ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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教育の広場、第52号、「心の教育」の狙い

2006年02月06日 | 教育関係
教育の広場、第52号、「心の教育」の狙い

  (2001年09月04日発行)

        「心の教育」の狙い

 説明 これは神戸小学生連続殺傷事件の犯人の中学生(当時)が
逮捕されたとき、当時の文部省が直ちに「心の教育」ということを
言いだした事について、その狙いを考えたものです。


 昨年(1997年)、神戸小学生殺傷事件の犯人が中学生だとい
うことが分かった時、文部省は「心の教育」ということを言いだし
ました。そして、それ以来それが推進されています。それは流行語
というほどではないにしても、よく使われるようになりました。こ
れをどう考えるべきでしょうか。

 ここで考慮しなければならない事は2つあると思います。第1に、
それはあの事件の犯人が中学生だということが判明するや否や、文
字通り間髪を入れずに提唱されたということです。

 第2に、「心の教育」は文部省が「道徳教育」という名で何年も
前から強力に押し進めてきているのに、それとの関連は全然なく、
今回の「心の教育」が提唱されたということです。以上2つの事実
を考慮する必要があると思います。

 それはあの犯人逮捕の後、文字通り間髪を入れずに言いだされま
した。これは一体何を意味しているのでしょうか。本当に日本の教
育には「心の教育」が欠けていたからああいう事件が起きたので、
今後「心の教育」をすればあのような事件は防げるということでし
ょうか。

 違うと思います。もし文部省にそれが分かっていたのなら、なぜ
以前からそれを実行してこなかったのでしょうか。そもそも道徳教
育を熱心に押し進めてきたのは文部省ではないのでしょうか。そし
て、道徳教育とは「心の教育」そのものではないのでしょうか。

 結果から見る限り、この持ち出し方はあの神戸の事件についての
国民の思索と対話を抑制する方向に作用しました。いや、文部省の
意図は初めからこの話し合いを妨げることだったのではないでしょ
うか。そして、その結果として、文部省の責任が追及されるような
事態を避けることだったのではないでしょうか。これを説明します。

 今、事件が起きて、その犯人が中学生だと分かったのです(酒鬼
薔薇と自称しました)。国民はみな大きなショックを受け、この事
件をどう受け止めたらよいのか、考え、話し合い、議論をしようと
していたのです。その矢先に文部省が「心の教育」と言い出したの
です。話し合おうとしている時に、その機先を制するように、答え
を出してしまったのです。しかももっとも権威ある機関が。極めて
拙いやり方だったと思います。

 しかも「心の教育」は行われてきているのです。先にも指摘しま
したように、道徳教育がまさに「心の教育」です。従って、文部省
のするべきだった事は、道徳教育を中心として、これまでの学校に
おける「心の教育」のどこにどういう問題があったのかを、内部で
反省することであり、国民の意見を求めることであり、対話を促す
ことであり、自分もその対話に加わることだったと思うのです。

 そして、このように正しく問題を立ててみれば大体思いつくよう
に、最大の「心の教育」は思索と対話なのです。学校と言わず、ほ
とんどの集団にもっとも欠けているのがこの「思索と対話」であり、
それを広げ深めていく技術とシステムなのです。

 従って、もし文部省があの時点で、あの事件をきっかけにして
「思索と対話」を促し、自分もそれに加わっていたならば、その行
為自体が強力な「心の教育」になったであろう、という結論になり
ます。

 しかし、文部省はそうはしませんでした。思索と対話を促し、自
分もそれに加わるのではなく、「心の教育」という答えを言葉とし
て押しつけたのです。それは、思索と対話を抑えることによって
「心の教育」をもっともひどく妨げる行為でした。しかし、文部省
の責任が追及されるのを避けるには、最も効果的な方法ではあった
と思います。

(1998年8月19日執筆)