落花 2019-03-31 | Weblog 昨日は中村汀女の生家のあった熊本市内の江津湖畔での吟行。桜は、すでにはらはらと風に散るものもあり、まさに春爛漫の陽気!句友の案内で、汀女の句碑などを巡り、充実したお花見となった。(Midori) うすべにのささなみとなる落花かな *中正特選(in NHK)
桜❀ 2019-03-28 | Weblog 病める身に時は切なく咲くさくら 野見山朱鳥 例年より遅い開花宣言となったが、「さくら」は、いつか開花の時期を迎えるもの。しかし「病む身」は、「さくら」のようには行かない。「切なく咲くさくら」の「く」の重なりに、切々たる思いが輪唱のように響いてきた。『愁絶』より抄出。(Midori)
初花 2019-03-25 | Weblog 玉名市高瀬裏川の枝垂桜は、もう満開! ソメイヨシノは、まだ二三輪で、開花宣言はもう少し先になりそう。(Midori) 初花や空に弾んでゐる言葉 *中正特選 in NHK
鴨 2019-03-22 | Weblog 川幅のかぎりを配し鴨の陣 井芹眞一郎 一句を構成しているものは、「陣」という言葉のイメージである。つまりは戦場。川幅いっぱいに配された「鴨の陣」には、まるで陣取図のように隙がない。わずか十七音の短詩である俳句に、一字とて無駄はできないという見事なお手本である。「阿蘇」3月号より抄出。(Midori)
白障子 2019-03-20 | Weblog 白障子閉めれば惜しくなる命 白鳥の羽をつくろふ水鏡 隠沼のしじま裂きたる冬の鵙 言の葉のやうに一樹の葉を落とす *「阿蘇」3月号、井芹眞一郎選 作品としての評価によって、掲載される順番が決まるが、「白障子」の句が、一番に掲載されるとは想像もしてなかった。というのは選者は、ホトトギス同人であり、花鳥諷詠一筋の選者だからだ。しかし、「白障子」の句は、実感であり、実際に感じたままに詠んだもの。大自然と繋がっている時はあまり意識しない「命」であるが、白障子に囲まれた狭い空間では、ふと自分の「命」と向き合うことを余儀なくされる。そんな不安感が一句となった。(Midori)
山眠る 2019-03-17 | Weblog 山眠るガラシヤの御霊深く抱き 伊藤広子 熊本藩主細川家の菩提寺、泰勝寺跡には、 二代藩主忠興と、その妻ガラシャの御廟があり、俳句にも多く詠まれる場所である。掲句もその一句。「山眠る」に「抱き」の発想はあまり新しいとは言えないが、「御霊深く」と詠まれて、感慨深い一句となった。「阿蘇」3月号より抄出。(Midori)
焚火 2019-03-14 | Weblog 立ち昇るむかしありけり落葉焚 木村佐恵子 町住みの焚火の空を持たざりき 〃 落葉を焚けば、烟が立ち昇るのは、当たり前。「立ち昇うむかしありけり」と、詠まれて詩情高い。今では落葉を焚くことの少なくなったことへの郷愁である。 一句目を受けての二句目。「持たざりき」の断定に、諦観と一抹の淋しさを覚える類のない作品。「阿蘇」3月号より抄出。(Midori)
短日 2019-03-12 | Weblog 短日の足より暮れて心細 山澄陽子 足元の不安感は、歳を重ねるごとに大きくなるもの。ましては、暮れ早い「短日」となれば尚更だ。俳句に、「心細」というストレートな感情はタブーとされそうだが、掲句においては、何とも効果的。「阿蘇」3月号より抄出。(Midori)
落葉 2019-03-10 | Weblog 落葉踏む音を違へて別れけり 荒牧成子 「落葉踏む」「別れけり」は、想定内の措辞ではあるが、「音を違へて」という意外性が、何ともドラマティック。二人の関係はどこにも記されていないが、「違へ」ているのは、「落葉踏む音」だけでないようだ。中7の写生の効いた措辞に、作者の上手さが光っている。「阿蘇」3月号より抄出。(Midori)
猫の恋 2019-03-08 | Weblog 先日の句会の兼題は、「猫の恋」。あの露骨と言えば露骨な鳴き声は、耳を塞ぎたくなるが、猫の習性であれば仕方がない。しかし、寒中から一途に恋を仕掛けている猫には、妙に感心してしまう。俗になりがちな季語をどう詠むかが難しいところ。(Midori) 爪痕のやうな残月猫の恋 *中正選(in NHK)
紅葉 2019-03-06 | Weblog 小面に紅葉の闇の恐ろしき 高橋満子 「小面」には、我々人間が見えない、あるいは見ようとしない「紅葉の闇」が見えるのだろうか?しかし 光があれば闇があるのは自然の摂理。「小面に」の「に」の限定に、自然界の真の闇を見る思いがした。解釈を超えた魅力的な一句である。「阿蘇」3月号より抄出。(Midori)
冬日向 2019-03-02 | Weblog 冬日向ほどの回顧でありにけり 岩岡中正 歳を重ねるほどに、「回顧」は増えて行くものと思われるが、「冬日向ほどの回顧」であるという。言葉を変えれば、まだまだ過去を顧みる暇はなく、未来への構想で一杯だということにも繋がる。「ありにけり」の断定は、若々しい精神の表れではないだろうか。「その精神に若さを持たない芸術は真の芸術ではない」と言ったのは、確か朔太郎だったか?「阿蘇」3月号より抄出。(Midori)