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羽生選手の新ショート Prince の「Let's go crazy!」の歌詞の真意を聖書から読み解く その2

2016-10-12 | 管理人のひとり言

10月12日  ( 一部、追加補足説明を加えました。)

 

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前回だした、

「羽生選手の新ショート Prince の「Let's go crazy!」の歌詞の真意を聖書から読み解く」の

「その1」 は、こちらです。↓

http://blog.goo.ne.jp/hananinarouyo/e/5082fb689d963a3091e15ed757b85543

 

 

今回は、上のページの内容の続きです。

 

歌詞全体は、こちらを参考に。→ http://www.songfacts.com/detail.php?lyrics=9605

 

日本では誤解が多いようですが、

この歌は、Prince さん本人が、インタビューで 「Let's go crazy」は、God(神様)の歌なんだ、と語っていた通り の歌で, 深い意味を込めてありますが、生きるのが大変な現代人たちへの、応援歌、でもあります。

 

羽生選手本人は、「皆さんが元気になれるようなスケートを」「皆さんが楽しめるように」 と、怪我休養中からずっと言っていましたので、小さい子供たちや、ちび・スケーターさんたちからも、とても憧れられていることを、誰よりも良く自覚しているはずの羽生選手が、

まさか、お子さんたちに聞かせられないような過激な内容、親が子供に説明できないような歌だというような認識で、歌詞付きで「楽しめるように!」などと言ったりするはずもないですね。(笑)

…というわけで、特にハラハラドキドキしていたであろう、小さいお子様もちや、淑女の羽生ファンの皆様は、安心して楽しみましょう!(笑)

前回に引き続き、この歌に込められた意味を、Princeさんに敬意をこめて本気で聖書から解釈すると、いったい何が語られているのか、見ていきたいと思います。

 

さて、前回「その1」からの続き、 この歌のポイントとなる歌詞の部分です。

 

And if  de-elevator tries to bring you down
Go crazy, punch a higher floor

 

もし 「悪魔の引き下げエレベーター」が 君を下へと連れて行こうとしたら

無我夢中になって、上の階(=神様の象徴)へと 打破していくんだ!

 

ここは、「エレベーターの上の階へのボタンをパンチする」、と解釈している人も多いようなのですが、

「悪魔の引き下げエレベーター」は、悪魔そのものの象徴なのだから、その中にあるボタンをいくら押しても、

所詮は悪魔の手の中でしかなく、全く効果がないことになります。

だから、この場合、(エレベーターの)天井ごとぶち破って、そのエレベーターから抜け出て上の階(神様の象徴)へと向かう、

つまり、そのように状況を打破して、悪魔の罠の中(=de-elevator) から完全に、夢中で抜け出すことを奨励している 歌詞だと私は思います。

 



If you don't like the world you're living in
Take a look around you
At least you got friends

You see I called my old lady
For a friendly word
She picked up the phone
Dropped it on the floor
(Ah, ah) is all I heard

もし君が今生きている世界が 気に入らないなら

ちょっと周りを見渡してごらん

少なくとも、友達は何人かいるだろう


ほら、俺なんかさ、 なじみの長い(または年配の)女性に

どう、元気かい?っていう電話をした時

彼女は電話に出るなり、受話器を床に落っことしたんだ

その後に聞こえたのは、ただ 呼吸音だけだったよ (※まろやか翻訳です)

 

 

(追加補足説明)

 

このmy old lady  (=one's old lady )という表現は、「自分となじみの長い(親しい)女性」の意味で、

俗語で、「自分の妻」、「自分の母親」、「自分の彼女」、「自分にとって特に大事な存在」、の全ての意味に使える表現です。

 

 

ここは、多くの人が解釈している、「俺の悲惨話」であり、

「相手にもされなかった、笑えないみじめな体験の紹介」、

という意味での大人の解釈が普通だろうとは思いますが、

もう一つ、この文字通りの意味があり得ます。

 

キリスト教会だと、長年皆に親切にし、多くの人のお世話をしてきて慕われていて、

自分があまり動けなくなってから、皆に気にかけてもらえるような、

「皆のおばあちゃん」的存在の御高齢の女性たちが、必ずどこの教会にも多数存在するのですが、

(まとめて、our old ladies などと表現したりもします)

そういった女性たちに、気遣いの声をかけてあげるのは、よくあることです。

「どう、元気?」って体調伺いの電話をしてあげたら、

その場でいきなり心臓発作か何かを起こしたらしく、なんと危篤になっちゃった!

元気?って電話したのに、逆の結果を招いちゃった。

自分にとって大事な人が、また思わぬ形で この世を去ろうとしている… 

という、冒頭の天国描写と直結していく、真面目な解釈の、二つが成り立つだろうと思います。

 

まあ、どちらにしても、本来は決して笑えない状況に違いないのですが、

人生いろいろあるよね、ということで、

それを「悪魔の引き下げエレベーター」に、気分を落ち込ませられちゃう例、 として挙げながら

それでも 落ち込むことを拒否し、

限りある今の人生を大事に、自分からその状況を(明るく)突破していこう!と、奨励していると思います。

 

Are we gonna let de- elevator 

Bring us down 

Oh, no let's go!

 

俺たちは、悪魔の引き下げエレベーターに、引き下げられちゃってもいいのかい?

いやいや、冗談じゃない、 さあ行くぞ!

 

 

さて、ここからが後半のハイライト部分です。

Let's go crazy
Let's get nuts
Let's look for the purple banana 
'Til they put us in the truck, let's go!

 

この 最初のLet's go crazy Let's get nuts 

は、どちらも、その前の 「Go crazy, punch a higher floor」=無我夢中になって、上の階(=神様の象徴)へと 突き破って打破していくんだ!

という内容を受けた上での表現なので、「気が狂う」「頭がおかしい」というような意味ではなくて、

「必死になる、無我夢中になる、熱中する、熱狂する」という感じで、ほぼ同じ意味の表現の繰り返しとして使われていると思います。

 

さあ、無我夢中になっていこう!

熱狂していこう!   …みたいな感じかな。

 

そして、ここの3行目に出てくる、Let's look for the purple banana =「パープル・バナナを探そう(求めよう)よ!」の意味は、

紫のバナナは滅多にないので、(実際にあることはあるらしいです)

「特別に貴重な、本当に無我夢中になれるもの」(=自分に与えられている使命につながるもの)や、

「自分の人生にとって、特別に大事な存在」 を指す 等、

複数考えられますが、

この続きの4行目の'Til they put us in the truck,というフレーズを見た限りで、間違いなく一番有力なのは

「君を救ってくれる、貴重な人物= 救い主」 を求めろ!、という意味だと考えられます。

つまり、「紫のバナナ」とは、悪魔の力を打破して神に近づき、天国へ行くためのカギとなる、

救い主たる、「イエス=キリスト」のことを指しているのです。



なぜなら、この歌のラストで待望されているのは、イエス=キリストの再臨であり、天国です。

 

また、バナナは英語で、「実力者、大物、重要人物」の意味があり、

また、パープルは「紫」ですが、聖書だと、高貴な人や王の、地位の高い人の意味がありますが、何よりも聖書で、

イエス様が十字架にかかる前に、茨の冠を被せられて人々に見世物にされ、総督ピラトによって裁判にかけられた時に着せられた上着の色が、まさにこの「紫」だからです。


この紫の衣を着ていた時、イエスは事実上、「ユダヤ人の王として」紫を着ていて、同時に、イエスには何も罪がないことを、ピラトによって証明された時だったのです。

 

参考 聖書箇所:

「ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。 

兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやってきては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。

ピラトはまた出てきて、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」

イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。

ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。

祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。

ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」

(ヨハネによる福音書 19章 1~6節  新約聖書 新共同訳より)

 

プリンスさんが、最もこだわった色が紫であり、彼がこだわっているものとは、神様でした。

また、この曲の入っている「Purple Rain」というアルバムにある、同時期の彼の他の複数曲で、同様の傾向、もしくは連動した内容の、強力な聖書的メッセージが歌われているからです。

「I would die 4 U(=for you の意味)」 という曲は、「わたしはあなたのために死んだ」という意味で、「I」の主語が神様、すなわち、イエス=キリストのことだとして読むと、完璧に意味が通るように、見事なまでに出来ています。 

「神であるイエス=キリスト自らが、あなたの罪のために、その罪を背負って代わりに十字架上で死んだんだよ、それほどあなたを愛しているんだよ」、という、キリスト教の根幹にかかわる、「十字架の救いと罪の赦しの内容そのまま」を歌ってあって、あまりにもストレートすぎて、私が驚くほどです。

また、アルバムのタイトルにもなっている「purple rain (紫の雨)」という曲をみると、この紫の雨は、まさに「神の臨在」を象徴していて、彼が神様を非常に強く待ち望んでいることがよくわかります。(恋人に、自分と同じ神を信じる信仰を持つ決心をしてほしかった、と歌っている歌です。)

この紫は、上に書いたように、「何の罪もない状態のイエスだったのに、民衆の罪により、十字架に処せられることが決定した瞬間」に着せられていた、ユダヤ人の王としての高貴な身分の象徴の服の色でもあり、ですからこれこそが、「罪なき神の子・イエスが、私たちへの愛により、私たち人間の身代わりとして十字架にかかった」という、その救いの意味を「紫」として、ここでは表現されています。

プリンスさんがこだわっていたのも、この「紫」です。

 

さて、これを証明する内容が、英語のウィキペディアに、プリンスさん本人の説明として載っていましたので、ご紹介します。

Prince once explained the meaning of "Purple Rain" is as follows: "When there's blood in the sky – red and blue =" purple... purple rain pertains to the end of the world and being with the one you love and letting your faith/god guide you through the purple rain.".

 

プリンスは、かつて「紫の雨」の意味を、次のように説明した。

「空に血がある時ーー赤と青が重なり そして、紫になる。

紫の雨というのは、この世の終わりの時にはつきもので、

あなたが愛する者と共にいる時にも必ずあって、

この紫の雨を通して、神はあなたを、神への信仰へと導くんだ。」

 

「空に血」という表現から、核兵器などの核の雨などを連想する人もいるようですが、ここでいう 「血」は間違いなく、「イエス=キリストが十字架上で流された血」のことであり、この赤(の血)は、キリスト教における「赦しと救いの完成」の象徴でもあります。

つまり、イエス様の、十字架の救いによる「愛と赦しの象徴」である血の「赤」と、天の象徴である空の色「青」 が混ざって、紫になる、という意味だと解ります。

 ですから、 「紫の雨」は、「神様の(具体的には聖霊の)臨在がその場にあること」を表し、

同時に「紫」は 「神による救いと愛」の象徴 としてプリンスさんに解釈されていることがわかります。


 

また同じアルバムの、この曲よりも前にある、「God」 という曲では、神による「天地創造」を歌っていて、

また、「神は僕たち人間を平等に創った」とも歌っています。


そして最後の方で、 「起きろ!子供たち。 もう残された時間は短いぞ。」
と、霊的な覚醒を呼び掛けていて、ここでもまた、終末への意識を高めて、しっかりと生きるように呼びかける歌になっているのです。

この、「子供たち」と呼びかける表現は、「Let's go crazy!」にも出てきますが、これは最初に「その1」で説明した、

「Dearly beloved」と並んで、新約聖書の中の、「ヨハネの手紙 第一、第二」などと呼ばれる箇所に、

「Children」(子供たち)、という呼びかけで始まる聖句が何度も出てくるのです。

「愛する人(者)たち」、「子供たち」、という二つが、同じ箇所の文章の最初に、交互に繰り返し出てくるのです。


 

聖書やキリスト教知識が、世界でも最も浸透していない日本、特に戦争やテロの危機感を感じないで来た日本人からは、非常にわかりにくいかもしれませんが、

「神の大勝利!」とか、「悪魔の敗北!」「悪魔に負けるな!」というテーマは、アメリカでは一般的には、大喜びする、超・明るい、熱狂的な、ポジティブなノリになるのです。

 

We're all excited 

But we don't know why
Maybe it's 'cause
We're all gonna die

俺たちは皆 興奮しているけど、

それが なぜなのかわからない

多分それは

皆 いつか必ず死ぬからなんだろう



And when we do (When we do)
What's it all for (What's it all for)
You better live now
Before the grim reaper come knocking on your door

何かをするなら

それは一体何のため?

今をしっかり生きておけ!

死が 君のところにも 訪れる前にね




Let's go crazy
Let's get nuts
Look for the purple banana 
'Til they put us in the truck, let's go!



また、「パープル・バナナ」が 本当は「イエス=キリスト」を意味するだろうと私が思う理由のもう一つの根拠として、

「紫のバナナを探せ(求めろ)!」という言葉が、
'Til they put us in the truck,  「彼らが、僕たちをトラックに乗せていってしまうまでに」
という言葉に続いていること、が挙げられます。

 

この人を 「自分たちをトラックに乗せていく人たち」はいったい誰なのか、 神様側なのか、悪魔側なのか、

そしてどこへ連れていかれるのか、が問題となりますが、

ここは、聖書を知っている人たちと、そうでない人たちとで、受ける印象も意味も少し変わる箇所です。

 

この箇所は、後ろに出てくる、Before the grim reaper come knocking on your door

という文章と対応していて、ほぼ同じ意味だとわかります。

「GRIM REAPER」 というのは、「死」とか「死神」を表し、直訳すると、

「死神が 君の家のドアをノックしに来る前に」 となり、「死が君にも訪れる前に」という意味になります。

聖書では、本当の「天地創造主」以外は、「神」とは決して呼ばれませんので、日本語で言う、「死神」のイメージとはまた少し異なってきて、この言葉を、ただの「死」そのもの、死をもたらすもの、のイメージととらえる人も、結構多いです。

 

この「死神」は、普通は「大文字表記」なのですが、この歌ではどうやらあえて、小文字の 「the grim reaper 」と表記されているようです。 

プリンスさんの造語「de-elevator」 が、「the elevator 」と打ち間違えられているものが非常に多く出回ってしまったように、

これも単なるミスなのか、それともわざと最初から小文字にしてあったのか、で判断が少し分かれるのですが、恐らくこれは最初から小文字表記で、それも「わざとそうした」のではないか、と私は思います。

 

なぜなら、聖書では、この世の終わりが来た時には、非情なまでに厳格に(=grim) 人々を判別・選別して、

行き先を決め、 魂の「刈り入れ」「収穫」( =reap)をする役割を果たすのは、

神様が遣わす使い、つまり、「天使」がやることになっているからです。

 

真実を見極め、生死を司り、行き先の最終決定権を持つのは、神様側なのです。

 

* 参考 聖書箇所

 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。 

 「 天の国は次のようにたとえられる。 ある人が良い種を畑に撒いた。 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦をまいて行った。 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をおまきになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 

主人は、『敵の仕業だ』と言った。 そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めっておきましょうか』 というと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。 

刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。」  (中略)   

弟子たちがそばに寄ってきて、「畑の毒麦のたとえを説明して下さい。」と言った。 イエスはお答えになった。 

「 良い種をまく者は人の子(=イエス・キリストのこと)、畑は世界、良い種は御国=(神の国)の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 

毒麦をまいた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。

だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 

人の子(=イエス・キリスト)は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。

彼らはそこで泣きわめいた歯ぎしりするだろう。 

そのとき、正しい人々はその父(=神様)の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

(マタイによる福音書 13章24節~30節、36節~43節   新約聖書 新共同訳より )

 

 

このように、聖書の解釈でいくと、

この「トラックに乗せられる」というのは、これが「この世の終わり」の時に該当する話と考えるならば、

普通の麦として「倉に納められる」=天国行き か、毒麦と判定されて、「燃え盛る炉に投げ込まれる」=地獄行き の、どちらになるのかについて、天使たちに刈り入れられる時のことを表している、と考えられます。

つまり、魂の裁定を下す審判で、天使によって行き先を分けられる状態が、「トラックに乗せられる」の意味になります。

これだと、they put us と表現されていて、自分も含めて全員が一人残らずトラックに乗せられていく意味も、スムーズに通ります。

また、この毒麦のたとえは、クリスチャンを装っていても、本当はそうではない、偽者もそれなりに混じっていることを警告している箇所なので、人間の目には、表面的にはわからなくても、神様の側には、その本心や正体はすべてお見通しだ、ということが強く警告されているのです。

 

そして、その判定が下される前に、

「紫のバナナを 探せ! (求めろ!)」 と言っていることになるのです。

 

ですから、結論として、歌のハイライトから最後の部分は、天国行となるように、の奨励として、

 Look for purple banana   =

「紫のバナナ」= 人間の罪を赦し、天国へと導く救い主(イエス) を真剣に求めろ! 

= 夢中になるもの、使命を見つけて、今を真剣に生きろ! 

 

He's coming!     =   もうすぐ、イエス様がこの世界にまた戻ってくるぞ! 

take me  away !   =   俺を(天国へ)連れて行ってくれー!  

という意味になるのです。

 

聖書を知らない場合、ここで出てくる、自分たちを載せていくこの「トラック」を運転する「彼ら」とは、悪魔側のもの、あるいは単に「死」を意味する、死をもたらすものの意味になると思います。

トラックに乗って天国行きもあるのだ、と知らないと、ここは怖いイメージになるでしょう。

 

どちらにしても、そのトラックで連れ去られてしまうまでに、(死ぬ前、あるいは終末のイエスの再臨の時までに)

「紫のバナナを見つけろ!」と言っているので、やはり天国行きのカギとなるものを指すことになるので、 

この「パープル・バナナ」は

まず第一には、 救い主たるイエス=キリストを指すことになります。

第二に、最後の裁定が神様から下る前に、「貴重な何か、夢中になれるもの」=神から与えられている使命を達成することにつながるもの を真剣に求めろ! つまり、今生きている、生かされている意味を見つけろ! という意味になり、

第三には、自分にとっての貴重な存在、愛を分かち合える、特別に大事な存在を見いだせ!

という意味にもなるだろう、と私は思います。

 

この歌は「神の歌」だとプリンスさん本人が言っており、また、英語のウィキペディアでは、キリスト教精神の強力な奨励の歌だ、との説明されていますが、

では、そのプリンスさんが言う、「神様の想い=キリスト教精神」とは、いったい何でしょう?

イエス=キリストご自身が、何よりも大事なこと、というのを、次のように答えています。

 

イエスは言われた。

「『 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

これが最も重要な第一の掟である。  第二も、これと同じように重要である。

『 隣人を 自分のように愛しなさい。』」

(マタイによる福音書 22章37~39節  新約聖書  新共同訳より )

 

神を愛する、ということの中には、神様から与えられている、自分の使命を果たすことも含まれます。 

それによって、神様からの愛に応える意味があるからです。 

同時に、隣人を自分のように愛せ、ともイエス=キリストは語られました。

 

つまり、これらこそが、求めるべき、「 Purple Banana 」 の意味する、本当の内容 なのです。

そうすれば、この世の終わりか、その人の人生の終焉か、またはイエス様がいきなり戻ってきたとき(携挙)に、天国に連れて行ってもらえるよ、と。

 

Let's go crazy
Let's get nuts
Look for the purple banana 
'Til they put us in the truck, let's go!

 

無我夢中になろうぜ!

熱狂しようぜ!

君にとって本当に価値のある、熱中できるものを探すんだ! (=使命を見つけろ! 救い主イエスを求めろ!)

トラックに乗せられてしまうまでにね、(=死後の行き先が決められてしまう前に) さあ行くぞ!

 

 

実は聖書では、「神様(イエス=キリスト)と人間(または教会)」の理想的な関係は、

新婚の「花婿と花嫁の関係」に例えられています。

そのような、神様と親密でラブラブな関係こそが、最も理想的で、悪魔に対しても最強の抵抗力を保ち、勝利できる、というのが聖書のメッセージです。

そのような深い意味からも、夢中になる、熱狂する、熱中するという表現が、この歌詞全体の中にわざわざ使われているだろうと、私には思えます。

 

 

「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。

その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」

(ヤコブの手紙 第一 1章12節    新約聖書 新共同訳より )

 

最後に叫んだ「take me away! 」は、「俺を(天国へ)連れて行ってくれ~!」ですから、

この行き先は、歌の冒頭の言葉に出てくる、天国的な世界になるのです。

それが、この世界の次に待っている世界だよ、と、冒頭の一連の言葉、希望の世界へとつながります。



 

羽生選手は、みんなが楽しめるように…とこの曲を選んだと自分で言っているので、明るいノリノリだというだけでなく、

この歌が、神の側の勝利を前提とした、

「悪魔に負けないで、夢中になって生きろ!頑張ろうぜ!レッツ・ゴー! 勝利はすぐそこ!」という意味の歌だということぐらいは少なくとも、きちんと理解したうえで、選んでいるだろうと思われます。

「みんな!悪魔の引き下げパワーなんかに負けんなよ! 絶望しないで、悪魔の嘘に惑わされないで、

神様と生き、何かに夢中になって(=使命を果たせ!)、楽しく、真剣に今を生きて、上へ向かってレッツ・ゴー!」

のノリとメッセージで、このショートを滑ってくれるつもりなのではないでしょうか、きっと。

 

ついでに、自分の演技に、楽しく夢中になってほしいのではないでしょうか。(笑)


 

 

どちらにしても、現代人への応援歌 です。

Prince さんがこの歌に込めてあるのは、極めて深い聖書的真理です。

 

Prince さんは、これらの聖書の言葉の表現を、あえてちょっと捻っておかないと、テレビやラジオでは流してもらえない、という当時の状況をよく理解したうえで、わざと意図的にされたそうです。 

それは、「I would die 4(=for) U (=you)」という曲で、イエス=キリストを「I」に置き換えて読むという裏技で、ストレートに表現しておきながら、ヒットさせたのと同じ知恵によるものでしょう。

 

そして、ある程度わざと、そうとは知らず、違った意味にとらえた人たちをも巻き込んで、最終的には神様のことを考えさせるような曲にしたかったのだろうと私には思えますし、ご本人の数々の発言を見ても、間違いなくそうでしょう。 

同時期に出されている他の曲で歌われている歌詞の内容を見ても、それが確認できます。 

すごい天才というか、奇才というか、型破りというか… 色々と、驚くような歌ですね。

 

 

さらに、このタイミングで、この曲を使うことになり、しかもさらに過去最高難易度にしちゃって、楽しめるプログラムにもしちゃおうっていう、

羽生選手の、相変わらずの、度肝を抜くような勇敢さ というか、覚悟の強さというか、

知ってか知らずか、背負っている使命の大きさや、凄い神様からの導かれ方… その天才っぷりに、二度ビックリです。(笑)

 

 

プリンスさんは、アルバムを、一つのテーマで統一して非常にこだわって作成していたと聞きますので、上にも少し出しましたが、同じアルバム内「Purple Rain」に収められている他の歌をチェックしてみることで、より真意がわかるでしょう。

 

最後に、そのさらなる根拠として、次の記事のページで載っていたものをご紹介しておきます。

http://nme-jp.com/blogs/18693/  ← 以下、左のページより抜粋

 

「 19.  質問: (パープル・レインという)アルバムは何の象徴?

  答え: バンド・メンバーのウェンディ・メルヴォインによれば、アルバムは「新たな始まり。紫、夜明けの空:雨、浄化の要因」を象徴したものだという。」

 「新たな始まり」だの「雨」だの、「浄化の要因」というこれらの言葉は、やはり「神様」を表す、聖書に出てくる別の表現方法なので、よくわかりますし、これで確定ですね。


「20.  逆回転再生に隠された真実

“Darling Nikki”の最後に登場する奇妙なディストーションのかかった声は逆回転再生させると次のように言っているという。

「Hello, how are you? I’m fine ’cause I know that the Lord is coming soon Coming, coming soon.(こんにちわ、元気? 僕は元気だよ。だって、わが主(=イエス・キリストのこと)がまもなくやってくるのを知ってるんだ。来るよ、すぐにね)」」

このアルバム内で、下品すぎるとして大騒ぎになった歌の中に、実は、上のような内容が入っているのだとか。 

物議をかもす内容のものに、わざと入れているというこの内容こそは、「イエス=キリストの再臨」のことそのままなので、プリンスさんが、いかにイエス=キリストの再臨に、当時強い関心をもっていたかが良く分かり、同時期の「Let's go crazy!」における最後の言葉の 「He」も、イエスであると完全に確定すると思います。

「the Lord is coming soon 」=「主が まもなくやってくる」は、「イエス=キリストがまもなくやってくる」の意味です。


この「主」とは、「自分が信じている神様」の意味で、十戒の原則に反しないために意図的に使われる、神様の別の呼び方です。

 

イエス=キリストの十字架の救いというのは、自分が罪深いことを自覚したものほど、よくわかるようになる、と言われますので、

自分の罪深さを強調した歌に、その正反対の神様の救いの内容を忍び込ませてあるというのが、なんとも奇抜で型破りでcrazy で、大胆な発想ですが、それだけ彼は真剣だったということなのでしょう。 

やり方の是非はあるでしょうけれども、プリンスさんにとっては、この歌に共感した人たちにこそ、聞かせたい、知らせたい内容だったということなのかもしれません。

 

「神は、その独り子(=イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。

独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

神が御子(=イエス・キリスト)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

御子を信じる者は裁かれない。」

(ヨハネによる福音書 3章16~18節  新約聖書 新共同訳より )

 

 

羽生選手は、このプログラムを 決して「Crazy」なレベルだなどとは、本当は思っていなくて、

これならきっとできる、自分には絶対にできる、夢中でやってやろう!達成してやろう! と思っているからこそ、やるんじゃないかな…? 

ファンの皆さんや見ている方々を、励ますつもりでやってくれるようですから、結果はさておき、決してめげない、屈しない自分の姿を見せたいのではないでしょうか。

 


羽生選手!

何よりもお身体をお大事に、体調をしっかり見極めつつ、

De-elevator を、突き抜けて吹っ飛ばす勢いで、夢中で楽しく滑って、頑張ってくださいね!  

夢中はいいけど、無茶はするな!(笑)

「まだ見ぬ上のフロア」の世界に向けて、 Let's go!

 


「主を尋ね求めよ、見いだしうる時に。

呼び求めよ、近くにいますうちに。

神に逆らう者はその道を離れ

悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。

主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。

わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」

(イザヤ書 55章 6,7節   旧約聖書 新共同訳より )

 

 

 

ご注意: 日本では誤解も非常に多いのですが、輸血の禁止で有名な「エホバの証人」(ものみの塔)は、キリスト教の一つではなく、アメリカ発の「新興宗教」です。

理由は、キリスト教の根幹たる、「イエス=神」だと認めていない点(天使だと言っている)と、彼らの使う「新世界訳聖書」なるものは、その教祖が「気に入らなかった」という理由で、聖書が何よりも禁じている、聖書の原本の一部(全体の1~2割と言われる)を勝手に変えてしまう、ということをしてしまったため、似ているようで、かなりの違いが出てくるためです。

クリスチャン(または キリスト者)と言う言葉は、イエス=キリストを神であり、自分の救い主と認めている人たちのことを指しますので、キリスト教の定義から外れている場合、カトリックからもプロテスタントからも、キリスト教の一つとは認められていないのです。 

 

ただし、人間一人一人の、見た目や表面だけではない、その人の深い心の内や、知られざる事情などを含め、意図的な嘘の噂や虚偽情報に惑わされることなく、全ての真実を知っておられるのは、神様ただお一人だけですので、聖書は人間に、「人を裁くな」と繰り返し語っています。

 

最後に、まだ悲しみの中にある、プリンスさんのファンの方々に、次の三つの聖書の言葉を、贈りたいと思います。

 

 「 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。 (中略)

ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主が(天地創造主である神様が)おられ、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。

「主の名を呼び求める者は だれでも救われる」 のです。 」

(ローマの信徒への手紙 第10章 9~13節  新約聖書 新共同訳より)

 

 

「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。(中略)

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。

艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 (中略)

わたしたちは、わたしたちを愛して下さる方(=神様)によって輝かしい勝利を収めています。

わたしは確信しています。

死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

(ローマの信徒への手紙 8章 33章~39章  新約聖書 新共同訳より )

 

 

 

 神ご自身、「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」 と言われました。

だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。

「主はわたしの助け手。 わたしは恐れない。 人はわたしに何ができるだろう。」

(ヘブライ人への手紙 13章 5~6節   新約聖書 新共同訳より )

 

 

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