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東海道五十三次 街道をゆく 平塚宿~大磯宿~二宮 (1)平塚宿編

2015年11月16日 01時00分00秒 | イベント・外出
 前回に引き続き、阪急交通社が企画する「東海道五十三次 街道をゆく」の第7回目の平塚宿~大磯宿~二宮 (1)平塚宿編について紹介したいと思います。

今回は9時40分にJR平塚駅近くに集合で、いつものように案内役3名の説明があり、簡単な準備運動をして出発です♪
1斑24名でした。
この日は平塚宿から大磯宿、そしてJR二宮駅までのコースで、前回の藤沢宿~平塚宿よりは距離は短いとのことで、前回の後半ほど歩くことはないようです^_^;)
安堵感が広がります^_^;)

さっそく平塚宿の説明がありますが、実はJR平塚駅の辺りにあった訳ではなく、そこから約1km離れたところに平塚宿はあったようです。
というのは、当時の鉄道は人用ではなく貨物用のため宿からは離れた距離に駅ができたようです。
おそらく宿の近くに駅ができるのは人夫の職がなくなる可能性があり反対があったものと想定されます。


↑平塚宿の地図

しばらく歩くと、平塚宿の入口で城門の働きでもあった江戸側の見附がありました。


↑見附

それから、地元ガイドの方による平塚宿の説明がありました。
神奈川県には九宿あるのですが、この平塚宿は日本橋から7番目の宿で、また約2.9km先の大磯宿と距離は近く、そして大磯宿ととともに平塚宿は小さかったようです。
というのは、江戸を出発した旅人は、1泊目は戸塚に泊まり、2泊目は小田原に泊まる客が多かったためです。
当時の東海道の双六(すごろく)で、戸塚は「1回休み」となるほどですからね^_^)

またそもそも平塚宿ができたのは、徳川家康が鷹狩が好きで近くの中原に御殿所(宿泊所)があったことから、近くの東海道に宿場町を造ることとなったようです。
そもそも中原街道というのは、その鷹狩のためにできた街道のようです。

従って約2.9km先と近くに大磯宿があるにも関わらず平塚宿は強制的に造られ、しかも大きな宿場町である戸塚と小田原に挟まれ、宿泊客の奪い合いは熾烈を極めたようです^_^;)
留女という客引きは、大磯方面に見える浮世絵にも描かれる高麗(こま)山を指さし、「これからあの山を越えるのは大変だよ!今日はこの平塚宿で泊まって行きな!」と留めさせていたようです。

そのため「高麗山」は別名「ペテン山」と呼ばれていたようです^_^;)
なお、高麗とは朝鮮半島から来た方が多く住んでいたことからその名称となったようです。
高麗川という地名がありますが、そこも「こまがわ」と呼びますよね。
当時は高麗のことを「こま」とそれから、その浮世絵には高麗山の右隣に富士山が見え、その右に大山が見えます。
この日はラッキーなことに、富士山がうっすらと見えていて感動でしたね!
浮世絵通りです^_^)


↑浮世絵の高麗山


↑平塚宿の辺りから実際に見える高麗山

それから、東海道五十三次で同じように宿場町が近かったところは御油と赤坂があり、約1.9kmとかなり近かったようです。
安藤広重の浮世絵にも留女の状況が描かれています^_^;)
首の辺りをつかまれていますね^_^;)


↑安藤広重の御油の浮世絵


↑高麗山の右隣の富士山

そしてその右側に大山も見えます!


↑高麗山の右隣に大山

それから宿場町定番の脇本陣や、高札場、本陣、問屋場、京都側の見附の跡を通ります。


↑脇本陣跡


↑高札場跡

なお、高札場は日本橋からの距離を測るポイントとなったようです。


↑本陣跡


↑本陣跡


↑問屋場跡

なお、平塚宿の問屋場は寛永12年(1635年)から参勤交代が行われるようになると交通量が激増し、伝馬負担に堪えられないようになり、隣接の八幡新宿への加宿を願い出て慶安4年(1651年)にその目的を達したようです。
従って、従来の問屋馬を西組問屋場といい、八幡新宿の経営する問屋場を東組問場といい、10日目交代で執務したようです。


↑京都側の見附跡

今回は平塚宿の成り立ちや高麗山・留女の様子を楽しく学べました^_^)

次は、(2)化粧井戸~弁当編です。

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