。
経典によっては、そのまま、孫婆明王(そんばみょうおう)とも、後期密教の十忿怒尊ではシュンバ・ラージャ (Śumbharāja)とも呼ばれる。 その成立は、古代インド神話に登場するシュンバ (Śumbha)、ニシュンバ (Niśumbha) というアスラの兄弟に関係し、密教の確立とともに仏教に包括された仏尊である。』

 踏みつけられている、2人の菩薩とも思える男女が気になるので、さらに調べてみると、この明王は、「ヒンドウー教より仏教が優れていることを示すためのもの」との説明があった。仏教の神々がいかに強いものかを示すものだそうだ。7~8世紀にかけて作られるようになったとある。

三宝院の有名な太閤桜は、台風21号の風で無残に折れていた。大きな枝を短く切ったままで放置されている。この風景は、京都のあちこちで見ることになる。





書院や唐門は無事だったようで、庭園も整備されている。





有名な、五重塔と九輪をゆっくりと眺めて戻ることにした。ここまで既に8900歩、奥の院まで登ってゆく力は残っていない。




帰り道は、見事な林だった参道の両側の無残な様子を見ながらだった。入口には、数枚の直後の写真も示されていた。




メタエンジニアの眼(96)「森鴎外の帝都地図」

2018年11月04日 07時50分47秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼(96)「森鴎外の帝都地図」        

TITLE: 書籍名; 「森鴎外の帝都地図」[2011]
著者;秋庭 俊
発行所;洋泉社    2011.11.9発行

初回作成年月日;H30.11.2  最終改定日;
引用先; TBD



この書は、謎解きを目的としている。なぜ、森鴎外という人物が、1909(明治42年)に、「東京方眼図」という謎めいた地図を「森林太郎立案」と書いて発行しようとしたのかという謎だ。

地図は、ほぼ現在の山手線の範囲が示されているのだが、おかしな表記や記号が散乱している。例えば、こうである。

『文字や記号の謎については、これから順次、紹介していくが、 この地図では上野公園に「上」の字がなく、「野公園」とある 。馬場先門には「門」の字がなく、「馬場先」である。「い六」の
方眼には「新橋」という字が上下逆さに書かれて 、しかも、そこは「新橋」ではないのである。
さらに、白山神社や日枝神社には赤い鳥居のマークがあるが、根津神社や東照宮には鳥居がない。
この地図には、赤丸や赤い三角、赤い×や旗のようなマークまであるが、それは地図記号には存在しないもので、 しかもどこにも説明がないのである。』(pp.4)
つまり、地図のルールからは、かなり外れた地図なのである。

『すなわち、この地図は特別な目的のために作られている、と考えられるのである。かつてレオナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」などに残した暗号がダ・ヴィンチ・コードなら、この地図の多くの謎は「鵬外コード」と呼べるのではないだろうか。本書は、そのコードを解き明かそうというものである。』(pp.6)
 著者は、ここでダ・ヴィンチ・コードを持ち出して、読者の興味をそそろうとしている。

『つまり、この地図は東京の地下を描くという、特別な目的のために作られていた。それは当然のことながら、公式の歴史とは異なっているが、本書はかつて江戸という都市がどのように築 かれ、明治時代にその地下がどう改造され、また、鵬外がそれにどうかかわっていて、なぜ、鴎外がこのような地図を作るに至ったかということを、歴史上の文書、資料、法律などから解明し ようというものである。』(pp.8)

地図の目的は、こうである。しかし、なぜ当時の森鴎外がこのようなものを創ったのか。

先ずは、古代ヨーロッパの水道の説明から始まっている。
『古代ローマはわずか十キロ四方の大きさだったが、全長二百七十キロにも及ぶ水道が敷設されていた。それは水道網が左のような形(12角形の星形)だったからで、 ローマもパリも、ロンドンも、いまのトルコのイスタンブールでも、形に多少の差はあれ、旧市街には同様の水道網が敷設されていたはずである』(pp.44)

そして、複雑な水路の維持管理や、非常時の軍事目的のために、地下水路には様々な工夫が盛り込まれていることを解説している。

『この軍事的な成功を収めた理由には、水路の柱一本一本にアルファベットや番号がつけられていたことも挙げられる。長期間、水路を維持・管理していくには保守点検や補修工事が不可欠で、そのためには柱を特定しておく必要があった。つまり、先の十二角形の中心や頂点のひとつひとつにアルファベットがつけられていて、同帝国ではそれをひそかに地上の町名や建築物名に入れ込んでいたのである。すなわち、たとえばその教会の名称に「AB」がついているから、その教会が大きな十二角形のどの位置にあたり、どの方向に地下道が延びているかということを、ローマ軍は地上にいながら、わかっていたのである。これが地下を表す暗号の入った地図、暗号地図の起源だといわれている。』(pp.46)

ここで、「同帝国ではそれをひそかに地上の町名や建築物名に入れ込んでいたのである。」は、
後の地図の説明への伏線だった。
これらのことは、江戸初期に特に徳川家康によって、江戸の基本設計に盛り込まれていたというわけである。例えば、高輪の高野山別院の巨大な地下構造を挙げている。また、その時代に突然建立された、神田明神、湯島天神、上野東照宮、谷中天王寺などの場所との関連と、その重要性を説明している。すべて、上水路と関連しているというわけである。

『そう考えると、家康が高虎に任せていた江戸城の改築というのは、江戸城から延びていた地下通路の組み替えをおもに意味していたもので、それゆえ築城の名手高虎が東照宮を建築していたこと、二つの東照宮が十二時半の角度にあって、大手門からの距離がぴたりと等しいこと、さらには、東照宮が建設されては解体され、場所が変わっていたことも、同じ都市のほぼ同時期に 同じ神社がいくつも建てられていたことも、すべて納得がいくのではないだろうか。
もちろん、それは江戸城の防衛に直轄する問題だから、極秘中の極秘だったに違いなく、それ ゆえ、のちに建てられた日光東照宮には「見ざる、聞かざる、言わざる」という東照宮の掟が刻 まれていたのではなかったのか。』(pp.106)
すこし、飛躍があるようだが、状水路の重要分岐点に神社を立てたことは、間違えがないのかもしれない。「高虎」とは、築城の名手と云われた、藤堂高虎だ。

上水路の経由の道筋は、重要であり、管理者は誰でも頭の中に入っていなければならない。そのために、水路に沿った場所の名前も、覚えやすいように決めてあったというわけである。そのために、日本では、アルファベットの代わりに、「かごめかごめ」と「通りゃんせ」の歌詞が使われているという。
例えば、「いついつでやる」は、水路が、一ツ木町 ⇒二ツ木町 ⇒帝国ホテル ⇒八幡町と連なっているというわけである。しかし、これはできすぎだ。確かに、自分の地域の上流が、どのような経路かは頭に入れておく必要がある。何らかの覚えやすい符牒が必要で、それがたまたまこの歌詞だったのだろう。

後半は、鴎外が軍医からドイツ留学をした経緯が示されている。そのことが、この地図の作成意図に、深くかかわっているというわけである。

『十歳のとき父親とともに上京し、本郷の私塾・進文学社からいまの東大医学部へと進んでいる。 八―(明治十四)年、東大を卒業して陸軍の軍医となり、八四(明治十七)年、ドイツに留学。専門分野は公衆衛生であた。 公衆衛生という学間は、当時、最新の分野だった。十九世紀後半、ヨーロッパはくりかえしコレラの流行に見舞われていたが、その原因も、感染のメカニズムも、解明されていなかった。』(pp.184)

彼は、公衆衛生に力を入れており、当時のヨーロッパで最大の問題であった、コレラの伝染を防ぐ具体的な施策を考えていた。当時のヨーロッパでは、下水道と上水道のどちらが有効かの議論の最中だったそうだ。

『その論争のまっただなかのドイツに留学した鵬外は、まず、下水の整備にかけては世界的な権威だった近代衛生学の祖ペッテンコーファーのもとで学び、ベルリンなどドイツの都市で行なわれていた地ド水路の整理と下水整備の状況を視察している。そして翌年になると、北里柴三郎とともにコッホの衛生試験所に移り、医学界の主流となったコッホの公衆衛生を学んで、一八八八(明治二十―年)に帰国した。』(pp.185)

帰国した彼は、下水道整備を進言したが、時の政府は、富国強兵に熱心だった。そして、彼の明治政府への非難が始まったとしている。彼の弟は、「市区改正痴人夢」という戯曲を発表して。山縣有朋を風刺したとあるが、これは、夏目漱石が坊ちゃんで使ったのと、同じ手法だった。

 『くりかスしになるが 、江戸城はオランダ式築城術で建てられ、江戸という都市には 江戸初期に都市建設が始まったときから上水と呼ばれる水道が整備されていた、と考えられる。当時の上水は、水道とはいっても、 現在の金属製水道管に圧力をかけて台地の上やビルの最上階まで水を押 し上げる加圧式ではなく、高いところから低いところへ水を流すという単純なものだったため、正確な測量にもとづいて水路が敷設されていた。
地上に水路が敷設され、そのわきに柱が立てられ、屋根の上に大量の土や石が積まれる。つま
り、人工的に作られた地下水路の上に、江戸という都市が築かれていた。』(pp.188)

最後に結論的に、このような文章かある。
『したがって、『東京方眼図』で江戸時代の初めから隠されてきた、江戸、東京の地下の真実を巧みな表現で明らかにしていることも、軍機保護法にふれる恐れのある行為である。しかし、鴎外はそれを承知で『東京方眼図』を出版したのだと思う。それは、まさに明治政府への、’大いなる挑戦)だったといえよう。
「東京方眼図」は新聞で発表するはずだった。
出版された『東京方眼図』は、一枚の地図をこまかく切って綴じたような本で、誰が見ても使いづらい地図であり、鴎外の強い思いを表現した作品としては、正直いって、さびしいものだ。 本来なら新聞に発表されていたのではないか、と私は思っている。 なぜなら、その主張を広く国民に訴えようとすれば、当時、唯一のマスコミだった新聞がもっとも理想的な場だったからである。 加えて、新たに見つかった一枚図は新聞の見開きニページの 大きさに作られていることから、新聞の紙面に印刷されるか、綴じ込まれることを想定して作られた、と思われるのだ。』(pp.194)

この地図は、さしたる影響がなかったようで、鴎外は、翌年に小説を発表することになる。その著作の「青年」は、次の文章で始まっている。
『小泉純一ば芝日陰町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留所から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、 追分から高等学校に附いて右に曲がって、観津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。』

この小説には、膨大な注釈がついている。この最初の文章についての注釈は、このようである。
『注解
*芝鷺蔭町  東京都港区にあった旧町名。新橋二、三丁昌の一部。
*東京方眼図 森鴎外立案の「東京方眼図」は明治四十二(1909)年八月、春陽堂から出版された。
明治末期の東京都心を、赤い経線で縦はイ~ チの八個のマス目に、横は1~11の十一個のマス目にわけ、柵子本の地名索引から地名を検索できるようにした地図。留学中に目にしたドイツのガイドプソク「ベデカ」から着想を得たといわれている。
*新橋停留場  東京都港区東新橋にあった汐留駅の旧称。明治五年に日本初の鉄道始発駅として開設された。
*目まぐろしい  「めまかぐるしい(目紛)」と同義。目の前をいろいろなものが次から次へ
と移り変わり、目の回るような感じ。』更に、*須田町、*本郷三丁目の注解が続いている。

 本文よりも、注釈の方が長い。しかも、場所に関する説明が圧倒的に多い。そして、第一ページからの「東京方眼図」の詳しい説明である。このことから、鴎外が、「東京方眼図」をなんとか公衆に理解してもらいたいとの気持ちを持ち続けていたように思われる。

Wikoipediaには、次のようにある。
『『青年』(せいねん)は、森鴎外の長編小説。1910年3月から翌年8月まで「スバル」に連載。一青年の心の悩みと成長を描き、利他的個人主義を主張した作品。夏目漱石の『三四郎』(1908年新聞連載)に影響されて書かれたもので、ともに青春小説の代表作。』

かつて江戸という都市がどのように築かれ、明治時代にその地下がどう改造され高については、水道歴史館(お茶の水駅近く)に実物と資料がある。しかし、そこには鵬外がそれにどうかかわっていてかについては、何もない。
明治時代の、メタエンジニアの姿がここにも表れている。